バイサイド(運用会社)における運用業務フローのいかなる面、どのような形態において、AI活用は最も貢献する可能性を持つと考えるか?
 (和泉さんのお話にもあったように)AIが得意なのは、過去に何度も繰り返し起きた現象の中からパターンをすばやく見つけ出すことです。逆に言えば、文章の意味を理解したり、世界経済の大きな流れの本質を理解したりすることは苦手です。人間とAIでは全く難しいこと・簡単なことが異なるのです。
 これはルールが厳密に決まっていて繰り返し練習できる囲碁では世界チャンピョンに勝てても、文章の意味を理解する必要があり未知の問題に対応しなければならない大学入試では、東京大学に全く通りそうにないことからも分かると思います。
 なので、大量の板情報を学習して短期売買したり、ニュースに出てくる単語にいち早く反応したり、板情報を瞬時に把握する必要がある執行アルゴリズムの性能向上などは得意です。一方で、複数のニュースを有機的に結びつけて意味を理解したり、過去数回しかおきたことがない長期的な流れを読んだりすることはできません。そのため、バイサイドにおいてのAIの活用は、かつて新人がやっていたような、ひたすら保有銘柄の記事を探すとか、板をずっと張り付いて見ていないと出来ない執行などに、AIを使った自動化の最大のニーズがあると考えられます。これらは、バイサイドにおいてもっとも主流の投資である、企業価値を測定して投資するというファンダメンタル投資からすれば、やや周辺業務にあたるかと思います。
 特に近年、調査にかかわる文章の量が莫大に増えたうえ、すばやく処理する必要が増しました。ファンドマネージャーが、保有する銘柄に関係するニュースを探すだけでも大変な状況です。そのため、文章の要約はもちろん、直接は記載されていないが関連する銘柄の抽出、分類するなどのAI技術は有用です。新人アナリストがひたすら新聞をすみずみまで読んで先輩に報告するような仕事がAIに置き換わるイメージです。実は、新聞社側も大量の記事を書く時代に対応するため、例えば日経新聞は既に一部の記事をAIに書かせています。AIが書いた記事をAIが読み、AIが整理した情報だけを人間が読むという時代は、もう始まりつつあるのです。
 あとは短期売買ですね。バイサイドの場合だと執行アルゴリズムの性能向上が中心と思います。各証券会社が提供する執行アルゴリズムのうちいくつかは既にAIが搭載され、執行コストの削減を目指しています。
 これらの業務はファンダメンタル調査からすれば周辺業務なので、バイサイドが自社で開発するというよりは、情報ベンダーやシステム会社、証券会社が開発の中心となり、バイサイドはそれらのサービスからいいものを選んで使う、というのが主流となると思います。もちろん自社開発するバイサイドも出てくるでしょう。しかし、かつて、執行アルゴリズムが普及し始めたときに、自社開発を始め、その後も継続したバイサイドは多くないことを考えると、AIも自社開発はそこまで行われないと考えています。
 
AI活用が、マーケットマイクロストラクチャー(市場ボラティリーティー)や、市場のシステムリスク(AI暴走等)に与える影響についてどう考えるか?
 コンピューターが自動的に取引を行うことは、30年くらい前から行われていることであり、プログラム売買、アルリズム取引、HFT(高頻度取引)、AI、と名前を変えつつも、暴走による懸念が語られ続けています。1987年のブラックマンデーもプログラム取引が原因だと悪者扱いされたわけです。最近の新聞記事でも、とある銘柄で価格が乱高下した原因としてAIの取引があるのではないかと書かれていましたが、そのAIの部分をHFTに変えれば、ああ、2年くらい前によくあった記事だなぁと感じるわけです。きっとAIの部分をプログラム取引に変えれば30年前に現役だった人には懐かしい感じがする記事になるでしょう。すなわち、本質的なところは30年も前から議論され、各種規制が手当てされてきたということです。
 むしろこれまでの自動取引より、ニュースの記事の中身を見るようになるなど、賢くなるわけですから、明らかに人間の判断と逆の取引になだれこみ、混乱させることは減るのではないかと思います。たとえば、2015年12月に日本銀行が金融緩和の「補完」処置を発表した時、文章の意味が理解できる人間なら大きな決定ではないことがわかるわけですが、機械の場合、いつもと違う発表、イコール、ポジティブニュースと判断して、買い材料にしてしまいました。実際、この発表があった瞬間は大きく市場は上昇し、人間の判断が入り始めた数十分後から下落、その後乱高下したわけです。ここで機械はチューニングされ、いつもと違う発表はポジティブとは限らないとインプットされたため、翌月のマイナス金利の発表で、同じく乱高下をすることになったのではないかとも考えてしまうわけです。
 いずれにせよ、このような自動売買が文章の中身を見るようになれば、「補完」で先走って買ってしまい、乱高下を招くことはなくなるのでは、と思います。
 
AI活用を巡り、今後の金融規制の方向性をどう考えるか?
 特にAIだからといって特別な対応は必要ないと考えています。公正な取引をするか不正な取引をするかと、人間かAIかは、直接は関係ありません。公正に取引をする人間もいれば不正な取引をする人間もいますし、公正に取引をするAIもあれば不正な取引をするAIもいます。
 ただ、これはHFTの議論とも同じなのですが、判断が速くなるということと、日本にだれも在住しなくても不正な取引が行えるという2点は注意が必要です。
 HFTに関しては、この2点に関して金融庁の方と議論させていただいたことがあり、特に、後者の、当局の検査がおよばない人たちが不正取引の主役になる可能性を指摘させていただきました。
 すなわち、外国人が書いたプログラムをコロケーションで実行し、プログラム作成にかかわった人たちが誰も日本にいない場合でも、当局が検査できる体制を確保すべきと思います。現在の金融審での議論は、ある程度これを考慮した結論を出していると思います。日本に事務所をまったくおかない主体がコロケーションから自動的に大量の注文をだす場合は、日本で検査対象となる、証券会社などに問い合わせ窓口を代行してもらうことなどを義務付けるなどが検討されています。
 前者の判断が速くなることに関しては、投機的な乱高下が短時間化する恐れがあるということです。ストップ高ストップ安および特別気配のような値幅制限で、もっと短い時間で対応できる値幅制限があれば対応できると考えられます。東証ではすでに20159月に連続約定気配に"60"という条件を追加して、対応済みと考えられます。なので、日本の株式に限れば前者の問題はもうないかなと思います。
 そういう意味では、現在、金融庁や東証が進めている対策が完成すれば、そこからさらに追加でなにか必要だとは、個人的は考えていません。
 
今後、金融市場へのAI活用が、市場参加者のベネフィットになるべく、どのような取り組み、方向性を目指すべきか意見を述べて欲しい
 まず、規制・制度をよりよくし、マーケットが、ファンダメンタル価値の発見の場としてさらに効率化することが、もっとも社会にとって重要だと思います。そのためには、人工市場シミュレーションによる規制・制度の調査が最も期待される分野だと思います。これまで規制・制度の議論は、科学的な分析に基づかない、定性的・直感的で、場合によっては感情的な議論のみが行われ、導入した後にかえって投機的な価格形成になってしまうなどの副作用を発見し、導入したものを廃止するといったことが繰り返される場合もありました。投機的な価格形成しかしないマーケットは、投資家から敬遠されます。特に外国人投資家が安心して日本株に投資できるかどうかは、これが最も重要といえるでしょう。我々バイサイドにとってもファンダメンタル価値の発見の場として効率化することが、ファンダメンタル投資の有効性の向上につながりますし、世界の投資家をよびこむことにつながります。もっと言えば、世界の富がさらに投資に向かうことにつながります。人工市場シミュレーションには大きな期待をしています。
 また、それ以上に、まじめな投資家が不正な取引の被害をこうむらない信頼されるマーケットになることが重要です。AIは不正な取引の検知こそ、もっとも得意な分野です。大量の取引データや莫大なインターネット上の文章の中から不正の可能性があるものをスクリーニングする、そういうのが、AIがもっとも力を発揮する分野です。我々バイサイドとしても信頼されるマーケットであることが、投資を行う大前提ですので、この分野に大きな期待を寄せています。最近、数十年もの間活動をしてきた仕手筋が相次いで検挙されたのは、AIを使った捜査技術の発展と無関係ではないと思います。さらに信頼されるマーケットを目指して、不正取引の検知の研究・技術開発が進むことを願っています。
 このようにバイサイドとしましては、安心してファンダメンタル投資を行える環境づくり、ファンダメンタル投資こそが投資であるというマーケットになるために、AIが活躍することを大いに期待しています。

