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第166回学習会報告
 
5月25日(土)に第20章「単純再生産」の第10節「資本と収入 可変資本と労賃」の続きをやりました。本節は今回が4回目でしたが、何とか読み終えることができました。
 
第10節 資本と収入 可変資本と労賃(第4回)
 
 前回は「その年の再生産の色々な要素の転換を研究しようとするならば」(原書443頁)で始まる第27段落の冒頭部分の議論に時間が取られてしまい(*)、この段落はやり残してしまいました。そのため、今回はこの段落の続きから始めました。
 
*前回議論になったのは、マルクスの再生産論では社会的総生産物の諸転換がどの時点でどのように行なわれると想定されているのかということでした。今回、前回の議論を踏まえて再度議論をしたのですが、これは本報告の末尾で触れたいと思います。
 
1 年間生産物の可変資本部分の転換には、前貸しされた可変的貨幣資本の還流と再生産された労働力の復帰がともなう
 
 この段落以降、マルクスは、年間生産物の可変資本部分の転換が、資本家による労働者への労賃の支払いと労働者の消費手段への支出等によって媒介されていることを、具体的に明らかにしようとしています。
 社会的再生産が正常に進行するためには、流通過程を通じて諸生産物が必要な諸部門に再配置されるだけでなく、労働力も再生産されて労働市場に再登場しなければなりません。労働市場は商品市場とは別です。労働力の労働市場への再登場の条件は何でしょうか?
労働者は生産過程で「剰余価値の他に自分の労働力の価格の等価を商品で供給し」、その“代価”として「彼は自分の労賃をポケットにもって」います。労賃の支出では労働者は「常にただ商品(消費手段)の買い手として現われ」ます(原書443頁)。
「他方、年間生産物は再生産(草稿は「新生産」)の全ての要素を含んでいなければならず、生産資本の全ての要素、したがってまたことにその最も重要な要素である可変資本を回復しなければならない。そして、実際にわれわれが見たように、可変資本については転換の結果として次のようになるのである」(同前)
 「商品の買い手として、自分の労賃の支出によって、また買った商品の消費によって、労働者は、自分が売ることのできる唯一の商品である労働力を維持し、再生産する。すなわち、この労働力を買うときに資本家が前貸しした貨幣がその資本家の手に帰ってくるように、労働力も、この貨幣に転換できる商品として、労働市場に帰ってくるのである」(同前)
 資本家のもとで労働力の購買のために貨幣資本として機能した可変資本は彼にもとに帰ってきますが、これに付随するように労働力の方も再び販売しうる状態で労働市場に戻ってきます。
 このことは500Ⅱvおよび1000Ⅰvのどちらにおいても確認できることですが、後者の場合は、その転換過程に二つの部門が絡んでいます。
「資本家Ⅰの側には貨幣での1000v――これに対して、労働者Ⅰの側には1000の価値ある労働力があり、したがって、全再生産過程Ⅰがまた新たに始まることができる。これが転換過程の一方の結果である。/他方、労働者Ⅰの労賃の支出は、1000cだけの消費手段をⅡから引きあげ、こうしてそれを商品形態から貨幣形態に転化させた。Ⅱは、Ⅰから商品=1000vを買うことによって、その消費手段をこの貨幣形態からⅡの不変資本の現物形態に再転化させ、これによってⅠにはその可変資本価値が再び貨幣形態で還流する」(原書444頁)
「可変資本Ⅰは三つの転化を行なうのであるが、これらの転化は年間生産物の転換では全然現われないか、またはただ暗示的に現われるだけである」(同前)
 マルクスは、Ⅰの可変資本が取る形態に注目してその転換を辿っています。
 (1)第一の形態は、貨幣形態での可変資本です。この貨幣は労働力に転換されますが、この転換そのものは労働力の売買ですから、商品交換としては現われません。しかしその結果、労働者階級Ⅰは1000の貨幣を携えて商品販売者Ⅱに相対することになります。
(2)第二の形態は、「可変資本として機能する唯一の形態」すなわち労働力あるいは労働そのものです。この形態は生産過程だけに属するので、年間生産物の転換には現われません。
(3) 第三の形態は、可変資本が生産過程の結果のなかに自己を実証した形態です。それは年間価値生産物すなわちⅠ(1000v+1000m)=2000Ⅰ(v+m)です。1000vは創造された価値の半分に過ぎません。この商品形態での1000vは商品資本の可変価値部分ですが、それ自体は可変資本とは言えません。これが可変的な貨幣資本になるのは、ⅠvがⅡcに対して販売されることによってです(労働力の再現がともなうことも必要)。
 「全てこれらの転変が行なわれるあいだ、資本家Ⅰはいつでも可変資本を自分の手の中にもっている。(1)最初は貨幣資本として。(2)次には自分の生産資本の要素として。(3)そとあとでは自分の商品資本の価値部分として、すなわち商品価値として。(4)最後に再び貨幣として、であって、この貨幣には労働力が、すなわちこの貨幣が転換できる労働力が、再び相対するのである」(原書445頁)。
 
