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古代への想念

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源順(みなもと の したごう)のことも、私は、『暗号「山上憶良」』のサイトで知りました。

そのサイトに掲載されてある源順作「碁盤の歌」、を見た時などは、私は心から感嘆してしまいました。

その 源順 の名を、ある時 私は関東地方の観光案内書の中にみつけたことがあって、このことは、以前にも、記事にしているのですが、

ー ー 群馬県の 月夜野 というところの紹介文で、私が見たのと全く同じ説明書きは、‘月夜野’のウィキペディアにも載っています。↓
平安時代中期の歌人で三十六歌仙の一人、源順(みなもと の したごう)が東日本の各地を巡行した際にこの地を通り、三峰山から昇る月を見て「よき月よのかな」と深く感銘し、歌を詠んだと伝えられ、これが「月夜野」の町名の由来と伝えられる。


「よき月よのかな」、という語は、サイト、『暗号「山上憶良」』 が注目する、いかにも 源順 らしい、何やら暗号めいたものを感じさせるものです。


私なりに、ちょっと考えてみました。


「よ き つ き よ の か な」、の 初めの五つの語 ‘よ き つ き よ’ は、回文になっています。

八語の、後の三語は 「の か な」 です。 回文を読むように、これも、後ろから読んでみると、「な か の」です。

「な か の」 に、何かの指示がされているのではないか、という、暗号の解読でよくされる方法をしてみると、

‘なか ・ の’ ー ー ‘の’ を、‘な か’ に せよ、ということか と、考えてみると、‘な の か’ という ことば が、ここに現れます。

そうして、今一度、八つの語を、後ろから読んでみると、

‘な の か の よ き つ き よ’、となります。


「よ き つ き よ の か な」、には、「な の か の よ き つ き よ」、ということばが隠れている、という訳です。


さて、“七日のよき月夜” とは、何のことでしょう。

七日の夜 ・ ・ ・ それは、七夕、のことではないでしょうか。


七夕 は、奈良、平安の時代に始まって、今日迄、人の一年の暮らしに、すっかり馴染まれている行事の一つです。

それは又、牽牛、織女、という星を見る為に、夜空を見上げる行事でもあります。

星を見る、探す、という行事 ー ー そこには、何となく、方角〜測量、を連想させるものがあると思います。


上記、抜粋した文中にも、「三峰山から昇る月を見て」、と、源順 の居る位置と、その見る方角を示している表現があります。


私は、この、源順 が残した ことば は、サイト、『暗号「山上憶良」』で述べられている、多胡碑の謎につながる ことば なのではないか、という気がしてなりません。



・・・・・・以上、過去記事、『月夜野(つきよの)』 (2015/2/10)、再掲。


と、いうことで、私が是非行ってみたいと思っている所の又、一つは、月夜野〜多胡碑、です。












・・・・・・・・・

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奈良時代に聖武天皇が造営した滋賀県甲賀市信楽町宮町の紫香楽宮(しがらきのみや)(742〜745)跡から平成9年に出土した木簡の両面に、それぞれ和歌が墨書され、うち1首が万葉歌だったことが分かり、同市教委が22日、発表した。4500首以上の歌を収録している『万葉集』だが、木簡に記された歌が見つかったのは初めて。木簡は『万葉集』の成立以前に書かれた生々しいドキュメント史料で、歌集成立の過程などを探る画期的な発見として注目を集めそうだ。

 木簡に記されていたのは、『万葉集』巻16に収録されている

「安積香山(あさかやま) 影さへ見ゆる山の井の 浅き心を我が思はなくに」と、

「難波津(なにわづ)の歌」として知られる

「難波津に 咲くや木の花冬こもり 今を春べと咲くや木の花」の一部。

               − − − 2008.5.22 17:15、WEBに配信されたニュース記事より、

この発見された二つの和歌は、古今和歌集の序文で、紀貫之が手習いの歌として紹介している歌でもあり、日本に於いては極めてポプュラーな歌 です。


・・・・・・
以上、過去記事、『難波津の歌』 (2009/1/17)より抜粋




私は、この、和歌が表裏に一首ずつ墨書されてある木簡のニュースを聞いてから、‘みちのくの安積沼’や、‘花かつみ’ という、幻の花のことなどを知るようになりました。

いつか、行ってみたいと思うところ、

やがて、その安積沼 (福島県、郡山市) に、芭蕉が、花かつみの花を尋ねて訪れた、ということも知るに及び、時代が違っても、人には皆、そんな、何かを追い求めて行ってみたいと思う場所があるものなのだなぁ、ということを、つくづくに思ったのです。
















・・・・・・・・・・・・

もう、随分前になりますが、日本橋 (東京) の 高島屋 で開催された、当時、昭和の大改修中であった法隆寺の、宝物展 で、私は見たのですが、

それは、巾は 50〜60 センチ 位、奥行きが 15〜20 センチ 位、高さ、10〜15 センチ 位、の箱状のもので、ガラスケースに入れられて展示されてありました。

その箱状のものが、その展示会に出品されているものの中でも、とりわけ、人々の関心を集めるものであった理由の一つは、その装丁に用いられてある表面の布が、蜀江錦 と呼ばれる、法隆寺の古裂だったことです。

