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戦国時代 戦国武将
日本史の中でも特に戦国時代に焦点を当てております。

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「寛永御前試合の嘘」
 
 
 現在、映画やテレビの時代劇で「武士は文武両道に通じ」と平然とやっている。
そして寛永時代に御前試合が在って大いに盛り上がった等ともやっている。大体、良く考えてもらいたい。
徳川体制が天下を平定してしまった江戸時代に、国内にはもう敵対する相手もいないのに、
武張った剣術や槍術の調練や稽古をする必要があるだろうか。
逆に治安維持上、これらは取り締まって禁止するべきが常識なのである。
武芸とか兵法は格闘技であり、早い話が殺人の為の技や方法である。
従ってこれらは戦場でしか使われずのものを、天下泰平の世に、治安維持の総本山である徳川将軍家が、まるで国体開催みたいに台覧してまで武道を奨励する訳など無い。
 
 
一つ例を紹介すると、播州赤穂に浅野内匠頭の祖父、浅野長政が常陸笠間より入封するまでのここの藩主は池田輝興だった。
この輝興が正保二年に、木刀の素振りをなすのに家臣を相手にさせていた。
これが公儀に知れて「武家諸法度」の反乱予備罪に該当するものとの容疑で、領地を没収され永代身柄預けの処分となった。
のち赤穂浪士の討ち入り騒ぎが、芝居の忠臣蔵になったので、浅野家の前の池田輝興の御家断絶経緯も珍しく明らかにされていて「義士辞典」にも挿入されて今に残っている。
 
さて、こうした厳しい厳罰の時代だったことを考えると「武士は刀を差す。だから斬り合うに違いない」といった早とちりの単細胞では困る。
 
警官は拳銃を携帯している。だから直ぐ抜いて発砲するものだと想うのと、全く同じチャンバラ思考である。
 それでは寛永時代に御前試合は無かったかというと「御前取組」は確かに在った。これは史実にある。
しかしそれは江戸千代田城吹上御苑とは違う。
それは京の御所での人皇百九代明正女帝様の御前なのである。
明正様は寛永七年九月十一日に御即位された訳だが、まだ御齢七歳だったから、女帝がまさか所望されるはずが無い。
 というのは二代将軍徳川秀忠の娘、和子が僅か二万石でしかなかった京の御所へ、化粧料として一万石を持参して入られ、ようやく徳川の力で後水尾天皇を退位させて、和子女御の生んだ皇女が御即位あそばされた。
 そこで徳川の血をひく皇統となったそのお祝いの催事ということで、江戸表より和子のお供をして
御所入りし、これまで関東とは諸事異なる御所で馴れぬ苦労をしてきた御中ろうと呼ばれていた女達は、男に飢えていたのか、関東の相撲を観たいとなった。
 
 
 男が女の裸が好きで、ストリップを見たいというのと同じで、女だって男の裸は好きなのは今も昔も変わりない。これがもっと後世なら野郎歌舞伎になったろう。
 さて五木の子守唄の中にも「おどま勧進、勧進」と歌われるように、相撲は今でも「勧進元」の看板が大きな文字で出ているように、昔は全て勧進興行だった。
それを今で言うなら男のストリップの取組を見物し、以前の江戸大奥の女達は、馴れぬ御所勤めの憂さ晴らしとした。
さて問題は御所へ入って取り組みをした相撲たちにおきてしまった。
相撲は今も昔もハングリースポーツに変わりなく、御前試合みたいな勝ち抜き十番勝負が終わり、褒美というか、出演料彼らが頂戴して引き上げて御門を退出の際に、雑色と呼ばれる
御所の雑役の一人が、「あれは紺屋ではないか!!」と数名の者を見つけて指差した。
 このことが東下りの和子女御付き女中衆と対立していた後水尾帝の、御櫛の局付きの、昔からの御所全女官の耳に入ったから大騒ぎになった。
(注)何故このようなことになったのかは、日本史では隠されているが、この紺屋という職業は
現在藍染として有名だが、日本原住民のうちのサンカと呼ばれ、時のどんな体制にも属さない、いわば埒外の集団だったから、卑しい者達、卑賤の部族として差別されていたのである。
 だから以前、紺屋であったが運動神経抜群だった、吉岡流小太刀の始祖吉岡憲法が、御所で開催された薪能の拝観に、面体を隠し深編笠のままで観ていたのを、指先が紺色に染まっているのを見咎められて、衛士に引っ張り出され、ぐるりと取り囲まれてしまい、
「賤のくせに身の程知らずめ」と、よってたかって突き殺されてしまったという例が在るほどに、御所ではタブーだった。
 
