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64年も思い続けて

64年も思い続けて

山アジサイの花

朝の雨は上がって、横須賀塩入に到着する頃にはすっかり晴れ上がった。駅前からバスに乗り坂本郵便局前という山の上の町まであがる。この街のさらに坂の上に静江さんは住んでいる。港町横須賀は至るところ坂の町だ。坂から見下ろすと、港に潜水艦が4隻ほど繋留されていた。潜水艦なんてしろものは普通の港にはない。やはり、ここは米軍第7艦隊の本拠地だということをあらためて思う。

86歳の静江さんは少し足が不自由だが、1人で元気に暮らしている。長年にわたり小学校の先生をしてきたというだけあって、頭脳明晰、記憶もほとんど衰えていない。今回はもう1人ディレクターといっしょの訪問である。

 静江さんはあの20年8月の広島原爆で恋人を奪われている。彼女自身は被爆していない。だが、心が被爆している。放射線によって心が灼かれた。原爆によって奪われた恋人のことを60年以上にわたり静江さんは思い続けてきた。その静江さんの心の軌跡をたどりたい、何がそこまで思い続けさせているのか、私は知りたい。
小高い丘の中腹にある静江さんの家は、戦前の士官宿舎のままである。父上は軍人で、横須賀の海軍兵学校で短期現役の学生たちの指導にあたっていた。その教え子のひとりが、静江さんの恋人の豊田さんである。年は7つ離れていた。父は若い兵隊たちを可愛がった。気にいった教え子を休日には自宅に呼んで食事をふるまった。初めて、豊田さんが静江さんの家を訪れたとき静江さんは13歳、豊田さんは20歳だった。床柱にもたれて楽しそうに話をしている豊田さんの姿をしっかり、静江さんは覚えている。その部屋は60年経っても同じである。

原爆が投下される3ヶ月前、静江さんは1人で豊田さんに会いに広島へ行った。二人の付き合いは長かったが、愛というものを本気でみつめ、結婚ということを具体的に相談したのはそのときである。
広島に知人のいない静江さんは、豊田さんの下宿に身を置いた。3日3晩、豊田さんの下宿で二人は話し合い、ついに結婚する決意を固める。それから、3ヵ月後原爆が豊田さんを直撃することになる。静江さんが豊田さんの死を知るのは1ヶ月以上経過してからのことだ。

それから、静江さんの苦しい心の旅が始まる。戦争が終わり、やがて教職に復帰する昭和24年まで、静江さんは毎日、泣いてくらした。トヨダ、ヒロシマ、という言葉を耳にするたび涙を流した。夜、床につくと、左の目から涙が鼻柱を越えて右目に入り、そこから頬を伝って枕を濡らす。「涙で枕を濡らすって、本当のことですね」と、86歳のその人は語る。
そういう話をおよそ3時間にわたって聞いた。
夕方、辞去するとき、静江さんが私たちを呼び止めて、珍しい花を見せてくれた。アジサイの一種だが、大きな花と小さな花が並存する山アジサイだ。梅雨が深まるにつれて、白い花弁は薄いピンクに変わるのですよと、嬉しそうに語ってくれた。
60年も思い続けるというのは、どういうことだろう。もっと、静江さんの心を知りたいと思った。
蛇苺

もみじ山、ツヴァイクの道は濃い緑に覆われている。こんもり茂ったケヤキの枝を抜けて差し込む朝日が美しい。やや湿気をふくんだ石畳の道、落ち葉のたまった導水管、梅雨に入って蒸し暑さを増している。
森は汗をかいている生き物のようだ。
だらだらと万緑のなかを降りていくと、コンクリートの塀の残骸がある。そこに赤い蛇苺が3個置かれてあった。誰の仕業が知らないが、きっと風流を愛する人だろう。
この緑のツヴァイク道を歩いていると、突然、向こうから誰かが現れるような気がする。青春の夢の名残のようなものか。昨日、お会いした静江さんの悲しみを思い出した。

