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静岡県、沼津市の高尾山古墳(前方後方墳)が、古墳の出現期 ー ー 三世紀頃、に築造されてあるもの、ということを知って、私は、ああ、そういえば、静岡県には、「登呂遺跡」があった、と思いました。 「登呂遺跡」 も又、富士山を背景にしている訳ですが、この度、あらためて、ウィキペディアのその頁を開いてみて、私は、‘オオッ’、と唸りそうになりました。 「登呂遺跡」 の位置が、北緯34度 ー ー だったのです。 日本の 北緯34度上にある古代遺跡の中で、弥生時代の遺跡をみつけたのは、今回が初めてです。 そのライン上に、人々が文化の足跡を残すようになった、その始めは、弥生時代だったのでしょうか。 ・・・・・・・・・・・・ 記事再掲 : 『地面の下』 (2014/11/5) 前にもちょっと書いたことがありますが、 私が、化石 ということばを覚えたのは、確か、中学校の理科の授業でした。 先生は、‘フズリナの化石は、この学校の近所の地層からも、すぐにみつけることが出来る’、と言いました。 「古生代」 という時代のものを、今の人が、地面の中にみつけ、手にすることが出来るという、そのことは、正直、中学生だった私の理解力の及ぶ範疇のことではありませんでした。 その年代が持つ数字の大きさを、頭に量ることが出来ませんでした。 只、自分達の暮らしがある、この地面の下に、遥か遠い過去の生物も存在をしていた、ということだけは、私なりに理解したつもりです。 地層は、下へ進む程、より昔の時代へ行く、ということも知り、昔の文明の跡は、地面を掘ると出てくる、ということも、自然に理解を持ちました。 理科の先生が言った、‘この学校の近所’、というのは、つまり、関東平野全般に、フズリナの化石はある、ということです。 本当に、関東平野の、この埼玉県の地面の下の、何処を掘っても、古代の遺物は、よく出てきます。 文明の痕跡としては、縄文文明の遺跡の破片が無いところはありません。 何処の郷土博物館に行っても、必ず、石器時代〜縄文遺跡の発掘品から展示がされてあります。 ですから、私はかねがね思っているのですが、奈良と言えば飛鳥文化、京都と言えば平安文化、とすぐに思いがちですが、きっと、飛鳥の遺跡のある地面の下にも、京都の社寺が建っている地面の下にも、それ以前の文明の跡が、きっとある筈です。 埼玉の行田の、さきたま古墳群の中に、埼玉(さきたま)神社、というのがありますが、それは、古墳が神社になっています。 家の近所にも、古墳が神社になっているところは結構あります。神社は、古墳時代のものである訳がなく、関東では、江戸時代に、古墳だったところを神社に変えているようです。 神社になったところは、古墳の姿をかろうじて止められてある訳ですが、ならされたり、潰されたりして、住宅や新しい道路になってしまった古墳や遺跡は、一杯あります。 そのように、新時代の住民は、嘗ての文化物をなし崩して、その上に文明を築いていることが往々にしてあることなのですから、近畿地方に、大型の古墳が築かれた時も、それは、その時代以前の遺跡の上につくっている可能性があると思うのです。 これは、私が只思うことですが、いつか、北緯34度の線の上にある、特に近畿の重要な古墳は、その下を掘り下げてみたらどうだろうか、縄文の遺跡が無い訳はないのではないか、・・・・と、そういうことを思います。 |
高尾山古墳、古代東国の勢力
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これも、もう、随分前、〜 20年程、前のことですが、‘埼玉県立博物館’ (当時の名称) を、自主的に見学に行って、意外な感動をしたことがありました。 それは、考古の展示室の中央に置かれていた、縄文時代の弓矢と、小さな縄で編んだ袋 (・・・信玄袋のような形だったと思います) を見たことです。 その二点共、漆が塗られてあって、赤い色をしていました。 ー ー 『寿能泥炭層遺跡』(じゅのう でいたんそう いせき)、という名称を持つ遺跡からの出土品で、寿能、というのは、その博物館が建っている所一帯の、昔の地名です。 漆が塗られた縄文時代の遺物には、正直、行田の古墳群を見た時を、少し、上回る感動がありました。 