 
だからこの騒ぎは、寛永十一年七月十八日に、御所に参内した徳川家光に随伴していた
土井勘三郎利勝に、秘かに耳打ちする如く訴えられた。
これが発端となって直ちに「寛永サンカ狩り」となって、同年五月二十八日に長崎で発布された、
「異国往来、異教宣布禁止令」に引っ掛けられ、日本各地でサンカと睨まれた者達は召し捕られ、
海路長崎へ送り込まれた。
 そして数珠繋ぎにされた彼らは、異教徒という名目で海外へ追放された。
この事は長崎犯科帳に「夥しき数」としか記載は無いが、サンカの口伝えでは、
「万にも及んだ寛政狩りこみ」となっている。
土井利勝は八代将軍吉宗の頃の大岡忠相にも劣らぬ辣腕家で、織田信長の血脈が
徳川家に入らぬように、江与の方(織田信長の妹)が生んだ駿河大納言忠長を高崎城へ
移し、そこで始末したほどの男である。
折角帝位を徳川の血筋にしたばかりの矢先、御所の掟を破ったのは重々怪しからぬと
土井利勝が全国一世摘発を断行し、抵抗すれば叩っ殺してしまい、女子供は捉えて
長崎送りにしてのけたのである。
 この時の土井の強硬手段に、サンカ絶滅の危機感を持った彼らは、徳川家によって帝位を
奪われた後水尾先帝の院宣によって決起したのが島原の乱なのである。
  つまり島原半島の三角湾が白銀海岸と呼ばれる故事来歴があり、島原半島に、奴隷として売り渡されるために集結させられた者達が、その頃は口の津と呼ばれていた半島突端の、
原の古城は、宣教師達やその従者たちが硝石の倉庫にしていたから、
 
 彼らを襲って殺し占領して、硝石を奪って反乱したのが真実である。
 海外へ積み出されたら、どんな悲惨な状況が待っているか知っていた男女が、死に物狂いで戦ったのである。
 
 この反乱軍の中には関が原で敗走した小西行長の残党も多く紛れ込んでいた。
だから徳川幕府は、全国的な討幕運動を恐れ、切支丹の一揆だと発表し、局地解決を図ったのである。

 余談だが、幕府は天皇や公卿が討幕運動に勅旨を出すのを警戒し、京の周りに多くの大名を動員して、
 十五万人もの兵を駐屯させ見張ったので、兵の慰安のため、京に島原遊郭を設置した。
  この島原反乱を取って「島原遊郭」と名づけたのである。
 さて、この反乱軍があくまでも頑強に幕府軍に抵抗したのは、海外奴隷にされるのは死ぬより恐ろしいと判っていたからだろう。
  そうでなければオランダ商館長が軍艦を派遣し、同じキリスト教の者達を十五日にもわたって連続砲撃をするはずが無い。
  反乱軍はキリスト教などと無関係で、同国人の宣教師を殺して硝石を奪って籠城したから復讐として参戦したのである。
 
 ローマ法王庁には、長崎聖人26人殉死の記録や絵はあるが、戦死者四万人ともいわれる島原の乱に関しては、
もしもこれが殉教なら世界的に無比なことだから特筆されるべきなのに何の記録も無い。
 日本ではキリスト教の旗があったから、切支丹一揆とするが、肝心な法王庁では認めていない。
 
 また、天草四郎なる者が反乱軍の指揮をしたと伝わっている。そして豊臣秀頼の落胤だとか、
豊臣家の旗印を立てて戦ったとか、絶世の美少年だったとか・・・・・
 
 こうしたことは全て後世に作られた与太話で、四郎の首実験をしたところ、何個も首があり
 どれが本物なのか迷ったというが、そんな美少年なら直ぐ判るはずで、
四郎に似た少年も多数奴隷に売るため居ただろうから、それらも大人に混じって必死に戦ったことのこれは裏書に過ぎない。
  だから現代、丸山明宏が、長崎生まれだということからか「自分は天草四郎の生まれ変わりだ」
 と宣言しているが、こういう手合いを歴史知らずの、トンチンカンな勘違い人間という。
日本とアラブのつながり
 