(おまけ)人工市場とは何か?(自己紹介的な)
 人工市場とは、計算機上に人工的に作られた架空の市場です。架空の投資家であるエージェントと架空の取引所である価格決定メカニズムから構成されています。実データが全く必要ない完全なコンピュータシミュレーションであることが特徴です。さて、金融市場における規制・制度を実証分析だけで議論するには大きな困難があります。導入したことがない規制・制度は、実証データが全くないため、当然議論できません。また、価格形成にはさまざまな要因が複雑に関わっているため、規制・制度の効果だけを取り出すのが困難です。しかし、人工市場なら、これまでに導入されたことがない規制・制度も議論できますし、その純粋な影響も抽出できます。実証分析は当然、過去起きた現象を分析します。逆に言えば過去起きたことを分析していることが保障されています。一方、人工市場は過去起きたことはないがこれから起こる現象を分析できるのが長所です。しかし、過去にも未来にも起き得ない現象を出力する恐れがあるのが短所です。そのため、人工市場は、規制・制度の変更でどのような変化が起こりえるか?ありえる副作用を見つけて議論に役立てる、コロンブスのたまご的な気付きを得るのが良い使い方です。JPXワーキングペーパーには多くの人工市場研究が掲載されています。また、人工知能学会 金融情報学研究会では、多くの人工市場研究が発表されています。人工市場はこれまでこちらに示すような多くの議論に貢献をしました。特に、賛否両論あるとは思いますが、東証の呼び値の刻みの縮小には大きな貢献をしました。Natureと並んで権威のある学術誌であるSCIENCEに、人工市場の今後の展開が述べられていまして、金融政策の検討や金融危機のリアルタイム監視に貢献するだろうと述べられています。

この記事に

金融レジリエンス情報学という授業をとっていましたが、成績もでたことだし、
提出したレポートの一部を公開しようかと思います。
正確性に欠ける部分もあることは分かっていますが、なにかしら、
参考になるものを書けたんじゃないあかなぁ、って思いましたので。

() 講義回3 つの回について
() 1017 
   講義概要
金融市場おいてしばしば危機が発生し場合によっては実態経済へも打撃を与える。そのため、リスク管理手法の開発や規制や制度の導入することによって金融危機を起こさないようにすることが極めて重要である。近年に起きた金融危機の特徴を概観し、それを防ぐためのリスク管理手法、規制や制度の発展の歴史を振り返った。
そもそも金融危機とは信用収縮によって起こる。金融市場は将来の価値を現在取引する場であるが、将来価値を受け渡せない懸念が広がると取引を停止して投資や融資をやめようとする。それが連鎖的に広がると、つまり取引相手への不信が連鎖すると、経済の血液であるキャッシュが循環しなくなり金融市場の機能が低下する。それは当然、モノの交換へ影響を及ぼし実体経済へ打撃を与えることになる。
1987年におきた金融危機「ブラックマンデー」では、米国の貿易赤字がファンダメンタル的な要因とされているがポートフォリオインシュアランスという取引が引き起こしたテクニカルな危機であるとも言われている。このように金融危機の直接の原因は分からない場合もしばしばある。ポートフォリオインシュアランスとは株価が下がると売却、あがると買い増しという機械的な取引で、当時はこれが普及し多くの投資家が同じような投資行動をしていたといわれる。このような多様性が失われ同調的な投資家行動が金融危機を引き起こしたといわれている。ブラックマンデーを機に、価格変動が大きい場合に市場を一時的に停止するサーキットブレーカー制度が導入された。
2007年から2008年にかけて起きた金融危機「サブプライムショック」および「リーマンショック」は証券化商品へ大量の資金が流れこんでバブルが形成され、そのバブルが崩壊することで起きた危機である。証券化商品に資金が流れ込んだのは、他の資産に比べ高い利回りがあるわりに高い安定性があると錯覚したからである。その錯覚を生み出したのは格付けである。格付けとはその債券が滞りなく返済される安全性を分析したものである。しかし、証券化商品につけられた格付けは伝統的な債券の格付けと比べ主に以下の2つの問題があった。
1つ目は過去のデータに過度に依存した方法でリスクが分析されたことにある。多くの証券化商品は歴史が浅く一度も金融危機を経験していないデータを用いてリスクを計測され安全とされた。また、他の資産との価格変動の相関は低いとされたが実際の危機時には高い相関を示した。金融工学と呼ばれる分野ではこのような計算手法を用いることが多く、またこのような欠点は金融工学をよく知る人たちの間では当然のようによく知られていたが、実際に証券化商品を購入する人はほとんどこのような欠点を理解していなかった。そのため、安全であると錯覚した。2つ目は証券化商品ごとに格付けの定義が大きく異なったことである。特に証券化商品をさらに統合・再分解した再証券化商品においては、元の証券化商品の中での比較で安全、という意味で格付けがつけられた。そのため、伝統的な債券である国債につけられた最上位格付けAAAと、再証券化商品につけられたAAAは全く意味が異なったにも関わらず、多くの投資家がその意味の違いに気づかず、国債並みの安全性で高い利回りが得られると錯覚した。この教訓を元に、格付け会社への規制が強化された。
 
   考察
金融危機の原因として、利回りが高いわりに安全と錯覚された資産や手法に、資金が流入するという共通の現象が見られることが分かった。いったんこのようなものが利回りを稼ぎ出し資金流入し始めると、それらの買い注文により価格がさらに上昇し、利回りが強固なものとなると同時に、過去のデータだけを見ると安全性がますます高まったという錯覚に陥る。このようなポジティブ・フィードバックが金融危機の主たるメカニズムになっていると考えられる。このような系はマクロ現象とミクロ現象が密接に相互作用する複雑系であると考えられる。現在、金融危機を議論する際の主力とされる分析手法がこのような複雑系を扱えない、静的な統計手法を用いた金融工学や実証研究であることが大きな問題を引き起こしているかもしれない。そして、金融危機を防ぐ規制・制度の議論も、科学的な検証を行わない、非科学的な信条にもとづく議論になりがちで、規制・制度が導入・廃止を繰り返す場合があるなど、発展しているとはいえないのが現状であるとも考えられる。
 
() 1121
   講義概要
銀行の連鎖倒産による金融危機をシミュレーションで分析する研究について述べられた。銀行は企業にお金を貸す融資事業を行っているが、銀行間でもお金を融資しあっている。融資は株式投資の売り手買い手の関係とは異なりずっと関係が続く。銀行間の融資は常に、貸している・借りている関係がネットワーク状に存在する。ひとつの銀行が破綻すると必ずそこにお金を貸している銀行が存在し、そのお金が回収できないがために破綻し、さらに他の銀行が貸付を回収できない、といった連鎖が生じる可能性がある。銀行間の融資だけでなく、例えば、同一の企業へ複数の企業が融資している場合もある。また、銀行は融資以外にも資産を投じる場合があり、株式や不動産を持つ場合もある。複数の銀行が同一の株式を所有し、その株式の価格の下落によって、複数の銀行が危機に陥る場合もある。このように、銀行間のネットワークは直接融資でつながっているだけでなく、他の資産を介して間接的にもネットワークが構築されている。
しかし、この複雑なネットワークが連鎖倒産といった金融危機をどのように引き起こすか、ネットワークがどのような性質を持つかなどは殆ど理解されていない。現在まで主力の分析手法であるマクロ経済学などは、各要素をばらばらに取り扱う統計的な手法であり、ネットワークを考慮した複雑性を分析したものではない。このような手法は、平衡状態を前提としており動的な分析ができないため、ネットワーク構造上のカスケード現象やミクロ相互作用により発現するマクロ現象も扱えない。そのため、実際に、2007年から2008年にかけておきたサブプライムショックでは、想定をはるかに上回る大型連鎖倒産が発生し、最終的に世界で最大手の証券会社(投資銀行でもあった)であるリーマンブラザーズまで破綻することとなった。この例からも銀行間ネットワークがどのような性質を持つのかを分析する重要性は極めて高いことが分かる。
講義で紹介された銀行間ネットワークのシミュレーション研究は、銀行を模したエージェントは比較的シンプルなモデルで、ネットワークの形状は現実に近いものとしている。個々の銀行の詳細な性質ではなく、それらが集まったときのネットワークの性質など、複雑性に着目した研究である。
分析結果の主な示唆は以下のとおりである。各銀行の投資や融資(以下、投融資)は、均一的なほうが、平常時においては、各銀行は安全である。しかし、連鎖倒産が起きるような大きな危機時においては、投融資が均一であるほど連鎖倒産が起こりやすく危険な状態となる。この結果から、サブプライムショックのときに、似たような証券化商品に多くの銀行が飛びついたことによって、連鎖倒産が起こりやすくなってしまったと解釈できる。そして、銀行は多様な投融資を行い、各銀行が特徴をもったポートフォリオを持つことが金融危機を防ぐ優れた方法であることが示唆された。また、現在世界で議論されている規制(バーゼルⅢ)の主要な規制である自己資本規制は、あまり効果がないことも示唆された。
 
