足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾之 長永夜乎 一鴨將宿 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む 柿本人麻呂 の作と云われている、この不思議な歌の ‘かも(鴨)’ は、推古天皇の歌に出てくる ‘ウベシカモ’ の ‘カモ’ と同じで、‘うん’、という、人が物事に納得している様子を表わす語だと、私は考えます。 この ‘かも’ が出てくる、又別の、有名な歌があります。 あまの原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし 月 かも 人麻呂の、あしびきの 〜 〜 〜 と同じ、百人一首に収められてある 歌 です。 作者は 阿倍仲麻呂。 彼が異国、唐 に居て、そこで見た月が、故郷の春日山で見ていたのと同じ月だ、と、そう言っている歌です。 この歌が、‘かも’・・・心で深く納得している様子を表わす語 で〆られている、というところは、作者、仲麻呂 の気持ちを推し量るべき、肝心なところです。 更に よく見ると、この歌には、人麻呂 の歌にある かもなる という語の、‘なる’ もあります。 ‘春日“なる”’、‘月“かも”’。 ・・・・・・あの月は、故郷の春日山に掛かる月、あの月となっている、そうだ、そうだ、あの月、うん、そうだ。 こうして、歌を みてみると、 ‘なる’(為る、成る) と‘かも’(うん) は、考えてみれば、切っても切れない関係の語で、それを人麻呂は、‘かもなる’ と、一言にしていたのだ、と、考えが浮かんできます。 そうして考えてみると、では、‘ながながし夜’の ‘夜’ は、本当は ‘世’ なのではないかと考えてみたくなります。 ・・・・・ 私には、“太安万侶、柿本人麻呂、そして、山上憶良、稗田阿礼 等、古事記、万葉集に名を残している、主だった人物の中には、呪術師、預言者、と呼ぶことの出来るような、特殊能力を具える者がいた ” 〔参考記事→ 歌に表わされたピラミッド 〕 − − − − という 想念 があるのです。 |
藤ノ木古墳、「私考」
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摩蘇餓豫(マソガヨ)、蘇餓能古羅破(ソガノコラハ)、宇摩奈羅摩(ウマナラバ)、辟武伽能古摩(ヒムカノコマ)、多智奈羅磨(タチナラバ)、句禮能摩差比(クレノマサヒ)、宇倍之訶茂(ウベシカモ)、蘇餓能古羅烏(ソガノコラヲ)、於朋枳彌能(オホキミノ)、兎伽破須羅志枳(ツカハスラシキ)、
蘇我よ、蘇我の 子ら は 馬ならば 日向の駒 大刀ならば 呉の正大刀、ウベシカモ (もっともなことだ) 蘇我の 子ら を、大君の (が) つかい (司さ) とするのは 日本書紀に載っている 推古天皇 の この歌 にある “ウベシカモ (宇倍之訶茂)” は、今の私達が知らない語、ではないでしょうか。 使ったこともない、分からない語 だと思い、私は、暫く考えてみました。 注釈では、ただ、‘もっともなことだ’、となおされてあります。 ウベシカモ は、もっともなことだ、という語、・・・私なりに、説明をしてみました。 こ ・ ‘ウベ’ (首) 、‘シ’ は、強く、‘カモ’ る、〜 頷くこと、ー ー ー 首を強く縦にして、頷くこと、‘もっともなことだ’。 私は、‘カモ’ は、頷くことを表わす語、‘うん’、という語なのだと、そう、思います。 と、そこで思い出したのが、人麻呂の、あの歌です。 足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾之 長永夜乎 一鴨將宿 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む 「一鴨將宿」 は、「ひとりかも寝む」 と、訓読みされています。 その解釈への拘りがどれ位にされてきたものか、私はさっぱり知りませんが、 「かもねむ」 は、「かも・なる (成る)」、だと思う、かも は、頷き、‘うん’、と云うことですから、これは、「‘うん、となる’」、ということ、 つまり、「一鴨將宿」 は、すっかり、納得が得たことを表わしている、・・・・歌の作者は、真理に至っているのだ、と、そう言い表しているのではないかと、私は思います。 又、これは、曲解かもしれませんが、人麻呂は ‘かも’ に ‘鴨’ の字をつかっています。 ‘鴨 (賀茂) ’ は、下賀茂、上賀茂神社の ‘鴨(賀茂)’ であり、賀茂氏 = 朝臣 (あそん) 姓を指していることですから、 我々、鴨一族は、真理を握っている、(人麻呂には、朝臣 という姓が付けられています)、 ー ー ー そういうことを言っているようにも思われます。 |
