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第1章「商品」の第3節「交換価値または価値形態」を読み進めていますが、以下は次回(6月10日)の案内チラシです。一緒に学びましょう!
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 昨年末に『資本論』第1巻の学習会を始めました。現在、第1章「商品」の第3節「価値形態または交換価値」を読み進めています。4月15日に第6回の学習会を開き、「A単純な価値形態」をやり終えました。次回は5月13日です。範囲は「B全体的な、または展開された価値形態」と「C一般的な価値形態」です。価値形態論は、『資本論』でも特に難解なところだと言われており、ここで躓く人も少なくありません。難しいからこそ、一緒に学ぶ意義があろうというものです。ぜひご参加を!
以下は次回の案内チラシです。
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第142回(3月25日実施)学習会報告


第17章 剰余価値の流通(その4)

 3月25日(土)、第17章「剰余価値の流通」の第4回目の学習会を実施しました。第1節「単純再生産」の残りの部分と第2節「蓄積と拡大再生産」を検討し、難物の本章を何とかやり終えることができました。

第1節 単純再生産(残り)

 原書頁339の最後に仕切り線があり、次の仕切り線のある342頁まで二つのテーマが扱われています。一つは貨幣流通の弾力性ということ、もう一つは労賃の上昇は商品価格の上昇をもたらすかということです。

1 貨幣流通の弾力性

 「すでに回転の考察に際して見たように、他の事情が変わらなければ、回転期間の長さが変わるのにつれて、同じ規模で生産を行なうために必要な貨幣資本の量は変わってくる。だから、貨幣流通の弾力性は、この膨張・収縮の変動に適応するのに十分な大きさでなければならないのである」とありますが、「貨幣流通の弾力性」とは何かという質問がありました。
 回転期間が短ければ一回転期間あたりの前貸しされる貨幣資本の額が少なくて済み、その逆は多額の貨幣資本が必要になるのですが、このような変動に対応できる能力が「貨幣流通の弾力性」として言い表されており、この弾力性を保証するものこそ、蓄蔵貨幣あるいは追加の金生産ではないかということになりました。
 
2 労賃の一般的上昇は商品価格の全般的上昇をもたらすか?

(1)つぎに労賃の一般的上昇が商品価格にどのような影響を及ぼすかが追究されます。何のためかというと、商品価格が上昇すると商品価格の総額が増加し、それを流通させるための貨幣量という問題を生ぜしめるからです。
 ここに生産価格という概念が出てきます。この概念は第3部で本格的に論じられるのですが、レポーターは、この概念が分からないとこの箇所は理解できないとして、概念を明らかにしたうえで説明を加えてくれました。
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 では労賃が全般的に上昇するとどうなるでしょうか。 
 「労賃は一般的に上がり、したがって――前提した諸条件のもとでは――剰余価値率は一般的に下がり、しかも、やはり想定に従って、流通商品量の価値には何の変動も生じないという場合である」とあります。表Bは賃金が50%上昇した場合の数字です。表Aではv:mは150150でしたが、労賃の上昇によってそれは22575に変化しています。ただし商品価値には変化がありません。「このような場合には、可変資本として前貸しされなければならない貨幣資本、したがってこの機能に役立つ貨幣量は、確かに増大する。しかし、可変資本の機能のために必要な貨幣量が増えるのとちょうど同じだけ剰余価値は減り、したがってまた剰余価値の実現のために必要な貨幣量も減る。商品価値の実現のために必要な貨幣量の総額は、この商品価値そのものと同様に、前述のことによっては影響されない」ということになります。
 すぐそのあとに「商品の費用価格は個々の資本家にとっては上がるが、しかし商品の社会的生産価格はやはり変わらない。変えられるのは、諸商品の生産価格が、不変価値部分を無視すれば、労賃と利潤とに分かれる場合である」とあります。表Bのとおり商品の費用価格は全ての部門で上がっているのに対し、社会的生産価格は650のままです(表Aで労賃150・利潤150だったのが、表Bでは労賃225・利潤75になっています)
 なお原書342頁の仕切り線の前に「(3) 労賃が一般的に上がる場合には、生産される商品の価格は、可変資本の比重が大きい産業部門では上がるが、そのかわりに、不変資本または固定資本の比重が大きい産業部門では下がる」とありますが、レポーターから表Aと表Bを比較した説明がありました。両表の右側を見てください。表Aでは、生産価格はどの資本家も130ですが、労賃の一般的上昇は、表Bのとおり資本の構成の高い資本の生産価格を引き下げ、資本の構成の低い資本の生産価格を引き上げています(ただし平均的構成のCの生産価格は130のままです)。

