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私は ずっと、学校が好きでした。 好きな理由は、勉強することが つまりは 好き だったからです。 私は 本 を見ること、読むこと も好きでした。 つまらない と感じてしまう授業をする先生がいても、自分は教科書を持っていますし、何より、学校には 図書室 もあって、私にとっての学校の存在意義が ずっと 失われることはありませんでした。 思えば、勉強は一人でするもので、先生がどんな人でも、クラスがどんな風でも、自身の中に湧いてくる勉強心がある時、そういうことはあまり気に掛かることではなくなってきます。 勉強が好きだった私にとって、学校が 自分がいてはいけないところだと感じたことは、一度もありませんでした。 そんなふうだった私は、学校でいじめられて自殺してしまった子がいると聞いた時、なにより可哀想だと感じるのは、勉強の楽しさを おそらく 知らずに、と思った時です。 いじめについては認識がなかった と、そんなことを云う先生達は、きっと 同時に、生徒が 学校で楽しくしていたか ということについても、認識を持っていなかった と思います。 いじめがあったことも知らない、楽しくしていたかどうかも知らない、そういうことだと思います。 それは、テレビカメラの前で頭を下げてすむことではありません。 学校には色々な授業があります。どれか一つ、好きなものがあれば、それが切っ掛けで、自分で、学校を楽しくして行くことが出来るのです。 楽しみを持っているかどうか、生徒に そういう関心の目を向けることは、学校の先生や社会の大人達の務めではないでしょうか。 兎に角、子供が楽しくしていない、そんな社会に将来への期待を持つことは まったく 出来ないのですから。 |
自殺予告ー子供の自殺を考える
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私のこのブログに訪問をして下さる方々が、 よく、私を‘優しい’と云って下さいます。 他人様に向けることば使いには、優しいものがあるかもしれません。 が、これでも私はここに、怒りや不満や悪についての記事を書いているつもりなのです。 私にはいつの頃からか、 人の世には全く赦し難く、しかし、やり場の無い怒りや哀しみが有る、という思いが募る様になって、 その、やり場の無いもののはけ口として、ここに書き始めたのです。 そういう怒りという感情を最初に抱いたこととして憶えていることを、書いてみます。 私には兄弟姉妹が多くて、賑やかな家の中で育ちました。賑やかで楽しげですが、けして裕福な家ではありませんでした。 借金こそ無いけれど、有り余る程でも無い、贅沢は出来ない暮らし振りだったと思います。 家の中も、必要な調度品が一揃えずつ有るだけで、 というより殺風景で何も無い、と言った方がいいかもしれません。 家にテレビが来たのは、小学校に入った後でした。 日が暮れれば家に帰り、晩御飯が済めば、後は寝るだけでした。 それは、大人になってから子供時代を思い出して思ったことですが、 家の宝物は、私達に注がれる親の愛情だけでした。 私は、親の怒った顔を見た憶えがありません。いつも幸せそうに微笑んで、何をしても赦してくれて、何があっても、絶対に守ってくれる、 私にとっての親は、そういう、有り難い人達でした。 大恩有る親の悪口なんて、私なら絶対に云いません。 ところがその親の悪口を、私の姉 (長女) は、近所でよく言っていましたから、 私は、姉が大嫌いでした。 つまりそれが、私の中に最初に起こった怒りの感情です。 母親によく言われました。 “みーちゃん、お姉ちゃんの言うことをききなさい” “みーちゃん、お姉ちゃんと仲良くしなさい” 恩有る親のことばには、従わなければいけないと思い乍ら、私は“いやだ”と云って、反抗的になってしまいました。 4歳か5歳の頃のことだったと思います。 以上の様な話しを他人としたことは有りませんが、 怒りや反抗心というものも、人は家の中で覚えるものなのだと思います。 学校(社会)に出てからそういうことを知ったのでは、もう端っから降参せずにはいられないでしょうから、ただの弱虫になってしまうかもしれません。 私は怒りの感情に拘ることが苦痛ではありません。 そこには、とても大切なものが有る、と思っているからです。 大切なものーー親の愛、 親が好きで、親を大事に思っている子供が傷付けられたり、可哀相な想いをしているのを知ると、子供に対してでも、深い同情心を、私は抱きます。 それが、私の怒りの本質だからです。
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私は昨年、 スケッチブックに遺書を書き残して、自宅の納屋(だったと思う)で首を吊って中学生が自殺してしまった、というニュースを聞いた時、仰天して、このブログにこの書庫を作ったのでした。 子供が自殺をする、信じ難いことでした。 死んでしまいたくなる程、子供が子供を苛める、想像することが出来ませんでした。 何故か、どういうことなのか、 その後にも悲惨な事件は起きているのに、メリハリの無い単調な、箇条書き程度の内容の報道を聞かされるだけで、自分の中のわだかまりは徒に手の中で弄んでいなければなりませんでした。 「鎌田慧」という人の著書『 いじめ自殺 、12人の親の証言』の冒頭に書いてあります。 いじめ自殺は、瞬間風速的に大事件として報道されるが、すぐまた静かになってしまう。 報道が自殺の誘因になる、との「配慮」がはたらくからである。文部科学省の統計では 1999年度から2005年度までいじめ自殺がゼロだった。このことに、配慮が固定化されて いたことがよくあらわれている。 為に、ただ待っていてもさっぱり知ることの出来なかったことが 漸く、この本で知ることが出来ました。 私にはもう、わだかまりは有りません。 子供だって地獄の様な苦しみを味わうことがあって、世を恨んで自殺することが有るのです。 実は私は、この本が途中から読めなくなってしまいました。 苛め、子供が学校でやっているその犯罪は、それ程に残酷なことでした。 それを知らないから、苛めた子の親や学校は、庇ったり、「配慮」をしたり、隠したり、果ては自殺した子に原因がある、などという戯けた言葉を言ったりするのです。 云わなければ、無かったことになる そういう言葉を、人が命を奪われる様な事件が起こった時に、先生や学校や各教育機関や、まして事件を取り締まるべき警察が云っているのだとしたら、断じて放置していてはいけない筈なのに、学校の中のいじめ事件については、そういう対処が常套になっているのです。 死んだ子は、浪死です。 仇を討とうと、子供に先立たれた親ならば思うのも当然です。 けれど、仇討ちは、今の日本では禁じられているのです。 その代わりに法が有るのですから、 法は、学校や、加害者を守る側に立ってはいけないのです。 マスコミも然りです。「配慮」の看板を戴いて行儀良くしていたのでは駄目です。 犠牲者がいるのに、事件に目を瞑る、 まともな人間なら、出来ません。
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死ぬかもしれない、と云っている人を見て、アレは狂言だ、模倣犯だ、いたずらなんだ、挙句にはフザケテイルとまで云う人の、心の中はどうなっているのだろうか。 |
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思い余ってある子供が大臣に直訴をし、その手紙の中で、「証明」する為に自殺を遂げてみせる、と云っている。 |




