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天下の豪傑藤堂高虎の虚像
(長編なれど面白く書いてます)
講談や大衆小説の類では、藤堂高虎は世にも稀な天下の豪傑として描かれている。
しかし、戦国時代の秀吉と家康時代を生き抜き、伊予半国十五万石の城主にまでなったこの男は豪傑などとは程遠く、その行動は、間諜としてのし上がったしたたかな男だったのである。初め秀吉の走狗となり、次に家康につきその走狗となって豊臣を裏切っている。片桐勝元もその部類で、この時代の武将は多かれ少なかれこれに類した行動は皆やっている。しかし高虎はその中でも主君殺しまでやってるしたたか者なのである。以下にその実像を記す。 高虎の実像
高虎は尾張阿古井の庄の藤堂源助の倅として、弘治二年(1556)に生まれている。さてその年の夏。
阿古井の豪族土田久安の娘が産んだ織田四郎信行は那古野城代林佐渡美作の兄弟に擁され、異母兄である織田三郎信長に取って代わろうと旗揚げした。だが一戦してもろくも敗退した。「からす勘十郎」とも呼ばれていた色黒の信行は、翌年清洲城へ詫びを入れに行ったが、信長は後顧の憂いが有りすぎるからこれを殺して始末してのけた。ついでに末森城の信行の倅も「成人後はうるさいから殺せ」と信長に言いつけられたのが、当時まだ柴田権六とよばれていた後の勝家。 そしてその権六の父権蔵の妻が土田御前の姉で、つまり権六は信行の従兄だった。しかし信長に命じられて信行を伴ってきて殺されてしまった後ゆえ、
「・・・・なにとぞ幼い和子様だけはお許しくだされませ」と大男が這いつくばって助命を嘆願した。 そして許されると権六は、己の姉にその養育を頼み込み、用心棒の如く警護役につけたのが、藤堂高虎の父に当たる源助だった。 さて、信長の異母兄に、三郎五郎信広というのが居た。この人も弘治三年には美濃の斉藤義竜と組んで信長に謀叛しかけたが失敗。のち、 「津田信広」と改名して信長に仕えている内、天正二年九月の長島一向門徒征伐の折に戦死した。 その家名がその儘になっているのを、柴田勝家は信長に願い出て信行の遺児に継がせた。 ついで、津田信澄を名乗るようになると勝家は、明智光秀の二女を貰いうけその室にさせた。 そして勝家は己の働きで信長から譲られた近江大溝の城を二万石の領地をつけ、信澄のものとした。これが勝家の律儀さでもある。 だから長年奉公の藤堂源助の倅高虎もこのため三十貫扶持になれて、大溝城の近習頭となった。 高虎、信長の急死で巧く立ち回る
処がその八年後、高虎三十三歳になった六月。本能寺で織田信長が髪の毛一本残さず爆殺されるという事件が起こった。それゆえ二日当日出発予定の渡海艦隊を整えていた織田信孝を総大将とする四国攻めの本営があった大阪城でも大騒ぎとなった。
住吉浦に停泊中の出発間際の軍船から、次々と船夫ばかりでなく、武者までが裸になって海中へ飛び込み逃げ去る有様に、副将の丹羽長秀も腕をこまねいた。さて、大阪城二の丸には、近江大溝城主津田信澄も詰めていて、近習頭の藤堂高虎も当然共して来ていた。 この混乱に乗じて、高虎に近づき、大巾な扶持加増を餌に謀略を授けたのが、羽柴秀吉の弟羽柴秀長の家臣である。
勿論これは兄羽柴秀吉から出た深謀策である。それはこの後秀吉は「信長殺しは明智光秀」として、近々明智征伐を計画していたからである。 なにしろ、高虎の主君の室は明智光秀の二の姫である。さらに高虎の立場は光秀の娘婿津田信澄近習頭。 そして高虎が授かった謀略の策とは、デマを拡散することであった。 さてその夜からというもの、大阪城内には、
「本能寺の変は明智光秀の仕業じゃそうじゃ・・・・となると二の丸に居る津田信澄は仇敵の片割れ」といった噂が秘かに流れ出した。そこで血迷った信長の三男信孝は丹羽長秀を呼び、すぐさま手勢を率いて津田信澄を襲撃させた。不意を撃たれた信澄は驚き藤堂高虎を呼んだが、デマを流した高虎は、もうその頃には姿をくらましていた。このため津田信澄はここで殺され首を取られてしまい、丹羽長秀の兵たちによって留守の大溝城は荒され、奥方の明智光秀の二の姫も殺された。 高虎、賤が岳の役に間諜本領発揮する
柴田勝家は北国の雪解けを待って天正十一年三月九日越前北の庄を出発し、秀吉と対戦するために十二日近江路の京街道へ出た。
するとその勝家の陣地へ藤堂高虎が手勢五十名を率いて馳せ参じた。勝家はそれを聞くと、「ほう藤堂源助はわしの親爺様権蔵殿の妹婿である。その倅の高虎ならわしには従弟か又従弟に当たろう。よくぞ駆けつけてくれた」と喜び面会した。 高虎は目通りを許されると「手前を先陣に加えて下され」と勝家に申し出た。人の良い勝家は「佐久間盛政が陣を敷いている行市山へいき、そこに加わるがよかろう」と命じた。 さて佐久間盛政は、昨年まで津田信澄の近習頭で三十貫扶持にすぎなかった者が、纏まった手勢を率いてきたのを怪しみ、(はてな・・・・・)と首を傾けたが盛政も勝家の甥だからして「藤堂高虎も縁に繋がる一族ゆえ、かくは無理して人集めしてきたのだろうか」と考え、本陣へ置いた。 そして十九日には、中川清秀のたてこもる秀吉方の大岩城を攻撃し大いに活躍した。そこで盛政が中川清秀の首級をあげると、これを高虎にもたせ、
「この大岩城は要地で、ここを押さえておけば北国街道の隘路口から自由に出られる。よって叔父の勝家へ速やかに本隊を繰り出し秀吉の本陣を攻めるようにしかと言上せい」と繰返し何度も行って聞かせて連絡におもむかせた。 しかし高虎は勝家の本陣へ到着すると、 「佐久間盛政様口上は・・・・大岩山並びに山崎山の敵は下しましたなれど、なにしろ左禰山には堀秀政、田上山には羽柴秀長の大軍が控えていますゆえ、軽々しく動かぬようにとのこと・・・・」 と、まるっきり反対なことを告げた。勝家はまさか従弟の藤堂高虎が嘘を言ってるとは思わず、佐久間盛政に戻ってくるよう命じた。 こうしてもたついてる時、秀吉は今の時間で言うならば午後四時に大垣を発つと、垂井から藤川をへて午後九時には十三里の道を一気に駈けけ戻った。 この知らせを聞いた佐久間盛政は「叔父の勝家が愚図ついていなさるゆえ、かかる結果になったと無念がって、ひとまず行市山へ戻った。 秀吉は賤ガ岳の砦からこの撤収を眺めるや「それッ敵は、わしが戻ってきたのを恐れ、戦わずして崩れ去っておるぞ。追え、皆の者、功名をたてるは今ぞッ」と、 まだ小姓の加藤虎之助や福島市松らにまで、大きな槍を持たせて戦場に送り出した。 これが後には賤ガ岳七本槍として有名になるのである。