縄文時代の方が、古墳時代よりもずっと古い、埼玉に、あの立派な古墳群が築かれる以前に、人の暮らしがあった跡が残っている、〜 〜 という、そういうことを思って、感動が沸いたのです。 漆、というのが縄文時代をある意味示すものである、ということを覚えたのも、その時です。 先に記事にした、静岡県、沼津市の 高尾山古墳 の中に、大量の水銀朱が蒔かれてあった、というのを読んだ時、私は、その古墳を築造した人々は、縄文時代の文化を知る人々であるような気がしたのです。 何となく、おかしな言い方かもしれませんが、そのスルガの辺りより東の地では、古墳は、縄文式文化の人々の暮らしの中に築かれているような気がしてなりません。 ですから、ある時代に、弥生式文化の人々が、縄文式文化の人々と とってかわってしまったのではなく、つまり、弥生時代の人々に、縄文時代の人々が征服されたり、迫害されてしまったりしたのではなく、縄文時代から続いていた人々の暮らしの中に、緩慢に、弥生式文化が入っていったと、そういう想像が、私の胸の内にはあります。 |
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さきたま古墳群の 稲荷山古墳 の築造は五世紀である、とされています。 が、富士山 に向かってつくられてあるその古墳に、私は、静岡県沼津市の、三世紀に築造された 高尾山古墳 と、兄弟のような関係があったことを感じています。 さきたま古墳群 には、五世紀にその規模が大掛かりになるより以前に、東国の勢力の一員である集団が、古墳(・・・多分、前方後方墳) をつくっていた、のではないか、と思う訳です。 前々から、稲荷山古墳から出土した辛亥銘鉄剣は、五世紀のものではないのではないか、という意見を述べさせて頂いていますが、古墳自体にも、その副葬品にも、複数の年代の干渉がある、ということがある・・・、ということを、私は今、あらためて思っています。 過去記事を、又、再掲致します。 ・・・・・・ 『(続)、時代を彷徨する鉄剣』 (2013/3/28) 西暦645年 に 乙巳の変 が起こり、大化 という、この国の 年号 が初めてつくられました。 辛亥年・・・で始まり、その年号を記していない “辛亥銘鉄剣” は、その点からも、改新以前につくられたものだと見ることが出来ます。 一般に、その辛亥の年は、471年か、531年か、という議論となっているので、このような、改新以前か以後か、という考察は、現在、私独自の考察です。 (・・・・が、おそらく、五世紀〜六世紀の古墳にはないであろう、小石を敷詰めた あの埋葬施設を見て、年代推考の新たな意見として、私のような意見は、本当に出てきていないのでしょうか)。 そして、銘文中には ‘寺’ という文字すらあることからも、仏教が既に広まっていた時代に入っていたということも、十分に考えてよいと思います。 サキタマ古墳群がつくられた五世紀以降で、日本書紀にある仏教公伝の年 552年 より後の 辛亥年 は、591年 と 651年 で、そのうち、大化の改新以前に当たるのは、591年 一つとなります。 昨日は、新しい時代の規則に則った埋葬をしながらも、その人が生きた時代を篤く重んじて、一族の人生の意地を示すが如くに、古い時代のことを鉄剣に刻んだ、と書きましたが、 元々、改新前の時代、591年 に、鉄剣はつくられた と考える道は当然残っています。 前にも書きましたが、稲荷山古墳の残存状況は、かなり悪いものでした。 そして、今回、ネット検索などであらたに知ったことでしたが、古墳頭頂部の埋葬施設は、二つ発見されていたのです。 改新後のいつか、主要人物の埋葬事があった時、そこに、以前 (591年) に、埋葬してあった人を改葬した、ということではないでしょうか。 私の意見を、ここで纏めると、鉄剣の、‘吾 ヲワケ臣’ が亡くなったのは、西暦591年の辛亥の年、そして、埋葬は、稲荷山古墳の頭頂部に、あらたに設けられた規則に則って葬る者が出た折に、その横に再度行われた のです。 |