静江さんの恋人トヨダさんは北海道士別の出身である。優秀であったが家が貧しかったトヨダさんは地元の先生になるしかなかった。しかし才能を見込まれ有力者の支援を得て、旭川師範、さらには広島の高等師範、そして広島文理大学に進学する。最初に静江さんが出会ったときトヨダさんは旭川師範の学生だった。短期現役の訓練で横須賀に来て、二人は出会ったのだ。やがて、トヨダさんは広島へ進学する。静江さんの父も兵学校の教官として、江田島へ赴任。二人は広島で再会する。恋しい気持ちが高まったのは事実だが、二人が結ばれるにはいくつも障害が待ち構えていた。トヨダさんの側に厳しい人生の問題があったのだ。
 トヨダさんの支援者は地元の大きな開業医であった。彼はトヨダを支援する条件として、自分の娘と結婚させようと考えた。ただし、娘がほかの男と結婚するなら、その条件は消えるとして。広島文理大に在籍する頃、件の女性は他の男と付き合っていたが父親は許さない。秀才のトヨダさんを離したくないと考えたのだろう。だから、トヨダさんは自分の意思で恋をすることは叶わなかった。
父の転勤で広島から横須賀へ再び戻った静江さんは、トヨダさんのことを諦めようと考えた。そして交わりを絶った。戦争が始まり、戦局は次第に日本に不利になっていく。

山百合

 横須賀にもどった静江さんは、やがて国民学校の先生となる。トヨダさんの事を忘れようと一心不乱に働いた。やがて、戦局は悪化。昭和20年に入り、父はレイテ沖海戦で戦死を遂げる。横須賀にも空襲が始まり、児童が疎開することになる。同じ神奈川の山間部、海老名である。そこへ小学生百数名を引き連れて数人の先生たちと学童疎開することになる。若い静江さんにも厳しい仕事となった。親を離れて心細く生きている子供を励まし、空腹に耐えさせることは大変なことであった。日々の労働に追われて、トヨダさんのことも忘れることも少しずつふえていた。

 その日も、海老名のお寺の森を抜けながら、トヨダさんとのことはもう終わったのだと自分に言い聞かせていた。新緑が美しい日であった。
子供たちが待つ宿舎に戻り、部屋の片付けをしているとき、来客ですよと声がかかった。誰だろうと訝しんで縁側に出てみると、庭先にトヨダさんが立っていた。北海道の実家へ帰省し、広島へ帰る途中に立ち寄ったという。横須賀の実家にうかがったら、こちらに来ていると聞いてやってきましたと、トヨダさんは静江さんを見つめてはっきりと語った。静江さんは何が起こったか理解できない。つい先ほどまで、諦めようと自分に言い聞かせていたその人が、3年ぶりに、わざわざ疎開先まで訪ねて来てくれるとは。その日何を話したか、はっきりと覚えていない。

 他の先生方や児童もいるということで、二人だけの話は長くはできなかった。帰っていくとき、静江さんは駅まで送った。その道すがらの風景はよく覚えている。

 現在の静江さんは横須賀の山の上で一人暮らしている。趣味は余った布切れを使ってショッピングバッグを作ることだ。前に私が訪ねたときも一つバッグをもらった。今回も帰りがけに青い布地のバッグをプレゼントしてくれた。これは薄くて丈夫で、図書館に行くときに重宝する。そう告げると、静江さんは嬉しそうに笑った。静江さんの庭は6月にふさわしく紫陽花が咲き誇っているが、納屋の陰におおきな山百合が咲いていた。隠れて咲く百合の花は香しく美しかった。

 疎開先にトヨダさんが訪ねてきたのが5月の末。父の死の悲しみもこらえてきた静江さんのなかで、弾けるものがあった。6月、静江さんは一人で広島のトヨダさんを訪ねて行く。戦争末期の混乱のなか、東海道、山陽道をぬけてはるばる広島まで行く。そして、3日間、二人は話あい、婚約をすることにした。広島文理大の恩師に媒酌を頼むことも決めた。そして、静江さんは帰った。最後に広島駅頭で、トヨダさんが「もう、手紙を書かないでね」と静かに言った。その意味は何なのだろうかと静江さんは考えた。でも、こらえきれずに手紙をそれから2度書いた。そして、2通めは8月に入ってから送った。その手紙が広島文理大に届いたのは8月24日。トヨダさんの手に渡らない。