2 可変資本はいつでも何らかの形態で資本家の手の中にあるのだから、それが誰かにとっての収入に転換されるとは決して言うことができない
 
 マルクスは、以上のことから次のような結論を導き出しています。
可変資本はいつでも何らかの形態で資本家の手の中にあるのだから、それが誰かにとっての収入に転換されるとは決して言うことができないのである。商品での1000Ⅰvは、むしろⅡに売られることによって貨幣に転換されるのであって、このⅡのためにそれはⅡの不変資本の半分を現物で補填するのである」「収入に分解するのは、可変資本Ⅰ、つまり貨幣での1000vではない。この貨幣は、労働力に転換されてしまえば、可変資本Ⅰの貨幣形態としては機能しなくなる……労賃として受け取られた貨幣が労働者階級の手の中で経験する様々な転換は、決して可変資本の転換ではなくて、貨幣に転化したこの階級の労働力の価値の転換である」(同前)
 可変資本は貨幣→生産要素(労働力)→商品資本の一部分→貨幣というように形態を変えて行きますが、資本として形態を変えるだけであって資本家は資本そのものを手離すわけではありません。確かに貨幣は労働者の手に移るのですが、それは可変資本が収入に転化したことを意味しません。労働者が労働力を販売したからこそ貨幣が彼の手に移ったのです。収入に転換するのは労働力の価値であって、労働者の手に渡った貨幣は収入の貨幣形態(労働者の収入)として消費手段に支出されます。
 これは、「資本−収入転化」把握の例として示された「(1)可変資本は資本家の手の中では資本として機能し、賃金労働者の手の中では収入として機能する」(原書437頁)という第一の観念に対する、年間の生産物の転換の視点からの反論(結論)だということができます。
 
3 資本家が労働者に労賃を支払ったあとでもその貨幣が彼らの貨幣だという妄想を抱くのはなぜか?
 
 「労賃として受け取られた貨幣が労働者階級の手の中で経験する様々な転換は、決して可変資本の転換ではなくて、貨幣に転化したこの階級の労働力の価値の転換である。それは、ちょうど、労働者がつくり出した価値生産物(2000Ⅰ(v+m))の転換がただ資本家の所有する商品の転換であるだけで労働者には何の関係もないのと同じことである。しかし、資本家は――そして彼の理論的通訳である経済学者はなおさら――、労働者に支払った貨幣が相変わらず彼すなわち資本家の貨幣だという妄想からなかなか抜け出ることができない。もし資本家が金生産者であれば、可変価値部分――すなわち彼のために労働の購買価格を補填する商品での等価――そのものが直接に貨幣形態で現れるのであり、したがってまた、還流という回り道を通ることなしにまた新たに可変貨幣資本として機能することができる」(原書445頁)
 マルクスは、労働者による労働力の販売と労賃の取得は、通常の商品取引と何ら変わらないと言います。労働者は労働力という彼の商品を売った代価として貨幣を得るのですから、この取引の結果、この貨幣が労働者のものであることは明らかです。ところが資本家(およびその代弁者の経済学者)は、労働者の手に渡った貨幣であっても資本家の貨幣であるとの妄想を持つのはどうしてでしょうか? ここに金生産者の事例が引き合いに出されているのは何故でしょうか?
 Ⅰ部門の資本家が、労働者に支払った後でもその貨幣が彼のものだと思い込むのは、貨幣が還流してくるということに目を奪われているからだ、との発言がありました。この点について、少し考えてみたいと思います。
金生産者が出てくるのは、事態を本質的に把握するためだと思われます。金生産者の場合は、マルクスの説明からも明らかなように、金生産物で労賃が支払われます。そして労賃として支払われた金生産物は金生産者である資本家のもとには戻って来ません。ここでは労賃の原資が生産物のv部分であることが明瞭に現われています。これとは違い、Ⅰ部門では自らの生産物で労働力の代価が支払われるわけではありません。貨幣で支払われます。この貨幣はⅠvが販売されることを見越して支払われるのです。その意味ではⅠvは労賃の原資なのですが、そのことは金生産者の場合とは異なって直接的には現われません。労賃の原資は本質的には彼らが生み出したⅠvにあるのですが、この貨幣が最初に資本として現われ、そして再び資本家のもとに還流することに惑わされて「労働者に支払った貨幣が相変わらず彼すなわち資本家の貨幣だという妄想」が生じるというわけです。
 500Ⅱvについてはどうでしょうか?
 「500vそのものが労働者の消費にあてられるべき商品として存在するのであって、この商品を労働者は、総労働者として見れば、自分が労働力を売った相手である同じ総資本家から直接に再び買うのである。資本Ⅱの可変価値部分は、その現物形態から見れば、大部分が労働者階級の消費にあてられるべき消費手段から成っている。しかし、労働者がこの形態で支出するものは、可変資本ではない。それは、労賃であり、労働者の貨幣であって、それがこの消費手段に実現されるというまさにそのことによって、それは資本家のために可変資本500vをその貨幣形態で回復するのである」(同前)。
ここで述べられていることは、これまでも何度も確認してきたことです。分かりにくいのは、そのあとに続く文章です。
 「可変資本Ⅱvは、不変資本2000cと同じに、消費手段として再生産されている(草稿は「存在している」)。前者も後者も、収入には分解しない。収入に分解するものは、どちらの場合にも労賃なのである」(同前)
 「前者も後者も、収入には分解しない」とはどういうことでしょうか? ここでの前者と後者とは、可変資本Ⅱvと不変資本2000cのことです。両方とも素材としては消費手段なのですから、収入に分解すると言っても構わないように思えますが、そうではないというのです。労賃が収入に分解すると言うのです。商品資本Ⅱのc部分(正確にはⅡcの半分)とv部分は、労働者との取引の結果、労働者の手に渡ると労働者の収入になることは明らかです。つまり、ⅡcもⅡvも商品として販売された結果、収入に分解するのですが、労賃が転換したものだという訳です。「収入に分解しない」とは、ⅡcもⅡvも資本家Ⅱの手元で商品資本Ⅱの諸部分として存在している限り収入とは見なせない、ということだと思われます。
 「しかし、労賃が収入として支出されることによって、一方では1000cが、またこの回り道を通って1000vが(草稿は「また…1000Ⅰvが」が丸括弧になっている―引用者〕、また同じく500vが、したがって不変資本も可変資本も(可変資本の場合には一部分は直接の、一部分は間接の還流によって)、再び貨幣資本(草稿は「可変貨幣資本」)として回復されるということは、年間生産物の転換における一つの重要な事実なのである」(原書446頁)とあります。年間生産物の転換と労働力の回復が社会的再生産の基本的条件なのですが、それを媒介する貨幣が前貸ししたところに還流してくること(可変資本の場合は貨幣資本として還流する)も、重要な条件だというのです。
 以上で本節は終わりになります。本節はスミス流の「資本−収入」転化把握に対し最終的な決着をつけた箇所だとも評されたりするのですが、スッキリしたでしょうか? 
 