このため佐久間盛政の本隊も崩れかけた。すると茂山にあって佐久間勢左側面の援護に当たっていた前田利家が突如裏切った。 だから盛政の本陣が乱れかけた時、それまで味方を装っていた藤堂高虎が、いつの間に引き入れたか羽柴秀長の軍勢の先頭に立ち、挟み撃ちにせんと掛かってきた。この状態を『フロイス日本史』では、 「戦闘は激烈で槍で互いに殺戮し合い、勝敗はつかなかったが、やがて柴田方は、森へ逃げ込み、武具や剣をも棄て、命を全うせんと、折からの暑熱にうだって衣服まで取った。そこで忽然として山頂に一万五千余の半裸体の姿が浮かんで、やがてそれは雪崩をうって敗走した」 といった惨憺たる有様となって、流石の柴田勝家も、己が旗印を毛受庄助に授け、越前北の庄へ逃げさった。が、二日後には羽柴秀吉が前田利家を伴って北の庄を包囲。柴田勝家は於市御前を初め、近臣八十余名と共に、火薬を仕掛けて大爆発の中飛び散って果てた。 この時の手柄で藤堂高虎は秀吉から目通りを許され、八千三百石になった。が、それでは半端だと思われたのか、主君羽柴秀長が二年後に大和郡山へ百万石で移封された際には高虎も増えて「一万石」にまでなったと『武家事紀』には記載されている。
高虎、秀吉の密命で殺しをなす
しかし、高虎でも一回位はまともに戦って名を挙げたこともある。
天正十四年四月に主君秀長の共をして九州攻めに渡海した際のことである。 島津勢が夜討ちをしてきて、宮部善祥坊の率いる四国兵の見城へ押し寄せたとき、藤堂高虎は薩摩兵が秀長の本陣へ近づかぬように、どんどん篝火を焚き、これを迎え撃って島津家久を撃退した。 この手柄で加増され、二万石になった。そして秀吉の命令で高虎は、郡山百万石羽柴秀長の筆頭家老になった。 そこで秀吉の許へ御礼言上のため伺候したところ、秀吉は声を潜め、
「秀長は子なしゆえ、関白秀次の末の弟を養子にさせてあるが・・・・どうも上の小吉秀勝同様に、わしを恨んでいるらしい節がある。よいかそこのところを考えて善処せいや・・・」と、耳打ちする如くに秘かに伝えた。だから天正十九年正月二十二日に、秀長が亡くなり、養子の秀保が跡目を相続し、十四位下参議右近衛権中将になり、ついで翌文禄元年正月には「従三位権中納言」に任官し、名護屋城普請に九州へ渡た。 藤堂高虎も共をして行き、また秀吉に逢った。 「いつかの事、良く用心して見張り、何か在ったら直ぐに自分で知らせに参れ・・・よいか」と言いつかった。 そこで一年おいて文禄三年二月、盛大な秀吉主催の吉野の花見の時、高虎は、
「御長兄秀次様の事は判りませぬが、知行不足を言い立て上様から、先年所領を没収されし次兄小吉秀勝殿と、このところ頻繁に逢っております。どうやら御長兄をも引きずりこまれている模様・・・・」 すると秀吉は顔色を変え「始末せい・・・・」と言いつけた。 秀吉の策謀に高虎応える
信房というのは秀吉の姉の夫で、昔は清洲城で足軽の小頭をしていた一若のことである。
己に子供がないところから秀吉は、その長男の秀次を養子にして関白にさせ、次男を信長の子であった羽柴秀勝の死後、すり替えて同名を名乗らせ、丹波亀山十万石を継がせ、三男を弟秀長の養子にさせたのだが、さて淀君から生まれた秀頼が元気に育ってくると、どうしてもこの三人の兄弟が気になってならなかった。そこでかねて目をつけていた藤堂高虎を、郡山百万石の筆頭家老にさせて様子を窺がわせていたのだが、何か企てていると聞いては、最早ほおっては置けず、(三人兄弟の内、一人でも早く処分せねば)と腹を決めたのである。 この密命を受けた藤堂高虎は、四月十六日(昔は大陰暦だから五月末に当たる)秀保が暑いから水馬をしたいと言い出した。
しめたとばかり、高虎は己の家来の仲から水練の巧みな者を選抜して、川中で水中へ引っ張り込み溺死させた。 そして高虎は「自分が家老として付けられていたのに、申し訳ない、許されるべきことではない」と嘆き悲しみ慟哭して見せ、亡き殿の菩提を弔うため出家すると高野山へ登ろうとした。これ全てが芝居なのだが、これを聞いた秀吉は「天晴れ忠義な者である。わしが召抱えよう」とこれまた芝居で褒めちぎった。
そして伊予宇和郡で七万石の領地をすぐさま与えた。この話しは戦国確定史料の『当代紀』に明白に記載されている。 二万石から七万石へのベースアップは、つまり主君殺しの代償という事になる。 この後『武家事紀』によれば「慶長二年の朝鮮征伐の時、七月に唐島で敵の番船を捕獲、ついでスウエンで敢闘負傷帰朝せり」と勇ましくなっている。 そして『桃山分限帖』では、「慶長三年六月二十二日に、伊予喜多、浮穴二郡の内で一万石加増」とあり、伊予板島城主として八万一千石にまで昇進している。だから藤堂高虎は秀吉を有難がって、豊臣家の為に極力奉公したろうと思うのは、凡人の考えであって、 「慶長三年八月十八日」に、伏見城で秀吉が死ぬと高虎は「てまえの身でお役に立つ事はござりませぬかな」と、
直ちに徳川家康の許を訪れた。そこで家康は、 「誰が見ても藤堂高虎は豊臣恩顧の大名として代表的な存在。それがこの家康に加担して大阪城の事を何かと通知してくれるとは、これは十五万石の価値は楽に在るな」といった。ここで話しが決まって、それからというもの高虎は、大阪城内に在って五奉行の動性を見張り、次々と家康の元へ、報告をしだした。 そのくせ、しきりに悲憤慷慨して、 「今にしてあの狸親爺を打ち倒さんことには・・・・・豊臣家の運命は危ぶまれる。かくなる上は只もう断あるのみで御座ろう」等と言って回った。 これには実直な石田三成などは、すっかり感激してしまい、 藤堂高虎、福島正則をたきつけ、まんまと東軍勝利に貢献した
「豊臣秀保様の菩提を弔うと出家しかけた・・・お人だけの事はある・・・・ああいう誠忠無比な士が揃っている内に旗揚げを致さん」
といった決意をするようになった。そこで東西が風雲急を告げだした。すると変わり身の早い高虎はさっさと本性を現して東軍につき、直ぐ尾張の清洲城へ赴き、 城主の福島正則をつかまえて、「石田三成らは、貴公のことを桶屋上がりの馬鹿者というとるのを、大阪城で散々聞かされてきた」と、 真面目くさって告げたから、単純な福島正則はかっして、 「大阪城内にずっと居た藤堂殿が言われるのは嘘ではあるまい、おのれ憎っくき石田三成め」と、激怒した。 こうして、福島正則は、豊臣恩顧の大名達を清洲城へ集めた。 (加藤嘉明、浅野長政、池田輝政、細川忠興、黒田長政、田中吉政、一柳直盛、桑山元靖らである) そして家康からの使者の村越七十郎を迎えると、藤堂高虎は、 「我らは西軍東軍のいずれにも味方せぬ腹で、この清洲へ集まったのであるが、家康公の思し召しでは、もし御味方すれば所得倍増を約束してくださる」と、一同に図った。福島正則は秀吉の母方の縁者ゆえ、大阪方へたてつく気など初めは毛頭なかった。 何しろ十数余の大名が清洲に集まってきて、豪気な正則はそれらの兵の糧食を一手に引き受けていて、その出費は膨大だった。