(2)次に労賃の上昇と商品価格との関係が、商品需要の変化という観点から考察されています。マルクスは、いくつかのケースを検討したうえで、どの場合も一時的な不均衡は生じるものの「この全過程の結果は、社会的資本したがってまた貨幣資本が必要生活手段の生産と奢侈品の生産との間に分かれる割合が変化したということ」であって、それは貨幣量の増大をもたらさないと結論づけています。

3 貨幣通流と貨幣循環について

 「流通は絶えず貨幣を発汗している」という第1部第3章の一文の引用した後に、「この同じ事実が資本主義的商品生産の基礎の上では次のように言い表されるのである。すなわち、いつでも資本の一部分は貨幣資本の形態で存在しており、また、いつでも剰余価値の一部分はやはり貨幣形態でその所有者の手の中にある」とあります。学習会ではどういうことなのかいま一つハッキリしませんでしたが、以下のように考えてみました。
 「資本の一部分」「剰余価値の一部分」とありますが、どうして一部分なのでしょうか。資本は貨幣資本、生産資本、商品資本の形態をとって循環します。そして社会的総資本は同時に並立して3つの形態をとって存在しています。ですから貨幣形態をとっている資本は全資本の一部分だと言えます(剰余価値についても同様です)。また流通に貨幣を投げ入れる唯一の出発点は資本家階級であることを見ましたが、出口は二つしかありません。一つは生産要素を購入するための資本の投下であり、もう一つは消費手段購入のための剰余価値の支出です。したがって資本主義においては、資本と剰余価値の一部分は資本家階級のもとで貨幣形態で存在していることになります。
  次に以下のような一文があります。
  貨幣流通とは出発点から貨幣が遠ざかることであるとあります。
 図を見てください(大谷『図解社会経済学』より)。

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 商品流通を媒介した貨幣片はG→G→Gという具合に第三者の手に移って行き、流通の度に出発点から遠ざかります。これに対し貨幣循環は「出発点への貨幣の還流」です。G(貨幣)−W(商品)−G(貨幣)という具合に貨幣は元に戻ってきます。しかしその貨幣は出発点と同じ貨幣片である必要はありません。しかし貨幣流通において出発点から遠ざかるのは同一貨幣片です。
 ここでは貨幣資本の循環ではなく、単なる「貨幣の循環」とあります。貨幣の循環は「資本の回転の一契機をなす」とあるので貨幣資本の循環(G…G’)と同じではないかとの発言がありました。これに対しレポーターは、それは文字どおりでありそれは貨幣還流と同義であり、それには貨幣資本の前貸・還流のほかに流通手段の前貸・還流があるとしました。レポーターによると、第3篇でマルクスは「貨幣還流の法則」として定式化しており、この貨幣還流という契機は貨幣を媒介とした社会的総資本の再生産過程の考察にとって重要であるとのことでした。この点についての突っ込んだ議論は第3篇の当該箇所に持ち越されました。
 貨幣が出発点から遠ざかるのが貨幣流通だとしても、それは資本の回転の一角を占めている以上、「回転が速くなるということは、それ自身、流通が速くなるということを含んでいる」ことになります。しかし「これに反して、逆に、より速い貨幣流通は必然的により速い資本回転を含み、したがってまたより速い貨幣回転を含むということにはならない。すなわち、必然的に再生産過程の短縮とより速い更新とを含むということにはならない」とあります。それはどうしてなのか質問がありました。
 すぐあとに「同じ貨幣量でより多量の取引が行なわれるならば、いつでも、より速い貨幣流通が現われる。こういうことは、資本の再生産期間は同じでも、貨幣流通のための技術的な施設の変化の結果として、ありうることである」とあるので、そのことだと思われますが、「技術的な施設の変化」とは具体的に何かということになり、諸支払いの相殺や現金輸送手段の発達が挙げられました。こうした技術的な変化によって貨幣流通が速まるなら貨幣量が増えなくても多量の取引が従来の再生産期間の範囲内で行うことが可能だということであって、もし同量の取引が行われるとするなら、一般的には、より速い貨幣流通は必然的により速い資本回転をもたらすと言えるように思えますが、どうでしょうか。