パンダに熱狂する訳
 
新潟美人は白系ロシア(韃靼系)

白鳳文化(はくほうぶんか)とは、645年(大化元年)の大化の改新から710年(和銅3年)の平城京遷都までの飛鳥時代に華咲いたおおらかな文化であり、法隆寺の建築・仏像などによって代表される飛鳥文化と、東大寺の仏像、唐招提寺の建築などによって代表される天平文化との中間に位置する。なお、白鳳とは日本書紀に現れない元号(逸元号や私年号という)の一つである(しかし続日本紀には白鳳が記されている)。天武天皇の頃に使用されたと考えられており(天智天皇のときに使用されたとする説もある)、白鳳文化もこの時期に最盛期を迎えた。
以上が現在通説として理解されている白鳳文化の概要で、これは確かに<続日本紀>にしか記されていない。
    騎馬民族は太古より無税だった
さて、崇神王朝というのは騎馬民族系で遊牧民族である。だから狩猟生活をしていて、農耕や漁撈などは一切していない。そして彼らは明治になるまでは騎馬系の限定地としてここは「除地」として年貢、即ち税金は免除されていた。何故なら、彼らが保護されていたのではなく、昔は収穫物に課税していたから、何も作らずでは税金のとりようがなかったからである。これは日本全国どの天領でも大名領でも行われていた。
江戸時代になると、関東から北は浅草弾左衛門が管理する部族と、関西は京綾部に住む水上の穏坊の管理に入る部族が居た。
これら二つの部族をを合わせると、当時でも一千万人もの人口になったのである。
さて、この騎馬民族も飛鳥時代には曾我川畔に王宮を建てるようになると、それまで住んでいて降伏した日本原住民を使役して工事をさせた。
彼らは積み上げた石に、日本にはいない獅子とか鳳凰、それに鷲などの絵柄をみな彫り付けた。その中でも鳳凰は特に恰好が良く、威厳を誇示するのに恰好なものとみられ、今でもワッショイワッショイと担ぐ御神輿の上につけられている。これは騎馬系厩戸皇子の法隆寺金堂の箱型天蓋の上と同じである。
飛鳥資料館の前庭に並ぶプラスチック製の石像の模型にも、みなはっきりと残されている。
これは「猿石」と呼ばれるものの、裏側の浮き彫りについても、江戸時代の<好古日録>には、なんだか解らぬとみえて、「或いは言う。古昔、石工の戯れになしたるものと伝わるが、そうでもあろう」と藤貞幹が写生画を入れて述べている。だかこれにそっくりなのがペルシャの「グリフィン」と呼ばれる想像上の霊鳥である。
この「グリフィン」は紀元前のアラブのアケメネス王朝の、王宮に在ったペルスポリス柱頭のものが現存している。曽我の王宮は大化の改新の時に焼かれてしまい何も残ってないが、相当に鳳凰の飾りが使われていたようである。
後の源氏となる彼らは民族カラーに白を用いていたから、その時代を現在は白い鳳凰の時代、即ち「白鳳時代」と称するのは、この訳なのだろう。
 黒潮で流れ着いた民族の多い日本列島
この時代の地層から、形からイメージして須弥山石とか二面石、道祖神と呼ばれるアラブ彫刻のある古石が次々と出土されるのは、蘇我氏に制圧されるまではアラブ語の水を意味するアマの王朝がここに栄えていた名残であろう。(日本史では此処を隠して、アマは水なのに逆の天の文字を当てている)
何しろ、前述した猿石の裏側には、大王獅子の葉の浮き彫りさえ見られるが、これとてアラブに今も多いアカンサン彫刻なのである。
こうなると古代、アラブの民が日本列島に住んでいたという証拠になり、繋がってくる。
列島に住み着いた順番にゆけば、西南からの黒潮暖流で「根」の民と呼ばれて、ミクロネシアやポリネシア系の人々が、太平洋岸にばらばらに住み着いた。
次にアレキサンダー大王遠征の時に、アラブの民がマレーシアへ送り込まれたスサやスメラの難民が集団で漂着してきて同化し、神話の天の王朝を立てた。
次は「コシ」の民と呼ばれて、高志とも当て字される越人が、ベーリング寒流に乗ってきて、現在の越前、越中、越後に集団で住み着く。
彼らは韃靼系の白色人種だったので、今でも新潟美人と言われる様な色白なのが多く、秋田美人の土地とともに越の人々の集団地域はその軍団と連合して、やがて大挙して蒙古馬を伴って侵攻して来た曽我の人々に、同じ東北系の人種ゆえ同化した。
外国では左程までに珍重されぬパンダが、日本では熱狂的に愛好されるのも、今でも越人や蘇我人の子孫が、庶民の半分を占めている日本人の血がそうさせるのであろう。かって満州国だったハルピンの先の松花江の上流には、夫余の地名が現在もあるが、沿海州の白荻と呼ばれた部族で、紀元前37年に高句麗を建国した夫余族の民族的マスコットが、パンダだったのである。
北九州も高句麗の植民地だった頃の古名が「白日別」と呼ばれたのも、そうした訳からである。
後に源氏と呼ばれるようになる彼らは、明国に事実上隷属していた足利政権から「白旗党余類」と扱われた史実がある。だから彼らの白を取って「白鳳時代」等と命名するような、日本の歴史屋共には全く呆れ果てて物が言えない。
 