   考察
では、これらの結果を受けて、実際にどのような規制・制度を導入すればよいか、というのは大変難しい問題である。なぜなら、基本的に規制の導入は、銀行の行動を均一化するからである。多様な投融資を促進する規制というのは、少なくとも今のところ発明されていない。規制のジレンマである。
また、個々の銀行の財務基盤を強くする、という目的のために当局主導で行われた銀行同士の合併も、銀行の行動を均一化するものである。このように、個々の銀行にとっての部分最適を行うたびに、また規制の強化のたびに、多様性が失われ、かえって連鎖倒産の危険性が高まっているのが現実のようである。しかも当局の方針として、一行もつぶさないために合併をさらに勧め少数の財務基盤が強固なメガバンクに集約されようとしている。この一行もつぶさない方針が、逆にネットワーク上にひとつでも穴が開けば次々と連鎖する脆弱性を生んでしまっていることも事実のようである。

 
() 1219
   講義概要
いわいるトレーディングコストとトレーディングコストを削減するためのアルゴリズム取引技術、および高頻度取引に関して述べられた。トレーディングコストとは、注文を委託された証券会社や取引所に支払う手数料と自分自身の売買注文によって動いてしまう価格変動のことであるマーケットインパクトなどがある。マーケットインパクトは実際に取引したときにしか発生しない見えないコストであり、机上の売買をした場合では測定できないものである。そのため、机上のポートフォリオのパフォーマンスと実際のポートフォリオのパフォーマンスには大きな差ができる。その差がまさにトレーディングコストであり、机上のポートフォリオではどうしても反映できないものとしてマーケットインパクトがある。
マーケットインパクトを削減するために、アルゴリズム取引が用いられる。大量の注文を一度に出してしまうと、板上にある複数の注文と対当してしまい、それだけで価格を大きく(不利な方向に)動かしてしまう。そのため、注文を小刻みに出すことが必要となるが、取引所の注文応答時間がナノ秒単位まで高速化しているため、手作業での注文作業は難しく機械が自動的に注文を小刻みに出すこととなる。そのときのプログラムがアルゴリズムとよばれるものである。
アルゴリズム取引は、他の市場参加者に気づかれないように注文をさばくことが最も重要な役割となる。その注文量がばれてしまえば、高頻度取引の餌食になってしまう。高頻度取引はその名のとおり高頻度に注文を出し入れして単純に収益を狙うものであり、99円の買い100円の売りといった近い価格の売り買いの注文を同時に出し続けて小刻みに収益を狙うマーケットメーカー戦略がもっとも多いと予想されている。しかし、アルゴリズム取引の行動を先読みして収益をとる戦略も存在すると言われており、そのような高頻度取引の戦略の餌食となって、不利な売買を強いられて、結果マーケットインパクトが大きくなってしまうことは最も避けなければならないことである。そのため注文間隔や注文数量は乱数を使うなどして規則性を消す工夫がなされている。また、時間帯によって取引量は異なるため、時間帯ごとの取引量(ボリュームカーブ)を推定し、そのボリュームカーブを壊さないように時間ごとの注文量を調節する工夫もされている。
アルゴリズム取引に用いられるプログラムは、アクティブにトレーディングコスト削減を狙うというよりは、パッシブに、期待通りで分かりやすい結果を出せることを主眼においているようだ。これは、アルゴリズム取引自体は道具であり、他で練られた投資戦略を実現するためのツールでしかないという考え方から来ている。さらに、プログラムを開発する人と使用する人が別であることが殆どであるため、説明のしやすさ、挙動の理解のしやすさが重要であり、ブラックボックスにできない、という技術的な理由もあると考えられる。
高頻度取引にはマーケットメーカー戦略にもいろいろ存在するが、その一例としてダークプールと通常の市場との鞘取り戦略が紹介された。ダークプールは、自身で取引価格を決めるのではなく、通常の市場の最良買い注文と最良売り注文の間の値段で決める場合が多い。投資家にとっては便利な仕組みであるが、それを逆手にとってダークプールでの価格形成を操作して鞘取りを行う戦略があるのである。
 
   考察
アルゴリズム取引では作成者と使用者が異なるため説明しやすいロジックが組まれているという話があった。ボリュームカーブの推定は直近数日の過去のデータから推定される場合が殆どであることから、逆に、アルゴリズム取引が一度形成されたボリュームカーブを変化しないように形成している可能性があると考えられる。アルゴリズム取引がなければ、ボリュームカーブが日々変化するはずだったところを、アルゴリズム取引が過去のボリュームカーブにそって注文量を出すため、過去のボリュームカーブがアルゴリズム取引自身によって形成されるからである。過去のボリュームカーブで推定できる事実が定着すると、ますますこのやり方以外がうまくいかなくなり、投資家が使うボリュームカーブの推定方法がますますひとつの方法に収斂していくという、ポジティブ・フィードバックが発生すると考えられる。そのため、ボリュームカーブの推定方法は多様性を失い、均一なものになっていく可能性がある。また、説明のしやすさ・理解のしやすさと性能の高さを説明しやすいものを追及すると、やはりアルゴリズムのロジック全てが、均一になっていく可能性すらある。実際、使用されているアルゴリズム取引はVWAPとよばれるパッシブな手法が多くを占めているといわれている。このような多様性の喪失は、先の(Ⅰ)、(Ⅱ)で述べたものと同様に、平常時にはより安定で、市場混乱時はより危険なものになっていっている可能性を指摘できるだろう。
 
