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前回(9月2日)、第1章「商品」第4節「商品の物神的性格とその秘密」の残りの部分を学習しました。第1章を終えましたので、第2章「交換過程」に入ります。次回は11月14日(土)、第2章の前半を読み合わせます。以下はその案内チラシです。
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第2期第145回(8月26日実施)学習会報告

8月26日、第19章「対象についての従来の諸論述」の2回目をやりました。今回から第2節「アダム・スミス」に入りました。丁寧に読み込んだこともあって、第1項「スミスの一般的観点」しかやれず、しかも最後の数パラグラフについてメンバーから事前に提起された問題について検討する余裕がなく次回まわしとなりました。
  
           第2節 アダム・スミス

           第1項 スミスの一般的観点

1 スミスのドグマ

スミスの商品価格のいわゆる構成説および分解説と言われるものは、諸商品の価格を収入の形態と深く結び付けようとするものです。要するに、商品の価格を労賃、利潤、地代という形態に帰着させるものです。スミスは、これを個別的かつ社会的におこなっています。
個別的には、〈どの社会でも、各商品の価格は、結局、これらの三つの部分〉(労賃、利潤、地代)〈のどれか一つ、または三つの全てに分解される。そして、どの進歩した社会でも、これらの三つの全てが、多かれ少なかれ、大多数の商品の価格の中に構成部分として入る〉。さらに〈労賃と利潤と地代とは、全ての収入の、また全ての交換価値の、三つの根源である〉。そして〈このことは、個別的に見たそれぞれの特殊な商品について言えるのだから、各国の土地と労働との年間生産物全体を構成する総体としての全ての商品についてもそう言えるに違いない。この年間生産物の総価格または総交換価値は、同じ三つの部分に分解されなければならない。そして、その国のさまざまな住民の間に、彼らの労働の賃金としてか、または彼らの資本の利潤としてか、または彼らの土地所有の地代として、分配されなければならない〉と。
ここで「どの社会でも」とありますが、これは社会の初期未開の状態とはっきり区別された、つまり資本主義的生産が支配的な状態にある社会のことであるとのコメントがレポーターからありました。
なお、スミスが「三つの部分」(労賃、利潤、地代)「のどれか一つ、または三つの全て」あるいは「大多数の商品の価格」という言い回しをしているのは、彼が、海の魚の価格には地代が含まれず、またスコットランドの瑪瑙には地代も利潤も含まれない場合があるとしているからです(注38。この成否はさておきます)。
 