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二十年正月丁亥、置レ酒宴二群卿一、是日大臣上壽、歌曰、〈◯中略〉天皇和曰、摩蘇餓豫(マソガヨ)、蘇餓能古羅破(ソガノコラハ)、宇摩奈羅摩(ウマナラバ)、辟武伽能古摩(ヒムカノコマ)、多智奈羅磨(タチナラバ)、句禮能摩差比(クレノマサヒ)、宇倍之訶茂(ウベシカモ)、蘇餓能古羅烏(ソガノコラヲ)、於朋枳彌能(オホキミノ)、兎伽破須羅志枳(ツカハスラシキ)、
−−−ー古事類苑 より添付蘇我よ、蘇我の 子ら は 馬ならば 日向の駒 大刀ならば 呉の正大刀、ウベシカモ (もっともなことだ) 蘇我の 子ら を、大君の (が) つかい (司さ) とするのは 今年の歌会始で、陛下の病が 手術の成功によって治ったことを喜んで、皇后さまは、その手術の執刀医の 名 を つかって 歌を おつくり になりました。 “○ ○ ○ を喜んで、その 名 を 歌にする”、と云えば、日本書紀には、この 推古天皇 の歌があります。 古代史上、最高のヒーロー 聖徳太子 (厩戸皇子) が登場し、その数々の功績が記されてある 推古紀 ですが、天皇の このような喜びの歌を頭の片隅に置いて、思いを馳せてみると、その時代は、他には見ることの出来ない程の繁栄を成した、充実の時代であったと、言えるように思われます。 奈良県の飛鳥は、今は、辺鄙な片田舎然とした所ですが、書記の記述では、外国からやって来る者もあり、盛大な行事も行われる、正に、日本の首都と呼ぶに相応しい所だったようです。 記紀では、女王卑弥呼を彷彿とさせる女性が、幾度かの時代に載せられてあります。 天照大神、下照る姫、神功皇后・・・・。 推古天皇も、正にそういう中の一人であると、私は思います。 魏志倭人伝に著されてある事項に比定されるもの、例えば、国際都市としての邪馬台国に飛鳥、卑弥呼を助ける男性の存在に、摂政の厩戸皇子、又、魏に使いを送ったことと、遣隋使、・・・符号します。 冬十二月八日、皇后は豊浦宮において即位された 書記のこの記述は、その 豊浦宮 のある 飛鳥 (明日香) が、卑弥呼の邪馬台国であると、言っている、ということだと、私は思います。 推古紀が、特に、繁栄期として記述されてあることも、伝説の国(邪馬台国)を、意識しているからなのだと思います。 |
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日本書紀、推古天皇の十七年に次の通りの記述があります。 冬、十月八日、新羅・任那 の使人が都に到着した。この日、額田部連比羅夫 に命ぜられて、新羅 の客を迎える 荘馬 (かざりうま・・・種々の馬具をつけて飾った馬) の長とし、膳臣大伴 を 任那 の客を迎える 荘馬 (かざりうま) の長とした。
膳臣大伴 という名称は、この一連の記事のひとつ、(8) 紀記 (景行紀) の中の膳氏 の冒頭に引用した日本書紀 ー 景行紀 の記述に初めて出てきます。 ー ー 磐鹿六雁 (いわかむつかり) が 蒲 の 葉 をとって 襷 にかけ、蛤 を 膾 に造ってたてまつった。それで 六雁臣 の功を賞めて、膳大伴部 (かしわでのおおともべ) の役を賜わった。
日本書紀に 膳臣大伴 という名称の記述は、この二回だけ、(始めが 景行紀、後が 推古紀)、です。 記述から察して、膳氏では、この 景行天皇 の時代に賜わった役名を、代々長子の名として世襲していったのではないかと思います。 参考までに ー ー ー 日本書紀に、神武天皇 から数えて、景行天皇 は 12番目 に出てくる天皇であり、推古天皇 は 34番目 の天皇です。(〜 〜 その間はおよそ 500年 位 と思われます)。 景行天皇より役名を賜わり、以来、500年もの長きに渡って大和朝廷の主要氏族に加わってきた膳氏は、折々に、天皇の食膳をつくること以外の役目も担って行ったのです。 推古天皇の時代に、荘馬 (かざりうま) の長 という役目に就いたことが、日本書紀には載っている、 私は、藤ノ木古墳の二人の被葬者は、聖徳太子の妃となった、菩岐岐美郎女 の里の、斑鳩の膳氏、その長である男性と彼の息子ではないか と考えて、この一連の記事をすすめてきました。 その膳氏が、太子伝説を考慮しながら推して考えると、馬を操る氏族であった、というところに至った私の考察は、推古紀の、この、「膳臣大伴 を 任那 の客を迎える 荘馬 (かざりうま) の長とした」。という記述に、自ずと合致して行くものがあると、感じます。 そして、こうして考えた上から、被葬者の男性は、二人とも、敢えて云うならば、膳臣大伴 である と、私は云いたい。 そうして、藤ノ木古墳 に副葬されてあった、あの装飾性の強い 馬具 は、膳臣大伴 が、荘馬 (かざりうま) の長を務めた折のもの、なのではないでしょうか。 藤ノ木古墳 の築造年代は、585年 〜 600年 頃と、推定されています。 