|
被爆作家…大田洋子
(大田洋子、プロレタリア作家宛、書簡)
「広島の文芸」 より抜粋
田辺耕一郎が、雑誌編集長から左翼文学運動に「転換」し、左翼文学の陣営が崩れ去ったあとには、ヒューマニズムの立場からプロレタリア文学理念の建て直しを考え、太平洋戦争の戦時下体制で沈黙にとじこもざるを得なくなった、そういう政治と文学の関係は、たとえば大田洋子には無縁のものであった。
大田洋子は、新徳高女を卒業した大正9年、17歳の時、中国新聞へ投稿した作品がたまたま掲載されたことを機縁に、作家への志を抱いたと伝えられるが、それから昭和4年『女人芸術』にはじめて短篇小説が掲載されるまでの数年間は、裁縫教師をしたり、県庁のタイピストになったり、上京して文芸春秋社の菊池寛のもとで寄食したり、というような自己模索を重ねた。
『女人芸術』 との関係は大田洋子にとって大事な足がかりであったし、女性ばかりを糾合したグループの中で、「広島の大田洋子」 は有望視されるメンバーとみられた。
『女人芸術』は昭和3年に創刊された長谷川時雨主宰の女性対象の同人誌である。大衆作家三上於菟吉から、その夫人の長谷川時雨に資金が渡されて成立していた。
その後、昭和文学の中で存在を示す女性作家のほとんどは、一度ならず 『女人芸術』 に関係し、注目される作品を書いた。『女人芸術』は昭和8年に廃刊となったが、それまでの数年間、この雑誌を中心に多くの小説を書き、昭和14年『中央公論』の懸賞小説に「海女」が入選、翌15年には朝日新聞の懸賞小説に「桜の国」が入選するという一転機を迎えた。
昭和20年広島における被爆体験は、大田洋子の文学的志向を決定づけたが、それまでの小説は結局「流離の岸」(昭和15年) という半自伝的な長篇小説に代表される。
佐多稲子、林芙美子、平林たい子など大田洋子と同じ時期に文学的出発を始めた人たちのなかに「流離の岸」を置くとき、思想的、或いは政治的な難問に直面しなかった美質と限界が自明となる。
感情過多から感傷性をおびる作品の傾向は、被爆体験に取材した後期の作品群の説得力をとかく殺ぐ一因ともなった。
<『新椿』と大田洋子>
『中国文化』、『郷友』と同じ時期に創刊され同じ頃に自滅せざるを得なかった婦人雑誌『新椿』は、雑誌刊行だけでなく料理講習会や講演会を開いたり、幅広い文化活動を行っていた。二年ばかりの短命に終わったが、創刊号には大田洋子が「青春の頁」という連載小説を書いた。
『新椿』は昭和21年4月の創刊で、大田洋子の「青春の頁」は七月号で連載中絶となっている。「屍の街」を書き進める一方で書かれていた「青春の頁」は、戦争中の恋愛や結婚の問題を描いたものだったといわれる。
『中国文化』誌で、栗原貞子は、この小説をとりあげて、こう批評した。
《ただ面白くて、はらはらして、退屈しなくて、ご婦人向きの甘さがあって、時代が多 少出ていればそれで小説だとは言えない。》 (「戦後広島文芸史」)
年譜によると「屍の街」は「中央公論」に送ったが掲載されなかった。
「青春の頁」は通俗恋愛小説で要するに売り絵のひとつであったが、「屍の街」と併合して書き進められたところに大田洋子の多様性をみるべきかもしれない。被爆体験を同様に受けた原民喜の、もてなかった資質の一面が、大田洋子にはあった。
<大田洋子の「屍の街」>
大田洋子が東京から広島に移ったのは、原民喜と同じ昭和20年1月であった。
空襲の激しくなった東京から疎開してきたわけだったが、原民喜の生家のある幟町にほど近い白島九軒町の姉の家の二階に居を移していたのである。