4 「生産過程に先行するまたは並行する流通過程」の意味するもの(マルクスの再生産論の前提・想定についての議論)
 
前回の学習会で問題になった第27段落の前半部分について再度論議しましたので、ここで触れます。
まず第一文の「その年の再生産(草稿は「年間再生産」)の色々な要素の転換を研究しようとするならば、過去の年間労働すなわちすでに終わった年の労働の結果をも(草稿には「も」はない)研究しなければならない」(原書443頁)ですが、これは本章の第一節「問題の提起」で述べられていることを要約して述べたものであることが確認されました。つまり社会的再生産の考察は商品資本の循環の形式で考察されなければならないということです。この循環で出発点になるのが前年の年間生産物です。これがこの年に持ち込まれ、この諸成分が流通を経て社会が必要とする諸部門に再配置されて、この年の生産要素や個人的消費の要素として消費され、その結果、この年の生産物として結実するということです。
そうなると、2000cとⅠ(1000v+1000m)との交換が「この年の3分の2労働日とこの年以前に支出された3分の2労働日との交換であり、この年の労働時間と前の年の労働時間との交換である」(「この年」は新日本出版社版では「今年」と訳されています)という第7節の叙述と時制上の不整合が生じるとの議論が再燃しそうですが(前年の3分の2労働日と前々年の3分の2労働日との交換でなければならない、云々)、第7節は第2草稿の「貨幣流通媒介なしの叙述」の部分から採られており、したがって生産諸部分の転換がいつ行なわれるのか(年初なのか年末なのか等)ということは問題ではなく、本節との時制上の整合性を気にすることはない、との発言があり、特に異論はありませんでした。
「この年間生産物を生み出した生産過程は、われわれの後ろにあり、すでに過ぎ去っており、その生産物になってしまっている。まして、この生産過程に先行または平行する流通過程、潜勢的な可変資本から現実の可変資本への転換、すなわち労働力の売買に至っては、なおさらのことである」(同前)です。前半の、生産過程が生産物からみると過ぎ去っているというのは当然です。後半の「この生産過程に先行または平行する流通過程、潜勢的な可変資本から現実の可変資本への転換、すなわち労働力の売買に至っては、なおさらのことである」ですが、「生産過程に先行または並行する」するというのが「潜勢的な可変資本から現実の可変資本への転換」(労働力の売買)に限定されて言われているのか、それとも流通過程全般について言われているのかハッキリしない面がありますが、そのあとの展開では労働力の売買のことが取り上げられていることから、ここでは労働力の売買の過程だと理解しました。そのうえで問題になるのは、それが「生産過程に先行または並行する」とはどういう状態のことなのかということです。
労働力の売買(労働力商品の流通)が「生産過程に先行」するのは言うまでもありません。では「(生産過程に)並行する」とはどういう事態をいうのでしょうか? 
「労働市場はもはや当面の商品市場の一部分をなしてはいない。労働者はここではすでに自分の労働力を売ってしまっただけではなく、剰余価値のほかに自分の労働力の価格の等価を商品で供給した。他方、彼は自分の労賃をポケットにもっており、この転換では常にただ商品(消費手段)の買い手として現れるだけである」(同前)
この文章だけではハッキリしないのですが、少し先で「資本家は、労働者の力がすでに長短の一定時間働いてからはじめて労働者に支払うのが常だから」(原書445頁)とあるので、労賃は後払いが想定されているものと考えられます。すると、次のような事態が考えられます。
〈前年の生産物が生産手段や消費手段の形でこの年の流通過程に入り込む。同時に労働者も週払いとか月払いといった形で雇われ、前年の生産物である生産手段と結合してこの年の生産に従事する。労賃は事後に支払われ、労働者がこれで前年の生産物である消費手段を購入する。〉
参考に第2草稿にある以下のような文章が紹介されました(*)。なお、これは第2草稿の「媒介する貨幣流通の叙述」の箇所にある文章ですが、現行版には採用されていません。
*第2草稿では、部門Ⅰが消費手段生産部門になっています。この部門の価値構成は400c+100v+100mです。一方の第Ⅱ部門(生産手段生産部門)の構成は800c+200v+200mです。アンダーライン部分はマルクスの強調。
【つまり,この取引の終わりには,部門Iの資本は,ふたたび100ポンド・スターリングの貨幣を携えて部門Iの労働者に相対し,部門Iの労働者は,ふたたび100ポンド・スターリングの労働力の売り手として部門I の資本に相対するのである。だから,ここでのように,消費手段を生産する部門Iの資本が毎年1回だけ回転する場合には,今年の,たとえば1870 年の生産物は,来年の1871年の全年を賄うのに足りなければならない。他方,1871年には1872年に必要なものが生産されることになるのであり,1870年には1869年の生産物が消費されたのである。この想定では,すべての生産物について,ただ,農産物の一部分にとって現実に生じていることだけが前提されている。こういう状況のもとでは,たとえば1870年に,この年の経過中に,部門Ⅰの資本家が労働者に100ポンド・スターリングを支払い,労働者がこれで,彼ら自身が前年の1869年に生産した消費手段の一部分を買い戻す。この購買によって100ポンド・スターリングは,1870年のうちに部門Iの資本家に還流する。部門Iの資本家は,ふたたび1871年に,この100ポンド・スターリングで労働者に支払いを行なう,すなわち労働者は,ふたたび1871年に,この100ポンド・スターリングと引き換えに,彼らが1870年に生産した消費手段の一部分で支払いを受けるのである。/今年に消費される消費手段の一部分は,実際には,つねに,前年から受け継がれた商品在庫として存在する。】(MEGA /11.S. 426. 16-33.大谷禎之介訳)  
 ここでは消費手段生産部門の商品資本のv部分の転換が考察されています。この部門の資本回転は年1回だと想定され、労働者は、前年に生産された消費手段を消費しながら(消費手段は「前年から受け継がれた商品在庫として存在」する)、翌年の生産過程に従事するものとされています。
このような想定は、第8草稿から採用された本節の想定と基本的に同じように思えますが、そう断言するには材料が足りません。例えば資本の回転数の問題。この引用では年1回転と想定されていますが、たまたまこの箇所でそのように想定しただけなのでしょうか? ちなみに、第1草稿では、第3章「流通と再生産」の冒頭の文章に「資本の回転は年1回であると前提しよう」(『資本の流通過程「資本論」第2部第1稿』199頁)とありますので、少なくとも第1草稿に限っては資本の回転が年1回であるという前提で展開されていることになりますが、この前提は後に書かれた第2草稿、第8草稿においても貫かれているのでしょうか?
これには、幾つかの意見が出されましたが、一つに集約するには至りませんでした。ここでは、出された意見をランダムに紹介するに留めます。
〈現実には回転数の異なる個別諸資本が存在し、それらが相並んで資本循環を描いて年間生産をしている。例えば、年初には前年の生産物である生産手段を使って生産されるが、年度途中になると、前年の生産物の生産手段だけでなくこの年の生産物である生産手段も使って生産が行なわれるようになったりする。それを集約・総計したのがW’(総商品資本=社会的総生産物)なる。再生産表式ではその価値総額が9000になっている。使用価値としてはそのすべてがその年の生産物であるが、価値としてはその3分の2が前年の価値、3分の1がこの年の価値ということになる。再生産表式では、W’が年初に一括して転換を遂げるように見えるが、そういうことではない。〉
〈マルクスは、ケネーの経済表を、年間の無数の取引をたった5本の線に総括していると高く評価したが、再生産表式についても同じようなことが言えるのではないか。9000の価値をもつ前年の生産物があり、それが1年間かけて(部門内交換と部門間交換)生産部面と個人部面とに再配分され、これが消費されると同時に新たな生産が行なわれる、このようにして年末に総生産物に結実する、というイメージではないか。そうだとすると、あまりにも現実離れした想定のように思える。〉
〈再生産表式では、前年の生産物がその年の生産および消費の出発点になっている。つまりその年に消費(生産的消費と個人的消費)するのは前年の生産物である。このことさえ押さえられていれば、その生産物が年初に一挙に転換されるのではなく、一年間をかけて徐々に転換されると考えても問題はない。現実には回転期間の短い個別資本がいくらでもあり、その場合は今年の生産物である生産手段を生産要素として使用するのであるが、こうしたケースを前提にしてしまうと年々の再生産の考察という課題から離れてしまうことにならないか。年々の再生産という設定はマルクスの恣意ではなく、年々の再生産を問題にしたケネーやスミスに対応したものではないか〉
〈再生産表式では、資本が年に何回転しようが、その年の生産過程で使用される生産手段は前年の生産物だということが前提されている。そしてその年に生産された生産物は、翌年の生産と消費のための生産物だということになる。〉等々
(雅)