4 貴金属の十分な供給は資本主義の発展の一条件をなす

 「資本主義的生産様式――その基礎は賃労働であり、したがってまた貨幣での労働者への支払であり、一般に現物支払から貨幣支払への転化である――は、流通とそのために必要になる貨幣蓄蔵(準備金など)とのために十分な貨幣量が国内にある場合にはじめてより大きな範囲とより深い完成とで発展することができる」
 資本主義的生産が行われるための基礎的条件は賃労働者階級の広範な形成です。賃金は貨幣形態で支払われなければならず、そのためには国内に十分な貨幣量がなければならないことが指摘されています(これは不変資本部分についても言えることです)

第2節 蓄積と拡大再生産
 
1 拡大再生産における剰余価値を流通させるための貨幣はどこからくるか?

「蓄積が拡大された規模での再生産という形で行なわれる限りでは、明らかに、蓄積は貨幣流通に関しては何も新しい問題を提出しない」
 どうしてそう言えるのでしょうか? 資本の蓄積とは剰余価値の一部が追加資本に再転化することですが、そのためには剰余価値が実現されそれは貨幣形態になっていなければなりません。資本家はすでに実現した剰余価値を貨幣形態で持っており、それを、蓄積のために一部を資本として、残りの一部を収入として個人的消費のために、流通に投じます。すなわち「貨幣はすでに資本家の手に」あるのです。単純再生産の場合、貨幣形態にある剰余価値は個人的消費のために支出されるのですが、蓄積の場合、その一部が資本として支出されます。その限り貨幣についての新しい問題は出てきません。
 しかし「生産資本が追加されたためにその生産物として追加商品量が流通に投ぜられる」と、新たな問題が生じます。流通しなければならない商品生産物量が増大するからです。
 「この追加商品量と同時に、その実現のために必要な追加貨幣の一部分はすでに流通に投ぜられた。すなわち、この商品量の価値がその生産に消費された生産資本の価値に等しい限りでは、そうである。この追加貨幣量はちょうど追加貨幣資本として前貸しされたものであり、したがって彼の資本の回転によって資本家の手に帰ってくるのである。ここで再び前と同じ問題が現われる。いま商品形態で存在する追加剰余価値を実現するための追加貨幣は、いったいどこからくるのか?」
 このパラグラフの前半は次のようなことです。資本が追加される前の生産資本の額をP、追加資本を⊿Pとします。そうすると資本蓄積によって生産資本はP’(P+⊿P)に増大します。その結果、商品価値はP’+mとなります。P’部分ですが、その実現には⊿Pだけ余分の貨幣量が必要になってきますが、見たように⊿Pはすでに貨幣形態で流通に投じられており、その分の貨幣量が足りないという問題は生じません。では剰余価値()部分はどうでしょうか。「商品形態で存在する追加剰余価値を実現するための追加貨幣は、いったいどこからくるのか」という問題が再び現われてきます。
 「一般的な答えはやはり同じである」とマルクスは言います。拡大再生産の結果、流通する商品量の価格総額は増えていますが、諸支払の相殺や流通貨幣の節約や、さらには蓄蔵貨幣(鋳貨準備も含まれる)の流通形態への転化によって補充され得ます。「これらの手段の全てを尽くしてもまだ足りなければ、金の追加生産が行なわれなければならない」ことになる、と。

2 貨幣材料(流通用具)のための生産費は資本主義的生産様式における空費に属する

 「流通用具としての金銀の年間生産に支出される労働力と社会的生産手段との総額は、資本主義的生産様式の、一般に商品生産を基礎とする生産様式の、空費の重い項目になっている。それは、それに相当する額の可能的な追加生産手段と追加消費手段を、すなわちそれに相当する額の現実の富を、社会的利用から取り上げる」
 資本主義的様式においては、貨幣は諸商品の価値を実現する手段として大きな役割を果たしているのですが、それ自体、生産手段でも消費手段でもありません。本来なら、社会の労働力と生産手段が本来の現実的富(生産手段と消費手段)のために費やされるべきなのに、貨幣材料としての金銀の生産はそれを妨げているということです。
 