 その朝8月6日、講義の準備をするということで、朝早くから千田町の文理大の教室にトヨダさんはいた。爆心から1.5kmの位置にあった文理大学は原爆によって破壊され、内部は全焼した。丸い特徴的な頭が真っ黒になって焼けこげているのを、同郷の先輩が発見し、遺骨は故郷北海道に送られる。

 この出来事を静江さんは知らない。広島に新型爆弾が投下されたと聞いても、独身のトヨダさんだから生きているだろうと楽観していた。その死を知るのは一月以上経ってからである。その日から、静江さんの心は凍った。
60年以上にわたって、静江さんの心にトヨダさんのことが封印されたままである。60年経っても癒えることのない心の傷とは何だろうということを、私は知りたいと思う。

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冬ソナはメディア

冬ソナはメディア〜オーバー40の活動〜

30年にわたって、広島長崎原爆の実相や障害者の問題など社会派ドキュメンタリーを制作してきた私が、定年になるその年にメロドラマという「イロモノ」に遭遇することになった。韓国ドラマ「冬のソナタ」のキャンペーン番組制作だ。このことが契機となって、この3年間、私はイロモノを手がけることが多くなった。
冬ソナとの出会い
2004年の初頭だった。仕事の割り振りを決める担当部長が3月の特番プロデューサーの人選で悩んでいたとき、通りかかった私に声がかかった。たまたま私のスケジュールが空いていた。その特番というのは4月から地上波で始まる韓国制作のメロドラマの関連特集で、この連続ドラマに世間の関心を集めるようなキャンペーンを張ってほしいという。
メロドラマのキャンペーンと知って面食らった。まもなく定年となる私の前に純愛をテーマにしたドラマが現れたのだ。ところが、参考にと全20話をビデオ視聴してみると、私の認識が浅薄だったことを思い知らされる。ドラマは単なる純愛を描いているわけではなく深いのだ。「運命の愛」を丁寧に描き、自己犠牲という愛のテーマを真剣に見つめていた。現代の日本人が忘れている多くのものがあった。心にしみる言葉、懐かしく美しい風景、誠実で美しい生き方――ひょっとするとこのドラマは大勢の人の心を掴むかもしれないと予感した。
特番制作に本腰を入れることにして私は韓国へ飛んだ。3月初旬にヒロインのチェ・ジウさんの初来日が実現。「冬のソナタへようこそ」(3月27日放送)という特番が世に出た。特別ゲストとして、チェさんと共にユン・ソクホ監督も参加してくれた。おだやかで上品な監督は私より年少だが才能があふれていた。それまで私が抱いていた情熱的で激しいという韓国人のイメージをガラリと変えた人格だった。
旬日を置かず、ヒーローのぺ・ヨンジュンも来日。すぐに「素顔のぺ・ヨンジュン」(4月30日放送)という特集を私は不眠不休で作った。世の中にヨン様、冬ソナという言葉が飛び交うようになる。4月になってドラマの本放送が始まるや視聴率は当初から高い数字を示した。5月に入ると2桁台に突入ぐんぐん上がっていく。冬ソナは社会現象になり始めた。
 この現象はこれまでなかった特異なものかもしれないと思う出来事があった。最初の「冬のソナタへようこそ」で、私はドラマのテーマ曲を日本の高名なアレンジャーに委嘱して、番組内で生演奏してもらった。洒落たいいアレンジだったにもかかわらず、視聴者から不満の声があがった。あの曲のテンポはあんなに早くない、オリジナルを尊重してほしい、というのだ。大半が中高年の女性で丁寧な言葉遣いだが、抗議の舌鋒は鋭い。私は戸惑った。新しい波を感じた。
ソナチアンの登場
 20回にわたるドラマシリーズが、8月21日に最終回を迎えた。総合テレビ「冬のソナタ」は20・6佑箸いΧ丹枦な数字を記録した。800万近い人が魅了されたのである。 熱いファンレターが続々と届く。このドラマによって救われたという便りや青春を取り戻したという声やメールが係に2万件以上寄せられたのである。ドラマと生真面目に向かい合うファンたちを私は密かにソナチアンと名付けていた。大半が40〜60代の女性で、なかには80代90代の熱心な老女たちもいた。これまで、視聴者として姿を現したことのない層が前景化してきた。