【当面の日程】
◎第1巻学習会
〈日時〉6月8日(土)午後6時から
〈会場〉豊島区西池袋第二集会室
〈範囲〉第1部3篇「絶対的剰余価値の生産」の第6章「不変資本と可変資本」前半

◎第2期第167回学習会
〈日時〉6月22日(土)午後6時から
〈会場〉豊島区西池袋第二集会室和室
〈範囲〉第2部第3篇第20章「単純再生産」の第11節「固定資本の補填」前半

5月11日(土)第1巻の学習会を行いました。第3篇「絶対的剰余価値の生産」第5章「労働過程と価値増殖過程」の第2節「価値増殖過程」の残りと、第6章「不変資本と可変資本」の初めの4分の1をやりました。次回は以下のとおりです。
◎次回日程
【日時】6月8日(土)午後6時から
【場所】池袋西池袋第二区民集会室
【範囲】第3篇「絶対的剰余価値の生産」第6章「不変資本と可変資本」の第7パラグラフから
*以下は次回案内チラシです。前回の学習会報告も掲載されています。興味深い議論が行なわれました。是非お読みください。
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第165回学習会報告➀の続き

第165回学習会報告②
 
①年間生産物とは終点のW’であるとの立場(最初の発言)に立った解釈
<仮に1870年を「この年」とすると、この年の生産物は同年(1870年)の終点のW’ということになる。これを生み出した生産過程は同年のそれ(1870年の循環の…P…の部分)である。「この生産過程に先行または並行する流通過程」とは、1870年の流通過程(W’−GW)であり、流通するのは1870年の生産物である。この年の生産物は終点のW’であり、その転換は翌年の1871年に行なわれ、この生産物のⅠ(v+m)とⅡcとの交換は、1870年の労働時間と1869年の労働時間との交換である>
 
②年間生産物とは起点のW’であるとの立場(最初の発言への反論)に立った解釈
 <1870年の年初のW’(起点のW’)の転換(流通)が課題になっているとの想定である。このW’は1869年の年間生産物であり、この生産物は1870年に入り込んでいる。この生産物を生み出したのは1870年の前年すなわち1869年の生産過程(1869年の循環のP)ということになる。さらに「この生産過程に先行または平行する流通過程」とは、1869年の流通過程W’−GWであり、流通するのは1868年の生産物である。それは1869年の生産過程に入り込んで、同年の生産物として結実する。それは1870年の起点W’となって流通するが、ここで行なわれるⅠ(v+m)とⅡcとの交換は、1869年の労働時間と1868年の労働時間との交換である>
 
