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雄略天皇の偉大さは、おそらく、日本の各地に浸透していた ‘オシハ大王’ の偉大さを示すもの ー ー ー。 概ね、英雄伝 というのは、過去の英雄譚の集大成のようなパターンとなっている のです。
このブログで、以前考察した、聖徳太子伝、坂本龍馬伝にある通り、です。
ところで、古代、大和朝廷は、この国を制覇し、一つの国家にまとめあげる偉業を果たした訳ですが、私は、そのような国の動きをもたらした要因は、やはり、壬申の乱 だったのだと思います。 壬申の乱 というのは、近江朝に対して、大海人皇子(天武天皇)が率いる東国の兵士群との闘いでした。 それは又、旧体制と新勢力との戦い、という風な見方が出来るものだとも思います。 一つの大きな戦によって、散乱していた勢力が淘汰され、一つの大きな一大新勢力が出現する、・・・それは、極めて単純で分かり易いことでもあります。 そうして、ここで更に 私が 付け加えて言いたいことは、この 壬申の乱 とそっくりなことが、戦国時代にも、起こっている、ということです。 天下分け目の関ケ原 の戦いです。 戦い合ったのが東西の国、という図式も、又、関ケ原 という場所も、そっくり、まるで、時代を超えて、繰り返しの戦 が起きた如くです。 その後、江戸幕府が誕生して、新しい統一国家がつくられたところも一緒です。 漠然と、戦になって行く過程は、皆、同じようなもの、起きてみれば、とどのつまり、勝者の天下となると、そう決まっているのだ と、そんな風に、只、思いがちですが、 それにしても、豊臣秀吉が亡くなった後に、その家臣団の中の最有力者だった家康が、尚、秀吉の傘下に収まらずにいる幾多の勢力を集めて戦を起こし、そして勝利する、というのは、まったく、天智天皇が崩御した後に、弟の大海人皇子が、東国の兵を集めて戦をし、そして勝利する、というのと、両者は、違うところを探すことが難しい位に、同じで、 ですから、ここはもう、いっそ、この二つの戦は、同じ戦だと、そう言ってしまいたいくらいです。 歴史は繰り返す、ということではありません。 私が言いたいことは、徳川家康 を、ヒーローとして記録する際に、関ケ原の戦い を、壬申の乱 に似せてつくったのではないのかと思う、ということです。 その際に、日本書記の 壬申の乱 の記述を改竄する、ということもあったかもしれない という疑いも少しあります。例えば、関ケ原、という場所を書き加えたり、です。 家康は、家系つくりにも熱心だった、というようなことを聞いたことがあります。 それは、大和朝廷が累々と天皇の系図を書き記していた、そういうことに似ています。 ・・・・・・・ ご訪問頂いた皆様には、ご面倒をお掛けしますが、どうぞ、下のランキングクリックをして頂きますよう、平に、お願い致します。 |
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井沢元彦氏いわく「勝者の歴史」とはよく言ったものです。地元の松平では徳川は源氏であるということは松平東照宮には書いてありません。源氏ではなく在原 業平の子孫だと書いてあります。私は平家ではないかと思っています。
今、考古学者がスルーした人面石の記事をUPしています。
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2014/12/29(月) 午前 0:36
おはようございます。
家康が、「日本書記の 壬申の乱 の記述を改竄」した。
面白い発想ですね。
充分ありうるのではないでしょうか。
残された写本を時系列で調べると何かわかるかもわかりませんね。
2014/12/29(月) 午前 6:25 [ 記紀いっぱつ ]
> 熱田北条さん、コメント有難う御座います。
源頼朝に加担をして鎌倉幕府を誕生させた北条氏も、元は平氏でした。私は専ら古代のことを考えていて、平安時代以降のことは、けして詳しくありませんが、関東は、平将門が出た地でもあり、大体、平氏の領地なのではないかと思います。
人面石の頁、拝見させて頂きました。
2014/12/30(火) 午後 1:01
> 記紀いっぱつさん、コメント有難う御座います。
前に記事にしたことがあるのですが、源頼朝が鎌倉に幕府を開いた時の、彼の動向は、古事記の神武天皇の記事に沿っているところがあります。
そういう記事も含めて、鎌倉幕府のことは、『吾妻鏡』に書かれてある訳ですが、その『吾妻鏡』を、家康は手元に置いて愛読していた、と聞いたことがあります。
又、『吾妻鏡』には、喪失した箇所があります。頼朝の死が書かれてある筈の部分ですが、私は、そのことにも、家康が関わっているのではないかと、常々思っています。
2014/12/30(火) 午後 1:12