「屍の街」は大田洋子の代表作であるばかりでなく、原爆を扱った文学作品の代表的なひとつに数えられる。敗戦の翌年にありあわせの紙をつないで書きつがれた。この作品は、それまでの大田洋子の作品にはみられなかった記録への意思と直截の叫びが熱っぽい現実性をかもしている。
占領軍のプレス・コードの統制下にあったため、削除なしの完本が発行されるのは、昭和24年で、広島の被災情況への一般の関心が高まるにつれ、それに応じる形の発言を求められるようになり、「人間襤褸」としてまとめる一連の短篇小説を書いて、昭和27年度の女流文学者賞を得た。
その頃から既に不安神経症が昂じていて、原民喜の自殺は異様なショックを与えたといわれる。神経科に入院したり、睡眠持続療法を続けたりしながらも、以後「人間襤褸」(昭和27年)・「半人間」(昭和29年)・「夕凪と街と人と」(昭和30年)と被爆体験に関わる作品群を書き、それぞれ注目をあびた。
折りしも原水禁運動が高揚してきた時期でもあり、大田洋子は「原爆作家」の名のもとに毀誉褒貶の渦中におかれた。
昭和32年以後は直接の手法、記録的な方法から脱皮を計る試みを「風のひびき」(昭和32年3月『世界』)や、「かわれどき」(昭和34年7月『世界』)などに示すが、成功しないまま、老母と自己の人生遍歴を描いた私小説-「80歳」(昭和35年10月『世界』)・「84歳」(昭和36年4月『群像』)を発表して、明らかな転換をみせ始めた。
大田洋子は原民喜のように、周囲の理解と庇護によって自己の存在を保持するようなタイプとは逆であったから、とかく対人関係でトラブルを起こしたり誤解を招いて人にそむかれることが多かった。
その死は昭和38年12月で、ただ一人福島県猪苗代町の中の沢温泉にある旅館で入浴中に急逝という孤独のきわみをつくした。また戦前の作品群はむろん、「人間襤褸」 以下一連の諸作も再刊の折が与えられない不遇にあり、近年になってようやく 「屍の街」 が潮文庫版として刊行されたほかは機会に恵まれていない。
原民喜の詩碑はその死から一年も経たないうちに建立されたが、大田洋子を記念する建造物は無論、その文学を偲んで有志が語ろうといった企ても全くない。むしろ広島を遠く離れた東京在住の少数の有志に、大田洋子の作品集を編纂しようという企画や再評価への働きかけが強い。
『安芸文学』29号(昭和45年11月)に「原爆文学通史」を書いた長岡弘芳もその一人であるが、大田洋子の家に止宿したことのある江刺昭子は、大田洋子研究の立ち送れを憂い、自ら「草饐−評伝大田洋子」(昭和46年8月刊濤書房)を刊行するに到っている。
「草饐−評伝大田洋子」 は幅広い調査と踏査の結果大田洋子の全体像を描こうとしており、貴重な資料となっている。
|
文学
[ リスト | 詳細 ]
|
田辺耕一郎 (1903-1991)
(田辺耕一郎、賀状) (田辺耕一郎、佐藤春夫媒酌結婚挨拶)
<多喜二の遺体をかこむ> (昭和37年、新潮社刊「多喜二虐殺」) より
「小林多喜二の遺体をかこむ友人たち」 とした一葉の写真がある。
東京築地警察署で拷問にあい、瀕死の多喜二は築地署の裏の前田病院に移されて絶命、それから馬橋の家へひきとられた夜の写真である。
説明には、昭和8年2月22日午前1時頃とあって、手前の右寄りに右頬をみせ、うすく口を開いた多喜二の死顔が電灯の真下にあり、その枕辺をかこむのは、原泉・
田辺耕一郎・立野信之・山田清三郎・鹿地亘・千田是也などである。
心もちうつむいた顔のふせた瞼はどの視線も多喜二の死顔に注がれているのを示すようだ。電灯の光りが人々の額を白くうき出している。
