|
もう一週間経っている境川です。
以前歩いた場所だですが、近くまで来たので、
また来てみた。
アオサギが一羽、コサギが番でいた。
以前より鳥の姿が見えたのは嬉しかった。
「増えたのかな?」
道路に来て……。
この道では、湘南台には二すじぐらいだった。残念だったが……。
川沿いの時間は30分ぐらいだったが、
他の道を多く歩けたので、10329歩歩けた。
めでたし、メデタシ、目出度し、愛でたし……。
さおしかの部屋
|
境川を歩いてみる
[ リスト | 詳細 ]
ここまでくると水源地が気になる。 青少年センターの表示はありますが、水源地とはない。 何かで調べたところでは、水源地は草戸山の中のようだった。 夏の山行きはあまり感心しないが、ここまで来たからには近寄りたい。 表示にしたがってゆく。 大戸行きのバスが曲がった角を私も左に折れる。 川とも思えない川を覗く。 これが境川の上流か〜〜と言葉に出してしまった。 またやや、登ったところに、小さな滝、水は澄んでいる。 滝音がここまで来た私を勇気付けてくれる。 周囲には誰もいない。 大戸観音から何分も来ないうちにバスの終点らしい場所に来た。 時間表を写した。 その先に柵がある。近寄ると青少年センターは休み。 今日は月曜日だった。 入れない。 残念だったが、この中に入らないと草戸山にも大地沢にも、 まして水源地にも行けない。 まあ、ここまで来たので、気分は満足だ! 水源地には今度はちゃんと曜日を確認してこよう。 バスは中々来ないから歩いて観音様まで戻って昼食にしよう。 そして歩けるところまで歩こうと決めて帰宅の道に進む。 川とも思えない水の流れ、ゆっくり流れていた。 写真、真ん中の道に見えるのが川です。 水源地に繋がる滝? 青少年センターへの道はここで閉ざされる! 町田市を歩いていたつもりがここは相模原市になっていた! 柵の中には道が続くが、入れないね! ここを行かないと草戸山にある大地沢(水源地がある)には行けない。 左側には車が通るが、かなりの坂道、この道を行っても水源地には 行けない。沢が離れてしまうからだ。地図にはそう記してあった。 空しく帰りましたが、次は境川とは関係なく来ます。 いい日に旅立ちます。 今度は一気に大戸の青少年センターまでバスで来れば、 帰りは楽なはず、と獲らぬ狸の皮算用……。 今日は(相原から大戸までの行きかえり)12700歩でした。 で、河口から数えてみますと144642歩でした。日数13日。 お疲れさんです。 さおしかの部屋
|
大戸観音のそばに地名の由来の記録がありました。 大戸は元禄三年(1690)から多摩群横山之庄「上相原村」が村名。通称は、 「大戸」と呼び、通称の方が近隣には知れ渡っていたので、大戸の呼び名は、 上相原村の屋号とも言える。現在の町田街道は、大戸街道と呼ばれたいた。 この街道が鶴間から分岐して秩父、高崎方面に向かう「鎌倉街道山之道」 と言われ、この場所から山路への入り口であり、横山之庄の相州口として、 大木戸番所が置かれたと伝えられ、大木戸をいつしか「大戸」と呼ぶように なった。 この番所の傍らに「了心庵」という草庵があり、後に八王子市山田の、 雲津庵の末寺で「祐照庵」と呼ばれた。 境内に観音堂が建立されたのが慶長元年(1596)で、当時から大戸の観音と 呼ばれ、門前には旅人宿や居酒屋が立ち並んで賑わい、鐘楼は八王子八景の、 景勝の地として「大戸の晩鐘」とうたわれている。 と言うことでした。 大戸の晩鐘 夕かすみ たつや大戸の 鐘の音に 妻木を負ふて 帰る里人 1998年3月 町田市教育委員会 とありました。 大戸観音の正面です、この晩鐘の奥に観音堂があります。 色々な方面に行くバスがあります。乗り間違えないようにします。 人気はありませんが、 細かく道しるべがあり、行きやすくなっています。 でもバスの数は少ないので、 予定を考えて近づいたほうが良いです。 地名に八王子が出てくるので遠くまで来たなあと思いました。 さおしかの部屋 |
収穫と言っても、私の偏見の収穫かも知れないが、 前回の道を進むと、表示があった。 「八木重吉記念館」 内心「へ〜〜〜」だったが、写すものもないので写す。 表示を通り越すと今度は、 「八木重吉の生家」 があった。ここで生まれた人だったのだ。 と今更周囲を見ると、山に囲まれ、守られるような場所に、 その平屋はあった。森閑とした佇まいだった。 入る気にもならないので、そのまま行く。 八木重吉の詩集は持っていない。 でも奥さんだった人は知っている。 まあ、私が知ったときは既に八木重吉はなくなり、(1927年、10月26日没) 八木と友人だったという吉野秀雄というひとと結婚して後だった。 だからその人は「吉野登美さん」になっていた。 勤務していた場所の直ぐ側に家が「吉野家」あって、秋になると、 金木犀の香りがあたりを漂っていた。 帰宅して調べると、 「踏まれても 根強く生きよ道芝の やがて花咲く 春も来るらん」 の作者がこの八木重吉だったことがわかった。 この歌は、まだ少女時代に姉から教わった歌だった。 人生訓のように思い、 「堪える」とか「忍ぶ」とかの言葉は嫌いではなかった。 だから、他人には教えないが、妹には教えた。 啄木の、 「十七は 悲しき年よ灰色の 壁にもたれて 泣くことを知る」 も、従姉妹から教わったのを妹に教えた。 そんなことをワ〜〜〜ッと思いながらゆくと、 青少年センターへの道しるべがあった。 帰り道にバスもきそうないので生家の前を通ると、 老境の男女が詩碑を確認しながら、 入ってゆくのが見え、私も寄りたかったが、 何しろ全身汗ダクダク状態で、そ〜〜っと通り過ぎた。 八木重吉も、吉野秀雄も、登美さんももう既に亡い人です。 吉野さんは歌人ですよね。 お二人の詩集も、歌集も待たない私が、 こんなところで生前の噂を書くのは悪いかなと思いましたが、 毎年、10月26日の命日には八木重吉を偲んで、 「茶の花忌」が行われ、重吉のファンが集まる会があるそうです。 気が向いて、天気がよかったら行ってみたいなと、 ふっと思いました。 さおしかの部屋
|
法政大学から抜け出して、 町田街道に戻りました。 人気はないです。細い石段の上に神社があったりします。 柵もないしちょっと上がるのに勇気がいる石段です。 道路の上に花が咲いていたり、住宅の庭に花が咲いていたりしました。 この先を曲がってからです。大戸観音は……。 左に曲がると町田街道から逸れると思ったときに、 バスが左に折れてゆきました。 私が乗ったあとに発車する、 「大戸・法政大学行き」のバスに違いありません。 あれに乗ったのでは意味がないのです。 バス発着所の案内人には、大戸に行きたいとだけ話したので、 しきりにこのバスを進めてくれたのですが、 「境川を歩く」なんていうとかなり奇異な目で見られるようです。 特にここまでの上流域ではなお更です。 とにかく、 ここまで来て見ると、ただ、ただ、無事に水源地を見たいだけなのです。 私もバスの後を左に曲がりました。 橋本行きのバス停です。 みえますか?かなり群生の感のタケニグサです。 一枚目の写真は、タケニグサのあった箇所より上に行った場所で、 咲いていたはずなのですが、ぼやけた花です。
さおしかの部屋
|