 
       家康に騙された福島正則。
 
 ■数奇な流転をした”明智光秀遺愛の朱槍”について。
 
 
福島正則は関ヶ原合戦では東軍(家康)について戦ってますから、当然家来の可児才蔵も朱槍を持って活躍しています。問題は秀吉の親戚にも当たる正則が何故家康に付いた かですが、ここを考えて見ましょう。
 (少し長くなりますが”槍”と関係あるので)
 福島正則の父親は市兵衛と謂い、ささら者の桶屋だった。
 正則の母が秀吉の母と縁続きの関係だった。
だから秀吉は正則に羽柴の姓を与え<羽柴左衛門大夫>を名乗らせ、これはれっきと した秀吉の身内でもある。(加藤清正も秀吉の親戚に当たる)
 そして父の市兵衛からはいつも「秀吉の恩に報い豊臣の家を守れ」と聞かされ、遺言もそうだった。
 さて、正則は福島市松と呼ばれて小姓の頃、父を長年の桶屋を辞めさせていたせいもあり、他の小姓は住込みだったが、市松は百石を貰って通勤だった。
 秀吉が 山崎円明寺で明智光秀を騙し討ちで倒した後は「播磨神東部内矢野仙分で三百石」を加増されて四百石となり、小姓とはいえ脇武者を傭い乗馬の身分だった。
 
 
   翌年の賤ヶ岳七本槍の一人として加増された時も、他の者は三千石だったが、
 「おみゃあは親戚だで、よおしたるぎゃあ」と、一人だけ五千石にして貰った。
 九州征伐の後は、四国の伊予五郡十一万三千二百石で湯月城主。
  昔の小姓仲間の片桐助作などは三千石の儘だったから大変な差である。
 文禄四年七月には「故郷に錦を飾るというで、尾張を持たしてやらす」と、尾張清洲二十四万石になった。
 
   そしてその条件とでもいおうか、
 「清洲は織田信長公発祥の地で、わしら一門の出た所.....よって何ぞ有った時はここを守って豊臣の家の為に尽くして欲しいぞ」といわれた。
 
  だから正則も、
 「尾張は東西の真ん中に当たる要地、もし大阪表へ押し寄せる反逆の輩が現れましょ うと、この正則が清洲城にて食い止めます」はっきり誓った。又そのつもりでいた。
 慶長五年八月。東西急を告げると正則は、浅野幸長、山内一豊、藤堂高虎、加藤嘉明 といった豊家恩顧の大名を一人残らず清洲城へ召集した。
 
  みな何千とという家来を引き連れていたから、とても清洲城に入りきらず、城下の寺や民家まで割り振りした。
 勿論正則が招いたのだから二万という軍勢の食料も清洲城持ちになった。見る間に城の手持ち米はあれよあれよと無くなった。
 
