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まさに小道、そこにある垣根がこれ
故事来歴から言うとこの垣根が出来たのはまだ日が浅い。
ここに住むようになってからこの土地は埋め立てられ、
何年か放置されていた。
なにか工事が始まったのは私が退職してから……。
どこかの企業だった。
ここに来て二回目の建築ラッシュだった。
私等が来た頃が第一回目の建築ラッシュだった。
その頃はまだ周囲は田圃があり、
初夏には蛙が合唱を聞かせてくれた。
ご近所には「煩がるご仁もいたが」私は気にならなかった。
その田圃が埋め立てられ、畑に変わった。
畑に来るおじさんは「このぐらい自然が有った方がいいでしょ」
と、言っていた。
私は頷いていたが、
第三回目の建築ラッシュがきたら、
おじさんが済まなさそうに、
「息子が畑をやらないというので」
と、
アパート(6軒長屋の)を建てた。
今は5軒住んでいる。
(話が横道に逸れた。)
で、そんな我が家の周囲は完全に住宅に囲まれ、
蛙の歌声は聴けなくなった。
6軒長屋が出来てからだ。裏のバス(ミニバス)が開通したのは……。
企業が社屋を建てる前はこの道は草の道で、
季節によっては「蛇」が出そうだった。
が、
舗装された道の垣根のある道に変わった。
で、この垣根が出来てからの毎年夏には朝顔を這わせていたんだ。
こんな垣根だけの風景は初めてだ。
で、思った。
ここに朝顔の種を蒔き、花を咲かせてくれていた人が、
退職されたのかなと思った。
蒔いているところも、水やりしている姿も見たことはなかった。
けど、
朝顔はちゃんと咲いていた。
それとも、経費節減で、会社の方針で垣根に朝顔を咲かせること、
「まかりならぬ」
となったのだろうか?
やや、寂しい夏の垣根の風景に、
ちょっと思った「白日夢の独り言」でした。
さおしかの部屋
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町の小道
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錦糸公園を出ると、
左前方にそびえる東京スカイツリー。
ホウ〜〜〜、本当に大きいわ!
というのが感想。
やや駅前通りを進んで近くに寄れました。
色々な人が色々話しているのをきいていると、
今日も工事中。
確かに動いているものが上に上がってゆく。
それを動かしている人間のちいさいこと。
この辺から撮ると、
成る程、川に映ったツリーが写せるのだなと納得。
試みるがカメラの写せる許容範囲が狭く写せないことがわかる。
上流にもいったが、ダメだった。
因みにこれは真下から撮った。
飲み物の自販機の横にもスカイツリーが……。
ダメだと解れば帰る。もう15時過ぎたから……。
反省。
やはり来てみてよかったが、
下町の人たちの話はテンポが良くて楽しい。
こんなに近くならもっと早く来るべきだった。
自分の目で見る。歩いてみるのは大切なことだ。
もう、くたびれたので、
最後の写真より上流まで行き、
大きな交差点で、タクシーを拾い吾妻橋まで……。
運転手さんが、
「早くお帰り、一人だからね」
といってくれた言葉は優しかった。
そう、浅草から上野に行き、JRで東京駅、
で、大船まで、家に着いた時はとっぷり暮れていた。
さおしかの部屋
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M池からのかえり道はミドリ一色
池からの道は殆どが下り坂、
車も少なく、散歩道としては最適です。
その割りにはきません。
何故かといいますと、パトロールが目を光らせて、
胡散臭そうに見られます。
まだ老人に成りきらない人が主です。
「とても立派な行為」をしているという自負が、
自分以外の人間はすべて「胡散臭い」と決めておいでのようです。
だから、ある時期からふた通りある道の、
山沿いの道を歩きます。
この辺の老人(さおしかぐらい)は、
通りかかると、こちらが黙っていても言葉をかけてくれます。
さおしかも「今日は」だけでなく、
「良いお天気ですね」と、余分な言葉を添えます。
和やかな時間を共有できますので、
この道は好きです。
一度も入ったことはない道ばかりですが……。
ここは池の左奥の道、鎌倉山へ抜ける道です。
もうちょっと近づいてみました。
シャガが咲いています。
急な階段の三島神社、昇れません。
わきになだらかな道、これでも上れません。山頭火の句を思い出します。
《物乞ふ家もなくなり山には雲》
《枝をさしのべてゐる冬木》
《いただいて足りて一人の箸をおく》
野草のようですが、可愛い花が咲く道です。
見上げると藤の花房も風に揺れていましたよ。
ここからは、あまり小道はありません。
まだ家は20分ぐらい歩くのです。
途中でお使いもしますので自宅には小1時間かかって帰ります。
さおしかの部屋
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館は鎌倉山にありました。 なんと明治生まれの方です。 青森出身は知っていましたが、なんで鎌倉に板画館があるのか不思議でした。 実家は鍛冶職で、21歳のときに絵の勉強をしに上京したそうです。 油絵でも白日会白日賞を受けたのを始め、 種々受賞しています。 惜しかっただろうなと思われるのは、 東京の空襲で昭和20年に板木の殆どを焼失されたことだったでしょう。 海外にも出かけていって、 昭和30年、ブラジル、サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展に、 「釈迦十大弟子」「勇然する女者達々」など出品。版画部門最高賞受賞。 他にも記しきれないほどの仕事、受賞もありますね、 最後の住居は東京です。 鎌倉には亡くなる前年の昭和49年9月に板画館が作られています。 10月に渡米して旅先で健康を害し、帰国して直ぐ入院。 翌、50年9月13日自宅の杉並区でなくなったそうです。 回顧展もパリ、ブリュッセル、へーレン、東京、名古屋、大阪、京都、 横浜、札幌ほか、全国各地で開催されたそうです。 この角を曲がると右側にありました。ゆるい坂道です。 この写真を写す前に館から出てきた二人連れがなかなか立ち去らなくて 困りました。中は、全く私一人っきり、それも落ち着きませんでした。 思ったより作品は少ない感じがしました。 どこかに出展されていたかもしれませんが……。 さおしかの部屋
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休日のことで、道路は込んでいます。 あとで失敗と気づいたのですが、ここから信号がしばらくなく、 向こう側にはわたれません。 このまま、行きます。ここは大曲に切りどうしひらいているので、 遠回りの道を行くことになります。 この道のことを言いますと、この切りどうしは、 戦後の自衛隊さんが工事をされたのだそうで、 坂の上には、 炭鉱を追いやられてきた人たちの住宅もあるのですよ。 一時、電化が進んだ日本では珍しくない雇用促進住宅が受け入れが、 建てられたのでしょうね。 勤務先にも絵の上手いここから通勤していた人がいました。 勿論、父上が離職で関東に来たようでしたが、 言葉は関東言葉でしたので、本人から聞くまでは分かりませんでした。 この辺には九州弁が多いのは、 そういう事情があるのかと分かって勉強になりました。 この写真が切りどうしのしゃしんですが、こういう写真をとるのは、 意外に勇気がいります。 画面の上の住宅地は、もう前のことですが、あっという間に建てられた、 建物群でした。1.2年で山が住宅に変わった頃のことです。 この写真も二枚目の左に続く住宅地です。多分、藤沢市内だと思います。 この混雑で、鎖大師によるつもりが向こう側に行けません。 三枚目の写真にある鎖大師の屋根しかお目にかけられませんことを、 お詫びします。 また、いつかチャンスがありましたらね。 さおしかの部屋
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