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前にもちょっと書いたことがありますが、 私が、化石 ということばを覚えたのは、確か、中学校の理科の授業でした。 先生は、‘フズリナの化石は、この学校の近所の地層からも、すぐにみつけることが出来る’、と言いました。 「古生代」 という時代のものを、今の人が、地面の中にみつけ、手にすることが出来るという、そのことは、正直、中学生だった私の理解力の及ぶ範疇のことではありませんでした。 その年代が持つ数字の大きさを、頭に量ることが出来ませんでした。 只、自分達の暮らしがある、この地面の下に、遥か遠い過去の生物も存在をしていた、ということだけは、私なりに理解したつもりです。 地層は、下へ進む程、より昔の時代へ行く、ということも知り、昔の文明の跡は、地面を掘ると出てくる、ということも、自然に理解を持ちました。 理科の先生が言った、‘この学校の近所’、というのは、つまり、関東平野全般に、フズリナの化石はある、ということです。 本当に、関東平野の、この埼玉県の地面の下の、何処を掘っても、古代の遺物は、よく出てきます。 文明の痕跡としては、縄文文明の遺跡の破片が無いところはありません。 何処の郷土博物館に行っても、必ず、石器時代〜縄文遺跡の発掘品から展示がされてあります。 ですから、私はかねがね思っているのですが、奈良と言えば飛鳥文化、京都と言えば平安文化、とすぐに思いがちですが、きっと、飛鳥の遺跡のある地面の下にも、京都の社寺が建っている地面の下にも、それ以前の文明の跡が、きっとある筈です。 埼玉の行田の、さきたま古墳群の中に、埼玉(さきたま)神社、というのがありますが、それは、古墳が神社になっています。 家の近所にも、古墳が神社になっているところは結構あります。神社は、古墳時代のものである訳がなく、関東では、江戸時代に、古墳だったところを神社に変えているようです。 神社になったところは、古墳の姿をかろうじて止められてある訳ですが、ならされたり、潰されたりして、住宅や新しい道路になってしまった古墳や遺跡は、一杯あります。 そのように、新時代の住民は、嘗ての文化物をなし崩して、その上に文明を築いていることが往々にしてあることなのですから、近畿地方に、大型の古墳が築かれた時も、それは、その時代以前の遺跡の上につくっている可能性があると思うのです。 これは、私が只思うことですが、いつか、北緯34度の線の上にある、特に近畿の重要な古墳は、その下を掘り下げてみたらどうだろうか、縄文の遺跡が無い訳はないのではないか、・・・・と、そういうことを思います。 |
北緯34度を追う
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私が、柿本人麻呂の 『東野炎・立所見而・反見為者・月西渡』 の歌に、ピタゴラス数があることに気付くことが出来たのは、兼ねてより閲覧を度重ねている 【暗号「山上憶良」】 というサイトの、 連想ゲームで解く多胡碑の謎 ー ー 「三平方の定理を連想させる多胡碑」 という記事が載っている頁を見ていたからです。 群馬県にある 「多胡碑」 の 三平方の定理 を連想させる碑文は、その定理の証明となる図形ー直角三角形の三つの辺の夫々を一辺とする三つの正方形を伺わせるような文になっています。 私は、数学も算数も苦手で、ここに書いていることが正しい言い方になっているかどうか分かりませんが、 柿本人麻呂の歌から浮かぶものは、三角形(ピラミッド)であり、三つの正方形が連想される「多胡碑」碑文とは、違っています。 別の言い方をすれば、「多胡碑」碑文には、ピラミッドを想像するものはなく、柿本人麻呂の歌には、三つの正方形は無いのです。 「多胡碑」には、和同四年ー711年、の年号があり、柿本人麻呂の歌がつくられたのは、軽皇子が阿騎野の狩りに出掛けた年、692年、ということになっていますから、碑文と歌がつくられた時代には、さほどの違いはありません。 が、片や三角形、片や正方形、という、その違いは、私は、随分なものがあるような気がしてなりません。 そもそも、ピタゴラスの定理、という西洋(ギリシャ)風な言い方と、三平方の定理、という東洋(中国)風な言い方の二つが、日本にあることが、妙ではないでしょうか。 ピタゴラスの定理 と 三平方の定理、・・・・これも、実際、私がこのブログで度々記事にしている、‘二つずつあるもの’・・・・、その部類にあるものだったようです。 ・・・・・・・ ご訪問頂いた皆様には、ご面倒をお掛けしますが、どうぞ、下のランキングクリックをして頂きますよう、平に、お願い致します。 私が参加しているカテゴリーバナーを貼っていますので、ブログ村の方は、↑の記事の内容とは必ずしも合ってはいませんが、宜しくお願い致します。 |