3 信用制度は金銀生産に向けられる費用を減らすとともに金属流通の限界を乗り越える

したがって、この点だけでも信用制度の果たす意義は明らかです。
 「与えられた生産規模が変わらない場合に、またはその拡張の程度が与えられている場合に、この高価な流通機構の費用が軽減されるならば、その限りでは、これによって社会的労働の生産力が高くされる。したがって、信用制度とともに発達する便宜手段がこのような効果をもつ限りでは、それは直接に資本主義的な富を増加させる。すなわち、それによって社会的生産・労働過程の大きな一部分が現実の貨幣のいっさいの介入なしに行なわれるとか、現実に機能している貨幣量の機能能力が高められるとかいうことになるのである」
 さらにマルクスは言います。「これで次のようなばかげた問いも片づいている。今日の規模での資本主義的生産は信用制度なしに(ただこの立場から見ただけでも)、すなわちただ金属流通だけで可能であろうか、という問いである。それは明らかに不可能である。それどころか、信用制度がなければ、資本主義的生産は貴金属生産の大きさにその限界を見いだしたであろう。他方、貨幣資本を提供したり流動させたりする限りでの信用制度の生産的な力について神秘的な観念を抱いてはならない」と。

3 資本蓄積のための貨幣準備金について

 最後に、実現された剰余価値の一部分がすぐに生産資本に転化しないで一定額に達するまで一定の期間、貨幣準備金として積み立てられる場合が検討されます。これは流通にある貨幣総量の一部が引きあげられることになり、そうなると流通に必要な貨幣量が不足し、その分新たに貨幣が供給されなければならないように思えます。果たしてそうでしょうか?
 その分が新たな追加貨幣だとするなら、金産国から供給されるということで簡単に片付くのですが、国内にある既存の貨幣総量から供給されるものと仮定するとどうなるでしょうか。
 「これに反して、以前と同じ量の貨幣が国内にあると想定すれば、すでに積み立てられた貨幣もいま積み立てられつつある貨幣も流通から流れてきたもので、ただその機能が変わっているだけである。それは、流通している貨幣から、だんだん形成されて行く潜在的な貨幣資本に、変えられているのである」「ここで積み立てられる貨幣は売られた商品の貨幣形態であり、しかも、その商品の価値のうちその商品の所有者にとって剰余価値を表わす部分の貨幣形態である(信用制度はここでは存在しないものと前提する)。この貨幣を積み立てた資本家は、その分だけは、買うことなしに売ったのである」
 全ての資本家が生産物を買うことなしに貨幣を準備金として保持するわけではありません。資本家の一部分が貨幣を積み立てる一方で、他の部分が生産規模の拡大のために貨幣を流通に投じるなら、現存の貨幣量で十分ということになります。
 しかし部分的な蓄積ではなく全般的な貨幣蓄積、つまり資本家階級全体がこれを行う場合には困難が生じるように思われます。しかし実際に積み立てられる準備金(潜在的貨幣資本)は、(1) 銀行預金、(2)政府証券、(3)株式という形をとっており、その限り困難は生じません。これらの形態では、「一方で貨幣資本の積み立てとして現れるものは、他方では貨幣の不断の現実の支出として現われる」からです。潜在的な貨幣資本は、実際には貨幣として流通に流れ込んでいることになります。
 「それゆえ、一方では貨幣に実現された剰余価値の一部分が流通から引きあげられて蓄蔵貨幣として積み立てられるとすれば、それと同時に絶えず剰余価値の別の一部分は生産資本に転化させられるのである。資本家階級のあいだでの追加貴金属の分配を別とすれば、貨幣形態での積み立てはけっしてすべての点で同時に行なわれるのではないのである」「年間生産物のうち、商品形態での剰余価値を表わしている部分についても、年間生産物中の他の部分についてと全く同じことが言える。その流通のためにはいくらかの貨幣額が必要である。この貨幣額が資本家階級のものだということは、剰余価値を表わしている年間生産商品量がそうであるのと同じことである。それは最初まず資本家階級自身によって流通に投ぜられる。それは流通そのものによって絶えず繰り返し資本家階級の間に分配される。鋳貨流通一般でそうであるように、この貨幣量の一部分は絶えず所を変えて停滞するが、他の部分は絶えず流通している。この積み立ての一部分が貨幣資本を形成するために故意になされるかどうかは、少しも事柄を変えるものではない」ということになるのです。
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『資本論』第1巻―次回(4月15日)学習会のご案内

