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〔武川町・水害の村〕(「武川村誌」)
本村の地形、河川の要因から特筆すべきことは水害である。本村の歴史は水害史であり水との闘いの歴史である。村内を流れる河川の上流は勾配が急で、西都山岳地帯が豪雨に襲われると急激に増水し、脆弱な地盤を浸食し、風化し易い花崗岩地帯を崩壌させ、一挙に土石流を押し出し、堤防を決壊して氾濫し、人家や家畜や田畑を流失して甚大な被害を与え、時には尊い人命まで奪うことがしばしば繰り返えされたのである。大水害により、耕地は川原と化し、農作物は流失または埋没し、堤防、道路、橋梁は寸断され、住民はこれらの復旧の諸普請に追われ、なおかつ、自らの耕地の田普請を強いられ、困窮のため、潰百姓が続出し、水害を免れた土地の質入れ、住居を安全な土地への移転などに迫られ、その生活は普請手当や拝借米によって僅かに露命をつなぐ苦闘の連続であった。このようななかにあって村役人は水害による年貢の減免と復旧工事の歎願に奔走したのであるが度重なる水害の反復は村を極度に疲弊させたのである。
殊に上三吹上河原の釜無川と尾白川・大深沢川の合流点付近は郡下屈指の水難場で度重たる堤防の修築や附属施設工事にもかかわらず、出水のたびごとに河床を上げ、堤防を決壊して氾濫し、住民の立ち直る余裕もなく、大水害を繰り返えしてきた。
また、大武川は急流で延長も長い上に、石空川の水を加えて流下する暴れ川で、洪水を起こし易く、柳沢、山高、黒沢の水田、下三吹に大被害を与えてきたのである。
これらの水害による困窮のあらわれとして三吹村の代助郷がある。三吹村は、元禄二年(一六八九)から甲州道中台ケ原宿助郷役を勤めてきたが打続く水害により極度に困窮した。隣村である宮脇、黒沢、山高、柳沢、牧原、新奥の六か村は窮状をあわれみ、代官所へ願い出で、寛政八年(一七九六)代助郷を勤めた。しかし、これらの六か村も困窮に詰り、文化五年(一八○八)大八田村外三か村が代助郷を勤めるに至った。
歴史上特に激甚な惨害を被ったのは、明治三十一年九月六日の上三吹と昭和三十四年八月十四日の七号台風による下三吹、新開地の災害である。前者は、同十年月九日勅使として侍従日根野要三郎の巡視を賜り、後者は同年八月二十六目時の岸信介首相、福田農相の実地視察を受け慰侐激励され、村民また復興に奮起したのである。殊に昭和三十四年の災害復旧には四年有余の歳月と三五億円の巨費を投じ大武川の流路工、護岸工事等近代的国土建設の理想的工事淋施され、以後流路工一砂防ダム、床固工事、治山工事が施工され安全基盤が確立された。
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