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大森貝塚を発見した E,S,モース博士 は動物学者で、人類の進化に関心を持っていた人でした。 今の日本の考古学者達の多くは、日本人の起源がいつで、それはどの様なものだったのか、ということを探求することに大きな関心を持っていると思われますが、 モース博士 は、もっと広い視野で、貝塚の発掘をしていた様です。 私は次の様なことを何かで読んだか、何処かで聞いたかしたことがあるのですが、 人の生まれて成長して行く過程の、その変化とは、即ち人類の進化の姿と重なる。 又、新たな世代の誕生毎に、進化がある。(生まれてきた子は、その親よりも進化しているということです)。 ー ー ー ことばを生まれた途端に話す人は居なくて、(それが、人類が誕生した時であって)、
始めのうちは二言三言の語を意味なくしゃべり、(それが、原始時代の人類で)、
現代人は、太古の人類が抱いていた苦悩を、成長の段階に於いて解決している、とも云われます。言語能力の発達のピークは8歳頃らしいのですが、(その頃が、文字を使い始めた人類に当たるのでしょうか)、 私は、その後に於いて、世に現れたものは前の時代の人の暮らし中の、何かが解決された跡のものであることがあると思うのです。 社会に於ける革命とか画期的な事件、というのは、人類の進化の中の、突然変異と似ています。 突然変異であった場合には、前の時代との因縁は無いと思われますが、一応、それは例外として考えるとして、 縄文時代、弥生時代、古墳時代、という時代で区切ってしまう時、そういう進化の過程を理解せずに、その時代の文化の特徴だけを単独に捉えてしまいがちで、 古墳時代の遺物に見られるものが、縄文時代にも存在していたことを知った時、私は驚き、自分の浅はかさをふと、思いました。 古墳の副葬品であり、それがその時代の特別意味の有るものだという風に考えようとしていた次のもの、 勾玉 も、鏃(やじり) や、弓 も、又、鏡に描かれている 文様も、 それ等は、縄文時代にも存在しているものでした。 そして、今私が、もう一つ考えを新たにしたことは、古墳文化の興りと終末は、自分が思っていたよりも、もっと古いのではないのだろうか、ということです。
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大森貝塚
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『E,S,モース博士』が著した 「大森貝塚」 という書物の中の、とても魅力的な記述の一つを、次に記します。 大森貝塚は、出土した遺物について特有なだけではなく、ある種の遺物が出土しなかった点でも独特である。 この一行で、忽ち 人の好奇心は高まってしまいます。 そういう、「大森貝塚」 の特有なものは、しかし、出土したものについても、出土しなかったものについても、今だに、不明なままになっていることが多い様です。 それで、私の様な只の物好きは、勝手に色々思い始めてしまうのです。 「大森貝塚」 からは、他の貝塚からの出土量に比べて、玉などの装飾品が少ない (←出土しなかったものの類です) と、記してあるのを見て、私は小さな驚きを持ちました。 − − − 玉 と云えば、古墳の副葬品の一つですから。 石を磨き、身に付ける、ということが縄文の時代に行われていたことという認識を持つことも様々な考えを起こすことですが、 ここで、考えておきたいことは、次のことです。 古墳はお墓のことで、玉 の無い 「大森貝塚」 遺跡には、やはり埋葬施設がありません。 − − − 他の縄文遺跡からは、棺や、埋葬された人骨が出土しているのです。 「大森貝塚」 の人々は、死者を埋葬することをしていなかった、らしいのですが、 そのことと、関連すると私は思いますが、モース博士達によって、「大森貝塚」 の人々には 食人の風習があったという痕跡が発見されています。 食人の風習が、どの人類にも存在したものなのかどうかは分かりませんが、少なくとも後に古墳を築く様になる人々が暮らしたのと同じ地の一部には存在していたのです。 この地の下で、人が人の命について考える様になり、埋葬して祭る為に、塚を築く迄に到る暮らしが経過して行った、ということが、如何に厖大な大きさを持った進化なのか、ということを思わない訳にはいきません。 まして、宗教が興り、経典が創られる程の文化が、どれ程高度なものだったのかということを、「大森貝塚」 を見ながら深く考えさせられます。