 その上、他に味噌塩梅干乾魚も必要だから数日たつと膨大な出費となった。
 どんな事があっても東西の中心である尾張は守ります、と誓った手前、
 
  「えい、どうせ元は桶屋渡世....今日の身上は太閤様から貰ったもんじゃ」気前よく散じて、酒まで大がめで求めさせて各陣所へ配らせた。
  「さすが福島左衛門大夫様は豪気じゃ」極めて評判はよろしかったが、そう無尽蔵に銭も銀もありはしない。といって今になって各大名に対して、
 (実は勝手元が不如意になってきたゆえ、一つ割勘か自弁にして貰えぬか)とも言いだせず、辛抱して持ちこたえた。
 
やがて尾張八郡の米は、年貢の前取りのようにまでして集めたがついに底をついた。
 仕方なく隣の美濃から買わせた。
 
   007の諜報員だった村越七十郎
 
処が八月九日に石田三成が六千の兵を率い、垂井へ入ってきて十一日に大垣城へ落着くと向こうも米不足になってきた。
 ちょうどこの時、家康からの使者がやってきた。
  (徳川家康が会津征伐に伏見を出た後で、石田三成が打倒徳川を叫んで挙兵したゆえのこの始末。お陰で豊家恩顧の大名をこの清洲に集めた俺は二万からの者に食い潰されそうじゃ)と、立腹していた時である。
 この時の使者は、家康旗下で、○○七の旗指物で有名な村越七十郎直吉である。天正十二年の小牧長久手合戦の時。
 
   家康が陣割の番号を各自に書かせた処、この村越は七を書くのに、十までは勢いよく筆を下ろして書いたが(さて下を右へ曲げるか左へ折るか?)これがごっちゃに なって判らなくなった。
 そこで筆を握りしめた儘、汗をぼたぼた垂らしながらうんうん唸りだした。
 そこで見かねた家康が、前へ行って(こう曲げるがよい)と手真似で教えた。
 
   すると七十郎は、はあっと勢い良く、眼で見せられた通りに左へ曲げてしまった。
 そこで他の者達が呆れ返ってしまい「これ七十郎、七とはお前の名の字じゃろ。それさえ書けんとは笑止千万」と嗤った。
  しかし家康はそれらの者を叱りつけ、
 「己が名を覚える暇もない位に、この家康に尽くしてくれたは愛いやつめ。よしよし手本を書いてつかわそう」と晒し木綿に自ら筆を執って、
 
   「七」と書いたが上に空白がありすぎた。そこで○を二つ続けて書き、
 「この○○七を其方の旗指物にするがよい」と、手渡したというのは有名な話。
 今では英国でさえイミテーションを作っている位だから(007映画)当時の正則もよく知っていた。
 
ただ惜しむらくは<この印は諜報部員>だということはその時気付かなかった。
 なにしろ、噂通りを真に受けていたから(とんでもない阿呆んだらを、家康めは使者によこしたしたものだ)と舐めてしまい、
 「彼奴めなら警戒の必要もあるまい・・・・中へ入れてやれ」左右の近習にいいつけて しまったのである。
 
さて大広間へ通された七十郎は、居並ぶ豊家恩顧の大名を見回し、
 「わが主人徳川家康よりの口上は、このたびの事は石田三成に売られた喧嘩にて、甚だ迷惑しているが、御貴殿方は、みな清洲城へ集まり絶対中立を守って居られて大慶の至りとの事でござった」と、先ず述べた。そして、 酒の膳がでて呑みだしてから、妙なことを口走った。
 「石田三成はとんだ知恵者でござりまするのう」と洩らした。
 「そりゃ又何故に」藤堂高虎が聞くと、
 
  「何で美濃入りして大垣城へ入ったか?おや、皆様方は御存知無かったのか....」 とんだ事を口にしてしまったと、言わんばかりに七十郎は狼狽の色をみせた。
 
「そこまで口外されたからには、最後まで言いなされ」細川忠興が怒鳴りつけた。
 「....表向きは五奉行など語らって、備前の宇喜多家を総大将になどして居りますが、三成の本心は、又遡って織田家の天下になさん所存。
よって見なされや。自分は大垣城。九州の島津の精鋭を、岐阜城の目の下の州股へ入れておりましょうが」
 思いもかけぬ打ち明け話に一同の者は目をむいた。
 「信長様の御跡目は、孫に当たる三法師君」と決定されたが、その儘になっているのは誰もがよく知っている処である。
 