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さきたま古墳群の、辛亥銘鉄剣が出土した 稲荷山古墳に上り、その後円から前方へ向きなおって見ると、真っ直ぐ視線の先に、富士山があるのが認められます。 ⇒ 、『武蔵の国の古墳と富士山』(2013/5/18) 静岡県沼津市の 高尾山古墳 も、それが古墳の中軸線の方向と一致しているかどうかを、生憎、私は実際にその場に行ったことがないので分かりませんが、とにかく、背景に富士山を持っています。 私は、さきたま古墳群をつくった人々と、高尾山古墳をつくった人々は、同族関係のような間柄の人々であったに違いない、と感じています。 そして、その人々は、近畿の大和朝廷の人々とは、別種の人々だったのだ、とも感じています。 考古学に於いて、濃尾平野より東の地域に、近畿の大和朝廷とは対立的であった という一大勢力の存在があった、という見解がある、ということですが、さきたま古墳群の人々も、全く、その、日本の東域勢力の一員であった、ということなのだと、そう思います。 では、辛亥銘鉄剣の銘文にある‘王’というのは、‘スルガの王’、なのだろうか、と、思ってみると、それは、違う。 その王の寺はシキの宮にあった、と銘文は記していますから、それが、大和地方を指していることは否めないと思います。 稲荷山古墳の築造は五世紀ということです。 きっと、さきたま古墳群の地域の人々は、弥生時代、三世紀頃は、日本の東域地域の勢力に属していたけれど、五世紀には、近畿との繋がりの方が強くなっていた、ということなのだと思います。 さきたま古墳群は五世紀に、忽然と現れた、などとも、言われています。 が、実は、ですから、それが三世紀、と迄は分かりませんが、五世紀以前に、クニのようなものがあって、その人々が、弥生時代から古墳時代へ時がすすむ、その二百年間のうちに、大きな統一国家へと日本が動いていった、その流れのうちに取り込まれて行った、ということなのではないか、と、私は想像します。 この想像は、近畿に、大和朝廷が出現し、その一大勢力が、日本を制覇した、というのとは、違います。 さきたま古墳群の中には、神社になっている古墳もあります。 時代が変わって行くうちに、古墳が神社となったように、元は、小さな塚であったのが、大きな古墳へと形が変えられたものもあるかもしれないと、私は、そう思います。 或いは又、大きな前方後円墳をつくる為に、小さな古墳が消されてしまった、ということもあったかもしれない。 二百年も時間があれば、色々なことが起こって当然です。 高尾山古墳も、少し前は、現代人の生活の為に、道路の下になる、という計画だったのです。 |
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静岡県、沼津市の 高尾山古墳 について、そのニュース文に、‘古代スルガの王’、などという文字を見たり、又、古墳の背景に富士山があることを認識したりして、かねがね、さきたま の古墳のことをアレコレと考えている私は、俄然、関心が高まっています。 私なりに、先にリンクの添付をした 報道文を読んで気付いたことなどを、つらつらと書いてみたいと思います。 ‘古代スルガの王’、という表現についてですが、これは なかなかに、魅力的な表現だと思います。 辛亥銘鉄剣、銘文 の、「吾 左治 天下」、これを、‘我こそ、天の下の東 ー ー 東国を治める王なり’、と読める、という考えを抱く私の、その心情にもひびく表現です。 只、スルガ・・珠流河(駿河)、という名は、けして、この古墳がつくられた 3世紀 にあった名ではないと思います。 珠流河、というのは、奈良の大和朝廷が国の盟主となってから、その中央の人々等が呼んだ名なのではないでしょうか。 この、沼津の、古墳がつくられた地域の、その王のような人は、あくまでも、その地域に於いて、唯一の人であり、だからこそ、立派な古墳が築かれた筈で、私が、その王を想像する時、築造年代がほぼ同時期だからといって、奈良の箸墓に祀られている人との関わりを思うことはありません。 後の、大和朝廷によって名付けられたクニの名で、その王を呼ぶ、というのは、何処か、疑問を覚える処です。 副葬されていた鏡も、後漢時代のものということですから、魏書に出てくる邪馬台国よりも、先の時代に、静岡の辺りを統治していた、ということが、大いに考えられると思います。 又、棺の中に、大量の水銀朱が蒔かれていた、ということについて、私が先ず思ったことは、被葬者には、肉体に酷い損傷があったのではないのか、ということです。 他人にうつるような病に罹っていたこともあるかもしれない、 病気の連鎖を恐れて、埋葬時に、副葬の鏡を割ったのかもしれない、と思います。 |