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日本の考古学の門戸を開いた 『E,S,モース博士』 は、今より130年前の、「大森貝塚」 を見つけたその時に、日本での 縄文遺跡 の発掘と調査が、人類発祥の足跡を追う上で、非常に重要であると云いました。 人類は 何年前と数えられるある時に 特別に創造された という考えが (欧米人の間に於いて) 久しく 支配的であって 〜 〜 〜 むしろ、人類の起源は非常に新しい、という考えが徹底していきわたっていた 〜 〜 〜 しかし、人類の起源を非常に古く考えようとする人達の努力と発見とは、その後の調査によって、 繰り返し追認されていった。 以上のことばが、モース博士 による 「大森貝塚」 の著書のはしがきにあります。 モース博士の英知と見識の広さには、到底及びませんが、私も、このブログの 「沸騰する文明」 の記事の中に、以上の記述とよく似た思いを書いています。 古墳時代以降 (大和朝廷による統治が始まってから) に、日本は文明の黎明期を迎えた、という様な見解に縛られて、それ以前の、つまり日本の縄文時代の人々の培った生活に目を向けることがされていない様に、感じられることがあるのです。 日本の考古学は「大森貝塚」 (縄文時代) の発掘から始まっていたのに、些か、残念なことだと思います。 それは、縄文時代 の遺跡の中から、非常に高い水準の技術が施された遺物が発見されていることを知る時に、強く感じざるを得ないのです。
ー ー 写真は、「大森貝塚」 から発掘された、耳飾と云われているものです。
☆ 又、ここにトラックバックをさせて頂いた記事、そのブログに掲載されている数々の発掘石を見て行くうちには、今正に、埋もれてしまっている文明がある、という気づきすら起こり、次に沸く その希有なる感動は、静かに、多くの人に広がって行くものであることを、私は疑いません。 |
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その太古、有史以前の人類の遺跡 (貝塚) を、明治の始めに日本にやって来た米国人の学者は、当時 開通して間もない電車に乗って、横浜から東京に向かっている時に、窓の外を眺めていて発見しました。 米国人の学者とは、他でもない、『エドワード・S・モース,氏』 です。 この時のこの発見が無ければ、日本に 『考古学』 という学問分野が開かれることは無かったであろうということは、その後にこの学問に携わる者皆が口を揃えて言っていることです。 私は、『考古学』 をする人は、邪馬台国の場所を探すこと、古墳を発掘すること、古代文字を発見しようとすること、等に勤しんでいる、という風な、愚かな勘違いをしていました。 日本の 『考古学』 ファン、という者達の関心が専ら、邪馬台国、鏡、古墳〜、へと流れていってしまったのは、私自身にも記憶のあることですが、邪馬台国論争というものが盛り上げられる様な発見や、又、大和朝廷の規模や成り立ちを推測する手立てとなる、文字の発見が相次いだからです。 けれど、それ等の発見時に現れる考古学者達のその分野の誕生の端緒となった遺跡は、『モース博士』 が云うことには、アメリカや、デンマークや、イギリスでも見つけることが出来るという、先史時代人の生活の跡である 【貝塚】 だったのです。 『モース博士』 は、その著書に、日本に於いては、その文明と歴史の記録が1500〜2000年前までが正確であって、貝塚の年代を測る 「時の物差し」 はずっと長いものになる (− − これは、つまり太古の人類の生活の跡が、現代の人々の生活に混入していない、という様な意味です)、 ので、日本に於ける貝塚の、くわしく正しい調査の重要性は高い、と云っていて、 彼は、来日当初から、貝塚がないかと注意を怠らなかった、 と、ほんの数日後に、(わざわざ 探しに出掛けることもなく) 乗っていた電車の線路のすぐ傍に 発見してしまったのです。 そこは、東京の大森、という所でした。 『大森貝塚』 という遺跡名が付けられたそこから発掘された土器に刻まれていた文様から、縄文 という時代名も、『モース博士』 によって、その時誕生したのです。 日本の、極く当たり前の生活のすぐ傍に存在する、世界有数の人類の遺跡が 縄文遺跡 なのです。
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