柳沢吉保公

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柳沢吉保公 簡略年譜
・ 万治元年 16581歳
・ 12月28日江戸四谷門外の堀端横丁に生まれる。父安忠57歳。幼名・弥太郎。
・ 寛文4年 1664 7歳
・ 綱吉に初お目見得する。
・ 寛文11年 1671 14歳
・ 館林家に小姓として仕える。・綱吉と衆道の契りを結ぶ。(?)
・ 寛文12年 1672 15歳
・ 元服して名を房安と改める。
・ 延宝3年 1675 18歳
・ 父安忠致仕のあとを受けて家督を継ぎ、保明と改めて小姓組番衆となる。12月8日、曽雌定子に結納を贈る。
・ 延宝4年 1676 19歳
・ 2月18日、16歳の定子と結婚。
・ 延宝5年 1677 20歳
・ 妙心寺派江戸龍興寺に竺道穐尚に初めて禅を学び公案を授かる。
・ 延宝8年 1679 22歳
・ 御小納戸役となり530を賜わる。
・ 延宝9年 1680 24歳
・ 4月、300石加増。従六位下、布衣を許される。・西久保に屋敷を賜わり、家を建て、生母を引きとる。
・ 天和2年 1682 25歳
・ 正月元旦の読書始めに「大学」を講じ、これが毎年の恒例となる。
・ 天和3年 1683 26歳
・ 2百石の加増をうけて計1030石となる。
・ 貞享元年 1684 27歳
・ 堀田正俊が稲葉正休に斬殺されたのを、牧野成貞が将軍に知らせようと脇差を持ったまま御座所に入ろうとしたのを、保明が諌める。西久保から西の丸下の邸に移る。
・ 貞享2年 1685 28歳
・ 12月、従五位下、出羽守に就任。
・ 貞享3年 1686 29歳
・ 2030石となる。
・ 貞享4年 1687 30歳
・ 保明の子安揮(吉里)生まれる。生母は染子。・保明の父、安忠没する。八十六歳。
・ 元禄元年 1683 31歳
・ 神田に知足院建立に際して普請総奉行となり、その功績が認められて側用人に任じられ1万石の加増を受ける。
・ 元禄2年 1689 32歳
・ 神田橋内の邸に移る。
・ 元禄3年 1690 33歳
・ 2万石を加増、計32030石となる。・12月、従四位下に叙せられる。
・ 元禄4年 1691 34歳
・ 3月、綱吉のお成りを初めて受ける。以後58回に及ぶ。
・元禄5年 1692 35歳・3万石の加増を受けて計62030石となる。
・ 元禄6年 1693 36歳.
・ 安揮(吉里)を初めて連れて登城する。
・ 元禄7年 1694 37歳
・ 1月7日、1万石を加増されて計70030石となり、川越城主となる。・武蔵国入間郡三富村の開拓を始める。・11月、幕府評定所に列座する。
・12月、侍従職に任じられて老中職に準ずる。
・ 元禄8年 1695 38歳
・ 六義園の造営に着手。千川上水より水を引く。・綱吉来邸、四男の経隆、初お目見得する。
・ 元禄9年 1696 39歳
・ 荻生狙株が儒者として仕える。・綱吉来邸、五男の時睦、初お目見得する。
・ 元禄10年 1697 40歳
・ 7月26日、2万石を加増されて、計92030石となる。・十月、紀伊国屋文左衛門と会う。・家臣の儒者、細井広沢の進一言により帝陵の修復工事を始める。・40歳の祝いに、綱吉から脇差と鳩の杖、大屏風などを賜わる。
・ 元禄11年 1698 41歳
・ 上野の東叡山に根本申堂を営造するにあたり、普請総奉行をつとめ、その功績妙認められて左近衛少将を任じられる。中堂完成にあたっては将軍名代をつとめる。
・ 元禄12年 1699 42歳
・ 9月、柳沢邸で裁判を開き、将軍これを見る。・安揮(吉里)越前守に任じられる。
・ 元禄13年 1700 43歳
・ 6月から8月にかけて病気となり登城を休み、将軍の使者が見舞いに来訪する。
・ 元禄14年 1701 44歳
・ 桂昌院を別邸の六義園に招く。・11月16日、出羽守を改め美濃守となる。さらに松平の称号を与えられ、名を吉保と改める。
・ 元禄15年 1702 45歳
・ 4月5日、神田橋の上屋敷を焼失。・5月、2万石を加増されて計112030石となる。
・ 元禄16年 1703 46歳
・ 鶴姫を六義園に招く。
・ 宝永元年 1704 47歳
・ 12月21日、綱豊に替わって、甲斐国の国主となる。禄高151288石となる。
・ 宝永2年 1705 48歳
・ 甲府城を受け取る。・4月12日、塩山の恵林寺において武田信玄公百三十三回忌法要を営む。・家宣を六義園に招く。
・ 宝永6年 1709 52歳
・ 1月14日、綱着の死去に従い役職を退く。・6月3日、剃髪して駒込の別邸六義園に閑居す。る
・ 正徳4年 1713 57歳・
・ 十一月二日、駒込村の別邸六義園において没する。甲府の永慶寺に葬る。