2 第四の要素の「密輸入」

 「アダム・スミスは、こうして、個別的に見た全ての商品の価格をも、『各国の土地と労働との年間生産物・・・・の総価格または総交換価値』をも、賃金労働者と資本家と土地所有者との収入の三つの源泉に、つまり労賃と利潤と地代とに分解しておいてから、一つの回り道をして第四の要素を、すなわち資本という要素を密輸入しなければならない。それは、総収入と純収入とを区別することによって行なわれる」
 スミスにあっては、利潤というのは資本家が彼の資財の生産のために投じる「冒険」に対する報酬だと見なされています。つまり利潤は資財そのものの価格ではないのです。そうすると資財そのものは商品価格の一部を占めないのか、という疑問が当然湧いてきます。スミスは資本(資財)という「第四の要素」を認めざるを得ません。マルクスは、スミスは総収入と純収入との区別によって第四の要素を密輸入すると指摘するのですが、どうして「密輸入」なのかが問題となりました。スミスは言います。
〈一つの大きな国の全住民の総収入は、その中に彼らの土地と労働との年間生産物の全体を含んでいる(を内容とする)。純収入は、第一には彼らの固定資本の、第二には彼らの流動資本の維持費を控除した後になお彼らが処分できるものとして残る部分を含んでいる(内容とする)。すなわち、彼らが自分の資本に手をつけることなしに自分の消費財源に加えることのできる部分、すなわち自分の生計や便益や慰楽のために支出することのできる部分を含んでいる(内容とする)。彼らの実質的な富もやはり彼らの総収入にではなく彼らの純収入に比例する〉(「含んでいる」を「内容とする」とした方が、意味が明確になると判断し、それをカッコ書きしました――引用者)
 まず「年間生産物の全体」とは何かということになります。それはここではc+v+mから成ると見なしても構わないでしょう(勿論スミスにはc、v、mといった概念がなく、後で見るように彼にあっては年生産物はv+mに還元されるのですが)。そこから固定資本と流動資本の維持費を控除したあとに残ったのが純収入になるというのですが、両資本の維持費とはcとvの両方を含むのか、cだけなのか微妙です(前者の場合は純収入はvだけ、後者の場合はv+mになります)。「固定資本と流動資本の維持費」という名のもとに最初から資本の存在を認めているも同然ですが、スミスは収入=「レヴェニュー」という用語の二義性によって資本を導き入れている、とマルクスは言います。
 「レヴェニュー」(Revenue)は本来の意味は「再び戻ってくる」という意味を持ち、資本はまさに前貸しされ回収されるものです。だから資本はこの意味では「レヴェニュー」であり、資本も収入という範疇にはいるというわけです。スミスは、「収入」という言葉の二義性―― 一方では消費元本としての収入、他方で回収としての収入――のうち後者の意味で使うことによって、商品価格の分析では一旦遠ざけられていた「資本」を第四の要素として商品価格の中にこっそりと再び招き入れるというわけです。
 この文脈の中で、利潤についてもスミスは「総利潤」と「純利潤」とに区分するとあります。彼は、総利潤には資本が被る「異常な損失」を償うために保留される費用が含まれていなければならず、総利潤からこの費用を差し引いた分が純利潤(正味の利潤)だとします。これらの費用とは具体的には保険元本や固定資本の修理費のことですが、マルクスは、保険元本は剰余労働の一部であっても資本元本になり得ること、また修理費が利潤から捻出されるとしても、そのことは「利潤の源泉を少しも変えるものではない」と言います。
この箇所では、資本の一部が利潤から賄われることがあるとしても、そのことは資本と利潤を同一視できない、ということが言われているということになりました。
 スミスは「第四の要素」(資本)が商品価格の一部を形成していることを認めざるを得ないのですが、収入あるいは利潤に解消したり、これらによってその存在を覆い隠したりしたのです。だからマルクスは「密輸入」と呼んだのでしょう。
 
3 スミスは「純収入」を消費手段に帰着させることによって、重要な問題に突き当たった

 こうしてスミスは「純収入」を消費財源(消費財)に帰着させています。それもそうです。彼によると、商品価格は労賃・利潤・地代という収入形態に還元されるのだから。
〈固定資本の維持のための全支出は、明らかに社会の純収入から除外されなければならない。有用な機械や工具を整備しておくために必要な原料も、これらの原料を必要な形に変えるために必要な労働の生産物も、決してこの収入の一部分をなすことはできない。この労働の価格は確かにかの収入の一部分をなすことができる。というのは、そのために使用される労働者は彼らの賃金の全価値を彼らの直接的消費財源に投ずることができるからである。しかし、他の種類の労働の場合には、価格も」{すなわちこの労働に支払われる賃金も}「生産物も」{この労働が具体化されている生産物も}「この消費財源に入る。価格は労働者の消費財源に入り、生産物は、この労働者の労働によって生計や便益や慰楽を増大される他の人々の消費財源に入る。〉(『国富論』第2篇第2章、190、191ページ。〔岩波文庫版、(2)251252ページ。〕)
 労働者が生産する商品の種類は様々なのですが、「労働の価格」つまり労賃が「入り込む」先が消費財源であることから、固定資本の維持や修理および更新のための労働でも、これに支払われる賃金は純収入の一部をなすとスミスは言うのです。というのは、生産手段すなわち機械や工具やその材料は生産要素であって純収入を形成しないのですが、これらを生産する労働者の賃金は直接消費財源に支出されるからです。スミスはさらに言います。消費財源(消費財)を生産する労働者の場合は、彼らの労賃が消費財源に入るだけでなく、彼らが生産する生産物も他の人びとのための消費財源にも入り込む、と。スミスはここで重要な問題に突き当たっている、とマルクスは言います。
 