――ソナチアンのこの熱い思いを見過ごせないと、局は特別番組をさらに計画する。またしても制作担当は私となり、思い切って公開番組のイベントを企画した。8月28日、NHKホールに三千人のソナチアンを集めユン監督や脚本家を招いて、「冬のソナタ・グランドフィナーレ」開くことにした。観覧希望の葉書が2週間で8万通届いた。当日会場は熱気につつまれた。テーマ曲に聞きほれ、名場面に涙ぐむソナチアンがあちこちに見られた。この舞台の最後にユン監督は、このドラマを通して日本人から大きな感動というプレゼントをもらった、これからも両国の交流のために力を尽くしたいと顔を紅潮させて語った。翌年の2005年は日韓条約40年という節目で「日韓友情年」が日程にあがっていた。
一方、2003年後半、衛星放送でオンエアーされて、冬のソナタが評判になり始めた頃、若い男性を中心に、「冬のソナタ」は日本の「赤いシリーズ」や「キャンディ・キャンディ」の真似で古臭いと言い立て、貶めるような議論がネット上に起きた。週刊誌やワイドショーなどはおばさんのはしゃぎ過ぎだと揶揄した。保守系オピニオン誌はあからさまに不快を示した。
行動を起こしたソナチアン
2003年前期に衛星放送で冬ソナが放送されていたから、2004年の総合テレビでの放送時にはすでに不可視のファンつまり私のいうソナチアンたちが胎動していた。
5月頃から、語学学校で韓国語を学ぶ女性が増えているという噂が流れてきた。大久保にあるコリアショップには連日のようにおばさんたちが詰め掛けて冬ソナグッズや冬ソナ本をすごい勢いで購入しているという話もあった。高額なドラマのDVDセットがかつてない勢いで売れていた。
 海外ツアーにも影響が出ていた。羽田発金浦着の飛行機の便はほとんど満席になっているという。調べてみると、中年女性たちばかりの個人ツアーが増加している。冬ソナを媒介にしたソナチアンたちのグループが大半だった。ほとんどが子育てを終えた中高年の主婦だ。その年の12月、NHK放送文化研究所が世論調査を発表。冬ソナの視聴者の50%が、韓国文化へ積極的に触れるようになり、26%が韓国のイメージが変わったと感じていた。中心にソナチアンがいたことは言うまでもない。
初恋幻影
「冬のソナタ」を見た人からの手紙1万通余りを私は読み通した。大半が中高年の女性である。
不思議に思ったことがある。特に中年の女性(40、50代)からの手紙に多かったのだが、このドラマを見ると若い頃のことが懐かしい、高校時代を思い出して胸がキュンとなったと書いているのだ。三桁以上の女性がしるしている。こんなに大勢の日本女性は純愛を体験しているのだと感心しながらもなんとなく腑に落ちなかった。
 何人かに電話インタビューした。「うらやましいですね、そんな体験をお持ちなんて」と尋ねると、「全然ありません」「そんなことはありませんでした」と答えるではないか。
 体験したことなどないのに、「冬のソナタ」を見続けているといつしか自分が体験したような気になっているらしい。私はそれを「初恋幻影」と呼ぶことにした。後になって、オタクの番組を制作するようになり、このソナチアンたちの感情はオタクの萌えに似ていると気づく。この傾向は年長の女性になるほどつよくなる。
 この傾向をある女性は自身を振り返って、こう分析していた。
《日本の女性は年々強くなり、仕事ではキャリアを求められ家庭では賢い妻、良い母を演じさせられてきた。気付かないうちに、胸の奥に哀しみやつらさをしまいこんで鎧(よろい)をきていた。誰からも褒められることもなく認められることもなかった。そんなときミニョンさん(筆者注:ドラマの主人公、ぺ・ヨンジュンが演ずる)の笑顔を見ると肩の力が抜け、切ない場面で涙が滂沱と流れてくる。その涙は心の奥にたまっていたいろいろな想いを洗いながしてくれるのだ。…》