 この二つを比べて気が付くことは、瓜二つだということです。前者が1870年と1871年を中心に見ているのに対し、後者は1869年と1870年を中心に見ています。年間生産物の価値構成とこの年に行なわれた労働との関係を問題にする場合は、商品資本の循環の終点W’を観察する①の把握の仕方のほうが便利です。しかしこれは、年間生産物がどのように転換するか(再配分されるか)を考察するうえでは不向きです。1871年に位置を変えなければならないからです。
先に指摘したことですが、年生産物の転換という問題を扱うのには②の把握の仕方のほうが自然で合理的です。
問題はⅠ(v+m)とⅡcとの交換をどう捉えるかということになります。
①の場合、変換が行なわれるのは1871年だとされており、その内容は「1870年の労働時間と1869年の労働時間の交換」です。1870年末時点では「今年の労働時間と前年の労働時間の交換」と言えても、1871年時点では「前年の労働時間と前々年の労働時間の交換」になります。
同様に②の場合、「転換が行なわれるのは1870年であり、その内容は「1869年の労働時間と1868年の労働時間の交換」になります。1869年末時点では「今年の労働時間と前年の労働時間の交換」になるのですが、1871年時点では「前年の労働時間と前々年の労働時間の交換」ということになります。
どちらの場合も、生産年の年末時点でないと「今年の労働時間と前年の労働時間との交換」とは言えないのです。生産年の年末に一挙に生産物の諸成分の転化が行なわれるものと想定することによって、言葉どおり理解できます。しかしこの想定は、退けられています。
筆者は、訳文が誤解を招いている面があるではないかと思いました。
第7節の「今年の労働時間と以前の年の労働時間との交換である」は新日本出版訳からのものですが(長谷部訳も同じでした)、岡崎訳(国民文庫訳)は「この年の労働時間と前年の労働時間との交換」となっています。ドイツ語のdieses Jahr(英語はthis year)が「今年」とも「この年」とも訳されているわけですが、「今年」だと誤解を招きやすくなるように思います。たとえば1869年の生産物は同年中は「今年の生産物」ですが、1870年になると「去年(または前年)の生産物」になってしまいます。しかし1869年の生産物が「この年の生産物」とされるなら、1870年になっても「この年の生産物」はあくまでも1869年の生産物ということになります。したがって、第7節の文章もdieses Jahrが「この年」と訳されるなら、齟齬があると見られた疑問も解消されるように思われます。
 第10節のこの部分と第7節のあの部分は「時制」が違うという趣旨のメールを貰いました(発言した本人とは別人から)。それは第7節が問題にしている生産物(ⅡcとⅠ(v+m)はその中に含まれる)は年初のWではなく、前年の終点のWであり、マルクスはこれを「今年」の生産物として論じている、と(どちらも同じ生産物ですが、時点つまり時制が違うということでしょう)。頷ける指摘です(dieses Jahrが「この年」と訳されるなら、もっとベターです)。
 筆者は、年間生産物が「今年の労働の生産物」だとされている場合は、それは今年の終点のWのことだと考えていたのですが、少なくとも第10節のこの段落に出てくる「この年間生産物」とは起点のWと見なすべきではないか、と思い直した次第です。

 そんなわけで、本パラグラフ全体を検討する前に、時間切れになってしまいました。次回は、もう一度、ここから始めることになります。
(雅)

【当面の日程】
◎第1巻学習会
〈日時〉5月11日(土)午後6時から
〈会場〉豊島区西池袋第二集会室和室
〈範囲〉第1部3篇「絶対的剰余価値の生産」第5章「労働過程と価値増殖過程」の第2節「価値増殖過程」残りと第6章「不変資本と可変資本」前半

◎第2期第166回学習会
〈日時〉5月25日(土)午後6時から
〈会場〉豊島区西池袋第二集会室和室
〈範囲〉第2部第3篇第20章「単純再生産」第10節「資本と収入 可変資本と労賃」の続き

第165回学習会報告①

 
4月20日(土)に学習会を開き、第20章「単純再生産」の第10節「資本と収入 可変資本と労賃」の前回の続き(第3回目)をやりました。
残りは3分の1ほどだったので、今回で本節を読み終えられるだろうと見込んでいたのですが、思わぬところで議論が沸騰してしまい、数パラグラフしか進みませんでした。
「(2)1000Ⅰv+1000Ⅰm対2000Ⅱc の転換では、一方にとって不変資本であるもの(2000Ⅱc)が、他方にとっては可変資本と剰余価値、つまり一般に収入になるのであり、また、一方にとって可変資本と剰余価値(2000Ⅰ(v+m))、つまり一般に収入であるものが、他方にとっては不変資本になる」という観念の検討の続きです。
 
第10節 資本と収入 可変資本と労賃(第3回)
 
 「(2)1000Ⅰv+1000Ⅰm対2000Ⅱc の転換では、一方にとって不変資本であるもの(2000Ⅱc)が、他方にとっては可変資本と剰余価値、つまり一般に収入になるのであり、また、一方にとって可変資本と剰余価値(2000Ⅰ(v+m))、つまり一般に収入であるものが、他方にとっては不変資本になる」という観念の検証(前回の続き)
 