又、推古紀の十七年は、西暦の 609年 ということにになっています。 私は、推古天皇の時に 荘馬の長 を務めたのは 藤ノ木古墳 の ‘北の人’ であり、そして、この役目の後、まもなく、‘南の人’ と共に 瘡 (もがさ) で命を落とし、一緒に手厚く埋葬された、と思います。 古墳に、馬具が一人分であったのは、やはり、‘北の人’ と ‘南の人’ が親子であり、朝廷でのそのような役目を、膳氏 は世襲していたので、膳臣大伴 という名と共に、その二人のものであったから、ということだと思います。 藤ノ木古墳 は、膳氏の嫡流の二人 (親子) が埋葬された、即ち、斑鳩 の 膳氏 の最後の古墳だ と、云うことも出来ると私は考えます。 |
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かれ (〜 倭健の命) その国より飛び翔り行でまして、河内の国 の 志幾 に留まりたまひき。 かれ 其処に 御陵 を作りて鎮まりまさしめき。すなはちその 御陵 に号づけて 白鳥の御陵 といふ。然れどもまた其地より更に天翔りて飛び行でましき。およそこの 倭健の命、国平けに廻り行でましし時、久米の直 が祖、名は 七拳脛 (ななつかはぎ)、恒に 膳夫 (かしわで) として従い仕えまつりき。
古事記のこの記述と、次の 太子伝説が、よく似ている と、私は思います。 推古天皇6年(598年)4月、太子は 諸国から良馬を貢上させ、献上された数百匹の中から四脚の白い甲斐の黒駒を神馬であると見抜き、舎人の調使麿に命じて飼養する。同年9月に太子が試乗すると馬は天高く飛び上がり、太子と調使麿を連れて東国へ赴き、富士山を越えて信濃国まで至ると、3日を経て都へ帰還したという。 古事記では、主人、倭健の命 に随行していたのは、久米の直 が祖、名は 七拳脛 (ななつかはぎ) が 膳夫 (かしわで) として、とあり、 太子伝説では、主人、聖徳太子が神馬に乗って東国へ駆けて行った時に、調使麿 という者を連れていった とあります。 空の向こうへ飛んで行く という話しの 主人 と 従者 の名 が替わり、又、鳥 が 馬 に替わっている、のです。 倭健の命の 白鳥の御陵 が、幾つもある と云っているこの 古事記 の記述は、実際に、古墳が日本各地に存在する、その有様を踏まえてつくった話しなのではないか と、私は思います。 前方後円墳の各地の築造が大和朝廷の権威の伝播を示唆している という見識は、謂わば、常識的な考え方ですが、この 倭健の命 の話しは、日本人のそういう考え方に、全く矛盾しないものだという気がします。 記紀には、倭健の命 の活躍の前に、「四道将軍」、或いは、「将軍の派遣」 という記述を、祟神紀に載せています。 古事記 ー ー 大ビ古 の命 (おおびこのみこと) は 高志 (こし) の道 に遣し、その子 建泥河別 の 命 (たけぬなかわわけ の みこと) は東の方 十二道 (とをまりふたみち) に遣して、その服 (まつろ) わぬ人どもを和平 (ことむけやは) さしめ、また 日子坐 の 王 (ひこいます の みこ) は、旦波の国に遣して、玖賀耳 の 御笠 (くがみみ の みかさ) を 殺 (と) らしめたまひき。
ー ー ー かれ 大ビ古 の 命 は、先の命のまにまに、高志の国 に罷り行でましき。ここに東の方より遣しし 建泥河別、その父 大ビ古 と共に、相津に往き遇ひき。かれ其処を相津といふ。ここを以ちておのもおのも遣さえし国の政を和 (やわ) し平 (ことむけ) けて、覆奏 (かえりごとまお) しき。 ここに出ている 大ビ古 の 命 (おおびこのみこと) という名は、サキタマ古墳群にある稲荷山古墳より出土した 辛亥銘鉄剣の銘文にも、ヲワケの臣等の 大祖 (おおおや) の名として出てきます。 そして、この オオヒコ の 命 は 膳氏、阿倍朝臣 の祖でもあるのです。 稲荷山古墳の横に、古墳内部が復元され、埋葬の姿を見学出来る 古墳 ー 将軍山古墳 があります。 その木棺の外には、藤ノ木古墳 と同じように、馬具が置かれてあります。 殉葬の意味で馬具が棺の側に置かれてある古墳は、九州から北は福島県辺りまでに、幾つもあるそうです。 オオヒコ の 命 の子孫は、時の命に従って、日本各地を巡り、東国に於いては、おそらく女を娶って、家族をつくったのではないでしょうか。 東国の ヲワケの臣 と 膳氏 は、ですからきっと同祖なのです。 時が経ち、斑鳩 の 膳氏 の財は、菩岐岐美郎女 を娶った 聖徳太子 が継ぐことになりました。 蘇我入鹿 に、太子の子、山背大兄 一家 が襲撃を受けた時に、‘東国に行って、味方の軍勢を得よう’ というような案が出されますが、その、東国にいる味方の軍 というのは、この、膳氏の祖、オオヒコの命の子孫等のことに違いありません。 |




