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家康に騙された福島正則。 ■数奇な流転をした”明智光秀遺愛の朱槍”について。
福島正則は関ヶ原合戦では東軍(家康)について戦ってますから、当然家来の可児才蔵も朱槍を持って活躍しています。問題は秀吉の親戚にも当たる正則が何故家康に付いた かですが、ここを考えて見ましょう。 (少し長くなりますが”槍”と関係あるので) 福島正則の父親は市兵衛と謂い、ささら者の桶屋だった。 正則の母が秀吉の母と縁続きの関係だった。 だから秀吉は正則に羽柴の姓を与え<羽柴左衛門大夫>を名乗らせ、これはれっきと した秀吉の身内でもある。(加藤清正も秀吉の親戚に当たる)
そして父の市兵衛からはいつも「秀吉の恩に報い豊臣の家を守れ」と聞かされ、遺言もそうだった。 さて、正則は福島市松と呼ばれて小姓の頃、父を長年の桶屋を辞めさせていたせいもあり、他の小姓は住込みだったが、市松は百石を貰って通勤だった。 秀吉が 山崎円明寺で明智光秀を騙し討ちで倒した後は「播磨神東部内矢野仙分で三百石」を加増されて四百石となり、小姓とはいえ脇武者を傭い乗馬の身分だった。 翌年の賤ヶ岳七本槍の一人として加増された時も、他の者は三千石だったが、 「おみゃあは親戚だで、よおしたるぎゃあ」と、一人だけ五千石にして貰った。 九州征伐の後は、四国の伊予五郡十一万三千二百石で湯月城主。 昔の小姓仲間の片桐助作などは三千石の儘だったから大変な差である。 文禄四年七月には「故郷に錦を飾るというで、尾張を持たしてやらす」と、尾張清洲二十四万石になった。 そしてその条件とでもいおうか、 「清洲は織田信長公発祥の地で、わしら一門の出た所.....よって何ぞ有った時はここを守って豊臣の家の為に尽くして欲しいぞ」といわれた。 だから正則も、 「尾張は東西の真ん中に当たる要地、もし大阪表へ押し寄せる反逆の輩が現れましょ うと、この正則が清洲城にて食い止めます」はっきり誓った。又そのつもりでいた。 慶長五年八月。東西急を告げると正則は、浅野幸長、山内一豊、藤堂高虎、加藤嘉明 といった豊家恩顧の大名を一人残らず清洲城へ召集した。 みな何千とという家来を引き連れていたから、とても清洲城に入りきらず、城下の寺や民家まで割り振りした。 勿論正則が招いたのだから二万という軍勢の食料も清洲城持ちになった。見る間に城の手持ち米はあれよあれよと無くなった。 その上、他に味噌塩梅干乾魚も必要だから数日たつと膨大な出費となった。 どんな事があっても東西の中心である尾張は守ります、と誓った手前、 「えい、どうせ元は桶屋渡世....今日の身上は太閤様から貰ったもんじゃ」気前よく散じて、酒まで大がめで求めさせて各陣所へ配らせた。 「さすが福島左衛門大夫様は豪気じゃ」極めて評判はよろしかったが、そう無尽蔵に銭も銀もありはしない。といって今になって各大名に対して、 (実は勝手元が不如意になってきたゆえ、一つ割勘か自弁にして貰えぬか)とも言いだせず、辛抱して持ちこたえた。 やがて尾張八郡の米は、年貢の前取りのようにまでして集めたがついに底をついた。 仕方なく隣の美濃から買わせた。 007の諜報員だった村越七十郎 処が八月九日に石田三成が六千の兵を率い、垂井へ入ってきて十一日に大垣城へ落着くと向こうも米不足になってきた。
ちょうどこの時、家康からの使者がやってきた。 (徳川家康が会津征伐に伏見を出た後で、石田三成が打倒徳川を叫んで挙兵したゆえのこの始末。お陰で豊家恩顧の大名をこの清洲に集めた俺は二万からの者に食い潰されそうじゃ)と、立腹していた時である。 この時の使者は、家康旗下で、○○七の旗指物で有名な村越七十郎直吉である。天正十二年の小牧長久手合戦の時。 家康が陣割の番号を各自に書かせた処、この村越は七を書くのに、十までは勢いよく筆を下ろして書いたが(さて下を右へ曲げるか左へ折るか?)これがごっちゃに なって判らなくなった。 そこで筆を握りしめた儘、汗をぼたぼた垂らしながらうんうん唸りだした。 そこで見かねた家康が、前へ行って(こう曲げるがよい)と手真似で教えた。 すると七十郎は、はあっと勢い良く、眼で見せられた通りに左へ曲げてしまった。 そこで他の者達が呆れ返ってしまい「これ七十郎、七とはお前の名の字じゃろ。それさえ書けんとは笑止千万」と嗤った。 しかし家康はそれらの者を叱りつけ、 「己が名を覚える暇もない位に、この家康に尽くしてくれたは愛いやつめ。よしよし手本を書いてつかわそう」と晒し木綿に自ら筆を執って、 「七」と書いたが上に空白がありすぎた。そこで○を二つ続けて書き、 「この○○七を其方の旗指物にするがよい」と、手渡したというのは有名な話。 今では英国でさえイミテーションを作っている位だから(007映画)当時の正則もよく知っていた。 ただ惜しむらくは<この印は諜報部員>だということはその時気付かなかった。 なにしろ、噂通りを真に受けていたから(とんでもない阿呆んだらを、家康めは使者によこしたしたものだ)と舐めてしまい、 「彼奴めなら警戒の必要もあるまい・・・・中へ入れてやれ」左右の近習にいいつけて しまったのである。 さて大広間へ通された七十郎は、居並ぶ豊家恩顧の大名を見回し、