1.1000Ⅰv+1000Ⅰmと2000Ⅱcとの転換が考察の中心ですが、マルクスは関連して500Ⅱvのなかで行なわれる転換(流通過程)に言及しています。今回は、その続きになります(第24段落から)。繋がりが分かるよう、この転換についてこれまで述べられたことを簡単に振りかえってみます。
言うまでもなく、500Ⅱvの流通過程は、取引が資本家と労働者との間で行なわれるものとして考察されるなら、この流通過程は無媒介的な形態で現われます(Ⅱ部門を生活必需品部門と奢侈品部門という亜部門に分けるなら、奢侈品部門における資本家と労働者との関係は媒介的形態で現われます)。資本家Ⅱはまず500vに等しい貨幣を労働力の買い入れのために前貸しします。次に労働者は自分の労働力と引き換えに受け取ったこの貨幣で資本家Ⅱの商品(消費手段。これは彼らが自ら生産したもの)の一部を買います。他方、労働者は資本家のもとで生産に従事し商品形態で500vを償います(これに剰余価値をつけ加えて)。転換の結果、資本家のもとには前貸しした貨幣が還流してきます。マルクスは「ここでは、貨幣形態にある対等(等価)の収入価値が、商品形態にある可変資本価値を補填する」(原書441頁)と述べています。資本家のもとで商品形態であった500vが、それが労働者に売られたあと貨幣形態に置き換えられる、という意味です。こうして貨幣は資本家Ⅱのもとに還流してきますが、そのことによって資本家は儲けるのではありません。資本家は購買した労働力を生産要素として機能させ、労働力の価値を超える剰余価値を取得することによって儲けるのです。
 さて、今回はその続きになります。
 
2.資本家Ⅱのもとへの500の貨幣の還流は「他のどの商品販売でもそうであるように、与えられた価値の商品形態から貨幣形態への転換」であり、「これに媒介されて貨幣がその出発点に還流するということも、少しも特別なことでは」ありません。資本家Ⅱに帰ってきた500はそれ自体どんな変哲もない貨幣です。しかしマルクスは、この貨幣は「同時に、貨幣形態にある更新された潜勢的な可変資本」だと言います(原書442頁)。どうしてでしょうか?
マルクスは言います。「貨幣が、したがってまた貨幣資本が、潜勢的な可変資本であるのは、ただ、それが労働力に転換されることができるからであり、またその限りでのことである。資本家Ⅱに500ポンドの貨幣が帰ってくるということは、労働力Ⅱが市場に帰ってくるということが伴っている。両者が反対の極に帰ってくるということは――したがってまた500の貨幣がただ貨幣としてだけではなく貨幣形態での可変資本としても再現するということは―― 一つの同じ手続を条件としている」(原書442頁)
資本家Ⅱのもとへの貨幣の還流は、同時に労働者Ⅱの側からは消費手段の買い入れです。「貨幣=500が資本家Ⅱの手に帰ってくるのは、彼が労働者Ⅱに500の額の消費手段を売ったからであり、したがって、労働者が自分の労賃を支出して自分と家族を、したがってまた自分の労働力を維持したから」(同前)なのです。まさに、労働力が再生産によるそれの労働市場への復帰がともなうからこそ、資本家Ⅱのもとに還流してきた貨幣は潜勢的な可変資本だということになります。
 いま見たⅡvの貨幣還流は直接的でしたが、ⅠvやⅡbvの場合の貨幣還流は媒介的です。尤も、商品のv部分の販売をテコに還流してくるという点では両者に違いはありません。
 ここでマルクスは、貨幣還流の遅速が資本家および労働者に及ぼす影響について述べています。
「労働者階級はその日暮らしだから、買うことができるあいだは買う。資本家の場合、たとえば1000c1000vの転換の場合は、そうではない。資本家はその日暮らしではない。彼の資本のできるだけの価値増殖が彼の推進的動機である。それゆえ、なんらかの種類の事情が生じて、そのために資本家Ⅱにとっては、自分の不変資本をすぐに更新するよりも少なくとも一部分はもうしばらく貨幣形態のままでもっているほうが有利だと思われるならば、1000c(貨幣での)のⅠへの還流は遅れる。したがってまた、貨幣形態での1000vの回収も遅れて、資本家Ⅰは、ただ準備金を利用できる場合にだけ同じ規模で仕事を続けることができるのであって、つまり、一般に、貨幣での可変資本価値の還流の遅速にかかわらず中断なしに仕事を続けることができるためには、貨幣での準備資本が必要なのである」(原書443頁)
 労働者はその日暮らしですから、労賃が入ったら買えるだけ買います。だから貯えがほとんどありません。この労働者の状態は雇い主の利害と無関係ではありません。というのは、労働者は彼の搾取材料だからです。もし労働力が再生産されないとするなら雇い主の儲けの道が絶たれてしまいます。1000c1000vの場合、資本家Ⅱが上記のような理由などで生産手段をすぐに買わないなら資本家Ⅰには貨幣が還流してこなくなり、資本家Ⅰは困ってしまいます。このような貨幣還流の遅れに備えて資本家Ⅰは準備金(準備資本または予備資本)を持っていなければなりません。
 このようなことはⅠvやⅡbの転換のような貨幣の媒介的還流の場合にのみ言えるのであって、Ⅱvの直接的還流の場合には生じないのではないかとの発言がありました。その理由は、次のようなものでした。
500Ⅱvの場合は、資本家Ⅱの商品は消費手段であり、その購買者は彼ら自身の労働者である。この資本家Ⅱにとって自分たちの労働者は自分たちの消費者でもあり、前貸しした貨幣の還流が遅れることは、潜勢的可変資本として機能させること、すなわち労働力を再び雇うことができなくなることを意味する。その限りでは資本家Ⅱには転換の進行を遅らせるといった動機は生じない。これに対し1000c1000vとの転換の場合、資本家Ⅰの取引相手である資本家Ⅱにとっては、資本家Ⅰのもとに貨幣がはやく還流するかどうかどうでもよいことである。しかし資本家Ⅱが資本家Ⅰの商品(生産手段)をすぐに買わなければ労働者を雇えないことに繋がるので、資本家Ⅰは正常な進行を妨げるこうした事態に備えて準備金を持とうとする>
 これには対する反応は“深読み”過ぎるといったものでした。尤もマルクスは「一般に、貨幣での可変資本価値の還流の遅速にかかわらず中断なしに仕事を続けることができるためには、貨幣での準備資本が必要なのである」と述べて、資本家が準備金を持つのは、こうしたケースに限らない、とつけ加えるのを忘れていません。
 