手持ちの米も使い果たし、すっかり弱りきっていたので、そこで岐阜攻めの話が出ると、渡りに船と、皆が清洲から出て行ってくれるだろうと賛成した。 八月二十二日。清洲城にいて中立を標榜していた三万五千の兵が、突如行動を開始して木曽川を渡り、西軍側の岐阜城を攻めたから、ここに東軍の形勢が有利になり、翌九月十五日の関が原合戦でも、東軍は大勝利を得た。この結果家康は喜び、
「・・・・局外中立の福島正則ら荒大名をまんまと計って味方とせしは、さすが藤堂高虎だけのことはある」と、 約束通りに伊予半国十五万石に取り立てた。が、その代わり「続けて励めよ」ともいいつかった。 そこで高虎は何食わぬ顔でその後も大阪城へ出入りして、しらばっくれて、「手前一人だに世にあらば、豊家の土台は磐石とご安心あれ」と秀頼や淀君に高言していた。 しかし、また大阪の戦役になるとさっさと徳川方についてしまい、夏の陣には河内八尾で、大阪方の長曾我部盛親と戦って勝った。 しかし家康は、 「間諜には高禄を与えるものではない」と、もう昇禄はさせず、代わりに大阪城焼跡の夥しい竿金や分銅金を褒美に与えた。 しかしこの当時は未だ銀が貨幣であって、金はおかねではなかったら高虎はむくれて、その腹いせに、 「あの狸親爺め・・・・・」と、その金で置物や茶湯台子一式、茶釜を作ってのけた。 文福茶釜に狸が化ける話しは、もうその頃から有ったらしい。 なお、これらの品の一部が、昭和二十年の敗戦前まで藤堂家に在った。これは前日本歴史学会会長の故高柳光寿博士が実際に見ているという。
この後、高虎は家康の下では譜代大名並に扱われ、従四位下左少将の官名だったと「高山公実録」に記されている。 藤堂高虎、寛永七年十月五日死す。享年七十五歳だった。
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寛永御前試合はなかった
文武両道の嘘
現在、映画やテレビの時代劇で「武士は文武両道に通じ」と平然とやっている。
そして寛永時代に御前試合が在って大いに盛り上がった等ともやっている。大体、良く考えてもらいたい。 徳川体制が天下を平定してしまった江戸時代に、国内にはもう敵対する相手もいないのに、
武張った剣術や槍術の調練や稽古をする必要があるだろうか。 逆に治安維持上、これらは取り締まって禁止するべきが常識なのである。
武芸とか兵法は格闘技であり、早い話が殺人の為の技や方法である。 従ってこれらは戦場でしか使われずのものを、天下泰平の世に、治安維持の総本山である徳川将軍家が、まるで国体開催みたいに台覧してまで武道を奨励する訳など無い。 一つ例を紹介すると、播州赤穂に浅野内匠頭の祖父、浅野長政が常陸笠間より入封するまでのここの藩主は池田輝興だった。
この輝興が正保二年に、木刀の素振りをなすのに家臣を相手にさせていた。
これが公儀に知れて「武家諸法度」の反乱予備罪に該当するものとの容疑で、領地を没収され永代身柄預けの処分となった。 のち赤穂浪士の討ち入り騒ぎが、芝居の忠臣蔵になったので、浅野家の前の池田輝興の御家断絶経緯も珍しく明らかにされていて「義士辞典」にも挿入されて今に残っている。
さて、こうした厳しい厳罰の時代だったことを考えると「武士は刀を差す。だから斬り合うに違いない」といった早とちりの単細胞では困る。
警官は拳銃を携帯している。だから直ぐ抜いて発砲するものだと想うのと、全く同じチャンバラ思考である。
それでは寛永時代に御前試合は無かったかというと「御前取組」は確かに在った。これは史実にある。
しかしそれは江戸千代田城吹上御苑とは違う。 それは京の御所での人皇百九代明正女帝様の御前なのである。 明正様は寛永七年九月十一日に御即位された訳だが、まだ御齢七歳だったから、女帝がまさか所望されるはずが無い。 というのは二代将軍徳川秀忠の娘、和子が僅か二万石でしかなかった京の御所へ、化粧料として一万石を持参して入られ、ようやく徳川の力で後水尾天皇を退位させて、和子女御の生んだ皇女が御即位あそばされた。
そこで徳川の血をひく皇統となったそのお祝いの催事ということで、江戸表より和子のお供をして
御所入りし、これまで関東とは諸事異なる御所で馴れぬ苦労をしてきた御中ろうと呼ばれていた女達は、男に飢えていたのか、関東の相撲を観たいとなった。 男が女の裸が好きで、ストリップを見たいというのと同じで、女だって男の裸は好きなのは今も昔も変わりない。これがもっと後世なら野郎歌舞伎になったろう。
さて五木の子守唄の中にも「おどま勧進、勧進」と歌われるように、相撲は今でも「勧進元」の看板が大きな文字で出ているように、昔は全て勧進興行だった。
それを今で言うなら男のストリップの取組を見物し、以前の江戸大奥の女達は、馴れぬ御所勤めの憂さ晴らしとした。 さて問題は御所へ入って取り組みをした相撲たちにおきてしまった。
相撲は今も昔もハングリースポーツに変わりなく、御前試合みたいな勝ち抜き十番勝負が終わり、褒美というか、出演料彼らが頂戴して引き上げて御門を退出の際に、雑色と呼ばれる 御所の雑役の一人が、「あれは紺屋ではないか!!」と数名の者を見つけて指差した。 このことが東下りの和子女御付き女中衆と対立していた後水尾帝の、御櫛の局付きの、昔からの御所全女官の耳に入ったから大騒ぎになった。
(注)何故このようなことになったのかは、日本史では隠されているが、この紺屋という職業は
現在藍染として有名だが、日本原住民のうちのサンカと呼ばれ、時のどんな体制にも属さない、いわば埒外の集団だったから、卑しい者達、卑賤の部族として差別されていたのである。 だから以前、紺屋であったが運動神経抜群だった、吉岡流小太刀の始祖吉岡憲法が、御所で開催された薪能の拝観に、面体を隠し深編笠のままで観ていたのを、指先が紺色に染まっているのを見咎められて、衛士に引っ張り出され、ぐるりと取り囲まれてしまい、
「賤のくせに身の程知らずめ」と、よってたかって突き殺されてしまったという例が在るほどに、御所ではタブーだった。 だからこの騒ぎは、寛永十一年七月十八日に、御所に参内した徳川家光に随伴していた
土井勘三郎利勝に、秘かに耳打ちする如く訴えられた。 これが発端となって直ちに「寛永サンカ狩り」となって、同年五月二十八日に長崎で発布された、 「異国往来、異教宣布禁止令」に引っ掛けられ、日本各地でサンカと睨まれた者達は召し捕られ、 海路長崎へ送り込まれた。 そして数珠繋ぎにされた彼らは、異教徒という名目で海外へ追放された。