2004年4月、ぺ・ヨンジュン氏が来日したときの騒動を、マスコミはいい年をして女子高生のような黄色い声をあげてとからかっていた。年がいもなくのぼせあがってと冷笑を浴びせていた。彼女たちの心の背後に女性の置かれた苦しい立場を読み取った記事は皆無だった。
日本のテレビの状況
この20年、テレビは圧倒的に若い世代に向けてのコンテンツ中心であった。
日本の現在のテレビドラマは大半が若者志向。特にF1,F2と広告界でいわれる10代20代の女性を対象にしたドラマばかりだ。アイドル的人気の役者と漫画原作のドラマが増えている。流行風俗を背景にした、作り物のでない普通っぽいドラマがもてはやされて来た。
「メロドラマ」が本来もっていた「泣き崩れる喜び」を感じさせるものが少なくなっていた。人生を感じさせるうまい役者が減って、それまでのドラマファンの大きな層であった中年女性たちは、日本の“薄い”ドラマから離れて行った。そういうなかで、2003年の秋ごろに中年の女性たちは、冬のソナタを発見した。
冬ソナ小町会
ソナチアンは都市の有閑女性が中心ではない。むしろ、地方都市に住むパートタイマーの主婦層が多い。子育てを終えて時間にゆとりが生まれて社会とのつながりを再び求めているという状況の女性、これが私の把握した大半のソナチアンの像だ。
小玉さん(55)は秋田県男鹿市に住んでいる。2004年当時、小玉さんは人生の苦境にあった。一家の大黒柱として働いてきた夫が病で倒れ寝たきりになった。家計を支えるために、小玉さんはパートで働きに出ながら夫の看病をしていた。長男は受験をむかえていた。長女は思春期の難しい時期にあった。一家のいろいろな出来事が小玉さんの肩にずしりとのしかかっていた。そんなとき、小玉さんは冬ソナと出会い、癒されるという体験をした。その体験を手紙に綴って、衛星放送の係りに送った。その手紙を私は読んだ。
あれから4年、小玉さんの境遇はどうなったか。
冬ソナをきっかけにして秋田県内の4人の女性と知り合い、さらに数人の仲間を加えて「冬ソナ小町会」というのを結成した。年に1、2回集まって、ビデオを見ながら冬ソナのことをおしゃべりするだけだが、それが楽しくて掛け替えのないものになっている。この物語は何十回となく視聴したが、けっして飽きない。それどころか、見るたびに新しい発見がある。むろん、冬ソナだけではなく、韓流ドラマ全般にも関心をもつようになったが、基本はやはり冬ソナ。小町会でも話題の大半は冬ソナになっている。会員のなかには韓国の現地へ何度も足を運んだ人や俳優の動静に詳しい人などがいて、新しい情報も更新しながら、小町会は発展している。こういう冬ソナの小さな会は全国におびただしい数である。
最後に小玉さんはこう答えてくれた。
「冬ソナは終わりがなく苦しかった日常に大きな切れ目をつけてくれました。そのとき燃え上がったものは4年経って消えたかと言われると、そんなことはありません。あの炎は今も燃えています。」電話の向こうから聞こえて来る小玉さんの声は生き生きしていた。
ソナチアン2次創作
40代以下のソナチアンはネットで地域を越えて交信している。そして、物語の2次創作にはまっている。横浜に住む39歳の主婦は30あまりの冬ソナ続編を作ってネットで公開している。グループの仲間はもちろん全国のソナチアンからの閲覧が相次いでいる。彼女の師匠筋の人は、なんとこれまでに100話以上のバリアントを書いているというではないか。さらに、この冬ソナ2次創作の大きな特徴として、「リレー小説」というジャンルが出現している。冬ソナのキイワード、例えばポラリスのネックレスとか竜平のスキー場とかの御題を立てる。それに沿って、ソナチアンたちがそれぞれのイメージを競い合い、ネットに公開するのだ。書くほうも読むほうも、ただ純粋に物語を味わうということに喜びを見出している。日本古来からの「本歌取り」の伝統がネットで甦っている。
むすび