3.次の段落の冒頭のアンダーライン部分の解釈をめぐって議論が錯綜し、これにかなり時間を費やしてしまいました。
その年の再生産の色々な要素の転換を研究しようとするならば、過去の年間労働すなわちすでに終わった年の労働の結果をも研究しなければならないこの年間生産物を生み出した生産過程は、われわれの後ろにあり、すでに過ぎ去っており、その生産物になってしまっている。まして、この生産過程に先行または平行する流通過程、潜勢的な可変資本から現実の可変資本への転換、すなわち労働力の売買に至っては、なおさらのことである労働市場はもはや当面の商品市場の一部分をなしてはいない。労働者はここではすでに自分の労働力を売ってしまっただけではなく、剰余価値の他に自分の労働力の価格の等価を商品で供給した。他方、彼は自分の労賃をポケットにもっており、この転換では常にただ商品(消費手段)の買い手として現れるだけである。しかしまた、他方、年間生産物は再生産の全ての要素を含んでいなければならず、生産資本の全ての要素、したがってまたことにその最も重要な要素である可変資本を回復しなければならない。そして、実際にわれわれが見たように、可変資本については転換の結果として次のようになるのである。商品の買い手として、自分の労賃の支出によって、また買った商品の消費によって、労働者は、自分が売ることのできる唯一の商品である労働力を維持し、再生産する。すなわち、この労働力を買うときに資本家が前貸しした貨幣がその資本家の手に帰ってくるように、労働力も、この貨幣に転換できる商品として、労働市場に帰ってくるのである。その結果としては、ここでは特に1000vについては、次のようになる。資本家Ⅰの側には貨幣での1000v――これに対して、労働者Ⅰの側には1000の価値ある労働力があり、したがって、全再生産過程Ⅰがまた新たに始まることができる。これが転換過程の一方の結果である」(原書443-444頁)
 アンダーライン部分は一見すると特に問題になりそうもない文章です。この文章の解釈を巡る議論の中で、考察の対象になっている年間生産物とは商品資本の循環式(W’−G’−W…P…W’)のどのW’なのか(起点のW’なのか終点のW’なのか)、「その年」(または「この年」)の生産物とはどの年の生産物を言っているのか(今年の生産物なのか前年の生産物なのか)、社会的総商品の流通はいつ行なわれるものと想定されているのか(「この年」の前年末なのか、「この年」の年初なのか、それとも別なのか)、といった基本的ともいえる議論にまで発展しました。
 
(1)こうした議論の前に、この段落の冒頭の文章にはエンゲルスが加筆した部分があり――それはほんの僅かなのですが――、そのため草稿の本来の趣旨が変わってしまっているとの指摘がありました。まずこの点に触れたいと思います。
 この部分の現行版の独文は以下のとおりです(訳文は上記引用を参照のこと)。
Hat man den Umsatz der verschiednen Elementeder laufenden jährlichen Reproduktion zu untersuchen, so auch das Resultat der vergangnen Jahresarbeit, der Arbeit des bereits zumAbschluß gekommnen Jahrs. Der Produktionsprozeß, der indiesem jährlichen Produkt resultierte, liegt hinter uns, ist vergangen,aufgegangen in seinem Produkt, um so mehr also auch der Zirkulationsprozeß, derdem Produktionsprozeß vorhergeht oder ihm parallel läuft, der Umsatz von potentiellem in wirkliches variables Kapital, d.h. der Kauf und Verkauf vonArbeitskraft.
 なお、草稿ではこの部分は大谷禎之介氏の近著によって以下のように訳されています。
【年間再生産のさまざまの要素の転換を研究しなければならないのであれば、過ぎ去った年労働の、終わっているこの年の労働の結果を研究しなければならない。この年間生産物という結果をもたらした生産過程は,われわれの背後にある(過ぎ去っており、それの生産物のなかに埋もれてしまっている)だから、その生産過程に先行する、またはそれと並んで進む(並行する)流通過程は、可能的な可変資本から現実の可変資本への転換は、すなわち労働力の売買は、なおさらのことである】(『資本論草稿にマルクスの苦闘を読む』201頁)
 赤字はエンゲルスが加筆した部分です(他にも修正された部分もありますが、文章整理のレベルのもの)。まずlaufendenの加筆ですが、学習会の場では指摘がなく、筆者があとで調べて分かったことです。この単語は「今の」とか「現下の」という意味の形容詞です。laufenden jährlichen Reproduktion「その年の再生産」と訳されています。草稿には形容詞はありませんので、特定の年を指していません。単なる「年間再生産」ということになります。現行版でも「その年の再生産」と訳される限りさほど問題にならないように思われます(「今年」というように訳されると、後で述べるように問題になってきます)。
 さて問題になるのはauchのほうです。auchが入ると「その年の再生産の色々な要素の転換を研究しようとするならば、過去の年間労働すなわちすでに終わった年の労働の結果を研究しなければならない」ということになり、年間の総生産物の諸要素の転換の研究には「すでに終わった年の労働の結果」すなわち年総生産物(W’)の研究のほかに別の仕方があるかのように読めてしまいます。しかし、これまでの考察は「すでに終わった年の労働の結果」すなわちW’の研究ではなかったのか、との疑問が湧いてきます。でも、マルクスの文章にはもともとauchが無かったとなると、この疑問は解消されます。この文章は、社会的再生産過程の考察の方法を一般的に再確認しているに過ぎないということになります(本章第1節「問題の提起」の冒頭の文章を参照願います)。
 
(2)次に、このアンダーライン部分は、次のように読み取ることができるのではないか、との発言がありました(実は筆者の発言)。これが一石を投じることになってしまいました。

