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戦国時代 戦国武将
日本史の中でも特に戦国時代に焦点を当てております。

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寛永御前試合はなかった
文武両道の嘘
 
 
 現在、映画やテレビの時代劇で「武士は文武両道に通じ」と平然とやっている。
そして寛永時代に御前試合が在って大いに盛り上がった等ともやっている。大体、良く考えてもらいたい。
徳川体制が天下を平定してしまった江戸時代に、国内にはもう敵対する相手もいないのに、
武張った剣術や槍術の調練や稽古をする必要があるだろうか。
逆に治安維持上、これらは取り締まって禁止するべきが常識なのである。
武芸とか兵法は格闘技であり、早い話が殺人の為の技や方法である。
従ってこれらは戦場でしか使われずのものを、天下泰平の世に、治安維持の総本山である徳川将軍家が、まるで国体開催みたいに台覧してまで武道を奨励する訳など無い。
 
 
一つ例を紹介すると、播州赤穂に浅野内匠頭の祖父、浅野長政が常陸笠間より入封するまでのここの藩主は池田輝興だった。
この輝興が正保二年に、木刀の素振りをなすのに家臣を相手にさせていた。
これが公儀に知れて「武家諸法度」の反乱予備罪に該当するものとの容疑で、領地を没収され永代身柄預けの処分となった。
のち赤穂浪士の討ち入り騒ぎが、芝居の忠臣蔵になったので、浅野家の前の池田輝興の御家断絶経緯も珍しく明らかにされていて「義士辞典」にも挿入されて今に残っている。
 
さて、こうした厳しい厳罰の時代だったことを考えると「武士は刀を差す。だから斬り合うに違いない」といった早とちりの単細胞では困る。
 
警官は拳銃を携帯している。だから直ぐ抜いて発砲するものだと想うのと、全く同じチャンバラ思考である。
 それでは寛永時代に御前試合は無かったかというと「御前取組」は確かに在った。これは史実にある。
しかしそれは江戸千代田城吹上御苑とは違う。
それは京の御所での人皇百九代明正女帝様の御前なのである。
明正様は寛永七年九月十一日に御即位された訳だが、まだ御齢七歳だったから、女帝がまさか所望されるはずが無い。
 というのは二代将軍徳川秀忠の娘、和子が僅か二万石でしかなかった京の御所へ、化粧料として一万石を持参して入られ、ようやく徳川の力で後水尾天皇を退位させて、和子女御の生んだ皇女が御即位あそばされた。
 そこで徳川の血をひく皇統となったそのお祝いの催事ということで、江戸表より和子のお供をして
御所入りし、これまで関東とは諸事異なる御所で馴れぬ苦労をしてきた御中ろうと呼ばれていた女達は、男に飢えていたのか、関東の相撲を観たいとなった。
 
 
 男が女の裸が好きで、ストリップを見たいというのと同じで、女だって男の裸は好きなのは今も昔も変わりない。これがもっと後世なら野郎歌舞伎になったろう。
 さて五木の子守唄の中にも「おどま勧進、勧進」と歌われるように、相撲は今でも「勧進元」の看板が大きな文字で出ているように、昔は全て勧進興行だった。
それを今で言うなら男のストリップの取組を見物し、以前の江戸大奥の女達は、馴れぬ御所勤めの憂さ晴らしとした。
さて問題は御所へ入って取り組みをした相撲たちにおきてしまった。
相撲は今も昔もハングリースポーツに変わりなく、御前試合みたいな勝ち抜き十番勝負が終わり、褒美というか、出演料彼らが頂戴して引き上げて御門を退出の際に、雑色と呼ばれる
御所の雑役の一人が、「あれは紺屋ではないか!!」と数名の者を見つけて指差した。
 このことが東下りの和子女御付き女中衆と対立していた後水尾帝の、御櫛の局付きの、昔からの御所全女官の耳に入ったから大騒ぎになった。
(注)何故このようなことになったのかは、日本史では隠されているが、この紺屋という職業は
現在藍染として有名だが、日本原住民のうちのサンカと呼ばれ、時のどんな体制にも属さない、いわば埒外の集団だったから、卑しい者達、卑賤の部族として差別されていたのである。
 だから以前、紺屋であったが運動神経抜群だった、吉岡流小太刀の始祖吉岡憲法が、御所で開催された薪能の拝観に、面体を隠し深編笠のままで観ていたのを、指先が紺色に染まっているのを見咎められて、衛士に引っ張り出され、ぐるりと取り囲まれてしまい、
「賤のくせに身の程知らずめ」と、よってたかって突き殺されてしまったという例が在るほどに、御所ではタブーだった。
 
