国府津駅から45分で酒匂川に来ました。 川は風が通って涼しいです。 アオサギが見えましたが、遠くでじっと立っていました。 写真は撮りません。 その代わりに近くからユリカモメらしいのが飛び立ちました。 写しましたが向こうは翼つきですので、間に合いませんでしたが、 らしい影は撮れました。 橋は大きな車が通ると揺れます。 揺れると薄気味悪いです。 早々に渡りきります。 渡りきるのに10分かかりました。 小田原に来るのに東海道線の電車で来ましたが、 大船から乗った途端に車内アナウンスで、横須賀線で人身事故があり、 電車が遅れたことを言っていました。 でも、電車は止まりもしないで走ってくれました。 帰りの電車はまだその人身事故のことを言い、電車が遅れたことを言って、 謝っています。 場所は戸塚付近のようでした。 大船でも、湘南モノレールも、江ノ電も振り替え運転をしているという内容です。 大きな事故だったのかなと少し心配になり、 急いで帰りましたが、 ニュースではなにも言っていません。 そうか、たいしたことはなかったみたいでなと、 密かにホッとしました。 さおしかの部屋 |
小田原から東海道
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小田原駅から南下します。 かなり日差しが強く、さけて左に折れました。 でもこの見当です、とにかく東海道に出て、丁寧に探しました。 ありました。 地図には「北村透谷生誕の地」とあるので家が残っているのかと、 思いましたがそうではなく、ただ「碑」がありました。 碑には、 近代文学の先駆者北村透谷は(本名門太郎)は、1868年小田原藩士の息子。 快像の長男としてこの地国道道筋に生まれた。近年生誕の碑をこの地に移した。 とあり、父上京後は祖父母に育てられ、啓蒙小学校に学び、1881年父母と上京し、 京橋の泰明小学校に学び、その頃から「神童」と呼ばれた。 この小学校には島崎藤村も学んだ。 後に人生門題に悩んだが、文学の道に入り、明治22年(1889)に「楚因之詩」を、 自費出版し、以後「蓬莱曲」を初め数多くの評論や詩を書き残した。 島崎藤村などと雑誌「文学界」を創刊した。明治27年(1894)5月、 東京芝公園内の自宅で自らの生涯を閉じたそうです。 最初は芝白金台町の瑞聖寺に葬られたが、 現在は城山の高長寺の北村家墓所に改葬れた。この碑の揮毫者は、 一人娘の堀越英子(ふさこ)だそうです。 小田原城址公園ないには、島崎藤村の揮毫の文学碑が建立されているそうです。 透谷の生誕の地の碑にもめぐり合えたし、ここからは、前回歩いているので、 唐人町バス停からバスで山王まで行くことにする。 さおしかの部屋
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晴れた日を選んで歩きますので、まだ、日陰を選ぶ散歩です。 海沿いは海風があるとは言え、日陰が少ないのも、 この道を理由です。 地図で見つけ、探してみた北村透谷の生誕地は見つからず、 このまま、行きます。 一つには1キロメートルぐらいで「江戸から00キロ」の表示も、 楽しみです。 たまに海も望める道です。 疲れたら、バスに乗れるのもありがたいです、この辺りは……。 由緒は、 1495年、北条早雲は小田原城主大森藤頼を破り、小田原城を手中に治め、 相模の国を平定した。 その頃の山王神社は山王曲輪と称え、海辺にあったが、暴浪のため崩壊し、 1613年に現地に移したそうです。 旧社地に星月夜の井戸があり、またの名前を星月夜の社とも呼ぶそうです。 その井戸もこの社にあるそうですが、見ませんでした。 ここで休憩させていただいたのに井戸は見ませんでした。 お参りだけしましたけど……。 神社から程なく川があり、渡った橋からの相模の海です。河口です。 山王神社から間もなくの橋を渡り、地図をみますともう、鴨宮駅には かなり離れたようでしたので、「山王」というバス停から国府津駅行きに 乗りました。 この日は早川駅から小田原へ、小田原からは東海道の旅、 そして「山王」からという行程でした。時間は2時間。11660歩でした。 北村透谷は気になりますので、もう一回小田原駅から歩きなおして、 探してみます。お楽しみに……。 さおしかの部屋 |
写すときは珍しいと思ったり、 貴重な画面と思ったりしますが、こうして並べてみると、 周囲がみえないことに気づきました。 以前に東海道なんて歩いた気分でいても、 細かく歩かなかったことに惜しかったなぁとも感じています。 あの時はバスだけで行くつもりが、 バスだけでは行けなくなり、かなりの距離は電車に頼りました。 せめて、神奈川県だけでも歩きなおしたかったと、 後悔の散歩になりました。 さおしかの部屋
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