 『資本論』第1巻の学習会は、第1章「商品」の第3節「価値形態または交換価値」を読み進めています。いわゆる価値形態論と呼ばれている部分です。第1節・第2節では商品価値(交換価値)の実体は単なる労働(抽象的人間労働)であること、価値量とは労働量(労働時間)であることを知りました。今度は商品価値はどのように表現されるのか、そこにはどういうメカニズムが働いているのかが問題になってきます。
 商品には価格があることは誰でも知っていますが、最初に考察される「x量の商品A=y量の商品B(x量の商品Aはy量の商品Bに値する)」という単純な価値形態(単純な価値表現)は、実は「x量の商品=100ドル」という価格形態(価格表現)と基本的に同じなのです。この単純な価値形態には何があるのでしょうか?
 以下は次回学習会(4月15日開催)の案内チラシです。
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          第141回(3月11日実施)学習会報告

 
第17章 剰余価値の流通(その3)
 
 3月11日(土)、第17章「剰余価値の流通」の第3回目の学習会を実施しました。第1節「単純再生産」の後半部分をやったあと、第2節「蓄積と拡大再生産」に入る予定でしたが、文章の解釈に手間取ったため、第2節に入ることができませんでした。
 
              第1節 単純再生産(後半)
 
 前回、剰余価値を貨幣化するための貨幣はどこから来るかという問いが発せられましたが、マルクスは、この問いを回避する逃げ口上を封じたうえで、この問いに再び立ち返っています。
 
1 剰余価値を貨幣化するための貨幣はどこから来るかという問題は、国内の商品流通のために必要な貨幣額はどこから来るのかという問題と一致する

 そこでマルクスは言います。
「一般的な答えはすでに与えられている。x×1000 ポンドの商品量を流通させる場合に、この商品量の価値が剰余価値を含んでいるかどうか、つまりこの商品量が資本主義的に生産されたものであるかどうかは、この流通のために必要な貨幣額の量を絶対に少しも変えるものではない。だから、問題そのものが存在しないのである。他の諸条件、貨幣の流通速度などが与えられていれば、x×1000 ポンドの商品価値を流通させるためにはある一定の貨幣額が必要なのであって、そのことは、これらの商品の直接生産者の手にこの価値がどれほど多くはいるか、またはどれほど僅かしかはいらないかという事情とはまったく無関係なのである。ここに問題がある限りでは、それは、一国内の商品の流通のために必要な貨幣額はどこから来るのか、という一般的な問題と一致するのである」。
 「一般的な答えはすでに与えられている」「問題そのものが存在しない」だというのですから、何か梯子を外されたかのようです。しかしマルクスの説明をよく聞くことにしましょう。
国内で流通する諸商品が資本主義的に生産されたということは、商品価値(価格)に剰余価値が含まれていることを意味します。しかし流通部面では諸商品の総価値(価格)が問題なのであって、商品価値に剰余価値が含まれているかどうかによって商品流通に必要な貨幣量は影響されることはありません。第1部第3章で明らかにされた商品流通の法則がそのまま当てはまります。だから剰余価値を流通させるための必要貨幣量という「問題そのものが存在しない」ことになります。したがって剰余価値を実現するための貨幣額はどこからくるかという問いは「一国内の商品の流通のために必要な貨幣額はどこから来るのか、という一般的な問題と一致する」ことになります。
 
