馬入川と名づいた由来は、 源頼朝が渡ろうとしたときに馬から落ちたとかだそうです。 鎌倉にも頼朝による発祥の地名はあります。 鎌倉を歩いたときに聞きました。 ともかく今は、直ぐそこの橋を渡ろうと思います。 大きい交差点ですので、東海道の右よりの道を行きます。 橋まで行く前に碑がありました。 道下です。 大正12年(1923)9月1日の関東大震災の際に馬入橋が倒壊し、交通が途絶。 地元の消防団・在郷軍人会・青年団によって即日渡し舟が運行されましたが、 数日後の豪雨で流失して、またまた運行が中断。 9月17日陸軍第十五師団(豊橋)所属工兵大隊と、第十六師団(京都)所属工兵大隊が、 急遽派遣され、架橋工事が開始され、 橋の全長450メートルのうち、馬入川300メートルを第十六師団、 茅ヶ崎川を第十五師団が担当して、同年十月三日に完成しました。この記念碑は、 馬入川を担当した第十六大隊の実績を称えたものです。という碑です。 こんなところに一キロごとの表示です。 渡りきるのに七分かかりましたが、鳥の姿が見えませんでした。 川自体もよく見えませんでした。後戻りして川の流れをみようと思いましたが、 「もう、いいや」と茅ヶ崎に入りました。 馬入はもっと長いと思っていましたが、 1000メートルもないのですね。 茅ヶ崎の町並みが見えてきましたが、 茅ヶ崎駅まではまだ歩きでがあります。途中から、 バスに頼りましょうね。 さおしかの部屋
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小田原から東海道
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平塚市の市内は駅の周辺が商店があり、 東海道は全く「通過の町」でした。 歩道は完備していますが、歩道橋を一生懸命作った時期を、 経験したのが思い出される町でした。 平塚は海側から考えると、 内陸?に厚木市、海老名市、伊勢原市、寒川町、座間市、相模原市を、 抱えているだけあって、比較的道路が東海道を横切って、 129号線、平塚・伊勢原線、平塚・秦野線が走る。 その他にも道路が走るが、横断歩道が少ない。 東海道を進もうとすると、歩道橋を渡らねば通れないという有様だった。 せっかく治りかけていた膝が痛み始めた。 「マズイな」と、 さいわい周囲に人もいないので、左足を先にだし後から右足を進める歩行で、 階段は上がり、 下りは右足を先に降ろし、左はあとから降りる歩行で、歩道橋をクリアした。 歩道橋は三回渡ったがかなりな難行だった。 これも修行だね。 とかなんとかいいながら、 もう平塚八幡宮の表示。古花水からは30分。 八幡宮の森、神々しい木々に敬礼しましょうか? やっと、鳥居、道路のこちらから拝して進む。 それに1キロごとの表示も少ない。 写真は撮らずに行過ぎてきた。 他の道筋とは違う空気を感じつつ行くよ……。 さおしかの部屋
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江戸時代に旅人の道しるべとなった「一里塚」は、街道に、 一里(三千九百メートル)ごとに築かれた津かには大木が植えられ、 その木陰は、旅人達の格好の休憩場所になっていました。 そんな「一里塚」を現代に蘇らせようと作られたのが「平成の一里塚」です。 東海道の新しい道しるべとして、また、歩行者の休憩所としてこの地に、 整備されました。 と、ある一里塚で、休憩しました。 川の広さが空を広くして、 バックの高麗山とススキの穂、秋の風情でした。 ここからバスで平塚駅に行き、電車で藤沢方面に帰ります。 帰りにみた夕焼けです。 今日は二宮駅から大磯を通過して、平塚まで。 二時間半ほど歩きました。 実は花水川につく前から、この前の膝がまた違和感がというより、 痛みが出ていました。 バスで帰ろうかとも思いましたが、 どのぐらいまで痛むのか試して見たい気分で歩いてみました。 足を引きずるほどの痛さではなかったので試してみました。 おかげさまで何とか平塚にはつけました。 本日の歩数は18200歩でした。 ちょっと多かったですかね。 お疲れさんでした。と自分に挨拶します。 さおしかの部屋
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平塚側から茅ヶ崎側への橋です。 こんなに大きい橋とは気づきませんでしたが、 カワウらしい姿が見えるかわでした。 歩いてみると二.三分の川でした。 いよいよ茅ヶ崎に入りました。 まだ13時半を廻ったところです。まだ、歩けそうです。 さおしかの部屋
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鴫立庵に来たのは4月の末でした。 ちょっと木々の間から覗いてみました。 自販機がなかったら、髷姿の人がいても不思議ではない雰囲気です。 小学校の発祥の跡、で、横に回ると?? 本陣跡との字が刻まれていました。 昔は本陣が学校だったりしたのでしょうかね……。 柿が熟れて道に枝を広げていました。 宿場町らしい風情を楽しく進みます。 今日は花水橋を渡りたいと思っています。 足は痛くないので快適です。 シメシメです。 さおしかの部屋
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