この事は長崎犯科帳に「夥しき数」としか記載は無いが、サンカの口伝えでは、 「万にも及んだ寛政狩りこみ」となっている。 土井利勝は八代将軍吉宗の頃の大岡忠相にも劣らぬ辣腕家で、織田信長の血脈が
徳川家に入らぬように、江与の方(織田信長の妹)が生んだ駿河大納言忠長を高崎城へ 移し、そこで始末したほどの男である。 折角帝位を徳川の血筋にしたばかりの矢先、御所の掟を破ったのは重々怪しからぬと
土井利勝が全国一世摘発を断行し、抵抗すれば叩っ殺してしまい、女子供は捉えて 長崎送りにしてのけたのである。 この時の土井の強硬手段に、サンカ絶滅の危機感を持った彼らは、徳川家によって帝位を
奪われた後水尾先帝の院宣によって決起したのが島原の乱なのである。 つまり島原半島の三角湾が白銀海岸と呼ばれる故事来歴があり、島原半島に、奴隷として売り渡されるために集結させられた者達が、その頃は口の津と呼ばれていた半島突端の、
原の古城は、宣教師達やその従者たちが硝石の倉庫にしていたから、 彼らを襲って殺し占領して、硝石を奪って反乱したのが真実である。 海外へ積み出されたら、どんな悲惨な状況が待っているか知っていた男女が、死に物狂いで戦ったのである。 この反乱軍の中には関が原で敗走した小西行長の残党も多く紛れ込んでいた。 だから徳川幕府は、全国的な討幕運動を恐れ、切支丹の一揆だと発表し、局地解決を図ったのである。 余談だが、幕府は天皇や公卿が討幕運動に勅旨を出すのを警戒し、京の周りに多くの大名を動員して、 十五万人もの兵を駐屯させ見張ったので、兵の慰安のため、京に島原遊郭を設置した。 この島原反乱を取って「島原遊郭」と名づけたのである。 さて、この反乱軍があくまでも頑強に幕府軍に抵抗したのは、海外奴隷にされるのは死ぬより恐ろしいと判っていたからだろう。 そうでなければオランダ商館長が軍艦を派遣し、同じキリスト教の者達を十五日にもわたって連続砲撃をするはずが無い。 反乱軍はキリスト教などと無関係で、同国人の宣教師を殺して硝石を奪って籠城したから復讐として参戦したのである。 ローマ法王庁には、長崎聖人26人殉死の記録や絵はあるが、戦死者四万人ともいわれる島原の乱に関しては、 もしもこれが殉教なら世界的に無比なことだから特筆されるべきなのに何の記録も無い。 日本ではキリスト教の旗があったから、切支丹一揆とするが、肝心な法王庁では認めていない。 また、天草四郎なる者が反乱軍の指揮をしたと伝わっている。そして豊臣秀頼の落胤だとか、 豊臣家の旗印を立てて戦ったとか、絶世の美少年だったとか・・・・・ こうしたことは全て後世に作られた与太話で、四郎の首実験をしたところ、何個も首があり どれが本物なのか迷ったというが、そんな美少年なら直ぐ判るはずで、 四郎に似た少年も多数奴隷に売るため居ただろうから、それらも大人に混じって必死に戦ったことのこれは裏書に過ぎない。 だから現代、丸山明宏が、長崎生まれだということからか「自分は天草四郎の生まれ変わりだ」 と宣言しているが、こういう手合いを歴史知らずの、トンチンカンな勘違い人間という。 |
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「寛永御前試合の嘘」
現在、映画やテレビの時代劇で「武士は文武両道に通じ」と平然とやっている。
そして寛永時代に御前試合が在って大いに盛り上がった等ともやっている。大体、良く考えてもらいたい。 徳川体制が天下を平定してしまった江戸時代に、国内にはもう敵対する相手もいないのに、
武張った剣術や槍術の調練や稽古をする必要があるだろうか。 逆に治安維持上、これらは取り締まって禁止するべきが常識なのである。
武芸とか兵法は格闘技であり、早い話が殺人の為の技や方法である。 従ってこれらは戦場でしか使われずのものを、天下泰平の世に、治安維持の総本山である徳川将軍家が、まるで国体開催みたいに台覧してまで武道を奨励する訳など無い。 一つ例を紹介すると、播州赤穂に浅野内匠頭の祖父、浅野長政が常陸笠間より入封するまでのここの藩主は池田輝興だった。
この輝興が正保二年に、木刀の素振りをなすのに家臣を相手にさせていた。
これが公儀に知れて「武家諸法度」の反乱予備罪に該当するものとの容疑で、領地を没収され永代身柄預けの処分となった。 のち赤穂浪士の討ち入り騒ぎが、芝居の忠臣蔵になったので、浅野家の前の池田輝興の御家断絶経緯も珍しく明らかにされていて「義士辞典」にも挿入されて今に残っている。
さて、こうした厳しい厳罰の時代だったことを考えると「武士は刀を差す。だから斬り合うに違いない」といった早とちりの単細胞では困る。
警官は拳銃を携帯している。だから直ぐ抜いて発砲するものだと想うのと、全く同じチャンバラ思考である。
それでは寛永時代に御前試合は無かったかというと「御前取組」は確かに在った。これは史実にある。
しかしそれは江戸千代田城吹上御苑とは違う。 それは京の御所での人皇百九代明正女帝様の御前なのである。 明正様は寛永七年九月十一日に御即位された訳だが、まだ御齢七歳だったから、女帝がまさか所望されるはずが無い。 というのは二代将軍徳川秀忠の娘、和子が僅か二万石でしかなかった京の御所へ、化粧料として一万石を持参して入られ、ようやく徳川の力で後水尾天皇を退位させて、和子女御の生んだ皇女が御即位あそばされた。
そこで徳川の血をひく皇統となったそのお祝いの催事ということで、江戸表より和子のお供をして
御所入りし、これまで関東とは諸事異なる御所で馴れぬ苦労をしてきた御中ろうと呼ばれていた女達は、男に飢えていたのか、関東の相撲を観たいとなった。 男が女の裸が好きで、ストリップを見たいというのと同じで、女だって男の裸は好きなのは今も昔も変わりない。これがもっと後世なら野郎歌舞伎になったろう。
さて五木の子守唄の中にも「おどま勧進、勧進」と歌われるように、相撲は今でも「勧進元」の看板が大きな文字で出ているように、昔は全て勧進興行だった。
それを今で言うなら男のストリップの取組を見物し、以前の江戸大奥の女達は、馴れぬ御所勤めの憂さ晴らしとした。 さて問題は御所へ入って取り組みをした相撲たちにおきてしまった。
相撲は今も昔もハングリースポーツに変わりなく、御前試合みたいな勝ち抜き十番勝負が終わり、褒美というか、出演料彼らが頂戴して引き上げて御門を退出の際に、雑色と呼ばれる 御所の雑役の一人が、「あれは紺屋ではないか!!」と数名の者を見つけて指差した。 このことが東下りの和子女御付き女中衆と対立していた後水尾帝の、御櫛の局付きの、昔からの御所全女官の耳に入ったから大騒ぎになった。