2 貨幣流通の出発点は資本家階級自身だが、二つの出発点がある

「一国内の商品の流通のために必要な貨幣額はどこから来るのか」という形で問題が立てられると、それは生産された金生産物から供給されるという当たり前の結論になってしまうのですが、「資本主義的生産の立場からすれば、特別な問題という外観も確かに存在」します。なぜなら「ここでは資本家が出発点として現れていて、そこから貨幣が流通に投ぜられるから」です。資本主義的生産の場合、最初に貨幣を流通に投じるのが資本家であることから、この点についての考察が必要になってきます。
 資本主義的生産の場合、資本家こそが貨幣流通の第一次的出発点になります。労働者も流通に貨幣を投じますが、賃金の出どころは資本家です。資本家が商品を売って回収する貨幣には剰余価値が含まれますが、その額は「流通に投ぜられた貨幣資本を越える超過分」です。この限り剰余価値を実現するための貨幣はどこから来るのか、という同じ問いに再び引き戻されてしまいます。
 「実際には、一見いかにも逆説的に見えるが、資本家階級自身が、商品に含まれている剰余価値の実現に役立つ貨幣を流通に投ずるのである。だが、注意せよ。資本家階級はそれを前貸資本として投げ入れるのではない。すなわち、資本として投げ入れるのではない。資本家階級はそれを自分の個人的消費のための購買手段として支出するのである。だから、この貨幣は、その流通の出発点は資本家階級だとはいえ、資本家階級によって前貸しされるのではないのである」
 ここでは資本家には消費者としての側面があることが指摘されています。資本家も個人的消費のために貨幣を流通に投じます。それは資本の前貸しではなく個人的消費のための支出です。それは「剰余価値の実現に役立つ貨幣」だというのです。確かにこの面でも資本家階級は貨幣流通の出発点になっています。
 マルクスは、これから事業を始めようとする借地農業経営者(農業資本家)を登場させて、このことを確認しています。
 農業資本家は最初の一年に5000ポンドの貨幣資本を、生産手段(4000ポンド)と労働力(1000ポンド)に前貸しするものとします。剰余価値率100%とすると剰余価値は1000ポンドになり、1年後にそれを加えた6000ポンドで農産物が売られます。5000ポンドは彼が資本として流通に投じる貨幣ですが、彼は商品が売られるまで生きてゆかなければならないので、これとは別に個人的消費のために1000ポンドの貨幣を持っていなければなりません。彼はこれを自分のポケットから賄うのですが、彼はこの貨幣を資本として前貸しするのではなく消費のために支出します。消費手段の支払いに用いられた貨幣は、その後、流通貨幣の要素として流通部面に留まります。他方、消費手段として購入された商品は費消されて無くなってしまいます。
6000ポンドの農生産物については、販売されると(1)5000ポンドの前貸貨幣資本と(2)貨幣化された1000ポンドの剰余価値とが帰ってきます。「このあとのほうの1000ポンドを貨幣化したものは、彼自身が資本家としてではなく消費者として流通に投じた貨幣であって、彼が前貸ししたのではなく支出した貨幣である。この1000ポンドはいま彼の手に彼が生産した剰余価値の貨幣形態として帰ってくる」のです。こうして毎年この操作が行われますが、2年目からは、彼が消費者として支出する1000ポンドは常に生産された剰余価値の転化形態つまり貨幣形態です。剰余価値を実現するための貨幣は資本家階級自身が持っていることになります。
 