  そして、その時の三法師が今や二十五歳に成人したが、僅か十三万三千石で、「岐阜中納言織田信秀」として、この清洲から目と鼻の岐阜城に居ることも周知だった。
 
「さては石田三成め、大阪城の実権をもと淀城の城代上がりの大野修理めに奪われたるを根に持ち、意外や織田の天下に戻し、自分が権勢を一人じめする野心か」 「先ず災いの根元である岐阜城をつかん」
 「豊臣家に仇なす元凶を眼前に、我ら日和見することはない」と、衆議一決。
 そこで、八月二十二日の夜明け、福島正則が先頭になって木曾川を越え、竹鼻城を落とし、ついで岐阜城を包囲。翌日ついに落城させてしまったが、この結果、合度で 石田方の先鋒と衝突した。
 
その儘、福島正則ら豊家恩顧大名は、まんまと徳川方の先手の恰好にされ、九月十五日の関ヶ原合戦まで付き合わされてしまったのである。
 
「しまった。阿呆となめて掛かった七十郎は、家康めの謀略の手の者だったのか」 と、正則が気が付いた時は全てが終わっていた。
 合戦後、家康から「よくぞこの家康の為に犬馬の労をとってくれた。礼をいう」
 と、正則は安芸一国に備後二郡合わせた百万石の大名に取り立てられ、従五位下左衛門大夫だった官位も 、家康が奏請して参議にまで昇進させてくれた。
  この後、大阪冬の陣が始まる前から警戒されて、福島正則、加藤嘉明、黒田長政 平野長泰らの豊臣恩顧の大名達は、江戸に呼び出された。
 
そして正則は、 「江戸表御留守居役命ぜられ候」と言い渡され、そのまま小姓二名に供頭可児才蔵と、側室の林の方四名だけで、ていよく監禁される。
 
可児才蔵はこの時脱出を計るも 捕まって、入牢中に舌を噛み切って自決したため、”光秀の朱槍”はこの時取り上げられ、家康は水野勝成に渡す。
 勝成は感激して夏の陣で活躍し、後藤又兵衛を 討ち取っている。八切止夫が 「信長殺し、光秀ではない」を発表した時、日本歴史学会の反論は、会長の高柳 光寿博士が批評として、
 「徳川家康は、光秀遺愛の槍を、家臣の水野勝成に与える時に『光秀にあやかれよ』
 と明言している。もし後年のように、光秀が信長殺しというのであれば、あやかれとは自分を殺せとの意になる。だから家康は光秀をもって信長殺しと見ていない 証拠である。つまり光秀を主殺しにしてしまったのは江戸時代の儒学からである」
 
と、述べていた。つまり歴史学会でも高柳博士のような最高権威は良識をもって 居られるので、反論といっても、結局は同意論になられるのである。
 
  正則が徳川についた理由として、小田原陣の時、北条氏規が僅か五百の兵で立て籠もる韮山城を正則は落とせず、家康の斡旋で氏規が開城を承諾し、正則は面目を保てた。これを大変恩に感じていたので、関ヶ原で家康に味方した、という 側面から書かれた「武将意外史」もあります。
 
  また、秀吉の妻寧々(北の政所)に視点を当てて書かれたものには、豊臣恩顧の大名を徳川につかせたのは、彼女と淀君との確執のため、寧々の力が大きかった としてもいます。
 
これは関ヶ原の後に家康から「お骨おりご苦労だった」と一万六千石貰ってますから、これもうなずけます。
 

水戸天狗党の由来

水戸天狗党の由来

 水戸斉昭は徳川慶喜の実父であるが、朝廷から勅を貰い江戸に取って代わって水戸幕府を開こうとしたが、雄図虚しく死去する。
 だが家臣たちは死後もその意思を継いで、江戸に取って換え世直しをしようとしていた。
その過激派に付けられた名称が天狗党なのである。
 しかし何故天狗党の名が付けられたのかは明らかにされては居ない。
その訳は、当時の有名人だった藤田東湖の遺児で、藤田小四郎を頭に立て、武田耕運斎達が挙兵した。
 そして水戸斉昭の子の徳川慶喜の配慮を願って加賀まで行って、そこで同行の妻や娘諸共入獄され、やがて一人残らず打ち首になる。
 しかし明治になると彼らは揃って追贈位され華族に列せられ、恩賜金さえも給せられている。
 