(イ)課題
 上で述べた(Ⅰ)、(Ⅱ)、(Ⅲ)にはある共通点がある。それは、
 (a)  平常時は既存の分析方法で、部分(個別)最適化でうまくいく
 (b)  金融危機や市場混乱時はその最適化が逆効果となって危機を助長する
 (c)  部分最適化は、投資家の多様性の消失を招き、それが危機助長の原因となる
簡単に振り返れば、()においては、多くの投資家が高い利回りでかつ安全と錯覚した商品や手法に集まり平常時はみな高い利回りを得る(a)。しかし、いったん危機が起こると皆が同じように損失をこうむり、損切による価格下落によりさらに損切を招くというポジティブ・フィードバックによる暴落が発生して金融危機となる(b)。この原因は、利回りが高い商品に投資家が飛びつく過程で買い支えにより利回りの高さが維持され、過去のデータを見る限り安全で利回りが高いという事実が作り上げられてしまう(c)
(Ⅱ)においては、銀行の平常時に有効なで安全な投融資は均一なものである(a)。加えて、一行もつぶさない当局の方針によりメガバンクへの集約化は完全に均一化を招く(a)。投融資の均一化は危機時の連鎖倒産を引き起こす(b)(c)
 (Ⅲ)においては、アルゴリズム取引は過去のデータからの単純なボリュームカーブの推定がもっとも当てはまりがよく、また、ツールとしての使いやすさ追求のため理解しやすいパッシブなものである(a)。市場が急変し取引量が急上昇すると、ボリュームカーブの当てはまりがとても悪くなり、多くのアルゴリズム取引が、一時撤退といった一様な対応をとる(b)。多様性がない一様な撤退行動により市場急変が助長され市場混乱を引き起こす(c)。といった具合である。
 実は、このような例は金融市場の多く見られ、後で2つ例をあげるが、上記の3つの例も後で述べる2つの例も、金融情報技術の普及と大きなかかわりがあると考えられる。そして、先にこれらの現象の対応の難しさと、今後必要な研究分野について述べておく。いずれの例においても、平常時にはよりよい方法・商品に飛びつく、というプロセスが存在する。情報技術の発達により、このよりよいように錯覚された手法・商品を見つけるのが高速化された。高速化のみならず、均一であったりある特定の1つのものに絞ることまでできるようになった。情報技術が発展する前ではベストの1つを見つけるのは困難で、飛びついたとしてもそこに広がりがあった。しかし、情報技術を駆使して、平常時に最適なものを深く探しに行くと、多くの投資家が同じ解にたどり着いてしまう。そして、そのベスト解に集まってくる行為自体が更にそれを良いものにしてしまう(少なくとも過去データ上は)という、ポジティブ・フィードバックが発生する。助長されてしまうのだ。
 ポジティブ・フィードバックが起こっている最中は、それが金融危機を引き起こすものとなることが気づかれないことが多い。本来であれば、発達した情報技術を用いて、エージェント・シミュレーションやビッグデータ解析を用いて、複雑系の動的なミクロ・マクロ相互作用を分析して議論すれば、それに気づくこともできるはずである。しかし、問題は、金融情報技術が平常時の部分最適化に多く使われ、危機時の複雑系の分析にはまだ多く使われていないことである。この分野の研究者、実務者が増えなければ歴史は繰り返してしまう恐れもある。
 さて、2つの例を挙げていく。1つ目は20078月に起きた。いわいるクオンツショックである(Khandani and Lo, 2007が詳しい)。クオンツファンドとは、定量分析の結果を用いてポートフォリオを構築するファンドであり、ほとんどが、PBRPERなどのファクターとよばれる個々の企業の特徴的な量を用いている。説明変数をこれらファクターとし、被説明変数をリターンとして、各組み入れ企業のポートフォリオ内のウエイトを決定する。ここで、被説明変数は過去のリターンであったため、説明変数や回帰(学習)の仕方がどのようなものであっても、ポートフォリオが似てしまう(水田ら2009に詳しい)。つまり、ポートフォリオの多様性が失われ、均一になってしまう。皆が同じようなポートフォリオを組むため、平常時は、すでに保有している企業の株式を他の人も同じ企業の株式を買うため、回帰(学習)を行った際、ますます同じ企業が選ばれるよというポジティブ・フィードバックが働く。しかし、いったん、逆のことが起これば、皆が損失をこうむることなり、誰かが損切をして価格が下がると、同じような銘柄を持つ別の人も損切を迫られさらに価格が下がるという逆の循環が発生し市場が混乱する。20078月にはまさにこの逆流が発生し、クオンツファンドのみが打撃を受けるという現象が発生した。これはまさに、金融情報技術の発達により、平常時の部分最適化が進みすぎて多様性を失い、市場混乱時にポートフォリオ間でのネットワーク上で損失の連鎖が起きてしまい、この複雑性の分析を行って議論していなかったために、混乱が大きくなった。
 2つ目の例は、スウェーデンの年金基金の分割に関してである( 2007が詳しい)。スウェーデンの年金基金はかつて現在の日本のGPIF(年金積立金管理運用独立行政法人)のようにひとつの巨大な基金であった。しかし、資金が大きすぎて運用しづらいこと、運用先や手法の多様性を確保できないことから、主に4つ(AP1AP4)に分割した。分割された4つの基金は、あえて、組織形態、ガバナンス、運用目標、主要人員のバックグラウンド、人事制度や給与体系などが全く異なるものとした。当然、まったく性質の異なる組織が異なる目標のもと行う資産運用であるから、運用先や手法の多様性が確保され、リターンもバラけると考えられていた。ところが、運用先はそれほどバラけることがなく、さらに驚くべきことに、リターンは4つの基金で殆ど同じものとなった。これは、金融工学の功績であるモダンポートフォリオ理論などを用いて資産の配分先を決めた場合、過去のデータを精度良く活用すればするほど、手法が多少異なったとしても結論が似てしまうことに由来すると考えられる。過去のデータからは最適なものが、金融情報技術の発達により、より精緻に求められたため、同じような結果を導いてしまった。そして、基金内での理解の得やすい手法を選考したり、または基金の上司である政府への説明のしやすさを重視する手法であればあるほど、同一の結果を導きやすい、という側面もあったであろう。
 これらの例を端的にまとめると、金融情報技術の発展は平常における安定性、効率性を飛躍的に向上させたことは間違いない。しかし、複雑性の考慮の欠如、しかし本来ならシミュレーションやビッグデータ解析などで複雑性の分析も進展すべきなのであるが、それが遅れをとっているために、市場混乱時・金融危機時の、混乱・危機の大きさはますます大きなものとなってしまっている。
 
参考文献
Khandani and Lo, 2007: “What Happened tothe Quants in August 2007?”, SSRN, < http://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract-id=1015987>
水田ら 2008: “精密で複雑なクオンツファンドは優れているか?”, 証券アナリストジャーナル, 200810月号
2007: “スウェーデン公的年金のガバナンス”,資本市場クォータリー, 2007年秋号 <http://www.nicmr.com/nicmr/report/repo/2007/2007aut15.pdf>

この記事に

ツイッターのbotアカウント、国会ちゃん(@kokkaichan)が
以下のつぶやきをしていて気になりました。



大仁田厚「太一という友達とカツどん食べていたんですけれども、カツどん食べて帰ろうかと言ったら、ちょっと何というのかな、ぽちゃっとした、こういう場で言っていいのか分かりませんけれども、これは実際存在します」(2003)


国会ちゃんは国会での議事録からランダムに一部抜粋して
つぶやいているようなのですが、
これはいったいなんの質問だったのだろうと思って、
元の議事録
をたどって前後を見てみました。
そしたら、質問全体は微妙なのですが、
太一が出てくるあたりの話はなかなかいい話だったのでその部分を抜粋します。

-------------------------------------
第156回国会 文教科学委員会 第2号
平成十五年三月二十日(木曜日)
午前十時開会

(中略)

○大仁田厚君 
 これ、一つの僕のあれなんですけれども、僕は三年前までは高校生だったんですけれども、高校生だったんです。高校生で、やっぱり僕みたいな、二十六年ぶりに高校に入ったら、やっぱり僕みたいな男でもへこむわけですよ。出てきたのが因数分解、微分積分だ、何やこりゃみたいなところがあって、解けないわけですよ。やっぱりそうなると、じいっと静かになっていきますね。だけれども、何がそれは助けてくれたかといったら、友達なんですね。友達が逆に、大仁田君とは言わなかった、大仁田さんと言っていましたけれども、みんなが教えてくれるわけです。それで僕も力強くなってくるわけです。人間て独りじゃないなと、そういうとき感じるじゃないですか。先生、そうですよね。独りじゃないなと物すごく感じるんですよ。それで、何か同級生が、もう年は倍以上離れているのに、その十七歳、十八歳の子たちが本当に友達になってくるんですよ、これ不思議な現象なんですけれども。そうなると、逆にその友達が僕にパワーを与えてくれるんですよね。
それで、僕らは夜間ですから、一時間目終わったら、こうやって学食食べに行くんですよ。こうやって学食、カツどんだったんですけれども、そのとき。太一という友達とカツどん食べていたんですけれども、カツどん食べて帰ろうかと言ったら、ちょっと何というのかな、ぽちゃっとした、こういう場で言っていいのか分かりませんけれども、これは実際存在します。先生方が否定されようと存在するんですよ、いじめられるタイプというのが存在するんです。これは本当なんです。それで、その子が元気がないから、僕はどちらかというと、おい、元気出せよと肩をたたこうとしたら、ぱっと見たらカツどんの中身が唐辛子で真っ赤っ赤なんですよ。そうしたら、僕の友達の太一が、大仁田さん、これいじめられているんですよと言うんですよ。それで、もうそうなると僕と太一はかっとくるタイプですから、百人ぐらい御飯食べていたんですが、だれだ、こんなことをやったのはと言った途端に、隣の席で座って食べていた教師の、あの政経の西谷先生と化学の大沢先生が、大仁田やめろと、おれを止めるんですよ。ちょっと待ってください、おれの問題じゃなくて、これは先生、生徒の、教師の問題じゃなくておれら生徒の問題ですから、生徒に片付けさせてくださいと僕言ったんです。それで僕は言ったんですよ、だれだこんなことをやったのは。ちゃんと一人立ちました。やっぱり僕が怖かったんだろうと思いますけれども。それで、四人ぐらいがこうやって立ったんです。
ちょっと聞いてください。これは先生方、申し訳ありませんが、これ政治家になる前の話ですからね。僕は悪い言葉を使ってしまいました。これは政治家になる前の話ですからね、大臣、副大臣。僕はちょっと、これは正式に削除するかどうかは分かりませんが、僕はそのときの状況を正しく説明いたします。その子たちに僕は言いました。おい、面かせ、表に出ろ、今だったら多分、お面をおかしください、表に出てくださいと多分言うと思いますけれども。
いや、だけれども、考えてみてください。じゃ、何もしないで、その現状を何もしないで、じゃただ見ているだけで僕が大人のふりをして、あいつら、ああ倍ぐらい違うのにというんじゃなく、僕は何を感じたか。前例のように、僕は友達から、倍ぐらい離れた友達から問題を教えてもらったりいろんなことをしてパワーを逆に与えられました。じゃ、僕にできることは何なのか。おせっかいかもしれません。おせっかいかもしれません。だけれども、そのおせっかい、何かを行動すること、何か動くことによって何かが得られるんだよ、そこから何かが変わるんだよということを大人が教えていかなければ何も変わらないんじゃないでしょうか。僕が言いたいのは、僕が言いたいのは、子供に元気を出せよと言う前に、大人が元気がなければ子供が元気になるわけないじゃないですか。
僕は、教育というものは何だって、分かりません。多分、答えは多分出ないと思います。僕、大臣があと三十年ぐらいやっても多分出ないと思います、答えは。いや、だってそうです。かのアントニオ猪木が、かのアントニオ猪木が、多分江本先生は御存じだと思いますけれども、かのアントニオ猪木さんでさえ、多分、プロレスとは何ぞやと言われたとき、永遠に答えは出ない。教育とは何ぞやと言われたときに、多分遠山大臣でも、これだけ教育を長くやっていても、教育とは何ぞやと言われたときに多分答えは出ないと思うんです。だけれども、じゃ、僕らが、僕ら大人が何もせずに、何もしないでじゃなくて、やっぱり気付いたことに対してチャレンジする、何かをしようとする行動を見せなければ何も、何も変わっていかないんじゃないかなと。
副大臣に御質問なんですが、やっぱり僕は、大人自ら姿勢を正し、今のこの二十一世紀を生き抜くために、子供たちに、失敗してもいいじゃないか、何かをやろうよ、そしてまた、悪いことを見たら、何かそういうものを見たら自分から胸を張ってでも止めてみようよという姿勢というのを、やっぱり教育の中からどんどんどんどん掘り上げていかなきゃいけないと思うんですが、それについてどう思われますか。

