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辛亥銘鉄剣、あれこれ

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天皇は勝者

古事記は、かねがね書いていますが、伝説的な書き物、です。 完全に作り話という訳ではありませんが、どちらかと言えば、フィクション という印象があります。

それに比べると、辛亥銘鉄剣の銘文は、ノンフィクション であると、私は思うのです。

それで、五世紀の頃は、大王の名としては、‘多支鹵 (オシハ)’ という名の方が、広く認知されていた名だったのだと、そう考えます。


古事記の序文に、天武天皇の ことば として、「諸家が、多くの間違った言い伝えを加えてもっている帝紀、本辞をあらためて、正しいこの国の正史を、今、つくろう・・・」、というようなことが書かれてあります。

その ことば を遵守するならば、埼玉という鄙の国の古墳に眠っていた刀に記されてある記事の方が、真実とは遠いもの、と考えるべきなのでしょうけれど、しかし、その鉄剣の銘文が、天武天皇が出現する以前、更に、大化の改新よりも前につくられたものだということになれば、別の話しになってくると思います。

正史が編纂されること、又、大化の改新によって、言うならば、国家的概念の統制が図られる以前の、とても素朴な記述である銘文は、極めて現実的で、一般的な認識を知ることの出来る資料と、捉えることが出来る と、私は、そう信じます。


そこで思うことは、

古事記、下つ巻に於いて、最も多くの説話を載せて書かれている雄略天皇が抹殺する皇子の名が、‘オシハの皇子’ であることの、重大な意義です。

日本の各地で、大王の名として知られている ‘オシハ’ 、その人を、あっさりと抹殺した、更なる人物こそ、天皇の系譜に名を残す、雄略 である と、そう書き示せば、国民の、古い意識は、完璧に一新されるではありませんか。


記紀には、時折、その時代の重要人物の汚名や失脚の話しが出てきますが、それは、つまりは、その人物が持っている勢力を一掃する、という意味がある訳です。

その後に出現して来た人物の偉大さこそ、その人が滅ぼした人の権威の大きさを表していることになります。

天武天皇の大きさは、即ち、近江朝ー天智天皇の大きさを示すものであり、又、蘇我氏の大きさは、物部氏の大きさを示すもの と、解釈出来ると思います。

雄略天皇の偉大さは、ですから、おそらく、各地に浸透していた ‘オシハ大王’ の偉大さを示すものだと、私はそんな風に思うのです。











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天皇の系譜

『獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時』

ー ー 獲加多支鹵大王 の 寺、斯鬼宮 に 在 る 時、


私は、鉄剣の銘文にある ‘多支鹵’ は、顕宗天皇の父で、記紀には、雄略天皇に殺戮され、天皇に即位したという記述のない、‘オシハの皇子’ を指しているのではないのかと思っています。

又、この銘文の時代背景は、顕宗天皇の記述がされてある時代と重なっているような印象を持っています。

雄略天皇や‘オシハの皇子’、更に、彼等の父の世代の履中、反正、允恭天皇、というのは、中国の史書に記録されている、‘和の五王’ の時代に相当する天皇達です。

和の五王の記録は、西暦413年 - 478年の、65年間のことです。


ー ー ー という訳で、先ず、‘ヲワケ臣’ という、埼玉の行田に、大規模な古墳群をつくった、その人々は、五世紀頃は、天皇や皇子、という言い方をしていなかった、ということが言えると思います。

只、柿本人麻呂の歌に、「磯城島の 大和の国」 という表現があることもあって、鉄剣の銘文の 『寺在斯鬼宮』 という文字に、大和の国 (奈良、山の辺の道・・・) を連想しない訳には行きません。

ですから、大王 と記されてある、その ‘獲加多支鹵’ という人物を、大和朝廷の系列にある人だという風に考えることは出来ます。

そこで、五世紀、大和の国には、大王 と呼ばれる為政者が存在していたけれど、記紀の記述の通りに、その権威が、脈々と万世一系に守られていた、ということは、本当には分からない、ということを思います。

‘多支鹵’ は、‘オシハ’ と読めるし、記紀では、‘オシハの皇子’ は、天皇にはなっていない、又、‘オシハの皇子’ や、履中天皇、顕宋天皇達の宮は、‘磯城(シキ)’には無い、

そのように、銘文は、記紀の記述通りのことを記していない、という認識を持てば、記紀が系統だてて、脈々と記している天皇の系譜は、真実とは言えないものだということには、誰しも、考え至るところだと思います。









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続、「寺」、再考

『獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時』

この、辛亥銘鉄剣の銘文中にある 『寺』 とは、古墳 を指しているのではないかと、私が朧気に想像する時、

そういえば、古事記にある、顕宗天皇の歌には、“百伝ふ 鐸揺くも” と、「鐸」 の文字があることを思い起こします。

「鐸」 は、銅鐸 のことと、考えて よい 筈です。 そして、その、古代の遺跡から出てくる 銅鐸 は、後の世の、寺の鐘 と、形も用途も、極めて似通っているものです。ー ー 神社には、“鐘” は、ありませんから、顕宗天皇 の歌からは、何処かしら、寺 が連想されると、私は感じます。

又、その、顕宗天皇の歌は、置目 という名の老婆を思って歌われたものですが、その 置目 は、“オシハの皇子” の墓を守っていた人です。 古代の人の墓とは、つまりは、古墳 です。