(注)何故このようなことになったのかは、日本史では隠されているが、この紺屋という職業は
現在藍染として有名だが、日本原住民のうちのサンカと呼ばれ、時のどんな体制にも属さない、いわば埒外の集団だったから、卑しい者達、卑賤の部族として差別されていたのである。 だから以前、紺屋であったが運動神経抜群だった、吉岡流小太刀の始祖吉岡憲法が、御所で開催された薪能の拝観に、面体を隠し深編笠のままで観ていたのを、指先が紺色に染まっているのを見咎められて、衛士に引っ張り出され、ぐるりと取り囲まれてしまい、
「賤のくせに身の程知らずめ」と、よってたかって突き殺されてしまったという例が在るほどに、御所ではタブーだった。 だからこの騒ぎは、寛永十一年七月十八日に、御所に参内した徳川家光に随伴していた
土井勘三郎利勝に、秘かに耳打ちする如く訴えられた。 これが発端となって直ちに「寛永サンカ狩り」となって、同年五月二十八日に長崎で発布された、 「異国往来、異教宣布禁止令」に引っ掛けられ、日本各地でサンカと睨まれた者達は召し捕られ、 海路長崎へ送り込まれた。 そして数珠繋ぎにされた彼らは、異教徒という名目で海外へ追放された。
この事は長崎犯科帳に「夥しき数」としか記載は無いが、サンカの口伝えでは、 「万にも及んだ寛政狩りこみ」となっている。 土井利勝は八代将軍吉宗の頃の大岡忠相にも劣らぬ辣腕家で、織田信長の血脈が
徳川家に入らぬように、江与の方(織田信長の妹)が生んだ駿河大納言忠長を高崎城へ 移し、そこで始末したほどの男である。 折角帝位を徳川の血筋にしたばかりの矢先、御所の掟を破ったのは重々怪しからぬと
土井利勝が全国一世摘発を断行し、抵抗すれば叩っ殺してしまい、女子供は捉えて 長崎送りにしてのけたのである。 この時の土井の強硬手段に、サンカ絶滅の危機感を持った彼らは、徳川家によって帝位を
奪われた後水尾先帝の院宣によって決起したのが島原の乱なのである。 つまり島原半島の三角湾が白銀海岸と呼ばれる故事来歴があり、島原半島に、奴隷として売り渡されるために集結させられた者達が、その頃は口の津と呼ばれていた半島突端の、
原の古城は、宣教師達やその従者たちが硝石の倉庫にしていたから、 彼らを襲って殺し占領して、硝石を奪って反乱したのが真実である。 海外へ積み出されたら、どんな悲惨な状況が待っているか知っていた男女が、死に物狂いで戦ったのである。 この反乱軍の中には関が原で敗走した小西行長の残党も多く紛れ込んでいた。 だから徳川幕府は、全国的な討幕運動を恐れ、切支丹の一揆だと発表し、局地解決を図ったのである。 余談だが、幕府は天皇や公卿が討幕運動に勅旨を出すのを警戒し、京の周りに多くの大名を動員して、 十五万人もの兵を駐屯させ見張ったので、兵の慰安のため、京に島原遊郭を設置した。 この島原反乱を取って「島原遊郭」と名づけたのである。 さて、この反乱軍があくまでも頑強に幕府軍に抵抗したのは、海外奴隷にされるのは死ぬより恐ろしいと判っていたからだろう。 そうでなければオランダ商館長が軍艦を派遣し、同じキリスト教の者達を十五日にもわたって連続砲撃をするはずが無い。 反乱軍はキリスト教などと無関係で、同国人の宣教師を殺して硝石を奪って籠城したから復讐として参戦したのである。 ローマ法王庁には、長崎聖人26人殉死の記録や絵はあるが、戦死者四万人ともいわれる島原の乱に関しては、 もしもこれが殉教なら世界的に無比なことだから特筆されるべきなのに何の記録も無い。 日本ではキリスト教の旗があったから、切支丹一揆とするが、肝心な法王庁では認めていない。 また、天草四郎なる者が反乱軍の指揮をしたと伝わっている。そして豊臣秀頼の落胤だとか、 豊臣家の旗印を立てて戦ったとか、絶世の美少年だったとか・・・・・ こうしたことは全て後世に作られた与太話で、四郎の首実験をしたところ、何個も首があり どれが本物なのか迷ったというが、そんな美少年なら直ぐ判るはずで、 四郎に似た少年も多数奴隷に売るため居ただろうから、それらも大人に混じって必死に戦ったことのこれは裏書に過ぎない。 だから現代、丸山明宏が、長崎生まれだということからか「自分は天草四郎の生まれ変わりだ」 と宣言しているが、こういう手合いを歴史知らずの、トンチンカンな勘違い人間という。 |
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「五木寛之が書いたサンカ物語」 第一部 サンカの歴史はアイヌのユーカラのように、口伝えで伝承されている。
彼らは絶対に文字では残さない民族なのである。 昭和になって作家の五木寛之が「小説新潮」に三回連載したのが「風の王国」の一冊として刊行された。これは1985年のことである。
「先ず申し上げておこう。吾々は長い間ずっと口伝えによる文化の伝承を、文字による記録よりも大切にして生きてきた。(中略)しかし心のよりどころとしては文字より言葉、声による口伝えを根本とする」 とその237頁に、浪骨の言葉として、五木寛之は訴えたい事を書いている。
これはこの通りなのである。 そして又サンカを次のようにも表現している。
「―― 山に生き山に死ぬる人びとあり。これ山民なり。
里に生き里に死ぬる人びとあり。これ常民なり。
山をおりて、里にすまず、里に生きて、山を忘れず、山と里のあわいに流れ、旅に生まれ旅に死ぬるものあり。
これ一所不在、一畝不耕の浪民なり。山民は骨なり。常民は肉なり。
山と里の間を流れる浪民は、血なり、血液なり。血液なき社会は、生ける社会にあらず。
浪民は社会の血流なり。生存の証なり。浪民をみずからの内に認めざる社会は、停滞し枯死す。
われらは永遠の浪民として社会を放浪し、世に活力と生命をあたえるものなり。
乞行(ごうぎょう)の意義、またここに存す。乞行の遍路、世にいれられざるときには、 自然の加工採取物をもって常民の志をうく。これ《セケンシ》の始めなり。 山は彼岸なり。里は此岸なり。この二つの世の皮膜を流れ生きるもの、これ《セケンシ》の道なり。
われらは統治せず。統治されず。一片の赤心、これを同朋に捧ぐ。されど人の世、歴史の流れのなかに―――」
これも文学的な上手い表現で秀逸である。
かって五木は「戒厳令の夜」でも、少し触れているが、このサンカを書きたいために「さらばモスクワ愚連隊」を書いてから数十年かかって、ようやく正面切ってというか、