(後略)

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黒沢さんが登場したフランスのAFP通信の記事を訳しました。翻訳は素人ですし急いで翻訳したので、間違いはご容赦ください。原文はこちらにあります。


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大学3年生の藤井さき(漢字不明)さん(22歳)は、6ヶ月の就職活動に使う手帳を丁寧にめくり、今週行われる面接(日本の就職活動生が次のステップに進むための作業)をチェックしていた。22歳の人たちは、正社員で就職するためには先輩たちが行ってきたのとまったく同じように、終わりの見えない、面接、セミナー、就職イベント、に参加し続けることが一番よいことを知っている。彼女は言う、「このような就職活動をしなければならないことが良いことだとは思いません。みんなが同時に就職活動をして、結局自分が働きたい会社へは入ることができないのです。」彼女は先輩たちと同じルートをたどっているが、少数の会社はこれとは別のルートを用意し始めている。彼女のように早稲田大学のような一流大学に通う学生の学生生活は、つらい試験の連続である。高校卒業後現役で大学に入った後最初の2年間は、義務的なカリキュラムが占める。3年生になると就職活動にほとんど専念し、4年生になると卒業研究に集中する。もし、めでたくすべてをクリアーすると、卒業後わずか10日後には、社会人人生がスタートする。
この50年において、このシステムは大量の雇用を創出し、それが、第二次世界大戦後の奇跡の経済成長を支えてきたが、失われた20年という低成長も生み出した。若者就職支援協会理事長の黒沢一樹さんは以下のように述べた。「(このような)古い就職活動のやり方は昔は機能していました。経済が成長していて企業が大量に人を雇う必要があったころ、企業は、定年退職まで働くことが暗黙に決まっている大卒新卒を大量一括に採用しました。(しかし、このような時代が終わったにも関わらず、)多くの企業が従来からの採用システムを変更できずにいます。その典型的なシステムとは、セミナー、面接、就職イベントといったものです。このような硬直的な採用システムのもとでは、企業が市場状況に応じて柔軟に(中途採用を活用して必要なスキルを持った)人材を増やしたり減らしたりすることを困難にしています。」
しかしながら、日本の中でも好調ないくつかの企業は、このような状況を不快に思っている。それらの企業の市場が国内では、少子高齢化で縮小するなか、世界で戦うのに役立つこれまでとは違う人材を探し始めた。このことは、硬直的な教育と採用システムへ大きな疑問を投げかけている。ほとんどの日本の学生は、就職活動のレールに乗れないことを恐れて、学生の期間を延ばして海外に行ったり、ましてや留学をしたりしない。しかしながら、世界12か国に展開している小売店で急成長している日本企業、ユニクロは、積極的に海外経験がある人材を求めている。同社親会社の広報の坂口ゆきえ(漢字不明)さんは、「特定の言語ができる必要があるわけではないですが、最終的には、どこの国で働くにしてもとても役立つ経験となります。」と語る。ユニクロも日本のインターネット通販大手の楽天と同様に、2012年に社内公用語を英語にしようとしている。楽天のとかじゆうき(漢字不明)さんは、「わが社は、国際的に活躍できるビジネススキルと語学力をもつ人材を求めています。」と語る。ユニクロと楽天は、これまでの就職システムを使いつつも、学生をインターンとしてバイトで働いてもらい、適性があるかどうかを見極めようとしている。このような市場のニーズは、日本の企業と大学へ変化を迫っている。
産業界は、タイムズ紙が世界30位にランキングする東京大学が、4月入学から10月入学に移行することを検討しているという発表を歓迎した。経団連会長の米倉弘昌さんは「この変更により学生は卒業後、就職するまでに時間ができ、ボランティア活動や海外で研修を受けたりと、さまざまなスキルを身に着けることができます。」
しかし、このような学生たちに対する現在の取り組みが実を結ぶのはまだだいぶ先のことである。さて先出の藤井さんの話に戻ろう。藤井さんは「海外旅行やボランティアは確かに良い経験になるし、就職活動に間違いなく有利に働くでしょう。だけれども私には、それをする時間がないのです。」と嘆いた。
 
 
 
 
 
 

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金融と哲学

 診断士協会のとある研究会で、「金融の実務界で重要な役割を果たしている哲学を紹介してくれ。」と頼まれたことがありました。ここでいう「哲学」は、「投資哲学」といったような特定分野の原理原則という意味ではなく、アリストテレスやソクラテスのようなガチの哲学です。そのような意味で哲学を意識している人はジョージ・ソロスしか知らなかったのでまずはソロスを紹介しました。しかし、いろいろ調べてみると、ソロスは科学哲学者であるカール・ポパーの影響を大きく受けており、また、「ブラック・スワン」の著者であるナシム・ニコラス・タレブもまた、ポパーの「白いカラス」の話を参考にしたと思われ、影響を受けていると思われます。そこでポパーについて紹介しようと思います。とても長くなるかもしれませんが、まずは、ポパーが何者で、ソロスとタレブにどんな影響を与えたか紹介しようと思います。

 

ポパーは金融の人ではない

 ポパー(1909-1994年)は科学哲学者とよばれる分野の学者です。彼自身は金融について何かやったことはありません。専門分野は簡単に言うと、「科学と似非科学の境界線はどのように決められるか」というものです。ここでいう「科学」とはかなり広い意味で用いられており、いわいる「自然科学」に限ったものではありません。これを説明するのは難しいのですが、誤解を恐れずに簡単に言うと、ある主張が頑健性が高く正しいかどうか十分議論されていることを「科学的」といい、とくに根拠なく主張をしていてその確からしさが揺らいでいるものを「似非科学」とよびます。例えば、政治では継続性が高く正しく行われ続ける政治の仕組みを科学的とよび、いずれ恐怖政治などの押さえ込みが必要になるような政体を似非科学的とみなします。

 

ソロスとタレブ

 ポパーは金融と無縁だったにも関わらず、ポパー哲学が金融で引用されるようになったのは、金融工学がポパーの基準で言うと科学ではないからです。ポパーの考えはいずれ書くとして、まずはソロスとタレブがどんな風に引用したかを述べてみましょう。