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怪獣文化研究会

怪獣文化研究会

2008年12月、怪獣文化研究会の5回目が開かれた。日本の怪獣文化とは何だったかを考える会で初回からずっと円谷怪獣について、関係者の聞き取り調査をしている。
女優さんや監督の話に続いて、今回は熊谷健プロデューサーと村山実さんだった。村山さんは朝日ソノラマの名編集者で、大伴昌司とともにあの「怪獣図鑑」を作っている。

熊谷さんは青森県野辺地の出身。弘前大学から日大芸術学部の美術科をへて映画界に入ったという面白い経歴の持ち主だ。その道筋を根掘り葉掘り聞いた。
弘前大時代に小津安二郎監督の「東京物語」「晩春」などを見て監督に憧れた。映画をやりたいと思って日大の映画科で小津の盟友野田高悟が教えていたのでそこへの編入を希望した。ところが映画科の志望はあまりに多いので美術に変更して入った。画には自信があった。高校の頃描いた油絵で文部大臣賞を受けるほどの力をもっていたから。そこへ滑り込んで、映画学科の野田の講義に潜り込もうと考えた。ところが売れっ子の野田は大学へ一度も姿を現さない。やがて卒業をむかえる。
普通ならここで映画への思いを断念するはずだ。が、熊谷は小津に直接手紙を書いて、鎌倉の自宅まで押し掛けた。小津の老いた母がむかえいれてくれ、風呂上がりの小津と熊谷は対面した。機嫌がよかった小津はごちそうを振る舞ってくれ、映画を学ぶためにはいろいろな教養を身につけることだと教えてくれた。手塚治虫が初対面の赤塚にいい漫画を描くにはいい映画やいい音楽を聴けと諭したことに似ている。

やがて、小津は宝塚映画で「小早川家の秋」を撮るため関西へ行ってしまう。熊谷さんは追いかけ押し掛けその映画の助手に入り込む。何の地位も保証されない無賃の手伝いを宝塚に下宿しながら始める。このあたりが並の若者でない。どうやって食費や家賃を払ったのかと聞くと、「実家に無心の手紙を書いた」と愉快そうに答える熊谷さん。とにかく、「小早川家」のクランクアップまで、小津のそばでその仕事ぶりを見聞して、作業の手伝いをした。終わったとき、小津がぽち袋に2万円入れてくれた。
熊谷にとっては楽しい時間が終わり、今でいうフリーターの日々となる。田村町にあったNHKの美術のアルバイトを始めた。そこで知り合ったバイト仲間が東宝映画の仕事を紹介してくれ、成城の撮影所に向かう。そこで、円谷英二特技監督と出会うことになる。ここから怪獣文化についての話がおよそ1時間続いた。

朝日ソノラマの村山さんもストレートに編集者になっていない。最初はフランス映画の営業から始まった。斜陽になりはじめた映画の営業はきついものがあった。ハリウッドの娯楽映画ならともかくヌーベルバーグ時代のフランス映画を下町や埼玉の映画館に売り込むというのは至難だった。その現場で知り合った人の伝手で朝日ソノラマの第3編集部に入っていく。熊谷さんも村山さんも人との出会いで人生が切り開かれるということを示している。村山さんは大伴昌司のエピソードをたっぷり語ってくれた。

熊谷さんの小津好みは意外なかたちで表されていた。ウルトラシリーズの後半、「帰って来たウルトラマン」以降ではベテランが次々に現場を去り、熊谷さんはプロデューサーとして存分に力を奮う。そこで思いついたのがウルトラのファミリー化だった。ウルトラの父がいて母がいて、そしてタローがいる。このコンセプトは小津映画の家族物語をベースにしている、と熊谷さんは愉快そうに語った。美術学科を卒業した熊谷さんはかなり怪獣のデザイン造形も手がけている。その見本をもってきてくれたので見た。たしかに画はうまい。プロの画だ。