3 金生産者が生産し流通に投じる貨幣と他の資本家階級が流通に投じる貨幣との関係

 資本家階級が剰余価値の実現のための貨幣を流通に投じることと本源的な貨幣の供給源である金生産との関係はどうなのでしょうか。金生産者の生産物は金の形態を取っているので、社会全体の剰余価値の一部は金から成っていることになります。すると資本家階級の一部分(大多数)と金生産者との関係は次のようになります。
「資本家階級の一部分(金生産者以外の資本家階級の大部分―引用者)は自分たちが前貸しした貨幣資本よりも大きい(剰余価値だけ大きい)商品価値を流通に投ずるとすれば、資本家たちの他の部分(金生産者―引用者)は自分たちが金の生産のために絶えず流通から絶えず引きあげる商品価値よりも大きい(剰余価値だけ大きい)貨幣価値を流通に投ずるのである。資本家の一部分は自分が流通につぎ込むよりも多くの貨幣を絶えず流通から汲み出すとすれば、金を生産する部分は自分が流通から生産手段として引きあげるよりも多くの貨幣を絶えず流通につぎ込むのである」。
 これは勿論、資本家階級が流通から引きあげる剰余価値分の貨幣額と金生産者が流通につぎ込む剰余価値分の貨幣額とが一致するわけではありません。想定では「貴金属の総生産(=500ポンドと仮定された)は、ただ貨幣の摩滅を補填するに足りるだけ」でした。500ポンドの金という生産物の全額が流通に必要な貨幣の補填のために充てられるだけであって、「そのうちのどれだけが諸商品の剰余価値を貨幣化し、どれだけが諸商品の他の価値成分を貨幣化するかということは、ここではどうでもよい」のです。
マルクスは「金生産をこの国から他の諸国に移してみても、それは絶対に少しも事柄を変えるものではない」と言います。A国で例えばリンネルの生産のために社会の労働力や生産手段が使われたにも関わらず、それがB国の市場で売られてその代金がA国に入ってくるなら、その資本が直接に金生産に用いられるのと同じです。「A国のこの生産物(リンネル―引用者)は500ポンドの金で表わされており、ただ貨幣としてA国の流通に入るだけである。社会的剰余価値のうちこの生産物に含まれている部分は直接に貨幣として存在するのであって、A国にとっては決して貨幣の形態以外では存在しない」と。
 