田辺耕一郎は、小林多喜二の死と拷問のあとを目撃した、広島では唯一人の証人であった。
<田辺耕一郎と多喜二の死>
日本プロレタリア作家同盟の出版部員の主要なメンバーとして田辺耕一郎は昭和初年代から太平洋戦争の始まる頃まで、時評や詩論、評論を書き活動した広島生まれの一人である。
日本プロレタリア作家同盟はナップ (全日本無産者芸術団体協議会) に加盟していた芸術諸団体の主導的役割を果たしたが、田辺耕一郎の属した出版部には部長
江口渙のもとに細田民樹・大宅壮一などもいた。
小林多喜二の死を 『プロレタリア文学』 昭和8年4・5月合併号は 「同士小林の××に抗して」 というタイトルで特集している。××は伏字で当然そこには虐殺の二字が入るべきところである。
目次面には、林房雄・武田麟太郎・窪川いね子(佐多稲子)のエッセイや、「同士小林多喜二伝」 という題名である。『プロレタリア文学』はこの号のあと10月まで続刊、
1年半余20号で発刊できなくなっている。
立野信之はその記録的小説 「壊滅」 で、プロレタリア文学運動の弾圧による崩壊過程を描いているが、橋爪健の 「多喜二虐殺」 は前述の多喜二宅の通夜を中心に記録している。
<同人誌『現実』の文学的意義>
本庄陸男らと創刊した第一次 『現実』 は、昭和9年4月から五号続刊された雑誌であるが、田辺耕一郎はその創刊号に 「懐疑と探求」 を書き、終刊号には 「文学精神の苦悩」 を出している。この 『現実』 は昭和11年1月には井上友一郎・長崎謙二郎・山室静らも加えて第二次 『現実』 となったが、一貫して反ファッショの姿勢を保った有力なグループとみられた。
グループには保田与重郎や亀井勝一郎も加わっていて、旧プロレタリア文学同盟員のなかになぜ、のちに日本浪漫派の中心となる保田与重郎らがいたのか、という呉越同舟のグループ構成のいみを問う興味深いテーマの対象とされている。
『文学評論』 の昭和11年3月号には、「新雑誌創刊の抱負」 という特集があり、
『人民文庫』 から本庄陸男、『新文学』 から橋本正一、そして 『現実』 から田辺耕一郎が 「時代をつくる 『現実』 の立場」 という一文を寄せているところをみれば、「芸術派も加えて文学を一度政治から切り離して考える」 という意図が、相当の説得力をもっていたと察せられる。
しかし、同じ 『文学評論』 の昭和10年8月号に 「意欲の再建とリアリズムの変革」、昭和13年6月 『文学界』 に 「自然と思想−蘆花の墓畔に現代を想う-」、 昭和16年6月の 『新潮』 に 「農民小説の再出発」 などがみられるのを最後に戦時体制のなかで現役から一歩退いた形にならざるを得なかった。
「工場の戦線」 という小説を、昭和6年(文学時代の12月号) に書いたことのある田辺耕一郎は、戦後広島で創刊された雑誌に 「国破れて山河あり」 という連載小説を始めたが、雑誌の続刊ができないまま中絶した。
戦後、『世界』 に原爆の文学とヒューマニズムの関係をテーマにエッセイを書いたが、評論活動は次第に振るわなくなった。「憩いの家」 は昭和30年来日したアメリカのアイラ・モリスが出資、設立準備を田辺耕一郎に託して、二年後の昭和32年に現在地-宇品西二丁目につくられたものである。
田辺耕一郎はその施設運営の世話を以後16年にわたる今日まで続けている。
|
|
新興芸術派のパトロン・・・田中喜四郎
<反左翼の一派>
昭和4年の4・16事件のあった同じ月に反プロレタリア文学を標榜する 「新興芸術派」 の母体となった 「近代生活」 が創刊される。