柳沢吉保公略歴

 柳沢吉保(やなぎさわよしやす)

1658(万治1)・12・8−1714(正徳4)・11.2。
江戸幕府の老中、5代将軍徳川網吉の則近として活躍、甲府藩主。通称は十三郎、のち主税、弥太郎。実名は房安、佳忠、信元、保明。1701(元禄14)年11月将軍の片諱(いみな)と松平姓をもらい、松平吉保と称す。上野国館林藩主徳川綱吉の臣柳沢安忠の5男として江戸に生まれ、幼時から綱岩の小姓として仕え、1680(延宝8)年、網吉が将軍となると従って江戸域にはいり、小納戸役となる。柳沢氏は、甲斐源氏一条氏の支流で武川衆の一員。武川衆の祖一条源八時信の6男時光は青木村(韮崎市清哲町)に住して青木氏を称し、その6世尾張守安遠の2男信興の5男信俊(青木源七郎と称し柳沢信兼の遺跡を継ぐ)は、武田信玄・勝頼に仕え、武田氏滅後は武川衆の一員として徳川家康に従い各地に武功をあげた。信俊の2男安忠は初め徳川忠長に仕え、のち館林宰相綱吉の神田館に仕え勘定頭となり、高160石、扶持米370俵を禄した。吉保の父である。吉保は綱吉より12歳年少で、幼時から小姓として仕え、また網吉の儒学の弟子として聡明で落ちついた性格であったので、その愛顧をうけること著しく異例の出世をとげた。1681(天和1)年加増されて830石を領したのをはじめとして、1683年
には1030石、1685(貞享5)年12月、従5位下出羽守に叙仕、1588(元手豪1)年11月、南部直政とともに、則(そば)用人となり、1万石加増。1690〈元禄3)年、さらに2万石加増、従四位下に進む。翌年3月、網吉は神田橋内の吉保の邸に臨み、以後将軍の来臨はひんばんとなり計58回に及んだという。1692年2万石、1694年1万石加増され計72030石、武蔵川越城主となり、侍従に任ぜられ、老中格に昇進。1694(元禄11)年には左近衛権少将に昇り「座班老中の上にあるべし」と命ぜられ、大老格となり幕臣としては最高位に進む。1704(宝永1)年、甲府中納言徳川綱豊が将軍網吉の嗣子となるや甲駿2国に移封、翌年3月駿河の封地を甲斐に移され、甲斐15万石、申府城主となる。将軍家一門並みの破格な待遇であった。1709(宝永6)年網吉の死とともに退官、除髪して傑山と号し、江戸の別邸六義園(東京・巣鴨)に隠居、57歳で没す。この間、将軍網吉の則近として活躍、儒学者荻生徂徠、細井広沢らを保護して文治政策を推進、元禄の政治の中心となる。一方、領国甲斐においては、甲府城の修築、城下町甲府の整備などを行ない甲府の最盛期といわれ、また通用を禁止されていた甲州金を復活し、幕末までの甲斐の流通貨幣の基礎をつくるなど、多くの実をあげた。柳沢氏領有時代の甲斐は、商品生産の向上、広範な小農民の自立がみられ、養蚕(東都、郡内地方)ブドウ(勝沼地方)、タバコ(甲府盆地山間部)、木綿(西郡地方〉、和紙(市川、西島〉などの生産が急激に高まった時期であった。吉保の墓は、初め竜華山永慶寺(黄檗宗、甲府市岩窪町)に営まれたが、のち恵林寺に移され、永慶寺は大和郡山に移された。
<「山梨百科事典」山梨日日新聞 S62 斎藤典男氏著>

関連サイト
http://blogs.yahoo.co.jp/hakusyunetto/27641501.html

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