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万葉集 巻1 ー 48 、 東野炎 立所見而 反見為者 月西渡 東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月西渡(かたぶ)きぬ ー ー ー この歌の背景にはピラミッドの姿がある、という私の考察の、又、続きになりますが、 歌をつくっている文字が、3,4,4,3,ー と、対称になっている、というのが、初めにピラミッドを連想した根拠でしたが、この数字には、更なる意味があることに、その後気付きました。 3、4,そして 5、と言えば、それは、「ピタゴラス数」のことです。 3,4,5,の数字を持つ直角三角形ならば、【a2 + b2 = c2】、というピタゴラスの定理(三平方の定理)が成り立つ・・・・この歌の、3,4,4,3,という文字の並びは、全く、そのピタゴラス数を意識していると、思います。 3(a)が二つ、4(b)が二つあれば、ピタゴラスの定理を用いて、一番長い斜線(c)は 5 となる、直角三角形が、自ずと現れる訳です。 その直角三角形を、この歌の文字の並びのように、同じ長さの斜線同士で背中合わせにすれば、二等辺三角形が出来ます。 二等辺三角形は、ピラミッドを正面から見た時の形です。 3,4,4,3,という文字数の並びは、ピタゴラスの定理の、【a2 + b2 】、又、対称、又、二つを背中合わせにする、という、ピラミッドを想像させる為の要素を幾重にも含んでいるのです。 ・・・・・・・ ご訪問頂いた皆様には、ご面倒をお掛けしますが、どうぞ、下のランキングクリックをして頂きますよう、平に、お願い致します。 私が参加しているカテゴリーバナーを貼っていますので、ブログ村の方は、↑の記事の内容とは必ずしも合ってはいませんが、宜しくお願い致します。 |
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‘ミイラ’ の 藤ノ木古墳、‘ピラミッド’ の 都塚古墳 は、共に、築造期は六世紀後半、と発表されています。 奈良の飛鳥と斑鳩の地に於いて、六世紀後半に、古墳を築造した人々には、ピラミッドを建てる知識や遺体をミイラにする知識があった、ということであり、そういうことが、考古学上の調査により、明らかになった訳です。 そうして今、私が考え、記事にしていることは、それから概そ一世紀が経って、歌人、柿本人麻呂 は、ピラミッドの姿を歌の文字に表し、額田王 は、大和の文明のルーツを偲ぶような歌をつくっている ー ー ー ということです。 柿本人麻呂、額田王等の歌は、万葉集に収められてありますが、日本の文化の中で育まれ、やがて和歌として太成して行くそれ等の歌は、日本独特のものです。 おそらく、日本には、有史以前から、世界的に特有な日本語があったからこそ、日本の歌が生まれたに違いありません。 つまり、柿本人麻呂や額田王は、日本の文化を日本人のことばを持って表した、魁の人達なのです。 以前には無かったものを創造するのですから、大変な苦心があった筈です。 ピラミッド という語は知らずに、それは、文字(漢字)を、3,4,4,3,と、対称に並べることで表現をする、 北緯34度、ということは分からず、只、三輪山に、文明発祥の拠り所が潜んでいることを、‘味酒 三輪の山’と言い表す、 ・・・・そんな風なことを想像して、あらためて、彼等には、非凡な才能があったことを、私は思います。
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奈良の大神神社〜山の辺の道、又、飛鳥、即ち、古代の大和の国が在ったところは北緯34度上にあります。 当然の如く、ですが、推古天皇の摂政と、日本書紀に記されている聖徳太子が宮を置いた法隆寺も、北緯34度上にあります。 斑鳩の、その法隆寺のすぐ傍で見つかった、未盗掘だった藤ノ木古墳の被葬者が、ミイラにされて石の棺に埋葬されてあった、という調査結果は、既に、2007年に発表されてあることです。 この度、飛鳥の都塚古墳がピラミッド状だったというニュースを聞いて、藤ノ木古墳の被葬者のことを思い出し、にわかに、古代大和の王国とエジプトを結ぶイメージを抱くようになった人も、随分居るのではないだろうかと、私は思います。 私としては、ここでもう一つ、地中海の古代ギリシャを想うべき遺跡として認識を新たにしておきたいものがあります。 学校で初めて聖徳太子や法隆寺を教えられる時、‘エンタシス’、‘アルカイック’、という、美術用語を、私達は聞きます。 ‘エンタシス’も、‘アルカイック’も、古代のギリシャ建築、ギリシャ彫刻にある特徴です。 けれど、修学旅行でも行った法隆寺は、正しく、お寺であり、それを目の当たりにした後には、私達の頭の中に、ギリシャやエジプト、という語は、殆ど、空々しく空虚なものになってしまうのです。 藤ノ木古墳の棺の中にはミイラが置かれてあった、飛鳥の都塚古墳の形はピラミッドだった、と聞いても、法隆寺が日本の、古代仏教興隆の基にある、という概念が変わることはありません。 現在、法隆寺東院伽藍と呼ばれているところに、エンタシスの柱の回廊はありますが、ギリシャに於いては、エンタシスの柱は、宮殿と呼ばれる建物にあります。 ですから、きっと、その柱は、聖徳太子の宮殿の柱なのだと思います。 法隆寺は、元は太子の住まいであった、ということは、周知ですが、あの柱が、太子の宮殿の柱だったとは、誰も、言いません。 一度焼失して、その後に再建されている、その時に、エンタシスの柱の回廊が出来た、という風に認識されています。 けれど、私は、太子が生まれる以前に、ミイラやピラミッドがつくられていた、ということが明らかにされて、それならば、エンタシスの柱も、初めは宮殿の柱として建てられた、という風に考えられると思うようになりました。 ・・・・・・・ ご訪問頂いた皆様には、ご面倒をお掛けしますが、どうぞ、下のランキングクリックをして頂きますよう、平に、お願い致します。 私が参加しているカテゴリーバナーを貼っていますので、ブログ村の方は、↑の記事の内容とは必ずしも合ってはいませんが、宜しくお願い致します。 |






