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私は、芭蕉の ‘奥の細道’ は、古今和歌集〜万葉集〜古事記・・・と、古を遡る旅だったのではないか、と、そんな風に思ったのでしたが、 福井の気比神宮のところの文章を読んでみると、そこには、神功皇后の‘ジ’の字もなく、俳句の季語の‘月’が一つあるだけでした。 〜 〜 が、私は、実は、気比神宮 という神社が福井の敦賀にある、ということを この度 初めて知り、芭蕉のことは一旦、横に置いて、色々と考えてしまうことになりました。 先ず、あらためて驚きのような思いを持ったことは、古事記に記されてある神の社が、実際にある、ということです。 今更ではありますが、記紀の中にある様々な事物、天皇の宮や神の棲み処は、殆どが、何処のどれであるのか、ということが明らかになっている、 ー ー ー 少し前は、さすがだなぁ、と感心したりしていましたが、でも、それが現実の出来事かどうか分からないことまでも、それは此処でのことだというのは、やっぱり おかしい、本当は誰も、頭では信じてはいなくて、その上で、ロマンを膨らませ、想像を駆け巡らせている、 分からないから、面白い、・・・そういう処もある、 と、ヘンな言い方ですが、それは、其処である、という説を肴にして、テキトーに楽しんでいる、そんな感じで、 要するに、やっぱり、天岩戸や天孫降臨の地や、神武天皇の東征の地などが、実際に伝承され定められてある、ということは、あらためて、驚きだと思うのです。 気比神宮、ー ー 古事記の 気比の大神 というのは、建内宿禰の命の、夜の夢に現れた神です。 その夢を見た所が、行宮のあった高志(こし、福井県)の角鹿(つのが〜敦賀)なのだと記述しています。 ウィキペディアの 気比神宮 の頁には、『大宝2年(702年)に文武天皇の勅によって社殿を造営し、本宮に仲哀天皇・神功皇后を合祀、東殿宮・総社宮・平殿宮・西殿宮の4殿に各1柱を祀った』 とあります。 文武天皇 と云えば、母は元明天皇で、その元明天皇こそ、古事記の完成を見届けた人、又、法隆寺の再建をした人です。 ですから、(法隆寺 もそうですが)、古事記 が出来た時代に、気比神宮 は姿を成したのです。 私は、思いました。 記紀の記述通りに各地に遺跡がありますが、中には、記述に合わせて、後から つくられた ものもあるのではないか、と。 ・・・・・・・・・ ご訪問頂いた皆様には、ご面倒をお掛けしますが、どうぞ、下のランキングクリックをして頂きますよう、平に、お願い致します。 私が参加しているカテゴリーバナーを貼っていますので、ブログ村の方は、↑の記事の内容とは必ずしも合ってはいませんが、宜しくお願い致します。 |
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気比神社のある敦賀も、町は少し寂れていますが、歴史のあるところで見所はありますよ。
一度行かれてみてはいかがでしょうか?
2015/5/11(月) 午後 4:59
> 大納言兼加賀守さん、訪問、コメント、ナイスクリック、どうも有難う御座います。
出掛けて行きたいのは山々ですが、年老いた母が居ますから、叶いません。
敦賀気比、という名は、甲子園で、よく聞いていましたが、その歴史が、ここまで古いとは、あまり知りませんでした。
2015/5/11(月) 午後 6:25
五節句さん、こんばんは。
[中には、記述に合わせて、後から つくられた ものもあるのではないか、と]・・私もそう思う神社が有ります。神社は古事記以前に在ったのだが、複数の神社の統合の中で、言い伝えとして残ったのは記紀の記述だけとか、伝わる言い伝えの中に記紀の記述を追加してしまったりとか色々有る様に思います。
2015/5/12(火) 午後 9:32 [ totoro ]
> totoroさん、コメント有難う御座います。
記紀にある所に、実際に行ってみたり、又、そこに住んでいる人達などにしてみれば、やはり、それを疑うよりも、よく由緒などを理解し、その上でアレコレ想像してみることの方が、はるかに愉しく、有意義なことに違いありません。
ぼんやりとした概念で、神社というのは神世の時代からのものだと、私も、そう思っているところがありましたが、古事記以来、というものが、ひょっとすると多い、とすると、8世紀以降・・・で、随分、新しいものだった訳です。
今の私の考えでは、気比神宮は、蘇我氏が建てた寺よりも、新しいものだった、ということになります。
2015/5/13(水) 午後 5:52