4 生産手段生産部門と消費手段生産部門との区別

 それは生産手段の生産に従事する労働者(第一の種類の労働者)と消費手段の生産に従事する労働者(第二の種類の労働者)との区別という問題です。
第一の種類の生産手段という形態をとる生産物の価格は労賃の総額に等しい部分を含みますが、この部分は物的には消費手段の形態をとっていません。労賃は労働者の収入ですが、それは彼ら自身の生産物に転換できません。それは、第二の種類の労働者によって生産された消費手段のうちから労賃額に相当する量を引き上げることによって、これを彼らの個人的消費財源の中に移すことができるのです。
第二の種類の労働者(直接に消費手段を生産する労働者)はどうでしょうか。労賃は消費手段に転換されなければなりませんが、消費手段は彼らが直接生産したものなので、彼らが生産した生産物から入手できます。彼らの生産物は、彼らだけではなく他の人々(第一種類の労働者や労働搾取者等)の消費財源にもなります。
この箇所で議論になったのは、「アダム・スミスの規定は十分に正確ではない」とあるがスミスのどの規定に向けられているのかということでした。スミスの文章は次の通りです。
〈「価格は」(すなわち労賃として受け取られる貨幣は)「労働者の消費財源に入り、生産物は、この労働者の労働によって生計や便益や慰楽を増大される他の人々の消費財源(that of other people)に入る。〉
消費財源が直接労働者の手許にあるかのように書かれているからではないか、とか、消費手段の種類が単に並列されているだけで生活必需品と奢侈品とに明確に分類されていないからではないか、といった意見が出されましたが、どれも納得いく説明ではありませんでした。後日、レポーターは再検討し、次のように考えました。どうでしょうか。
マルクスが「しかし、労働者は、自分の労働の『価格』、すなわち自分の労賃として支払われる貨幣を食って生きていくことはできない。彼がこの貨幣を実現するのは、それで消費手段を買うことによってである」と述べていることから明らかなように、スミスが、消費財源を「価格」つまり労賃としての貨幣と「生産物」とに分け、前者を労働者の消費財源、後者を労働者以外の人々の消費財源だとしていることが「正確でない」ということではないか、つまり労賃(貨幣)そのものは消費財源ではない、個人的消費手段の形態で存在する生産物こそ消費財源である(これは大きく生活必需品と奢侈品に分かれる)というのが正確な規定である、と。
 