ソロスと誤謬性

 ポパーは科学の進歩とは、大胆な「推測」とそれを批判して否定しようとする「反駁」である、と考えています。誤っているかもしれない推測、つまり誤謬性を伴った推測が、反駁に耐えられるかどうか試されているという連続であり、確定した「正解」はないという考え方です。ソロスはこれを株価の実態価値に当てはめました。正しい実態価値があらかじめ知っている人がいる、などという前提はありえないと考えたのです。株価の動きは、恐らく実態価値はこれくらいだろうという「推測」と、いや本当にそうだろうかという「反駁」の繰り返しであり、誤謬性を常に伴ったものなのです。ですので、実態価値を知っている人がいて、常に鞘取りできるという、いわいる「市場効率仮説」は、絶対に成り立たないと考えました。

 

自己強化プロセス

 実態価値の推測、それが正しいかどうかに関わらず、実現することによって推測した人は自信をもちます。ある理由で上昇すると推測した人は、その理由とは全く関係ない理由で上昇したとしても実際に上昇すれば、正しかったと自信をもちます。そして、ますます上昇すると考えるかもしれません。このように、自己強化的に、正のフィードバックをともなって株価が一方向に動くことがあり、それを自己強化プロセスとソロスは説明します。これはポパーの誤謬性を応用したものですが、ポパーはそこまでは述べておらず、ソロスオリジナルのものです。

 

ブッシュ政権批判

 ソロスはブッシュ政権が「開かれていない」として批判していた時期がありました。これもポパーの考える「推測と反駁を繰り返して正しい判断をしていく社会」いわいる「開かれた社会」の考えに基づいています。つまり、批判をうまく封じ込めれば、民主主義国家でも「開かれていない社会」を構築可能であるとソロスは主張したのです。

 

自然科学と社会科学の違い

 ソロスは自然科学と社会科学は同一に扱えないとして、それらを同一の基準で科学と似非科学に分けようとしたポパーを批判しています。これに関して私はソロスの主張は良く分からず、恐らくポパーの主張が正しいように思えます。というのもポパーは自然科学と社会科学の分類が自明でない状態を考えているので、ソロスの主張は若干的外れな感じがするからです。

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「黒い白鳥」と「白いカラス」
 タレブは「ブラック・スワン」=「黒い白鳥」というタイトルの本でさらに有名になりました。実は、ポパーは著作「推測と反駁」の中で、「白いカラス」の話を出して推測と反駁の説明をしています。「カラスは黒い」という推測は非常に大胆な推測であり、一羽でも「白いカラス」が見つかればこの推測は棄却されます。「カラスは黒い」は統計学では高い確率で成立しているといえる現象ですが、法則として推測されたのであれば「全世界のカラスが黒く、黒くないカラスは一羽もいない」という意味ですから、その成立しそうな「確からしさ」は非常に低く、大胆な推測となります。大胆な推測ほど、反駁される可能性が高い反面、反駁されないうちは価値の高い推測とみなされます。つまり、「多くのカラスが黒い」と「全てのカラスが黒い」では、全く意味が異なるのです。そして、前者は統計的に高い確率で起こる事象、後者は低い確からしさの大胆な推測、となり、確率の高低が逆転します。
 
タレブの主張
 金融工学は統計学的なアプローチで確率が高い事象は何かを議論します。それゆえ、「こういうことは過去の環境下においては確率が高い」というのは正しいのですが、タレブは、金融工学の学者達の中にはそれをもって「だから今後もこうなる」と考えている人たちがいて、大きな過ちであると主張しました。つまり金融工学では「これまでの環境では黒いカラスが多かった」とまでしかいえないのに、「今後もずっとカラスは全て黒い」と主張したり、そう思い込んでいる人たちがいて、大きな過ちを引き起こすと警告していたのです。統計学的に有意差があることと、絶対法則として成り立つこととは全く違うことなのに、それを混同していると問題を指摘したのです。
 
ノーベル賞批判
 彼はノーベル経済学賞をなくすべきだという主張をしています。文学と平和の各賞は別にしても、物理、化学、医学などと比べ、経済学が科学といえるほどのきちんとした学問ではないということが主張の根底にあるようです。そのような学問にノーベル賞などという権威を与えてしまうと、「可能性が高かった」だけの事象が「絶対法則」と勘違いされてしまうことを危惧しているのでしょう。
 
ソロスやタレブが考える金融工学が科学ではない理由
 ポパーの考える科学的な進歩の中では、少しでも反駁されてしまったものは推測が正しくなかったと認め、推測を修正または破棄しなりません。物理学などの世界ではこれは常識中の常識であり、一回でも物理法則に反する実験結果が出てきたら、法則かその実験を疑い、どちらを破棄するか議論が始まります。ただ、金融工学では間違いなく多くの現象が金融工学の前提を覆しているにも関わらず、その前提を破棄したり修正したりせず、その前提を維持するための理屈を盛ってこようとする学者が存在します。実は、私が知る限り、定量的な分析が出来る学問分野の中で、唯一、金融の学会だけがこのような状態にあり、ポパーから言わせれば、科学的な議論がなされていない状態にあります。これほど実務家と学者の距離が遠い分野も珍しいでしょう。ソロスは、このような学者達が市場効率仮説の既得権益にすがるために、非科学的な議論を展開しているとして、金融工学を似非科学とみなしているようです。タレブはさらに、古典的統計学を悪用して、学者達が詭弁を行っているとして、金融工学を似非科学とみなしているようです。
 
2人を拒否する学術界
 これだけの論述を展開しながら2人を受け入れない学術界ですが、他分野ではまったくありえない話です。少なくとも私が知る限り、定量的な分析が出来る学問分野の中では、こんなことが起こるのは金融工学だけでしょう。それだけ、純粋な学問的な要素以外で、既得権益が存在しそれを守ろうとしている人たちが一部に存在するということでしょう。時々、「2人の主張は学術界で取り上げられてないから、彼らの主張は間違っている」ということを言う人がいますが、まさにこれこそが、学術界が似非科学を展開している証拠なのです。多くの学者たちが2人の考え方を取り入れて学問を発展させたいと願っている一方、一部のそれを阻止しようとしている人たちが存在し力を持っていることは、人類の進化にとって障害になっていると言わざるを得ません・・・。

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推測と反駁とは何か

 さて、ポパーの主張そのものを見てみましょう。私は、「推測と反駁 〜科学的知識の発展」( http://www.amazon.co.jp/dp/4588099175/) という本を読みましたが、800ページ以上ある書籍でとても読むのが大変でした。しかも、事例のほとんどが物理学に関わることで、哲学書にも関わらず物理を勉強したことがない人には読書に相当な困難が伴います。ハッキリ言って読むことをお勧めしません。私は3ヶ月間以上の週末を使ってしまいました。ここではこの本に描かれていたポパーの哲学を、正確性は欠いてもなるべく分かりやすく書こうと思います。

 

法則は直感から生まれる

 法則というものは、突然、直感から生まれます。初めは全ての法則は「推測」されたものです。ポパーは物理を例にあげていますので「法則」と書きますが、これは物理に限らず広く一般に当てはまるものですので、「発明」、「(経営などの)戦略」、「政策」、「アイデア」なり、いろんなものに当てはまります。が、以下「法則」と書きます。法則は必ずしも、観測を積上げたり過去の法則の延長線上にあったりするわけではありません。もちろんそれらは参照されていますが、ポパーは本質的には断絶のある、突然の推測であると考えています。

 

例:万有引力の法則

 例えば、ニュートンが発見した万有引力の法則は、それまでの物理学の延長線上にありません。「力」という今までになかった架空の概念を、直感的に、持ち込むことにより、ニュートンの推測として万有引力の法則が唐突に出現しました。このような推測は、リンゴの落下をただひたすら見ている、「観測」しているだけでは出現せず、また、それまでの物理法則をいくら詳細に知っていても、推測なしには出現しません。このように全ての法則は、何の確信のない、推測でスタートします。


 

反駁

 ポパーの「推測と反駁」の続きです。何の確信もない推測で始まった法則は、その真偽をテストしなければなりません。間違っていることを立証しようとすることを反駁といいます。推測された法則は、数々の反駁に耐えて、初めて法則となるのです。

 

価値のある推測

 その法則が、あり得なさそうな、そしてシンプルにもかかわらず多くの現象を説明できるほうが、価値が高いです。反駁の可能性が高い、つまり一見、成立しおうにない法則(確証性が低いという)のほうが良いとされます。よい法則ほど反駁の手段が多く用意されています。その法則は多くの批判的テストにさらされます。その批判に耐えられたもののみ、法則として生き残るのです。ただ、反証されたとしても人類に別の形の知見を残します。なので、大胆な推測は歓迎されるべきで、そのかわり、批判的なテストを十分うけるべきです。

 