全体は、明るい、太陽のようなオレンジ色だったように、私は記憶しています。


そうして、そこに添付してある説明書きを読んで、更に、忘れ難い程の衝撃を、私は受けました。


・・・・その箱は、けして開けてはいけないものとされてきた、と書かれてあったのです。  


嘗て、‘けして開けてはいけない’ とされていた 夢殿 の中の厨子を、明治になって、フェノロサ と、岡倉天心 とが開封し、救世観音 の姿を後の人々は目にすることが出来るようになりました。  が、その 蜀江錦 に包まれた箱の開封は、その昭和の大修理の折にも、封印の書留めを守って、開けないことに決まった とも、そこの説明書きに書かれてありました。

只、X線を当てる調査はされ、中には、巻物が入っていることが確認されている、と書かれてあったと思います。

それから、もう一つ、印象にあるのが、それを ‘けして開けてはいけないもの’ としたのが、徳川綱吉の生母である 桂昌院 である ということです。


法隆寺 は、その昭和の大修理より以前、元禄 の頃 (江戸時代) にも修理がされていて、その折に、桂昌院 によって、その 蜀江錦 の箱 (文箱) は、封印された箱となり、幾重もの入れ物がつくられて、厳重に仕舞い込まれてしまった、というのです。


私は、それを読んだ時、では、桂昌院 という人は、その中のものを見ている、その上で、それを‘けして見てはいけないもの’ とした、− − − 余程、その時代の人々にとって、それは禍の元ともなり得る、忌み嫌うようなものだった、ということなのか と、思いました。


法隆寺 は、創建以来、時折修理が入って、新しくなっているのです。 その都度に、新たに見出されるものがある反面、隠されて行くもの、或いは、消失して行くものもあるようです。 

昔、夢殿 の 救世観音 が誰も見ることの出来ない秘仏となったのは、元明天皇 (天智天皇の娘) の御世に、廃寺のようになっていた法隆寺が再建された、その折ではないか と、考えられているのですが、

元明天皇 も 桂昌院 も女性、法隆寺の創建者である 聖徳太子 が活躍したのは、推古女帝 の時代、・・・・法隆寺 や 聖徳太子 には、女性 が大きな鍵を握る存在となっている、ということも、私は秘仏とされるその理由と共に、妙に不思議なことであるように思えてなりません。
















中途半端な記事

ところで、天武天皇の稜は、八角墳、と呼ばれる、八角形の形をした墳墓になっているそうです。

古事記の‘欠史八代’ を、今、悠久の、安寧に過ぎた時間を示す為に書き込まれた記述と考えてみると、天武天皇の稜の、八角形という墳形とも、それは、同じような思想が下になっているように思われてきます。

そもそも、天武天皇稜にしても、古事記にしても、出来た時代はほぼ同時代ですから、そこに同じような思想が存在していても、おかしくはありません。


さて、そこで、その 八角形をした、古事記や天武天皇稜と同時代のものとして、法隆寺の夢殿を思い出さない訳には行きません。

法隆寺や聖徳太子については、幾つもの謎があり、これ迄、私も、様々な考察をしてきましたが、又、新たに、夢殿については、‘八’、という、古事記や天武天皇との共通項が浮かび上がりました。

ー ー ー 夢殿は、その本尊である、救世観音を安置する廟として建てられたものです。 何故、その建物は、天武稜と同じ、八角形でつくられたのでしょう。

ウィキペディアの<八角墳> には、それは、天皇固有の型式であった、と書かれてあります。 では、聖徳太子像になっているのではないか、とも言われている救世観音は、実は、いずれかの天皇、なのでしょうか。



欠史八代

古事記は、神武天皇の記述の後に、欠史八代の記事を載せています。

つまり、第二代の 綏靖天皇 から、第九代 開化天皇 までの、八代の天皇については、事績などの記述が無く、名と系譜だけの記事としているのです。

八名の名を綴る、と言えば、稲荷山古墳(さきたま古墳群)から出土した 辛亥銘鉄剣 の銘文も、実は同じです。

「上祖(かむつおや)、名はオホヒコ」 ー ー に始まり、其の児、タカリの足尼(すくね) 其の児、名はテヨカリワケ 其の児、名はタカヒシワケ 其の児、名はタサキワケ 其の児、名はハテヒ 其の児、名はカサヒヨ 其の児、名はヲワケの臣

と、銘文には、‘ヲワケの臣’ の、八代の系譜が刻まれてあるのです。


私は、古代には、系譜の記述は八代が最大である という、一つの概念があったのではないか と、考えています。

古事記を著す時にも、その概念が通用していて、とにかく、神武天皇が即位した後に、その権威は安泰し、国は繁栄して、皇統が途絶えることなく、八代の天皇の即位が、恙なく続いたのだ・・・という意味で、欠史八代の記述があるのだと思うのです。

恙なく、永遠に続く、ということを、暗に示唆する意図から、事績については、アレコレと書き込まない、という方法が使われたようにも、私は思います。

そして、最大系譜数の八代を、神武天皇の記述の後に載せることの、又、もう一つの意図は、その永遠の時の向こうで神武天皇の即位はあったと、読む人に理解させることだと思います。

それは、そして、神武天皇は、限りなく神に近い人なのだ、という理解にも至ることだと思います。













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