5 一個人の流動資本は資本家の「純収入」とはなり得ないが、一社会の流動資本は彼の「純収入」の一部を成すことがありうるというスミスの見解

 マルクスは、次のスミスの文章は重要であるとしてそのまま引用しています。
〈一社会の流動資本は、この点では一個人の流動資本とは違っている。一個人のそれは、彼の純収入から全く除外されていて、決してその一部分をなしていることは有り得ない。彼の純収入はただ彼の利潤だけから成っていることがありうるだけである。しかし、各個人の流動資本は、その個人が属している社会の流動資本の一部分をなしているとはいえ、それだからといって決して無条件に社会の純収入から除外されているのではなく、その一部分をなすことができるのである。小売商人の店にある全商品は、決して彼自身の直接的消費に向けられた財源の中に入れられてはならないが、しかし他の人々の消費財源に入ることはできる。他の人々というのは、別の財源から得た収入によって、小売商品の資本も自分たちの資本も減らすことなしに、小売商人のためにそれらの商品の価値を彼の利潤と一緒に規則的に補填してやる人々である〉
 スミスによると「流動資本を構成する」のは「四つの部分、すなわち貨幣、生活手段、原料、完成生産物」です。これは異質のものを一緒くたにするもので、混乱以外の何ものでもありません。とはいえ彼は、後者の三つは「規則的に流動資本から取り出されて、社会の固定資本の中に移されるか、または直接的消費に向けられた財源の中に移される」としており、ここで問題にされているのはこの三つのうちのどれかです。
マルクスは、スミスの上記の文章の意味を以下のようにまとめています。
(1) 消費手段の生産で機能している各個別資本家の流動資本(原料や労働力。ただしスミスにあっては労働力は生活手段として把握されています――引用者)は彼の純収入から除外されているということ。彼の生産物が消費手段という形態を取っていても、彼の商品生産物のうち彼の資本を補填する部分は、彼の収入を構成する価値成分には分解できないということ。
(2) 各個の資本家の流動資本は社会の流動資本の一部分をなしていること。
(3)社会の流動資本は個別流動資本の総計に過ぎないとはいえ、それは各個の資本家の流動資本とは違った性格をもっていること。個別資本家の流動資本は決して彼の収入の一部分をなすことはできないのに対して、社会の流動資本の一部分(すなわち消費手段から成っている部分)は、同時に社会の収入の一部分をなすことができるということ(マルクスは、ここでの「流動資本」とは「実は、消費手段を生産する資本家が一年間に流通に投ずるところの一年間に生産される商品資本なのである」とコメントしています)。彼らの年間商品生産物の全体は、消費のできる物品から成っており、したがって、社会の純収入(労賃をも含めて)がそれに実現または支出される財源をなしているということ。
 
6 スミスの思考の諸断片の総括から達すべきであった結論

 以上のことからスミスが達すべきであった結論をマルクスは以下のようにまとめています。
()社会の年間生産物は二つの部類から成っており、第一の部類は生産手段を包括し、第二の部類は消費手段を包括する。両者は別々に取り扱われなければならないということ。
()第一の部類(生産手段から成っている部分)の総価値は①生産手段の生産に消費された生産手段の価値(更新された形態で再現する資本価値)、②労働力に投ぜられた資本の価値(この生産部面の資本家によって支払われた労賃の総額)、③この部類の産業資本家の利潤(これには地代が含まれる)の源泉をなす部分から成っていること。スミスによると、第一の部類で仕事をする個別資本全体の固定資本が再生産された部分(これはのちに見るⅠc部分)は、完全に「純収入」から除外される。それは常に生産手段の形態をとって資本として機能し、決して収入としては機能しない。それは個別資本の「固定資本」(生産要素)が生産手段としてしか機能ないことと一致する。ところが、いま見た部分(固定資本の再生産部分)とは別の価値諸部分((v+m)部分)は、同時に、この生産に参加した全ての「当事者」にとって収入(労働者にとっての賃金および資本家の利潤(地代を含む))を形成するが、「社会」にとっては収入ではなく資本を形成している(生産手段の形態を取っている)。ところが資本として機能するのは、その生産者ではなく「その使用者たち」の手中においてである。
()すなわち、第一部類の「当事者」の収入を成す部分((v+m))は、直接に消費手段を生産する第二の部類の資本家の手中で「資本として機能」(Ⅱc)するのである。それらの部分は、第二の部類の資本家のために、消費手段の生産に消費された「固定資本」を補填するのであるが、他方、この消費された資本は今では消費手段という形態をとった生産物に転換しており、社会的な立場からは第一の部類の資本家と労働者とが彼らの収入を実現する消費財源をなす。
マルクスは、スミスがこの地点の手前まで来ていたと高く評価しています。
 
