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民の命を使って、国の平和が守られる、そんな道理は無いと思います

江戸の道、古代の道

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百人一首姥がゑとき

‘冨嶽三十六景’ の作品などで、世界的にも有名な、江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎には、『百人一首姥がゑとき』、という、百人一首の歌の意味を、絵に表す ー ー、という一連の肉筆 (版下) がある、ということを、つい最近、知りました。

百首分、全部を描き終えることは出来なかった、というそれらの絵は、フリーア美術館や大英博物館などに分蔵されている、ということです。


私は、とても興味が沸きました。 是非、北斎が描いた百人一首の歌の世界を見てみたいと思いました。

‘フリーア美術館’を検索してみました。 そのホームページから、更に、何度か検索を重ねると、有り難いことに、その北斎の、『百人一首姥がゑとき』の閲覧が出来たのです。↓

江戸時代の人が、どの位、百人一首に親しんでいたか、又、古の歌を、どのように解釈していたのか、そういうことを かいま 知ることが出来る、・・・・心が躍るような気持ちがします。



〔追記〕
大英博物館のホームページからも、ネットでの閲覧が出来ました。↓

https://history.blogmura.com/his_archeology/img/his_archeology88_31.gif
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敦賀、気比神宮

芭蕉の “奥の細道” の旅は、九月五日、岐阜の大垣で終わります。

その、終わりの地の三つ程前の宿泊地が、福井の敦賀 です。 八月十四日(陽暦9月27日)夕暮れに着き、出雲屋 という旅籠に泊まった、ということです。

敦賀では、沖哀天皇、神功皇后、応神天皇、に縁りの 気比神宮 にも行っています。


古事記 にある、神功皇后の記述から、色々考察した記事も、この拙ブログに幾つかあります。 その中の一つです。 ⇒ 『人の世 となってから の 神功皇后』


・・・・が、芭蕉 は、この時、そこに祀られている神々に、さほどの関心はなかったようです。

敦賀は天然の良港を有する、ー ー と、ウィキペディアにあります。 芭蕉がそこに着いたのが、八月の十五夜の前日だったこともあって、最も期待したことは、大陸に繋がる日本海の夜空に、満月を見ることだったようです。

実際は、翌日は雨降りとなったそうで、

『名月や 北国日和 定めなき』

という句が残っています。









・・・・・・・・・

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芭蕉と古今和歌集

芭蕉の、“奥の細道” は、古を尋ねる旅だったのではないか と思った時、私は、それ迄は、甚だ よそよそしい人であった その俳人が、俄かに、親近感を覚える人になりました。


元禄2年(1689)3月27日に、江戸深川を出発して始まった “奥の細道”。 ー ー ー 4月1日は日光に泊まり、やがて、29日には、福島の 郡山 に着きます。

  みちのくの あさかのぬまの 花かつみ  かつ見る人に 恋やわたらん
ー ー ー 古今和歌集 (巻十四)

郡山は、この歌の、‘みちのくの あさかのぬま’ が、ある ところ で、芭蕉 は、人にその沼の場所を聞いて、花かつみ の花を探し歩いた、といいます。

花はみつかりませんでした。

見つからない花を、‘かつみ かつみ’ と言って 芭蕉 は探し歩く、〜 〜 〜 古の歌を読む時、人(私)もやっぱり、その歌の意味を、何度も自分の心に探します。 結局、みつからない、ということも、殆ど、常のことです。


・・・この、安積沼 の 花かつみ について、以前記事にしたことがあります。 再掲致します。



○ ・ ○ ・ ○ ・ ○ ・ ○ ・ ○ ・ ○ ・ ○ ・ ○ ・



歌に詠まれてある その花が不明である、という、そういう花は、万葉集以来、幾つも あるようです。

前に、難波津 の歌 という記事を書いた折に、みちのくの安積沼の はなかつみ のことを知りました。

芭蕉 が尋ね歩いた (奥の細道) ことで、花かつみ考 というブームも、江戸時代には起こった訳で、 ・・・その花は何か という、人々の関心事の、それは象徴的な花 とも言える花だと思います。

  おみなへし 咲沢に 生ふる 花勝美  かつても知らぬ 恋も するかも
はなかつみ が出てくる、最も古い歌がこの歌だそうです。 万葉集中にある、中臣女郎が大伴家持に贈った歌です。

おみなえし は、秋の花。・・・今(秋)、おみなえし が咲いている この沢には、嘗て(春) は 花勝美 が生えていた、その頃はまだ、この恋を知ることはなかったのに、

 ー ー ー そういう歌だと思います。

今、目に見えている花に、かつてはあって、今は見えない花をも見ている、何処か、幻を感じさせる歌です。幻の花、そして、幻のような人の恋心。(ー ー ー 今見えている花、おみなえし も、その名の語感に、儚げなものがあります)。

今は咲いていない 幻の花、はなかつみ。 ですから、この歌の場合は、それを、どれか一つの花に指定しなくともよいのかもしれないとも思いますが、

一応、芭蕉も訪れた、みちのくの安積沼 がある、福島県の郡山市では、姫シャガ を、花かつみ に指定しており、又、従来には、花菖蒲 が、花かつみ であるという説がありました。


そして、菖蒲は あやめ とも言います。 ‘いずれがアヤメ、カキツバタ’ という ことば があるように、姫シャガ もそうですが、花菖蒲やアヤメや杜若は、どれも違いが分からない程、似たり寄ったりの形です。