居直って全体の250頁以下に「フタカミ講」と「渾流組」といったものを、小佐野賢治をモデルにしたような、壮大な射狩野グループとの三つ巴の中で、当時世間を騒がせていた連中に迷惑の掛からぬようにとの用心から配慮して、流浪のサンカ集団を、僅か55人の紺脚絆の <へんろう会>の「天武人神講」としている。 中間雑誌の「小説新潮」に三回の連載を加筆訂正してをして本にしたのだが、五木は賢い作家だから「この小説は作者の想像に基づく創作で実際のいかなる団体や人物とも関係が有りません」と書きしている。
これはサンカの子孫が現代でも夥しい数が居て、
古来より間違った理解や、歪められた実像のため一部は差別されている現状に配慮したものであろう。 後書きの後に、参考資料として160余点の書名が列記されているものの、言っては悪いが、まあ増しなのは故宮本常一の「日本民衆史②」の「山に生きる人々」ぐらいのもので、他は「柳田国男著作集」辺りだろう。
肝心な八切止夫の「サンカ生活体験記」を読んでいない。
彼が参考にしたほとんどの部落関係の本は、故菊地山哉が、サンカを差別した、即ち反サンカ側の仏教側資料によって解明しているところのものである。 これは、日本列島に裏日本から渡来してきた騎馬民族に溶け込んで暮らしていた騎馬民族系
サンカ(白サンカ)までしか解明されていないもので、それをその儘に転用して自説としたものにすぎない著作ばかりだからである。 さて、五木の小説に戻る。
同書の252頁から晒野老人の語りとして書かれている部分は良く調べられている。 引用すれば、 「明治十年の竹内街道の工事に、非定住や無戸籍の人々を二上山の南麓の柵で囲んだ窪地へ強制連行してきた」(さながら類人猿でも捕らえたように両手両足を荒縄で縛り棒に通して、
泣き叫ぶ女子供まで、サンカ、サンカと物珍しそうにはやし立てて曳きたててきた)という。 ここのところを原文では葛城哀の言葉として次のように話させている。
「吉野川の河原で捕らえられた者、大和川や石川や、もっと小さな川の付近に<セブ>っていて、捕まったもの。物乞いのグループもありました。蓑直しをやって回って歩いたもの。芸人、雲水、
病人たち。可哀想だったのは、葛城山中で捕らえられた<ケンシ>たちで、両手を縛って棒に通し 熊狩りの帰りみたいに<山窩狩り>だと、大声でわめきながら、ぶら下げられて連れて行かれたといいます」 とのべ、その「連行の理由は」と聞かれると、
「無籍流浪の人間は為政者にとっては困りものです。徴兵が出来ない、税金が取れない。
国家の義務教育を受けようとしない。つまり国民の(条件としての)三大義務を拒否する人々ですからね。 明治政府のみならず、古代から現代に至るまで<サンカ>という奇怪なイメージを大きく膨らませ、様々な猟奇的な犯罪を事あるごとにサンカに押し付け・・・・・」と語らせている。 【(注)】当時の政府は実際に、残酷で猟奇的な当時は誤解と好奇心から多くに読まれた「明治大正犯罪実録」等という本で
サンカを異常性愛者や凶悪犯罪者として描いている。 「大和地方王権の成立以来、人民の定住と戸籍の整備による管理政策は、この列島統治の土台でもあります。古代律令制の始まりとして、670年にいわゆる<庚午年籍>が制定されて以来戸籍は常に権力の基礎でした。にもかかわらず挙国一致体制のもとでも、なお戸籍編入を拒み、国民の三大義務である<徴兵><納税><義務教育>の三つを無視し続けた多くの人々が、この日本列島の地面の下を地下水のように秘かに流動していたことを誰も否定することは出来ないでしょう」 と、流石に五木寛之らしい名文で、判りやすく適格に書かれている
ただ日清戦争の動員の後でさえ、二十数万人、第二次大戦後の昭和24年の時点でなお約14000人、その他様々な職業に就いた人々や、無職で漂白していた人々を加えれば八十数万の人々が、無戸籍で流動していた事実を五木寛之は知らなかったのだろう。
しかし、次の文章では、 それらの体制側から見れば「非国民」を根こそぎ強制的に定着させたのが、昭和27年の朝鮮戦争だった。
この戦争を機に(GHQ指令による徴兵令発布準備のため)国家再編成を進める基本として、全国的に施行された<住民登録令>である。
この法律によって、引越ししたら二週間以内に届出をしないと罰則、という具合に、米穀通帳、国民年金、健康保険、選挙人名簿の一括登録。国民オール背番号制に統一のための住民基本台帳法として完成する政令によって、戸籍を拒否する人間は一人たりともこの国には住まわせないという強烈な国家意志によって、これによって実質的に
千数百年の<浪民>の歴史は表面的にその幕を下ろした。と、明確な筆致で描写している。 おそらく次々の国勢調査の計算に基づき、住民基本台帳法の登録人口数との差し引きで割り出した数字で、
確実な調査法方によってはじき出された数字である事は間違いあるまい。 つまり今時米穀通帳など有名無実に過ぎないのに、米穀登録法の法律が頑として現存しているのもこの訳からなのだと良くわかりうる。 しかし、である。この計算は「住民登録令」のコンピューターに打ち込まれた数字を絶対数値とみなしての差し引き算に過ぎない。選挙権も要らない、健保や年金も欲しくないといった連中が皆無で、
全員が住民登録を完全にしたという根拠は無い。 となると数字は大巾に変わる。 サンカに対して「浪民」といった、優れた造語を作ってくれた五木寛之には敬意を表する。 【(注)】サンカのポリシーは古来より、前記したように、『人間を統治せず、されず、相互扶助』である。
この社会形態は人間の営みにとって最高のしかけではなかろうか。 彼らサンカがこの日本列島へ漂着し、争いも無く平和に暮らしていた時代、大陸から漢字や仏教を 持ち込んで来た統治勢力が、有無を言わさず己らの凶悪な価値観を押し付け、言う事を聞かねば、 奴隷化したり追放や隔離、殺戮したことは、正当化出来るものではなかろう。 これは、平和に暮らしていたアメリカインデアンやペルーやオーストラリアなどの原住民を殺戮、略奪し
統治した白人達の所業と同根である。 そして、幾多の戦争を繰返しながら、農業化社会から封建時代、二十世紀の工業化社会を経て、