7 以上のことから少なくとも確認できること

マルクスは、上述のことから少なくとも次のことだけは明らかであるとして、二点挙げています。
1)社会的資本はただ個別的諸資本の総計に等しく、したがって社会の年間商品生産物(または商品資本)もこれらの個別資本の商品生産物の総計に等しい。したがってまた、各個の商品資本にあてはまる商品価値のその諸成分への分解は、全社会の商品資本にもあてはまらなければならないし、また結局は実際にもあてはまるのであるが、 それにもかかわらず、これらの成分が社会的総再生産過程で現れるときにとる現象形態は、違った形態だということ。
2)「第二に、単純再生産の基礎の上でも、ただ労賃(可変資本)と剰余価値との生産が行なわれるだけではなく、新たな不変資本価値の直接的生産も行なわれるのである。といっても、労働日はただ二つの部分から成っているだけであって、その一方の部分では労働者は可変資本を補填し、事実上は彼の労働力の買い入れのための投下を生産し、第二の部分では剰余価値(利潤、地代など)を生産するのではあるが。――すなわち、生産手段の再生産に支出される――そしてその価値が労賃と剰余価値とに分かれる――日々の労働は、消費手段の生産に支出された不変資本部分を補填する新たな生産手段に実現される」ということ。
 
8 単純再生産が考察の出発点である

マルクスは、「主要な困難は単純再生産の考察に現われる」として、ケネーやスミスがそうであったように「社会の年間生産物の運動と、流通によって媒介されるその再生産とが問題にされるときには、いつでも単純再生産が出発点にされる」としています。
 
*〔7〕(2)の「単純再生産の基礎の上でも、ただ労賃(可変資本)と剰余価値との生産が行なわれるだけではなく、新たな不変資本価値の直接的生産も行なわれるのである」と、個別生産過程の分析で「不変資本価値は生産物の価値に再現されるが再生産されるのではない」と述べられていることとどう関連するのか、〔8〕の「主要な困難」とは何なのか、の二つについて、次回の冒頭に議論することになりました。
(雅)

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前回(8月5日)、第1章「商品」第4節「商品の物神的性格とその秘密」の後半部分を学習しましたが、残り4分の1ほどを残してしまいました。次回(9月2日)はその続きをやります。以下はその案内チラシです。
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第144回(7月29日実施)学習会報告

7月29日、第19章「対象についての従来の諸論述」の1回目をやりました。第2節「アダム・スミス」の半分まで進む予定でしたが、予想外に議論が伯仲したため第1節「重農学派」のみを検討するに留まりました。

第19章 対象についての従来の諸論述

前章では第3篇の研究対象が社会的総資本の流通過程(再生産過程)であることが明らかにされました。実際の考察に入る前に、本章で、この問題に迫った諸先達の論述が批判的に検討されます。
  
           第1節 重農学派

冒頭、レポーターは『剰余価値学説史』の第6章「余論 ケネーの経済表」でマルクスが検討のために使用した表に生産物と貨幣の流れを矢印で描いた図を配布し(下)、これにもとづき簡単に説明を加えました。

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マルクスは、ケネーの経済表の意義を簡潔にまとめていますが、ここでは図表を参照しながら本文の内容を確認するとともに、議論になった点を報告したいと思います。
 
1 ケネーの経済表は社会的再生産を価値と素材の両面で見ているか 

「ケネーの経済表は次のことをわずかばかりの大きな線で示している。すなわち、価値から見て一定の、国民的生産の年間の成果が、他の諸事情に変化のないかぎり、どのようにして、その単純再生産すなわち同じ規模での再生産が行なわれうるように流通を通じて分配されるか、ということである」
 レポーターは、ケネーの経済表は「価値からみて」の国民的再生産の考察だとあるが、素材的な面からも考察されているのではないかと疑問を出しました。ケネーの表は、マルクスの「再生産表式」における生産部門分割のような本質的なものではないが、農産部門と製造部門(それともっぱらこれらを消費するだけの部門)とに分割されていて、素材的な面と価値の面で考察されているということになりました。
 ところで、この「価値から見て」という言葉は国民的年生産の額が一定であることに掛かっていて、ケネーの表は単純再生産を前提しているということが言われているだけであって、レポーターの疑問は誤読にもとづく的外れのものでした。それでも結果的にはケネーの表の意義を確認する議論としてそれなりの意義があったように思われます。
 