当時のプロレタリア文学関係の作家以外の有力な人々を集めたこのグループは、
「芸術派の十字軍」 として、「誰だ?花園を荒らす者は!」 と叫んでプロレタリア文学に反撃する芸術至上主義の立場をとった。
敵対意識を明確にうち出した新興芸術派には、強力なジャーナリズムの後援もあった。中村武羅夫がその主導者だったが、グループには、中村正常・保高徳蔵・舟橋聖一・堀辰雄・吉行エイスケ・井伏鱒二・竜胆寺雄などがいて、反プロレタリア文学の立場をえらばずにはいられないという理由から、このグループに属していた者も多かった。
エロ・グロ・ナンセンス時代といわれる昭和初年代の社会不安を、馬鹿騒ぎに転化して、刺激と享楽のうちに忘れようとした時代のジャーナリズムに、それらのグループは活用され、或いは使いすての命運を辿ったりした。
<新興芸術派のパトロン>
『近代生活』 にはパトロンがいた。発刊のたび赤字がかさむため、吉行エイスケ (吉行淳之介の父) や久野豊彦は広島を訪れ、宇品の田中喜四郎に経済的な援助を乞うたのであった。
田中喜四郎は新開地になったばかりの宇品の大地主であった。
宇品は日露戦争後には船問屋、造船所が建ち、港町を形成しつつあったが、宇品新開に土着しようとする農・漁民は、荷役労働者に転じる他ない状態だった。
宇品築港にからむ補償問題がこじれて仁保、丹那の村落では争議が続いていたといわれるが、田中家は広島市内で未曽有の大地主になっていた。
田中家と小作人とのトラブルは絶えず、周辺住民の反目をあびていた。田中喜四郎は詩を書いていたが、東京に出ると詩の同人誌の出資者になったりした。
『近代生活』---ひいては新興芸術派の運動は、この田中喜四郎の援助がなければ
持続できなかった、と高見順は 「昭和文学盛哀史」 のなかで語っている。
田中喜四郎は当然、広島の詩人たちには好感をもたれなかった。
米田栄作は芸備日日新聞の大正14年9月21日号に「ボクメツマッサッ」の詩を発表したと伝えられる程である。
高見順は田中の詩りもゴシップの方で有名だったと記し、昭和5年に刊行の 「詩と随筆集」 というアンソロジーに、佐藤惣之助・白鳥省吾・室生犀星らのなかに田中喜四郎も加わっているが、その詩は、「いつでも極めてつまらない」 とつき放した発言をしている。
それでも田中喜四郎はかなりの詩集をもち、絵画もよくし、昭和48年には本通り筋の画廊で個展を開いたりして、ディレッタントの域を出なかったという見方はあるにしても、文学史の中のかげの役割は確実に担ったのであった。
|
|
原爆詩人・・・栗原貞子 (1913-2005)
「栗原(土居)貞子、ハガキ」 「広島生活新聞・昭和28年8月10日、発行人・栗原唯一(貞子の夫)」 詩人。広島市生まれ。
可部高等女学校 (現・広島県立可部高等学校) 在学中の17歳から、短歌・詩を中心に創作活動を始めた。
1945年8月6日 (広島市への原子爆弾投下) に爆心地の4㎞北の自宅で被爆。
戦後は夫の栗原唯一と共に執筆活動を行い、平和運動に参加し、反戦・反核・反差別・反天皇制を主張、特に昭和天皇の戦争責任を言及しており、「戦前・戦中派にとって天皇絶対主義の恐怖は母斑のように肉体にしみついている。天皇制は日本人にとっての原罪である。」 と述べている。
1990年第3回谷本清平和賞受賞。
2005年3月6日、老衰のため広島市内の自宅で死去した。92歳。
「生ましめんかな」
この詩は原子爆弾が投下された夜、地下壕に非難していた被爆者の一人が突然産気づき、赤子を取り出すために同じ地下壕内に非難していた一人の産婆が、自らの怪我を省みずに無事赤子を取り上げるのが、それと引き換えに命を落としたという内容である。