〜 〜 〜 こうすると、鉄剣の銘文から今、私が想像しようとする景色と、顕宗天皇の歌から連想されるその背景と、両者は、呼応しているように思われてきます。



きっと、鉄剣の銘文の、“ヲワケ臣” は、古事記の中の、「顕宗天皇」 の記述に当たる時期と、同時代を生きた人なのだと、私には、そういう思いが自ずと起きてくるのです。











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「寺」、再考

辛亥銘鉄剣 銘文には、下記の通り、「オオヒコ」以下八代 〜 八つの個人名が記されてあります。

1.意富比垝 (オオヒコ)ー 2.多加利足尼(タカリスクネ) ー 3.弖已加利獲居 (テオカリワケ)ー 4.多加披次獲居 (タカヒシワケ)ー 5.多沙鬼獲居 (タサキワケ)ー 6.半弖比 (ハテヒ)ー 7.加差披余 (カサヒヨ)ー 8.乎獲居臣(オワケオミ)

↑この、太祖、意富比垝 (オオヒコ)の名は、記紀の、崇神天皇の記述に出てきます。 そして、崇神天皇は、師木の水垣の宮に居て天の下治らしめた、と古事記は記しています。

鉄剣の銘文には、『獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時』 という文字の連なりがあります。

崇神天皇の、「師木の水垣の宮」 と、銘文にある、「斯鬼宮」 は、同じであるかもしれません。


又、崇神天皇は、第十代 天皇 で、それから八代目、第十八代の天皇は、反正天皇です。 前にも書いた通り、反正天皇の名は、‘ミズハ’ で、‘オシハの皇子’ の父、履中天皇とは兄弟です。 ‘オシハの皇子’ とは、私が、銘文に、「獲加多支鹵大王」 と刻まれてある、その名の人ではないのかと考えている人です。


ですから、銘文の、オオヒコ以下八代の時代は、ほぼ、記紀の、崇神天皇以下八代の時代に当たるのではないかと考えられ、又、ヤマト という語はないものの、シキの宮 とは、おそらく、現在、崇神天皇稜がある、奈良の 山辺の道 の筋に沿う所 を指しているのではないのかと、私は考えます。

では、「寺」 とは、何でしょう。

今、朧気に、それは、古墳 のことを言っているのではないかと、私は思っています。

古墳では、祭祀のようなことが執り行われていたとも言われています。 死者を祀るようなことだけではなく、国中の者を集めての祭り、という風なことを想像する、

ー ー ー 寺で行われる、大法要、のようなものを想像し、そういうことを、大昔、古墳時代では、古墳の前や或いは上で行っていたのかもしれない、と考えてみると、それが、その場所を「寺」という文字で表そうとしたことの、同時に、理由ともなるように、私は思います。









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しつこく言うようですが、辛亥銘鉄剣 の銘文にある “多支歯” は、私は “タケル” ではなく、“オシハ” と読み、古事記に、“市の辺の忍歯別の王” と記されてある、その人ではないかと思っています。

古事記、下つ巻、「六、清寧天皇・顕宗天皇・仁賢天皇」 の項には、現代の、科学捜査を扱ったサスペンスドラマを彷彿とさせるような記事が載っています。

土中から掘り出した 御骨 (みかばね) が、王者の印とされる、‘三枝なす押歯’ となっていることが、証しとなって、その 御骨 こそは、時の天皇、顕宗天皇 の父、忍歯別の王 であると認められた、というのです。

古事記に載せられてある数々の歌は、この 顕宗天皇 の歌 (ことば) が最後です。 その後の天皇については殆ど箇条書きのような記述で、内容はあまりありません。

古事記の最後の歌、ということで、以前、記事にしたものを、以下に又、再掲させて頂きます。(終わりの三行は割愛しています)。


・・・・・・


 浅茅原 小谷を過ぎて、百伝ふ 鐸揺くも。

       置目来らしも。


    置目もや 淡海の置目、 明日よりは み山隠りて

       見えずかもあらむ

雄略天皇 がお隠れになって、次は、清寧天皇 が天下を治められましたが、この天皇には、后も御子もいませんでした。

播磨の国で、袁祁の命 (弟)と、意祁の命 (兄)とが揃って、自らを、市辺忍歯の王(履中天皇の長子)の御子であると名乗り出で、弟から先に即位して、顕宋天皇、次に兄が即位して、仁賢天皇 となりました。

袁祁の命 (弟)と、意祁の命 (兄) とは、どちらも、音は、「‘オケ’ の みこと」 です。  (兄、弟の区別は無い・・・、ということでしょうか)。

そして、この歌の 「置目」 というのは、近江で、彼等の父の遺骨を守っていたという、謂わば、彼等の素性を保証する生き証人のような人物で、老婆、です。


歌は、顕宋天皇の歌です。 鐸揺くも (ぬて ゆらくも)・・・いつも 鈴が揺れて、そこに居ると知ることが出来た 置目 でしたが、彼女は、激しい老いを迎え、本の国に退くことを願い出る。 顕宋天皇は、諦めて、歌をお歌いになった、これは、そういう歌です。


鈴の音が鳴って、そこに人が居ることが分かる、居なくなれば、その音が鳴ることはありません。 その人は、山の向こうに行ってしまうのだから、もう、姿を見ることもなくなる、明日からは。


この歌を読むと、聞くこと、見ることと、生きていること (逝ってしまうこと) が同じことであることを しみじみ 知ることになるのです。


そして、明日からは、と云われて、人の明日は、人の死の先にあるもの、という理 (ことわり) に気付かされるのです。













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