2 生産期間の出発点が前年の収穫であるとは

 ケネーの経済表においては「生産期間の出発点には、適切に、前年の収穫がなっている」とあります。この点について議論はなかったのですが、上記の表を参照しながら言及してみたいと思います。
 表の左上の20億リーブルは借地農業者たちの年前貸(年前払)で、彼らはこの年前貸20億と創業時に原前貸した固定資本(100億のうち10億が損耗する)とで農業を営み、50億の農産物を生産します。これが「前年の収穫」になり、今生産期間の出発点になるというのです。50億のうち20億は年前貸用として農業者たちの手許に残り、さらに10億は原前貸の損耗分(ケネーはこれを原前貸の利子と呼ぶ)を補填するための財源になります。残りの20億は「純生産物」と呼ばれ、土地所有者たちに払う借地料(地代)の財源になります。
 右上の10億ですが、これはケネーによると不生産的階級による年度当初の前貸(前払)であり、それは貨幣で行われます(不生産的階級と呼ばれますが、かれらは製造業者なのです。ケネーにあっては、製造は加工であって生産ではないとされます)。しかしマルクスはこの前貸を捨象しています。マルクスの説明では、製造品を売った代金で農産物が原料として買われ、これが製造業者の経営資本となって20億の製造品が生産されます。これは前年の製造品であって、製造業者たちのための原料と生活資料の財源になります。
 このように経済表では「前年の収穫」が生産年度の出発点に置かれ、それが諸階級にどのように配分されて再生産が行われるかが描かれている、ということができます。
 
3 「同じ現物形態で再現する元の資本価値の担い手でしかない」総生産物の一部分とは何か

次にマルクスは、ある「総生産物の一部分」に注目しています。「それは同じ総生産物の他の各部分と同じに使用対象としては過去の年間労働の新たな成果であるのだが――同時に、ただ、同じ現物形態で再現する元の資本価値の担い手でしかないということである」と。これが経済表のどの部分を指すのかが問題になりました。
この文章の二つ先に「年間生産物のこの不変資本部分」とあるので、不変資本に相当する部分であることは間違いありません。レポーターは「この部分は、流通はしないで、そのままその生産者である借地農業者階級の手の中にとどまって、そこで再び資本としての勤めをすることになる」とあるので、それは「年前貸」(そこに生活資料が含まれているとするなら、それは除かれる)のことだとしました。これには異論が出されました。これには原前貸の損耗分も含まれる、なぜならマルクスがここで注目しているのは不変資本のあれこれの部分ではなく不変資本一般だと見なされるべきだからだ、と。意見は対立したままでしたが、農業だけが剰余価値を生み出す唯一の分野であるとする狭い視野のおかげで、更新された形態での不変資本価値の再現を再生産の重要な契機としてケネーが把握できたことを確認することが大事であって、その意味で「総生産物の一部」に原前貸(固定資本)の損耗分が含まれるか否かという議論はいくらか消耗でした(でも〔5〕の議論に繋がるので、どうでもいいことではないのですが)
 
4 重農主義学説の封建的外観と資本主義的な内容

「重農主義学説は資本主義的生産の最初の体系的な把握である」として、産業資本の代表者たる借地農業者階級が経済的運動の全体を指導する、農業は資本主義的企業として大規模に経営される、直接の耕作者は賃労働者である等、その内容が列挙されています。とはいえ、これらの内容は当時のフランスの現実そのものではなく、重農主義者たちが考えるフランス王国のあるべき姿でした。彼らの主観的意図は封建的絶対主義国家フランスの再建でしたが、その内容は資本主義的農業経営の発展だったというわけです。「ある学説のレッテルが他の品物のそれと違う点は、なかんずく、それがただ買い手をだますだけではなくてしばしば売り手をもだますということである。ケネー自身も彼の直接の弟子たちも、自分たちの封建的な看板の文句をその通りに信じていた」とありますが、彼らの振る舞いはまさにそのようなものでした。
 