二十一世紀の現在に至る情報化社会へと変遷し、欲望と物欲の跋扈する現状を何と見るかである。 そしてもう日本の現状はあの素晴らしいサンカのポリシーへは後戻りは出来ないのである。 となれば現実的に生きていかなければならない。 ゆえに日本も世界に伍して発展しなければならないという三段論法に帰結せざるを得ない。 たとえば、経済的には貧しくとも、文化に対する国民の造詣が深く、素晴らしい芸術を次々と生み出す国があっても一向に かまわない。また、お金を追求する人生ではなく「清く貧しく美しく」という生き方に重点を置く人生があってもいい。 だが、これは価値観の問題なのだが、日本のような先進国の一員とさなった国家が、ここで価値観を180度変えることは もう出来ないだろう。以下にこの考えを基本においての、考察をしてみたい。 それは、簡単に説明すると、20世紀後半から現在にかけてのサイバー化が進んだグローバル経済の世界では、「勝ち組」が 国境を越えて「負け組」からどんどん富を奪い、しかも、その構造が固定化される恐れがあるからである。 今の時代、鎖国をして「我が国はどの国からも奪わないから、その代わりにどの国もわが国から奪わないでくれ」と宣言する ことなど不可能であるということは、世界情勢を怜悧に俯瞰すれば誰でも判ることである。 このサイバー社会には「できるヤツ」と「できないヤツ」の二種類しか存在しないのである。そして現在、両者の格差は、本当の 格差社会とはこのことではないかと思えるほど急速に開いている。即ち、できるヤツに富は集まり、できないヤツは負け続けて いるのである。このことに我々は恐怖と危機感をもつべきである。 その上で、日本人一人ひとりがIQを高めていき、今後も経済的繁栄を維持できる日本を目指すべきなのである。 人々の経済的生活が豊かになればなるほど、世界中で起きている宗教的、民族的、或いはナショナリズム的紛争も解決の 方向へ向かうだろう。何故なら全ての破局は経済的破局に通じるし、中国的に言えば「衣食足りて礼節を知る」ということで ある。 閑話休題。
「五木寛之が書いたサンカ物語」
第二部
さて、サンカの「箕づくり」というのは昔は「ささら衆」と呼ばれ今の流行歌では「ヤン衆」と間違って漁船乗りにされている。 しかし、豊臣秀吉の幼い頃は、甥の福島正則の生家も「ササラ衆」だったし、加藤清正の父親も 「藪塚」の弾正で、つまり竹藪の長吏で、尾張の中村部落では棟梁だったぐらいだから、秀吉の出自もササラの八なのである。 これを日本史では「安国寺文書」に(藤吉郎さりとてハのものにて・・・・)とあるところから
この八をハと間違って「藤吉郎はなかなかの者である」と解釈しているが、全くサンカの歴史を知らないからこうしたトンチンカンな苦し紛れの解釈となる。 秀吉と同じ八の素性だから取り立てた堺えびす島の、田中千阿弥の倅が、ササラ衆しか竹を扱うことが出来ない限定職の掟なのをよいことに、それまでは明国舶来の赤銅製の茶びしゃくや茶托類を、竹細工で代用させ製作させた。これは当時茶道の流行とあいまって莫大な利益になり、ササラ部族は大いに儲けていた。
この時、秀吉に対してササラ衆の謀叛の噂を堺奉行石田木工頭に察知された。 そこで門人の山上宗二を捕らえて尋問した所、大変な陰謀が在ることが判った。 それは、「秀吉はササラの出身なのに、ササラとは真逆の宗旨の坊主共から政治献金させ、先代信長様が未来永劫再建は許すまじと焼き払った、寺々の復興を許すとは、もっての外の沙汰である。よって豊富な軍資金を持って実力にて秀吉を倒さん。」 との謀叛計画であった。 茶の湯の詳細は以下に在。
http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/tyanoyu.htm この謀叛話を聞いた秀吉は烈火の如く怒り「しゃッつら、見るだに憎らし」と石田木工頭の弟で、秀吉が子供のように可愛がっていた懐刀の石田三成に命じて、山上宗二の耳を削ぎ、鼻を削り取ったツンツルテンの生首を、堺の上エビスの木戸にさらさせた。
「刀狩り」と全国的に、太閤検地をさせると同時に、土民共の武器を一切合財取り上げた。
そして千宗易を八付にして殺した。 宗易一派が茶道具を高値でさばき、膨大な利益を得ていたやっかみから、 「これで利も休みじゃろう」と明国よりの舶来茶道具商人は皆喜んで千宗易のことを「利休」とあだ名した。 妻の宗恩も捕らえられ蛇責めにされ、謀叛の詳細な取調べを受けたと、当時の神祇大福吉田兼見卿の 日記には出ていて、その際の千宗易の名前が「理休」と出ている。 さて、一味したササラ衆も、秀吉の朝鮮外征の後顧の憂いのないよう、一網打尽にされ、日本各地のゲットーへ分散して放りこまれた。
大阪以西の各地に散見する部落には、今も「茶セン」の名が残るのが、この時放逐されたササラの子孫なのである。
つまりサンカの箕作りは、太閤検地の二年後に全国的に各地の部落へ収容され、しかし追捕されるのを嫌い逃げたのがサンカササラで、当時はササラの同族の清洲25万石の領主だった福島正則の許へ逃げ込んだのである。
ササラ上がりの有名な豪傑、槍の半蔵と謳われた可児才蔵さえも、正則を頼って逃げ込んでいる。
正則も秀吉の甥なのにこのササラ同族の宗旨で、豊臣家を見限り、関が原合戦では家康側についた。 が、大阪御陣では、家康はササラ族の勢力を恐れて秀忠の居る江戸城に軟禁されてしまう。
後、当時は辺鄙な信州川中島二万石へ福島正則は流罪にされ、そこで死ぬのである。 逃げた箕の作りサンカは、農耕する八の百姓に、昔は米やヒエ、粟の収穫時には必需品だった
箕のを竹細工で作って食物と交換して各地に秘かに行き続けた。 明治になるまで人頭税を納める昔ながらの白の弾正、赤の博士や太夫と違って、 サンカの頭領のオオモト様は、「箕一つ」だけでよく、これが最低の貢物として受け取り、決して贅沢はせず、それを集めて赤サンカに渡して得られる雑穀を、病人や貧しいセブリの者達に施して、相互扶助を続けたのである。 かっては、箕を集めて歩いた世間師のツナギ(連絡係)も明治の全国統一の時代の貨幣制度になると、
かさばらぬように集めた銭も紙幣に変えて、余裕のある処からは少し多めに集めて配った。 明治になってもサンカのオオモトさまさえ、贅沢はせず、サンカ独特のべったら漬けを副食にした粗食で堪え、皆からは崇められたという。
だから「サンカ=箕」という考えは誤りではなく、農耕器具の脱穀機が輸入されるまでは、百姓は箕が必需品で、重要な道具だった。
さて、五木の書いた、二上山のサンカ狩りこみは250人となっているが、日本全国何処でも各地の県令は、中央政府からの任命官僚だから、サンカはただで使い殺しの低コストの労働力として
強制連行して使っていた。 「明治密偵史」には写真が出ているが、箱根登山の人力鉄道のトロッコ押しをさせ、明治になると鉄の鎖が輸入されたので、サンカ八名を一つの柱に括りつけ、これが後の「タコ部屋」の始まりで、
これをやったのは神奈川県の県令だった。 また九州の県令は、西南の役の際、政府軍の危険な最前線の人夫には、棒に括りつけてきた