花かつみ は、花菖蒲、だとしても、はっきりと、その形を決めることが出来ない宿命のようなものがあると思います。


花に名を付けても、所詮、朧気なこと。 考えると、そんな気持ちがしてきます。

現に、花には、和名や学名など、幾つもの名があります。 一つの名にも、そして、幾通りもの漢字が当てられてあることもあります。


花の名程、掴みどころのないものは ない のです。











・・・・・・



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芭蕉、「奥の細道」

ふとしたことで、芭蕉 についてネットの記事を幾つかみていて、少し、勉強になりました。




空海 の筆写に、「無レ道二人之短一無レ説二己之長一」 というのがあります。

ー ー ー これは、『崔子玉座右銘』 と題されたものの冒頭部で、訓読は、
   人の短をいふ事なかれ

   己が長をとく事なかれ
です。

これを、松尾芭蕉 は、彼の俳句に、次のように歌い直したのです。
物いへば 唇寒し 穐(秋)の風

・・・・他人の悪口や告げ口なんて、そんな つまらないことを言ったり した 後は、自分の心の中に、寒々とした風が吹いて通って行くような気持ちになる。 仲間との付き合いは止まり、独り はぐれて生きていかなければなりません。


厳しい戒めです。


芭蕉 という偉大で有名な その人のことは、何もかも、その人自身のものであるような観念に捉われがちです。

芭蕉の知性や感性は、全て、彼自身の内から湧いて出たもの、・・・という風な思い込み、です。 けれど、全く、そうではなかった、

俳聖 と称号されるその人は、漢文も古典も読み、沢山勉強をした人だった、ということを、私はこの度、あらためて知りました。


そして、俳諧の世界の最高峰をきわめた その人も、紀貫之 が定めた歌の方程式 ー ー 所謂、七五調、の、その迷宮の世界を彷徨する人だったのだ と、そんな風に思いました。

45歳の時に、芭蕉は “奥の細道” への旅をしました。 その旅路が記されたものを目で追うと、私には、それは日本の歴史を遡る旅であるように見えてくるのです。

最初の、旅の目的地は、おそらく日光でした。 日光東照宮 は、芭蕉と同時代、元禄時代 の建造物です。 その、日光東照宮 という、現在の地から、その向こうの、みちのく の国へと、歩みを進めて行って、日本海側に廻り、敦賀の気比神社、という、神功皇后に因んだところに行き、終点は伊勢神宮で、天照大御神 の前に到っている訳です。


古今和歌集〜万葉集〜古事記、という、そういうことではありませんか。












以前、このブログで 板碑 (いたび) について記事にした折に、巨石信仰などに詳しいアリスさん →   から、‘関西では見掛けない’ というコメントを頂きました。

過去の遺跡に、この狭い日本に於いても、地方の固有性があることは、考えてみれば当然のことです。

ただ、殆ど同じ所を動くことなく暮らしている場合、地元にあるものが、まさか、そこにしか存在しないもの というような気付きを持つことは、あまり なく、

又、板碑 (いたび) などは、道端に、ず〜っと昔からありながら、それが視野の中に入って、注意を向ける ということなど 全く と云っていい程にない、何処にでもあるような つまらないもの だという風な感じがあります。



関東 (〜 東京、埼玉の一部) に 「冨士塚」 と呼ばれる遺跡があって、私は長い間、それも、日本中にある神社の鳥居や路傍の石碑と同じようなものだという風な、何処にでもあって、それでいて、殆ど人々が関心を寄せたりすることの無い、そういうものだと思っていたものでした。


「冨士塚」 は、江戸時代に最も盛んだったという、この関東の一部の地域の ‘富士山信仰’ の その遺跡です。

富士山にある浅間神社 (せんげん じんじゃ) を、その土地に作っていて、ですから、「冨士塚」 には、鳥居があり、山 → 塚 があり、石 もあります。

浅間神社 という名そのものを持つ神社もあって、当然、その敷地の中にある 「冨士塚」 もあります。


私の家の近くにも、実はその 浅間神社 があるのですが、ところが、それは元は 古墳 だと思います。

古代史好きの私にすれば、古墳は発掘をしてもらいたい と思うところがあるのですが、誰も、神社を壊そうという人は 居ない 訳です。

 宮内庁の管轄などではなくても、その土地に住む人々が、昔からあるものを暴くようなことをしたくは無い、という気持ちなら、抱いて当たり前の気持ちであって、発掘や考古学上の発見が期待通りには進まない事情には仕方ないものがあると思います。

 (大雨や地震などで、不慮に、何かが露れてしまって くれれば・・・、と思うことはあります)。


とにかく、古代の古墳を、関東の江戸時代の人々は、「冨士塚」 という、その時代の人々の信仰心に叶うものに、リニューアルしていた ということです。

私は江戸時代の人間ではなく、バチ当たりな言い方をしますが、富士山の贋物の 「冨士塚」 になんか拝みたくは無い、それよりも、古墳 として、正しく認識を持ちたい と、そう思っています ・ ・ ・ ・ ・ 、

けして、「冨士塚」 を作った江戸時代の人々の信仰心を蔑ろにするつもりは、毛頭 ありませんが、万が一、そこを掘り出してみよう ということになったら、結果として、そういうことになってしまう訳で ・ ・ ・ ・、


木は森に隠せ、ということばがありますが、新しい信仰が前の信仰を封印していること、見えないようにしていること、そういうことがある、ということを 「冨士塚」 になっている 古墳 を見て、思います。








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