これは有名な事象で当時人口に膾炙されていた。
 だがこれには陰の主役が有って、それは医者の倅だったため士分で無い田中源蔵の率いる三百人の少年隊だったのである。
 この少年達は、水戸藩の方針で官学の弘道館以外の私学は不要という命令で、私学廃止に反抗した当時の学徒隊だった。
 だが年少の子供達だから、髪を切って童顔を隠すために紙製の天狗の面をかむり、栃木陣屋を襲い土浦城を攻めた。
 これは勿論武田耕雲斎ら、参謀本部が裏で糸を引いていたのである。
そして今の日立市で、昔の助川から八溝山で一人残らず全滅し悲惨な最期を遂げた。
 この事件は当時全国に鳴り響いたので、翌年高杉晋作がその名をバクったのである。

考証赤穂事件


       考証赤穂事件

 江戸は京の真似をし町木戸を作り番人をおき、日没から夜明けまでは鼠しか通れぬようになっていた。
本所の紀伊国屋紀文佐衛門所有の材木小屋に勢揃いした赤穂浪士たちは、吉良邸までの間は町木戸は二しかなかった。
だから、或いは小舟にのっていったかも知れぬが、引きあげの芝高輸泉岳寺までは、元禄版江戸切絵図には町木戸は43倒所もある。
労働組合もなかった当時、こんな43か所の番太郎がすべてストをやっていた筈もないのに、当日に限って全て開いていた。
だから、同じ時代の安藤広重は、こんなことはありえない事なので討入りを描いた続き絵には、往復とも小舟に分乗してゆ
く浪士たちを画いている。
番太郎は大番屋所属で、丁つまり12月は前京奉行から栄転の南町奉行松前伊豆守だった。
12月14日には米沢へゆく吉良が、それまで匿まわれていた麻布狸穴の上杉家中屋敷から、旧近藤登之助の古い本所屋敷へ別かれの茶席へ赴むくという情報を、
赤穂浪士の大高源吾に教えた四方庵山田宗偏はという男は、前の京所司代から一万石加増されて老中となった小笠原備後守の親代々の家来である。
討入りの晩にわざわざ生卵の箱を浪士たちの処に、恭々しく持ってゆき皆に配ってから、励ますように、
 「これは殿よりの下されものなるぞ。精をつけなされ」と言った細井広沢は柳沢吉保の三百石の家臣である。
 「ご助力もうそうか」と紀文長屋へ駆けつけた堀内源太左工門は、松前伊豆守召抱えの捕方共への棒術指南として扶持をうけていた人物。
これみな柳沢の一味徒党である。マフィアなみの体制側の組織なのである。
 そして吉良の首をとってしまうと態度は一変して、全員みな賜死あってしかるべしと進言したと言われるのも、柳沢吉保の五百石の臣の荻生徂来。
事件後幕閣では浪士の処分を巡って随分と意見百出で揉めたという。それを「賜死」即ち死罪の一言でかたづけてしまっている。
この時代は侍に意見などはなく、みな毆の言いなりに行動するのが扶持を頂いている家臣の忠義だった。
 柳沢吉保のマフィアが寄ってたかって吉良を生きたまま米沢へやりたくなかったか理由と言えば何だったかとなる。
それは、箱根以西は銀何匁の貨幣制度で、金はカネではないのを良い事に、古金の大判小判の流通を禁止して京へ送りこみ、
吉良上野介を宰領に堺の中村内蔵助に命じて銅を半分以上混ぜた元禄小判を鋳造し、当時の警察庁長官にあたる仙石伯耆ら幕閤の要所に大盤振舞いをしてのけた。
柳沢吉保は収賄などせず逆に金をばらまいたから明治になって清潔な為政家とし追贈正三位の恩恵さえ受けている。
勘定吟味方にすぎなかった萩原が勘定奉行と、それぞれ金の他に出世させて貰えだのに吉良だけは高家という立場ゆえ金は貰えたが、
望んだ大目付は「吉良殿は御高家ゆえ」と断られ、そんなことなら面白くない、辞める隠居すると口外した。