二人の話が終わったあと、研究会のメンバー全員で渋谷駅前の居酒屋でおよそ2時間愉快に酒を飲んだ。ただし、村山さんは車を運転するということで、ウーロン茶にしていただいた。女優の桜井浩子さんも加わって楽しい会となった。この研究会も回を重ねて円谷プロの往年の活動をかなり把握できた。次回はちょっと視点を変えて東映映画の怪獣路線を聞き取りしようかという声があがっている。

追伸:円谷特撮の重要な人物高野宏一さんが11月30日に亡くなった。生前、お話を伺いたかった。無念。合掌。

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先祖の霊

祖霊

日曜日の昼下がり、故郷の実家で母と二人で昼飯を食べる。おばんざいの鰊なすびを口にしながら、母の愚痴ともつかない話を聞いている。
母の悩みは仏壇である。両親ともにクリスチャンにもかかわらず、我が家には仏壇がある。盆暮れには真宗の高照寺からお寺さんが来てお経をあげてゆく。子供の頃から続いていてフシギとは思ったことがないが、よくよく考えてみれば変だ。

父の死後、敬虔なキリスト教徒である母はその処分ができないままで来たが、この際決断をしなくてはならないときが来た、長男であるおまえに譲ろうと思うが、どうかと私に意見を聞く。

冗談ではない。私は仏壇などを自分の家に設置することは考えたこともない。次弟がその処理について長男である私に判断を委ねよと母に諭したらしい。それを受けて私に相談したのだろう。母の気持ちはわかるけど、ちょっと勘弁してほしい。

この期に至って、長男だとか家だとか先祖とか言う表現に戸惑う。旧民法の時代ならともかく、今のご時勢長男に何の意味もないではないかと、ついつい母に私は抗議する口調となっている。
母も困っているらしい。クリスチャンである自分はそんなつもりはないが、それでも仏壇、先祖の戒名などを自分の手で廃棄するには抵抗があるし、と母はこぼす。母は今年の春先に倒れて寝込んだことから、急速に健康に不安をもつようになっている。
 友人でやはり実家の仏壇の処分で悩んでいる人がいた。たかが大きな「箱」だが、なんとなく乱暴に扱うには気持ちがひっかかる存在だ。
祖霊と仏教とは直接関係ないのだが、実際には仏壇の中に祖霊は祀られている。仏壇を廃棄することは祖霊をも踏みにじるような気もする。

ところで、六十の坂を越えてから、先祖ということがだんだん気になってきた。今、ここにいる私は何代も続いた血の細い道筋を通って在らしめられている。加賀山中温泉の墓地にある我が家の先祖代々の墓を、ぼうっと思い出す。

大阪に住む3歳下の弟が7月末に倒れた。入院した。母には黙っていてほしいというので伝えていない。だが、直感が働くのか「あの子は最近来ないがどうしたのだろう」と私に聞く。忙しいのだろうとかなんとか言って、面倒くさそうに私は答える。

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大磯、もみじ山。夕暮れに草をむしっている。昨日ほど暑くはないが、動けば汗が垂れる。
しばらく放っておいたら、裏庭の夏草の丈が伸びていた。
んしょ、んしょと草をむしる。
草むしりというのは、結構重労働だ。もう少しもう少しと思って続けていると、思わぬエネルギーを吸い取られていることになる。
うすぐもりの夕方となる。小さく、カナカナカナと聞こえてきた。日暮だ。今年は例年より早くひぐらしが鳴き始めた。何か、異変でも起きなければいいのだが。

谷間の家で、暑い盛りは避難して、下の部屋で読書にふける。
図書館で借りてきた、日本の鐘の研究書に集中。西洋の鐘は内側からたたくが、東洋は外からつく。この差はなぜなのだろう。
夕方5時。大磯、役場の有線放送が「夕焼小焼け」を流す。

映画の古典を見たくなった。誰が見ても面白いハリウッド。
私の場合、子供の影響もあるが、なんといっても「ホームアローン」
次に「天使にラブソング」。

こういう映画が最近ないなあ。

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