 
だからこの騒ぎは、寛永十一年七月十八日に、御所に参内した徳川家光に随伴していた
土井勘三郎利勝に、秘かに耳打ちする如く訴えられた。
これが発端となって直ちに「寛永サンカ狩り」となって、同年五月二十八日に長崎で発布された、
「異国往来、異教宣布禁止令」に引っ掛けられ、日本各地でサンカと睨まれた者達は召し捕られ、
海路長崎へ送り込まれた。
 そして数珠繋ぎにされた彼らは、異教徒という名目で海外へ追放された。
この事は長崎犯科帳に「夥しき数」としか記載は無いが、サンカの口伝えでは、
「万にも及んだ寛政狩りこみ」となっている。
土井利勝は八代将軍吉宗の頃の大岡忠相にも劣らぬ辣腕家で、織田信長の血脈が
徳川家に入らぬように、江与の方(織田信長の妹)が生んだ駿河大納言忠長を高崎城へ
移し、そこで始末したほどの男である。
折角帝位を徳川の血筋にしたばかりの矢先、御所の掟を破ったのは重々怪しからぬと
土井利勝が全国一世摘発を断行し、抵抗すれば叩っ殺してしまい、女子供は捉えて
長崎送りにしてのけたのである。
 この時の土井の強硬手段に、サンカ絶滅の危機感を持った彼らは、徳川家によって帝位を
奪われた後水尾先帝の院宣によって決起したのが島原の乱なのである。
  つまり島原半島の三角湾が白銀海岸と呼ばれる故事来歴があり、島原半島に、奴隷として売り渡されるために集結させられた者達が、その頃は口の津と呼ばれていた半島突端の、
原の古城は、宣教師達やその従者たちが硝石の倉庫にしていたから、
 
 彼らを襲って殺し占領して、硝石を奪って反乱したのが真実である。
 海外へ積み出されたら、どんな悲惨な状況が待っているか知っていた男女が、死に物狂いで戦ったのである。
 
 この反乱軍の中には関が原で敗走した小西行長の残党も多く紛れ込んでいた。
だから徳川幕府は、全国的な討幕運動を恐れ、切支丹の一揆だと発表し、局地解決を図ったのである。

 余談だが、幕府は天皇や公卿が討幕運動に勅旨を出すのを警戒し、京の周りに多くの大名を動員して、
 十五万人もの兵を駐屯させ見張ったので、兵の慰安のため、京に島原遊郭を設置した。
  この島原反乱を取って「島原遊郭」と名づけたのである。
 さて、この反乱軍があくまでも頑強に幕府軍に抵抗したのは、海外奴隷にされるのは死ぬより恐ろしいと判っていたからだろう。
  そうでなければオランダ商館長が軍艦を派遣し、同じキリスト教の者達を十五日にもわたって連続砲撃をするはずが無い。
  反乱軍はキリスト教などと無関係で、同国人の宣教師を殺して硝石を奪って籠城したから復讐として参戦したのである。
 
 ローマ法王庁には、長崎聖人26人殉死の記録や絵はあるが、戦死者四万人ともいわれる島原の乱に関しては、
もしもこれが殉教なら世界的に無比なことだから特筆されるべきなのに何の記録も無い。
 日本ではキリスト教の旗があったから、切支丹一揆とするが、肝心な法王庁では認めていない。
 
 また、天草四郎なる者が反乱軍の指揮をしたと伝わっている。そして豊臣秀頼の落胤だとか、
豊臣家の旗印を立てて戦ったとか、絶世の美少年だったとか・・・・・
 
 こうしたことは全て後世に作られた与太話で、四郎の首実験をしたところ、何個も首があり
 どれが本物なのか迷ったというが、そんな美少年なら直ぐ判るはずで、
四郎に似た少年も多数奴隷に売るため居ただろうから、それらも大人に混じって必死に戦ったことのこれは裏書に過ぎない。
  だから現代、丸山明宏が、長崎生まれだということからか「自分は天草四郎の生まれ変わりだ」
 と宣言しているが、こういう手合いを歴史知らずの、トンチンカンな勘違い人間という。
 

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