■ 確証性が高い推測は意味がない

確証性が高い推測は、反駁されにくく、成立する可能性が高いでしょう。ただそれは価値は低いです。「aaである」のような反駁を試みる前から確からしい推測は、人類の進歩をもたらしません。一方で、大胆な推測は反駁されるまでは価値が高いです。ただ、たまたま運良く反駁に耐えている法則が、今のところ使える法則であり、永久に反駁されないことを保証しているわけではありません。また、テストがしづらかったりできない法則は価値が低いです。「ある場所である呪文を唱えると悪魔が出現する」という法則はほとんどテスト不能なので、ほとんど価値がありません。

例えば、あたりさわりのない主張は批判が少ない代わりに価値が低いです。大胆な主張は多くの批判を招きますが、批判に答えられれば価値の高いものになります。もっともいけないのが、大胆な主張をしておいて批判を受け付けないことです。その推測はテストされる真偽不明のものが、似非科学の知見があたかも正しいかのように蓄えられてしまいます。それは価値が低いどころか、害を及ぼします。

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白いカラス
 ポパーの「推測と反駁」の続きです。「白いカラス」の話をもう一度深く掘り下げてみましょう。「カラスはすべて黒い」という法則と「カラスを1000羽観測したら1000羽とも黒かった」は全然違います。前者は確証性が低い推測された法則で、後者は論理的に高い確率を持った観測です。両者を混同している人たちはあらゆる分野の学者の中にもいると、ポパーは指摘しています。ましてや「カラスを1000羽観測したら999羽黒く1羽は白かった」という場合、「カラスはすべて黒い」という法則は反駁完了しており一切成立しません。「カラスはすべて黒い」という法則が高い確率で成立しているとは一切言えず、この法則は全くもって一切成立しないのです。
 
経験と法則の違い
「カラスを1000羽観測したら999羽黒く1羽は白かった」は、同一環境・条件で観測した場合「黒いカラス」のほうが論理的に高い確率で存在することだけを示しています。環境が変われば異なる可能性があり、高い確率で成立する「法則・理論」と考えるのは危険なのです。法則は観察の積み重ねで生まれるわけではありません。観察をしていて殆ど「黒いカラス」だからといって「カラスは黒い」という法則は一切、生まれないのです。これは、過去データに頼る金融工学への警笛であり、ダレブがブラック・スワンと呼んだものもこれに相当するのだと思います。経験と法則はまったく違うものになることがあるのです。 

実はパラダイム・シフトではない例
 ポパーの「推測と反駁」の続きです。小さい話題をいくつか書こうと思います。
ポパーは一見「パラダイム・シフト」に見える思想の転換点においても、いつもどおりの単なる「大胆な推測」に過ぎない例がいくつもあると指摘しています。例えば、天動説から地動説は、パラダイム・シフトではないと指摘しています。地球が宇宙の中心であるという推測は、ある宗教の要請であり、太陽が宇宙の中心であるという推測も、ある宗教の要請であって、ただそれだけのことなのです。実際、20世紀になってから、いずれも反駁された、というより、その推測自体あまり意味を持たなくなりました。というのも、宇宙空間に2つの天体がある場合の運動方程式は、2体問題とよばれ、完全に解かれました。その結果、2つの天体の重心(どちらの天体でもない位置にある)を固定した座標系で計算すると計算しやすいことが分かりました。また、アインシュタイン後の宇宙論の発展により宇宙に中心がないことが分かっています。
 
反駁しにくいほうを立証しろと主張する詭弁
二つの主張が対立した場合、反駁しやすいほうをテストすべきです。というのも、反駁しにくいほうを主張する人に「反駁できないことを証明する」ことは極めて困難であるからです。これは詭弁の一手法としてよく使われます。例えば、痴漢の冤罪事件では、「痴漢をしていない」という推測は、「痴漢をした」という証拠がひとつでもあれば反駁可能で、反駁しやすい大胆な推測です。これは「カラスは黒い」という推測に対して、一羽でも「白いカラス」を連れてくればいいことに対応します。ところが、被告人は「痴漢をした」という推測を反駁しなければならず、この推測は「していない」という証拠が必要ですが、これは入手困難です。これは、「白いカラスがいるかもしれない」という推測に対して、何万羽の黒いカラスを連れてきて反駁しないといけないことに似ています。このように考えても日本の痴漢裁判は大変大きな問題を抱えているといえます。
 
政治学への応用
実学応用に関しては、政治学への応用があります。実際、ポパーは推測と反駁を応用して、社会主義を批判し、「開かれた社会」という概念を打ち立てます。これは組織論一般にも展開でそうな考え方でもあるので、今後書こうと思います。

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「開かれた社会」とは

科学哲学者であるカール・ポパーは著作「推測と反駁 〜科学的知識の発展」( http://www.amazon.co.jp/dp/4588099175/)の中で、科学の発展の仕方を論じていますが、その応用として、「開かれた社会」という概念を打ち出しています。この概念により、当時、学者達の中でも支持の広がりを見せていたマルクスの社会主義思想に対して真っ向から批判をしました。

 

ヘーゲルの弁証法を悪用したマルクス

ポパーは、マルクスがヘーゲルの弁証法を悪用し、批判を封じ込めていると、批判しました。マルクスは弁証法でのべることを批判者に強要し、弁証法ではない方法での批判に耳を傾けませんでした。批判すべき点があるのなら弁証法で批判できるはずだという論述をマルクスは繰り広げ、巧みに批判をかわしてきたのです。マルクスが主張する弁証法はヘーゲルの主張から改悪されており、ヘーゲルにとっても不本意であったでしょう。

 

民主主義 社会主義

民主主義対社会主義は長い間続きました。民主主義国家に住む学者達でさえ、社会主義を支持する人が多くいた時代です。それでもポパーは、社会主義か民主主義かというイデオロギー以前の問題として、社会主義には批判を封殺する仕組みが内在しているという理由だけで、社会主義はうまくいかなくなるとあてて見せたのです。批判の方法を批判される側が制限することは、科学的ではありません。つまり、政体として、うまくやっていけるかどうかは、「批判はどのような手段で行ってもよい」というのが絶対条件であり、社会主義であってもそれが成立していればうまくいく可能性はあるし、逆に詭弁を駆使すれば、批判の手段を制限することが出来、うまく行かなくなる社会になります。ポパーは、この違いを「開かれた社会」か「閉じられた社会」と区別するようになるのです。

 

民主主義でも閉じた社会を構築可能

「開かれた社会」の続きです。民主主義であっても批判の手法を限定させて閉じた社会が構築可能です。ブッシュ政権がイラク戦争を行っていたころ、ソロスは政権がこれをおこなって閉じた社会を構築しようとしているとして批判しました。政権に対して取材が出来る人を限定したり、陳情を特定のルートにしぼったりと、現代でもいろいろなテクニックが使われます。社会を組織に読み替えれば、組織でもそのまま当てはまるものです。金融工学系の学会では、学会発表するために、知り合いに討論者を頼まなければならないといった習慣があります。これも批判の手法を限定する巧みな制度なのです。

 

批判させるのも難しい

批判というのは自動的には出てきません。継続的にうまくいく社会を作るためにはあらゆる手段で批判が出てくるようにしなければなりません。コストをかけてでも批判をかき集めるような政体でなければ、だんだんと社会は「閉じて」いき、いずれ破綻します。民主主義でもたゆまない批判の収集の努力がなければ、行き詰ってしまうのです。

 

ポパーが残した議論の「心構え」

 最後にポパーが残した議論の心構えをそのまま書いておきます。

「私は自分が正しいと思うが間違っているかもしれない。そして君が正しいかもしれない。ともかくそれを討論し合おう。なぜなら、それによってお互いが自分が正しいと言い張っているよりも、真の理解によりいっそう近づける見込みがあるからだ。」

「お互い自分の意見を相手に納得させようとしているだけでは、それは議論ではない。両者に、自分は納得させられるかもしれない、お互いのどちらの意見とも異なる第3の意見に納得するかもしれない、という心構えがないと議論にならない。」

 

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カール・ロジャーズ 1/2

■ もう半年ほど前に読んだ本
 もう半年ほど前ですが、カール・ロジャーズの「人間尊重の心理学―わが人生と思想を語る」http://www.amazon.co.jp/dp/4422113895/ )。何故この本を読み始めたかというと、産業カウンセラー協会が推奨している心理カウンセリング手法が、カール・ロジャーズが確立した手法を推奨しているからでした。私の家内が産業カウンセラーの勉強をしていたことがきっかけでこの分野を知り興味を持つようになりました。それと、コーチングやファシリテーションなど、ビジネスの世界で普通に使われているコミュニケーション技術の根幹をなす技術、傾聴(よく聞くこと)を、最も高度に要求されるのが心理カウンセリングの分野であり、この分野の傾聴技術は仕事や日常生活、趣味の領域でも役立つと思ったのも理由でした。
 