こうなると、生かしておいて贋金作りを暴露されては危険だと、京よりの勅使が帰る日になって田舎大名の浅野をよび、   
「吉良を殿中にていかようにしても抜刀させい。そちには何んの咎めもない、逆に加増してとらせるぞ」と理由も告げずに命令するなり小笠原らを伴って能の席へ行ってしまった。
ことは大老柳沢吉保みづからの命令である。小藩の浅野は忠犬のごとく吉良を探して廻り見つけると、なんとか抜刀させようと、殺すのが目的ではないから、額を突き肩を突きながら、
「抜け」「武士の情けじゃ抜いて下され」とまで叫んだ。
さては柳沢が殿中で抜刀さて仕置する肚とみてとった賢い吉良は、相手にならず不成功に終ってしまう。
よって、すぐ千代田城の坊主部屋へ入れられ、唐丸駕籠に入れて運び出された浅野は、囗をきかれては困ると、
田村邸に入り扉をあけ首を出したところをバサリと脊後から討首にされてしまう。
そして生きている吉良のの跡仕末は、甘言をもって浅野浪人にやらすべしとなった。
だから、せっかく上杉家より弐万両もだして作らせていた頑丈な呉服橋の吉良邸は、私邸なのに強引に没取してしまう。
代りに辺鄙な本所のボロ屋敷が柳沢吉保より与えられた。そして首尾よく殺せば再仕官させるとの巧餌で討入りの便宜も計ったのである。
ゆえ吉田忠左エ門らが泉岳寺へ行く途中で大目付仙石の役宅にわざわざ経過報告にまで行っている。
「主君の浅野も使い棄て、浪士も使い棄て」で、これではあまりにも可哀そうすぎると、当時の江戸の庶民は同情し、早速芝居にした。
当時の幕府は、芝居や音曲の興行許可権も握っていたから、本名では差しさわりがあるので、「仮名手本忠臣蔵」とた。
そして、吉良を高師直、浅野を塩屋判官と変え上演。これが大阪でも大当たりした。
こうして芝居では「判官びいき」の言葉もうまれてくるのである。
「春本壇の浦合戦」の主人公にされた九郎法眼義経のことではない。
強権で押さえつけられ、生活苦にあえいでいた江戸の庶民は、この事件の裏にはきっときな臭い権力の陰謀があると嗅ぎつけていたのだろう。
一方の上方歌舞伎や浄瑠璃では、銅をどんどんまぜて小判を作っていた中村内蔵助が、祇園の一力茶屋を連夜かりきってのダダラ遊びだし、
女房も負けじと嵐山で衣裳くらべの日本におけるフアッションショウの元祖となる見世物を開いた。
現在、この時の錦絵を見て「元禄時代は絢爛豪華な文化の爛熟期だっ」としている。
が、柳沢の超インフレ政策で、生活苦に喘ぐ庶民や、多くの庶民が野垂れ死にをしていた悲惨な実態を全く見ていない。

そこで当時、西では有名な斎藤内蔵助を一力の場にだし芝居は大当りをとった。
庶民たちは、まさか柳沢吉保がそこまで巧妙に筋書をたてて、吉良邸内には兵隊なみの三名一組ずつが斬りこみ、上野介を見つけると邸外へ曳きずりだしてきて処分。
それまでは大身の者や老人は外部にいて近所の旗本屋敷で手焙りを借りたり白湯を貰っていたにすぎないのでも、一緒くたに死罪にしてしまうとまでは思っていなかった。
だが、哀れ踊らされ、再就職の罠にかかった大石より、乞われて上杉家より行き、同夜いきなり不意に入口でつき殺された家老の小林平八郎が同行していたので、せめて彼の名
誉だけでも回復せねばとの、幕末になって貸本のベストセラーになった式亭三馬の「女忠臣蔵」の中では、若くて良い男にさせた上で、華やかな女衣裳で泉水の
石橋の処で、浪士の一人を凍る水中へ蹴落すような武勇伝に仕立てあげさせたのである。



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