「わが主人徳川家康よりの口上は、このたびの事は石田三成に売られた喧嘩にて、甚だ迷惑しているが、御貴殿方は、みな清洲城へ集まり絶対中立を守って居られて大慶の至りとの事でござった」と、先ず述べた。そして、 酒の膳がでて呑みだしてから、妙なことを口走った。 「石田三成はとんだ知恵者でござりまするのう」と洩らした。 「そりゃ又何故に」藤堂高虎が聞くと、 「何で美濃入りして大垣城へ入ったか?おや、皆様方は御存知無かったのか....」 とんだ事を口にしてしまったと、言わんばかりに七十郎は狼狽の色をみせた。 「そこまで口外されたからには、最後まで言いなされ」細川忠興が怒鳴りつけた。
「....表向きは五奉行など語らって、備前の宇喜多家を総大将になどして居りますが、三成の本心は、又遡って織田家の天下になさん所存。 よって見なされや。自分は大垣城。九州の島津の精鋭を、岐阜城の目の下の州股へ入れておりましょうが」 思いもかけぬ打ち明け話に一同の者は目をむいた。 「信長様の御跡目は、孫に当たる三法師君」と決定されたが、その儘になっているのは誰もがよく知っている処である。 そして、その時の三法師が今や二十五歳に成人したが、僅か十三万三千石で、「岐阜中納言織田信秀」として、この清洲から目と鼻の岐阜城に居ることも周知だった。 「さては石田三成め、大阪城の実権をもと淀城の城代上がりの大野修理めに奪われたるを根に持ち、意外や織田の天下に戻し、自分が権勢を一人じめする野心か」 「先ず災いの根元である岐阜城をつかん」 「豊臣家に仇なす元凶を眼前に、我ら日和見することはない」と、衆議一決。 そこで、八月二十二日の夜明け、福島正則が先頭になって木曾川を越え、竹鼻城を落とし、ついで岐阜城を包囲。翌日ついに落城させてしまったが、この結果、合度で 石田方の先鋒と衝突した。 その儘、福島正則ら豊家恩顧大名は、まんまと徳川方の先手の恰好にされ、九月十五日の関ヶ原合戦まで付き合わされてしまったのである。
「しまった。阿呆となめて掛かった七十郎は、家康めの謀略の手の者だったのか」 と、正則が気が付いた時は全てが終わっていた。 合戦後、家康から「よくぞこの家康の為に犬馬の労をとってくれた。礼をいう」 と、正則は安芸一国に備後二郡合わせた百万石の大名に取り立てられ、従五位下左衛門大夫だった官位も 、家康が奏請して参議にまで昇進させてくれた。 この後、大阪冬の陣が始まる前から警戒されて、福島正則、加藤嘉明、黒田長政 平野長泰らの豊臣恩顧の大名達は、江戸に呼び出された。 そして正則は、 「江戸表御留守居役命ぜられ候」と言い渡され、そのまま小姓二名に供頭可児才蔵と、側室の林の方四名だけで、ていよく監禁される。 可児才蔵はこの時脱出を計るも 捕まって、入牢中に舌を噛み切って自決したため、”光秀の朱槍”はこの時取り上げられ、家康は水野勝成に渡す。 勝成は感激して夏の陣で活躍し、後藤又兵衛を 討ち取っている。八切止夫が 「信長殺し、光秀ではない」を発表した時、日本歴史学会の反論は、会長の高柳 光寿博士が批評として、
「徳川家康は、光秀遺愛の槍を、家臣の水野勝成に与える時に『光秀にあやかれよ』 と明言している。もし後年のように、光秀が信長殺しというのであれば、あやかれとは自分を殺せとの意になる。だから家康は光秀をもって信長殺しと見ていない 証拠である。つまり光秀を主殺しにしてしまったのは江戸時代の儒学からである」 と、述べていた。つまり歴史学会でも高柳博士のような最高権威は良識をもって 居られるので、反論といっても、結局は同意論になられるのである。 正則が徳川についた理由として、小田原陣の時、北条氏規が僅か五百の兵で立て籠もる韮山城を正則は落とせず、家康の斡旋で氏規が開城を承諾し、正則は面目を保てた。これを大変恩に感じていたので、関ヶ原で家康に味方した、という 側面から書かれた「武将意外史」もあります。 また、秀吉の妻寧々(北の政所)に視点を当てて書かれたものには、豊臣恩顧の大名を徳川につかせたのは、彼女と淀君との確執のため、寧々の力が大きかった としてもいます。 これは関ヶ原の後に家康から「お骨おりご苦労だった」と一万六千石貰ってますから、これもうなずけます。 |
家康に騙された福島正則
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