5 スミスの重農主義的欠陥

 第1節は仕切り線の後、アダム・スミスの見解に移っています。それだったらこの部分をスミスの学説を論じている第2節に含めてもいいはずなのに、そうでないのはどうしてなのかという疑問がわきます。断言できませんが、この部分ではスミスの重農主義的欠陥が指摘されているので、エンゲルスは、重農学派的見解の延長としてこれを本節に組み込んだのではないか、ということになりました。
 スミスの重農学派的な誤りとして、役畜も同様に生産的労働者と見なしたこと、自然そのものに価値形成の力があるとしたこと、地代を自然諸力の産物と見なし、農耕に投下される資本は、製造工業で充用されるどの同量の資本に比べても、ずっと大きな価値をつけ加えると考えたことが挙げられています。
 
6 スミスの後退とは何か

次にスミス固有の欠陥が指摘され、この限りではむしろ重農主義者よりも後退している(狭い)と非難されています。それは何でしょうか? 「スミスは、不変資本の価値が更新された形態で再現することを、すでにケネーがしたように再生産過程の重要な契機として見ようとはしないで、ただ、流動資本と固定資本とについて自分がしている区別のためのもう一つの例証を、しかも間違った例証を、見ている」ということあります。〔3〕の、ケネーの表のなかの「同じ現物形態で再現する元の資本価値の担い手でしかない」とはどの部分なのかという問題と深くかかわっていています。マルクスが問題にしたのは「年前貸」のうちの主要素材である種子なのです。ケネーはこれを事実上不変資本部分とみたのですが(勿論この言葉を用いたわけではありませんが)、スミスはそうではありませんでした。「種子の全価値もやはり本来の意味では固定資本である」という具合に間違って規定しました(原料としての種子は流動的不変資本と規定されるべきです)。ここにスミスの大きな欠陥があるというのです。マルクスは次のようにまとめています。
"avances primitives"〔原前貸〕と"avances annuelles"〔年前貸〕とをスミスが"fixed capital"〔固定資本〕と"circulating capital"〔流動資本〕と翻訳したことのうちにある進歩は、「資本」という語の概念が「農業的」適用範囲への重農学派の特別な顧慮に関わりなく一般化されているということであり、そのうちにある退歩は、「固定」と「流動」とが決定的な区別として理解され固執されているということである」
 ところで、この一つ前のパラグラフの冒頭に「再生産過程の分析でのアダム・スミスの退歩がますます目立ってくるのは、彼がケネーの正しい分析にさえ細工を加えて、たとえばケネーの「原前貸」「年前貸」とを「固定」資本と「流動」資本とに一般化しているだけではなく、時には全く重農学派的な誤りに逆戻りしているからである」との文章があります。レポーターは、ここでは前貸概念の一般化そのものは肯定的に評価されているとしましたが、そのように理解すべきではなく、スミスが資本を「固定」と「流動」とに一般化したとして否定的に評価されているとの反論がありました。
ここに注37があり、テュルゴーの前貸概念の一般化が肯定的に評価されているので断言できないのですが、固定・流動という言葉に鍵カッコ(本文はイタリック)が付けられて強調されていることを考えると、指摘どおり、ここでは固定資本と流動資本の一般化・固定化そのものが不変資本・可変資本という決定的な区別を見えなくさせたとして、否定的に評価されていると読むべきでしょう。
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 前回(7月8日)に第1章「商品」の第4節「商品の物神的性格とその秘密」の前半部分を学習しました。次回は8月5日(土)です。以下はその案内チラシです。一緒に学びましょう!
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