この詩の内容は架空の物語ではなく、広島市千田町の郵便局地下壕で実際に起こった出来事を聞いた栗原が、脚色を加え作った詩である。
詩のとおりに妊婦は出産直後に泡を吹いて亡くなった。実は生まれた赤ん坊も一月後にはかなく命を終えた。相違するのは、産婆は生き残り、80歳まで仕事を続け赤ちゃんを取り上げた。
この詩は、消え行く命と生まれ出る命を対比的に表現し、原爆を主題とした詩の中で、原爆の悲劇と人間のたくましさ、、未来への希望を表現した名作との評価は高く原爆詩の代表作の一つとされている。
現在詩の舞台となった日本郵政株式会社中国支社の敷地内にある 「郵政関係職員慰霊碑」 と共に 「生ましめんかな」 の歌碑が建てられている。
|
|
プロレタリア作家・・・細田民樹
(細田民樹・書簡・手帳)
大正7年の冬、広島県山県郡壬生の実家に帰った細田民樹は、三年間服務した広島騎兵第五連隊における体験をもとに「或兵卒の記録」を書いた。
細田民樹は平穏な自由な幼少年期を山県郡の山村ですごし、広島一中 (現・国泰寺高校)に入学した頃には、田山花袋の主宰による『文章世界』や『秀才文壇』といった投稿雑誌へ盛んに応募して、有為な才能をマークされていた。
早稲田大学へ進むと「泥焰」という売春婦を題材にした中篇小説を書いて『早稲文学』の編集長であった相馬御風の激賞を得た。
大正4年に徴兵され広島騎兵隊へ入るが、そこですごした三年間の体験と見聞は、細田民樹の文学的出発を約束したばかりか、ようやく強大になりつつあった軍隊機構の非人間的な暗部を衝いて、わが国の「反戦文学」の嚆矢となった。
<その先駆的意義>
大正期の終わりから盛んになったプロレタリア文学運動へ接近したのは必然でもあったが、「或兵卒の記録」の連作小説集は自分の体験から、いわばナイーブな形で体制批判に到達したところに質の高さがあったし、孤立しながらも辿りついたその思想的営為の誠実さが人のこころをとらえた。 プロレタリア文学運動は徹底的な弾圧を受けて壊滅するまでに「政治と文学」の題に集約される諸問題に縫着して分岐・崩壊・再生を繰り返すが、細田民樹はその渦にありながらも「心理の春」(昭和5年)に代表されるような資本主義の悪を暴露す大作を書いた。
細田民樹の小説は、他のプロレタリア作家群とは異質のスケールをもち、その構想力において抜群だったが、通俗的な傾向は拭えなかった。
太平洋戦争後、広島の被爆を扱った「広島非歌」(昭和25年)「ビショップの輪」(昭和30年) という二つの長篇小説を書き、晩年の代表作となったが、戦後文学の流のなかでは、その通俗性ゆえに正当に評価されることが少なかった。
大正4年、早稲田大学を卒業したばかりの細田民樹が入営した広島騎兵第五連隊は、広島駅西側の桜の馬場踏切りをこえ、東照宮下への道の左側いったいにあった。大正7年の米騒動が広島にも波及して騒然となった時、細田民樹は馬に乗って出動、鎮圧隊の一員だった。
「或兵卒の記録」はもっとも有名な「初年兵江木の死」のほかはインサイド・レポートの色彩が強く、その記録性は細部への目配りと冷静さと人間的視点の不動さをもって、大正時代の軍隊の内部をヴィヴィッドに伝えてくれる。
兵営内での軍隊生活は、戦後になって「真空地帯」(野間宏) や「神聖喜劇」(大西巨人) に詳しいが、「或兵卒の記録」はそれらの先駆的役割を果たしていて、人間的視点が捉える内部機構と人間の非人間性にむけるプロテストの姿勢は、野間・大西などにも共通しているのである。
|