4 難解な部分の解釈

そのあと難解な文章が続きます。
「金を生産する資本家たちにとっては、生産物のただ一部分だけが剰余価値を表わしており他の部分は資本補填分を表わしているとはいえ、これに反して、この金のうちのどれだけが流動不変資本のほかに可変資本を補填し、どれだけが剰余価値を表わしているかという問題は、ただ、労賃と剰余価値とがそれぞれ流通商品の価値のうちで占める割合だけによって定まるのである。剰余価値をなしている部分は資本家階級のいろいろな成員の間に分かれて行く。この部分は絶えず彼らによって個人的消費のために支出され、新たな生産物の販売によって再び収得される――まさにこの買いと売りこそは一般にただ剰余価値の貨幣化に必要な貨幣だけを彼ら自身の間に流通させるのだ――とはいえ、社会的剰余価値の一部分は、その割合は変動するにしても、貨幣の形態で資本家のポケットのなかにあるのであって、それは、ちょうど、労賃の一部分が一週間のうちの少なくともある期間は貨幣の形態で労働者たちのポケットのなかに残っているようなものである。そして、この部分は、金生産物のうちのもとから金生産資本家たちの剰余価値をなしている部分によって制限されているのではなく、すでに述べたように、前述の500ポンドの生産物が一般に資本家と労働者との間に分けられる割合によって、また、流通させられる商品価値が剰余価値と他の価値成分とから成っている割合によって、制限されているのである」。
 この文章に出てくる剰余価値や可変資本が、金生産物の価値部分のことなのか、他の諸商品の価値部分なのか、判然としません。社会的剰余価値のうち資本家がポケットのなかに貨幣形態で持っている部分は、年間の金生産物のうちの剰余価値部分によっては制限されない、それを制限(規定)するのは社会的剰余価値率である、つまり剰余価値を実現するための貨幣量は資本家が獲得する剰余価値の量の問題である、ということが言われているように思われます。
 次の文章も難解です。
 「しかし、剰余価値のうちの、他の諸商品の中に存在するのではなくこれらの他の諸商品と並んで貨幣として存在する部分が、その一年間に生産された金の一部分から成っているのは、ただ、年間金生産の一部分が剰余価値の実現のために流通する限りでのことである。貨幣のうちの他の部分、すなわちその割合は変わるにしても絶えず剰余価値の貨幣形態として資本家階級の手の中にある部分は、その年に生産された金の要素ではなくて、以前から国内に蓄積されていた貨幣量の要素である」
 社会的剰余価値は貨幣形態を取っている部分と商品形態を取っている部分とに分かれます。前者は金生産者の剰余価値部分であり、そう言えるのは自らの金生産物を剰余価値の実現のために実際に機能させる限りだということです。金生産者が個人的消費のために金生産物を支出するなら、剰余価値の実現のために自らの金生産物を貨幣として流通させることになります。後者はそれ以外の資本家階級の剰余価値です。彼らは商品形態を取った自分たちの剰余価値を実現させるために貨幣を支出しますが、この貨幣は過去に生産されて国内に蓄積されていた貨幣要素だということです。要するに、社会的剰余価値の一部は金生産者自身の生産物(金)で実現されるのに対し、社会的剰余価値の他の部分は、既に国内に既存の蓄積されていた貨幣で実現されることになります。
 さらに次の文章も分かりにくいです。
 「われわれの想定によれば、500ポンドという年間金生産は、ちょうどその年に摩滅した貨幣を補填するのに足りるだけである。それ故、ただこの500ポンドだけを眼中において、一年間に生産された商品量のうち、以前から蓄積された貨幣によって流通させられる部分を無視するならば、商品形態で生産された剰余価値は、すでに、他方で剰余価値が年々金の形態で生産されるというだけの理由からも、その貨幣化のための貨幣を流通のなかに見いだすのである。同じことは、500ポンドの金生産物のうちの他の諸部分、すなわち前貸貨幣資本を補填する諸部分にもあてはまる」
 一方に商品形態で生産された剰余価値があり、他方に500ポンドの年間金生産物のなかにも剰余価値が含まれているということは、「その貨幣化のための貨幣を流通のなかに見いだす」のと同じである、その限りでは剰余価値の貨幣化のための貨幣はどこから来るのかという問題は生じないと言っているように思われますが、あまりハッキリしません。
 「さて、ここで二つのことを言っておかなければならない」として以下の文章があります。これも少し解説が必要です。長いですがそのまま引用します。
 「第一に次のように言える。資本家たちによって貨幣で支出される剰余価値も、彼らによって貨幣で前貸しされる可変資本やその他の生産資本も、じつは労働者の、すなわち金生産に従事する労働者の、生産物である。労働者たちは、金生産物中の彼らに労賃として『前貸し』される部分とともに、金生産物中の資本家的金生産者の剰余価値を直接に表わす部分をも新たに生産する。最後に、金生産物のうちの、ただ金の生産物のために前貸しされた不変資本価値を補填するだけの部分について言えば、この部分は労働者の年間労働によってただ金形態で(一般に生産物のうちに)再現するだけである。この部分は事業開始当時に最初資本家によって貨幣の形で手放されたものであるが、この貨幣は新たに生産されたものではなく、流通中の社会的貨幣量の一部分をなしていたのである。これに反して、その部分が新たな生産物としての追加の金によって補填される限りでは、それは労働者の年間生産物である。資本家の側からの前貸しは、ここでも、ただ、労働者が自分自身の生産手段の所有者でもないし生産の進行中は他の労働者が生産した生活手段を自由に処分することもできないということから生ずる形態として現れるだけである。/また第二に、この500ポンドの年間補填とは別に存在していて、一部分は蓄蔵貨幣形態にあり一部分は流通貨幣の形態にある貨幣量について言えば、これもまた、ちょうど、この500ポンドについての年々の事情と同じ事情にあるのでなければならない。すなわち元来はそうだったのでなければならない。この点にはこの節の終わりでもう一度帰ってくることにする」
 第一点は、貨幣流通の出発点が資本家階級であるとはいっても、それらの貨幣はもともと金生産に従事する労働者の生産物だということです。事業開始時、金生産者は貨幣を用意しなければなりませんが、それは社会に蓄積され存在していた社会的貨幣量の一部です。これが前貸しされて金の生産が行われ、新たな金生産物によって前貸資本が補填される限りではその金は労働者が生み出した年間生産物です。第二点は、すでに流通貨幣として蓄蔵貨幣として存在する貨幣量も最初は年々生産される金生産と同じ経過を辿ってきたということです。「この点にはこの節の終わりでもう一度帰ってくることにする」とある箇所は原書345頁だとのレポーターの指摘がありました。
原書340頁の仕切り線から342頁の仕切り線までの箇所で、労賃の上昇と商品価格との関係、およびそれと貨幣量との関係が論じられています。そこに第3部で本格的に扱われる「生産価格」(事実上、生産価格の意味する「価格」が出てくる等)という言葉が出てくることから、レポーターからこの概念についての説明がありました。本文は検討できませんでしたので、この説明は次回報告で紹介することにします。
(雅)

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