■ 孤独とは何か、共感とは何か、関心とは何か。
 産業カウンセラーのみならず、いずれの分野の心理カウンセラーも、心の奥底にあるものをえぐり取られるような経験をしないと、いいカウンセラーになれないのかもしれません。少なくとも、自分自身の心の奥底と向き合えないといけないのだと思います。カール・ロジャーズも様々な苦悩を経験しながら、現在では常識とされる心理カウンセリング手法を編み出しました。
 
■ 何をするにもあったほうが良い知見が書かれた本
 この本に書かれていることは人間が言語を使って行う活動に普遍的に起こることで、どんなことをするにも役立つ知見だと思います。特に人を教育する場合にはとても参考になります。実際最近は、教員免許を取る場合にはこのあたりの技術習得が必須化されたようです。ただ、本の章立てがよろしくなく、バラバラでとても読みにくいです。正直、1章、6章、7章、8章、10章だけ読めば十分だと思います。むしろ他の章は賛同できない内容も多いもので・・・。次週から具体的内容を紹介していきますが、次回はまず、カール・ロジャーズが何者かを書きたいと思います。
 
■ 何者か?
 正直に申し上げるとこの本を読んでもイマイチ、彼が何者かが良く分からなかったので、wikipediaの内容を参考に紹介します。
 
■ 牧師を目指すも心理学に転向
 1902年にアメリカの宗教に厳格な家庭に生まれたロジャーズは当然のように牧師を目指していました。しかし、神学校に通ううちに疑問を感じ、臨床心理学へ転向します。その後、ニューヨーク児童相談所での研修を経て、ロチェスター児童虐待防止協会でカウンセラーをすることになります。当時のカウンセラーは指示的な手法を用いていました。つまり、「あなたはこうした方がいいですよ」とアドバイスする手法です。ロジャーズはこの指示的な手法で、子供たちを救えていないことに気付き、自ら理論的枠組みを作りなおしました。それが、非指示的カウンセリング(専門的には「来談者中心療法」)を確立させました。非指示的とは、「ああしなさい、こうしなさい」とは言わずに、相談者自身が解決方法を探す手伝いをするという手法です。現在ではほとんどの心理カウンセラーの専門家はこの手法を用いています。
 ちなみに、テレビなどで相談にのる人は指示的な人が多いように思われます。テレビ的には、実際には効果がない指示的な手法のほうが盛り上がるからなのでしょうね。非指示的カウンセリングは効果があってもテレビ的には絵にならないということなのでしょう・・・。
 
■ なぜそのような手法に至ったのか
 テープレコーダーの発明により、カウンセリング時のやり取りと、その後、相談者が悩みを解決できたかどうかの因果関係を調べることが可能になりました。ロジャーズは、思い込みを捨て、この因果関係を丹念に調べた結果、「指示的な手法」が効果を生んでいないことを突き止めました。このように、「なんとなくそう皆が言っているから」とか、「そうに決まっている」といった思い込みを捨て、短絡的な結論付けをせず、本当にそうだろうかと考え、丹念に事実関係を考えたロジャーズの姿勢は、見習うべきところがたくさんあるように思います。
 
■ 理論の大元になる信念
 彼が非指示的な手法をとるように至ったのには、人間には、もっと言えば、生物にはすべて「実現傾向」があるという信念があったからでした。
 
■ 実現傾向とは何なのか?
 生命は必ず良い方向へ向かおうとしているとロジャーズは考えています。反対の考え方は、生命は悪いことをしようとするので統制しなければならないという考え方です。ロジャーズはほっとけば良いと考えているのではなく、良い方向に向かおうとしている生命を、邪魔しない、そして、良い環境を作ってあげて、実現能力を引き出してあげることが大事だと考えているようです。愛という概念は、実は他人に対しても良い方向へ実現してあげたいという実現傾向の一種だと解説されています。
 彼の書籍から引用しましょう。「生命体は絶えず探求し、何かを始め、何かに到達しようとしているのです。人間という生命体においてはひとつの中心的活動源があります。この源は生命体全体の有力な機能です。簡単に言うと、生命体の維持だけではなく、その向上を含むような実現、充足への志向であります。」
 
■ どんな困難な状況でも自力で解決できる能力を持つ
 実現傾向があるため、どんな困難な状況におかれた人も自力で解決できる能力があると考えています。そのため、困っている人に「ああしなさい」「こうしなさい」とか指示する指示的なカウンセリングでカウンセラーの能力に頼る方法よりも、その人の能力を引き出すための話を聞いてあげる、傾聴、を用いた手法、非指示的な手法のほうが優れていると考えました。言いかえると、ティーチング的手法、つまり解決方法まで細かく指示する方法よりコーチング的手法、目標をはっきりさせて解決方法は傾聴しながら任せる手法がいいと考えたのでした。つまり仕事を与える人を、「たぶんできないだろう」と考えるのではなく「できるに違いない」と考えるということです。指示を出す側は指示を受ける側の能力を低く見積もりがちです。しかも、自分が考えている手法と違う手法で解決するのを快く受け入れられない心境に陥ってしまう場合すらあります。なので、ちゃんと話を聞いてあげれば出来るんだ、と思うことが大事なのかもしれません。
 
■ 難解な実現傾向という概念
 彼の言う「実現傾向」は難解な概念です。先週私は自分の言葉で噛み砕いて説明したつもりですが、原文の改悪だったかもしれません。ですので、難しい文章が続きますが、該当する原文を見てみることにしましょう。
 
■ 実現傾向:原著での解説部分
-------ここから引用--------
(p.104)
 人間中心アプローチが人間並びにあらゆる生命体に基本的信頼を置くことは実践、理論、研究において明確です。それを証明する多くの理論があります。あらゆる生命体は、各水準において内在する可能性を建設的に開花させようとする基本的動向を所有していると言うことができます。人間においても、より複雑で、より完全な発達に向かう自然の傾向が存在します。これを表現する用語として一番良く使用されるものは「実現傾向」であり、これはあらゆる生命体に存在します。
(中略)
 少年時代に食用とするジャガイモを入れていた地下室の貯蔵箱を思い出します。それは小さい窓から二メートルも地下に置かれていました。条件は全くよくないのにジャガイモは芽を出そうとするのです。春になって植えると出くる緑の健康な芽とは似ていない青白い芽を出すのです。この悲しいきゃしゃな芽は窓から漏れてくる薄日にとどこうと、60センチも90センチも伸びるのです。この芽は奇妙な形ですし無駄ですが、私が述べてきた生命体の基本的志向性の必死の表現と見ることができます。
(中略)
  (恐ろしくゆがんでしまった人生を持つ)これらの人々は、異常でゆがみ、人間らしくない人生を展開させてしまったひどい状況にあります。けれども、彼らの中にある基本的志向性は信頼することができます。彼らの行動を理解するてがかりは、彼らは彼らに可能な方法で成長と適応に向かってもがいているという事です。健康な人間には奇妙で無駄と思えるかもしれないけれど、その行為は生命が自己を実現しようとする必死の試みなのです。この前進的傾向が人間中心アプローチの基底なのであります。
 
(p.108)
  かくして、あらゆる動因の基本が生命体の広範な行動、広範な要求への反応の中に自ら表れているのかも知れません。確かなのは、ある特徴的な基本的要求は、他の要求が明確になる以前に少しでも満たされていなければならないということです。従って、生命体が自己を実現する傾向が、ある時点では食物や性的満足を求めることであるかもしれません。しかしながら、その要求がどうしようもないほど大きくない限り、自己の尊厳を低めるのではなく高める方向で満たそうとします。また、生命体は環境との相互関係において他者の実現をも求めます。環境を探求したり変化させようとしたりする要求、行動を起こそうとする要求や自己探求の要求、これらはすべて実現傾向の基本的表出であります。
  すなわち、生命体は絶えず探求し、何かを始め、何かに到達しようとしているのです。人間という生命体においてはひとつの中心的活動源があります。この源は生命体全体の有力な機能です。簡単に言うと、生命体の維持だけではなく、その向上を含むような実現、充足への志向であります。
-------引用ここまで--------
 
 

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