サンカを強制的に使役し、そのほとんどを使い殺しにしたと伝わっている。 |
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現代ヤクザの考察
先頃、数々の抗争事件を繰り返してきた山口組が分裂した。
週刊誌は何時ものように内情分析の記事がかまびすしい。 山口組専門ウオッチャーも様々に分析しているが、沈黙は金なりとばかり内部からの信頼できる情報は全く出てこない。 これは五代目の出身組織である健竜会の教訓「団結・報復・沈黙」を
体現しているのだろう。 こうした状況下での以下の本は興味深い。 「鎮魂」元山口組盛力会会長。
心ならずも懲役から帰って引退を余儀なくされた盛力健児氏の 六代目山口組に対する批判の書。 「血別」元山口組太田興行組長。
鎮魂の後に出版された、盛力会長の本に真っ向から対立し、盛力会会長と兄弟分である太田興行組長が書いて、六代目を擁護している。 「六代目山口組」取材を元に書かれた六代目誕生の経緯。
「山口組興行とカネの聖域」月刊『宝島』の記事を纏めて一冊にした。
ここでヤクザの擁護論を開陳するつもりは無いし、勿論抗争事件で民間人の死傷等は論外である。
彼らが命がけで組織縄張りを守る行動の先には死や懲役覚悟の固い覚悟があるのだからヤクザどうしが殺し合いをする分には一向に差し支えは無い。一方のカタギの世界だとて、企業間の乗っ取りや合併は権謀術策を駆使して熾烈な戦いを繰り広げ、そのための自殺も多い。これだとて間接殺人といえるだろう。 しかし、警察つまり国家のヤクザに対する暴対法のような悪法は指弾に値するだろう。
現行の法律で十分対応出来るのにこんな法律を作らなければ対抗できない現状は、警察権力の怠慢であるし、勝負あったという事である。 そして暴力団員はゴルフをするな、部屋を貸すな、セキュリテーは受けるな等独裁国家でもあるまいし酷すぎる。
そのうち、道路を歩くな、息をするな、飯を食うなと始まりかねない。 そもそもヤクザを暴力団という新語を造り、その範疇に味噌も糞も一緒くたに括ったのが間違いなのである。
ヤクザには賭博を生業とする博徒と、タカマチで商売をするテキヤが厳然と住み分け、その縄張りは双方侵さないという不文律があった。 やくざが表社会の様々な利権に関わるようになった原因は、彼らの収入源である賭博権を取り上げたことに起因する。 そのくせ、政府のやっていることは競馬の寺銭25%、宝籤にいたっては、一兆円の売上げの中、政府総務省(籤に関連する各種天下り団体含む)、銀行、自治体などで五十三%以上ピンはねをしている。
従って庶民の射幸心を散々煽っておいて四十七%しか支払われていい。 こんな阿漕な商売はヤクザは絶対しないのである。何故なら江戸時代から現在モグリで開帳している博打の寺銭は一割と決まっている。
要は、オカミに寺銭が入るものは許可し、それ以外は認めないという誠に姑息な制度を作っているのが現政府自民党なのである。 自分達の取締の力不足を棚に上げ、ヤクザだけを悪と決め付ける現在の風潮は危険すぎはしまいか。 何故なら、表の世界、つまりカタギ社会の悪行は目を覆うばかりで、警察の不祥事は後を絶たないし、大企業の嘘や、誤魔化し、無責任、不正の隠蔽工作も近頃は目に余る。 さらに国会議員から、村の議員まで選挙違反、公費の乱費、女の問題等々その悪行は数え上げればきりが無い。 全くこれは目糞鼻くその世界である。 ヤクザの発生史
さて、ここで少しヤクザの発生について考えて見たい。
江戸時代八代将軍吉宗の貞享二十年から、今で言うならハイウエーパトロール並の五街道目付という制度が作られ、この役目を担ったのが堂(道)の者と呼ばれていた拝火教徒の流れ遊芸人達が、彼らは平氏の流れをくむ者だから、平氏の民族色は赤だから、目立つように赤い鞘の公刀と捕り縄を持たされ、街道目付となったのである。 そして、彼らに逮捕から裁判、処刑の一切の権限を与えたのである。
後には彼らは様々な土地に定着してヤクザとなり、日本全国の縄張りを決めて、博打のテラ銭で子分を養い、捕物の費用もそこから捻出したのである。 これは徳川幕府のズルイ政策で、人の嫌がるこうした謂わば「汚れ仕事」を彼らにさせ、その上給料も払わず、幕府の財政をけちったのである。 だからそれまで、徳川の御政道で差別されていて、日本各地の別所、つまり除地と呼ばれていた限定地に収容されていた者達が、同族が街道見回り目付となったものだから、
同族の助け合いの精神で、伝達をつけて貰い、各地から秘かに脱出して、仕事があって稼げる江戸や京、大阪へと次々と流入した。 この先鞭をつけたのが誰あろう紀伊国屋なのである。
というのは、紀文(紀伊国屋)の生まれ住んでいた所は、紀州の湯浅別所でここは南北朝の頃、後醍醐天皇の南朝方の土地で、楠木正成や新田義貞らの残党が押し込められていた土地だから、足利時代から「北朝の足利尊氏に敵対したふとどきな者達」と被差別地帯になっていた。
つまり奴隷扱いで死なせても構わない者達として、荒天の蜜柑船にに乗せられたが、船は難破し船主や船頭は死んだので、積荷の蜜柑も相馬で処分、金に変えて江戸へ出たのである。 現在では紀文を蜜柑で大儲けしたと誤っているが、難破船で塩水を被った蜜柑を売ったとて高が知れている。
本当の所は江戸へ出てから、大火の際、復興の材木が高騰し、紀文は各地の山者も同族だから手付金なしの後払いで木材を集め、江戸へ運ばせて巨万の富をつんだのである。 そして故郷の湯浅別所から次々と部落の者達を呼び寄せ、金の力で寺人別も手に入れたのである。
産業も何も無い江戸の人口が130万を越えて当時世界一になった謎はここにある。 こうしたヤクザの歴史は、古く、徳川幕府時代同様に、維新後も警察権が薩摩に移った後も新政府は「壮士」という美名で反政府運動に立ち向かわせ、大いに利用した。
さらに、第二次大戦の敗戦後も、疲弊した警察力を補うため、戦勝国でもない朝鮮人の横暴に、ヤクザや右翼を大いに利用した。 そして戦地から戻った特攻隊崩れや兵隊あがりが新興ヤクザとなり、綺羅星の如く隆盛を誇った。 政治も反共の名の下に、彼らを利用した事実は、多くの書物に詳しく述べられている。 こうした歴史を俯瞰したとき、ヤクザに対する体制側とそれに迎合したマスコミの悪意と虚実に満ちた論評を真に受けて、差別に等しい現在の風潮に疑問を抱かざるを得ない。
従って、 ヤクザの反社会的行動(犯罪)を減らす特効薬として次の政策を実行すれば良い。
それは彼らの伝統職業である賭博を認め、寺銭は所得として申告させ、正当な課税をすればよい。 |