<もし年間生産物が今年の生産物だと仮定するなら、「この年間生産物を生み出した生産過程」とは今年の生産過程、「過去の年間労働」または「すでに終わった年の労働」とは今年の労働ということになる(*)。観察者はこの年が終わった時点で、年間生産物およびこれに先行する生産過程(さらにこれに先行または並行する流通過程)を観察していることになる。このように読み取ると、第7節で、生産手段Ⅰ=Ⅰ( 1000v+1000m)と消費手段の一部分=2000cとの交換が今年の労働時間と以前の年の労働時間との交換である(原書426頁。新日本出版訳)と述べられていることと時点が合致する>
*長谷部訳を確認したところ、この部分は「今年の生産物に実を結んだ生産過程は、われわれの背後によこたわり」(河出「世界の思想の大思想19」の336頁)とあり、こうした解釈を許す余地があります。
 これには、ここでいう年間生産物とは商品資本循環式の起点のW’に当たり、去年(前年)の生産物である、したがってこれを生み出した生産過程(「過去の年間労働」)とは去年のそれである、との反論がありました。
 これは、社会的再生産を商品資本の循環形式で把握するとしても、社会的再生産の分析の対象となっているW’(年間生産物)は、そもそも、この循環式(W’−G’−W…P…W’)の起点のW’なのか、それとも終点のW’なのか、という議論に発展しました。参考に越村信三郎著『図解資本論』の図を掲げましたが、左側のW’が起点、右側のW’が終点になります。

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 もし今年の生産物が循環式の終点のW’だとすれば、起点のW’は必然的に前年の生産物ということになりますこれは両者共通の理解です。意見の対立は、考察の対象になっている年間生産物が起点のW’なのか終点のW’のどちらなのか、ということに帰着します。
年間生産物が終点のW’だとするなら、これを「生み出した生産過程」は発言者の言うとおり、今年の生産過程(今年の労働)ということになるのですが、マルクスは、この生産過程を「過去の年間労働すなわちすでに終わった年の労働」だと述べており、今年の労働と「すでに終わった年の労働」を同一年と解釈するのは無理がある、というのが大方の反応だったように思います。
 確かに、ここでいう年間生産物とは前年(去年)の生産物であり、これが年初に持ち込まれて商品資本の循環が開始される、と理解するほうが自然であり、これは商品資本の循環式を運動の流れどおりに見ることになります。ただ、ここでは年間生産物の起源が問題にされており、遡及して考察されています。この年間生産物が起点のW’(これは去年(前年)の生産物)だとすれば、これを生み出した生産過程(過去の年間労働)も去年のそれだということになり、さらに「この生産過程に先行または平行する流通過程」とは去年(前年)の年初または同年の年間を通して行なわれる流通であり、そこで流通するのは一昨年(前々年)に生産された生産物だということになります。こうして、昨年(前年)の生産物に結実します。この生産物が今年に持ち込まれて、今年の流通(転換)を開始することになります。言うまでもなく、ここで流通するのは前年の生産物です。
 そうなると、第7節の、Ⅰ(v+m)とⅡcとの交換(転換)が「今年の労働日の2/3と、今年以前に支出された労働日の2/3との交換」だとか「今年の労働時間と以前の年の労働時間との交換」だとする記述とどう辻褄が合うでしょうか? 今年の流通において行なわれるⅠ(v+m)とⅡcとの交換だとしても、これらは前年の生産物の諸成分なのであり、これが「今年の労働時間と以前の年の労働時間との交換」だということは出来ません。ひょっとするとマルクスは間違って書いたのでしょうか? 第10節のこの部分と第7節で論じられていることとは次元が異なる(したがって矛盾はない)との発言がありましたが、時間の関係で「次元が異なる」の趣旨を確かめることが出来ないまま議論が中途で終わってしまいました。
 問題はどこにあるのでしょうか? そこで、学習会後に筆者が、反省も含めて考えたことを披歴し、次回の議論のたたき台にして頂きたいと思います。視野を広くするため、商品資本の循環を4年に亘って描いてみました。図を見てください。
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現行版には採用されていませんが、第2稿のなかに年次を定めて展開している叙述があることを最近知りました(※)。これに倣って商品資本の循環の年次を定め、左から順番に1868年、1869年、1870年、1871年と指定しました。前年の生産物が翌年に持ち込まれて流通を開始するという想定です(図の矢印はそのことを示しています)。ある年の年初(起点)のW’は前年のW’と同一生産物です。例えば1869年の生産物(終点のW’)は1870年の起点W’になって循環を開始することになります。生産物の転換(流通)が年末に一挙に行なわれるという想定もあり得ますが、ここでは生産過程に「平行する流通過程」とあり、年末一挙という想定は退けられます(筆者は、どちらかというと年末に流通するという想定に立っていたのですが、それだと、例えば「潜勢的な可変資本から現実の可変資本への転換」(労働力の購買)が、翌年、年間をとおして生産過程と並行して行なわれる、という記述と合致しません)。
 
※第2稿では「消費手段を生産する部門I(第2稿では部門Ⅰは消費手段生産部門―引用者)の資本が毎年1回だけ  回転する場合には、今年の、たとえば1870年の生産物は、来年の1871年の全年を賄うのに足りなければならない。他方、1871年には1872年に必要なものが生産されることになるのであり、1870年には1869年の生産物が消費されたのである」(MEGA/11.S. 426)とあります。

*容量を超えてしまいました。この続きは165回学習会報告②
 



4月5日(土)第1巻の学習会を行いました。第3篇「絶対的剰余価値の生産」第5章「労働過程と価値増殖過程」の第2節「価値増殖過程」でしたが、一部を残してしまいました。次回はその続きと、第6章「不変資本と可変資本」の前半をやる予定です。第6章はなかなか読み応えのあるところです。積極的にご参加ください。
◎次回日程
【場所】池袋西池袋第二区民集会室
【範囲】第3篇「絶対的剰余価値の生産」第5章「労働過程と価値増殖過程」第2節「価値増殖過程」残り(第26パラグラフから)および第6章「不変資本と可変資本」
*以下は次回の案内チラシです。前回の学習会報告も掲載。興味深い議論が紹介されていますので、ぜひお読みください。
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