全体表示

[ リスト ]

       7代目武蔵川大治郎墓碑の発見 Ⅲ      
 
7 武蔵川大治郎とは                                                                      
武蔵川大冶郎は、寛政4年(1792)、須影村で生まれ、江戸上京後、粂川新右衛門(元三段目・矢車)の粂川部屋に入門した力士で、中英夫の『武州の力士』には取り上げられていないが、大治郎の父もまた荒潮大三郎(大次郎)という幕下二段目で活躍した力士であった。大治郎は、文化10年(1813)の正月場所に荒汐虎之介として序の口となり初土俵を踏み、その翌11年11月場所、三段目に昇任したのを機会に四股名(しこな)を大冶郎と改めている。そして文化14年正月場所に幕下二段目に上がった。文政9年(1826)正月には、先代の武蔵川が錣山(しころやま)の名跡を継ぎ、4代目錣山に名跡変更したことから、大治郎が現役のまま、7代目年寄・武蔵川を襲名することとなった。その後の文政10年(1827)の11月場所には念願の入幕を果たしている。34歳であった。同12年10月から、「姫路」頭書、いわゆる姫路藩侯のお抱え力士となっている。天保2年2月場所及び同年10月場所には前頭三枚目となった。以後中堅力士として活躍していたが、天保9年(1833)二月場所を最後に引退している。幕内在位21場所で、その通算成績は54勝52敗3引分8預で、勝率は五割九厘であった。最高位は前頭三枚目であった。
引退後は、深川常盤町に居住し、年寄専務として、門弟育成に力をそそぎ、幕内力士・武蔵野門太(児玉郡神川村出身)等を育てている。
勧進元(場所興業責任者)を天保13年2月場所と弘化4年11月場所の2回、差添を天保15年正月場所と弘化4年2月場所の2回をそれぞれ務めるとともに、相撲会所の組頭(今の相撲協会理事)となり、後進の育成に力を注いでいる。  
嘉永元年(1848)6月22日、55歳で没した。
戒名は「羪屋院力蔵晴雲信士」。墓所は江戸下谷柳之稲荷(台東区元浅草)の大乗院と埼玉郡須影村(羽生市須影)の蓮華寺(須影共同墓地)に葬られた。
その肖像は、江戸時代の浮世絵師歌川豊国により、力士画の一つに描かれており、その浮世絵は今でも埼玉県立歴史と民俗の博物館に所蔵されている。
                           
8 武蔵川大治郎墓碑
  旧蓮華寺墓地(須影共同墓地)に存する武蔵川大治郎の墓石には、次の通り記されている。
【正面】  
嘉永元年
(胎蔵界大日如来)  羪屋院力蔵晴雲信士  霊位
六月二十二日
【右側面】
武蛤覿矛歓椡涜嫉坤縫董    々塲五十五歳
荒潮大治郎名乗ル文政十    俗名
丁亥歳武蔵川大治郎改      武蔵川大治郎 
幕乃内ニ上ル年寄組頭役
勤ム嘉永元年六月二十二日
死ス  江戸下谷柳之稲荷大乗寺有之
【左側面】
嘉永五壬子年         願主
八月十五日           荒潮斧治郎
    建之             同
                武蔵川大治郎
 
9 大乗院武蔵川家墓碑
旧蓮華寺の墓碑には「江戸下谷柳之稲荷大乗寺有之」と記されているが、浅草大乗院には、現在、大治郎の単独の墓碑は存在しておらず、墓地整理後に建てられたと思われる新しい墓石「武蔵川家」の中に墓誌として大治郎の戒名が記されているのみとなっている。
その浅草大乗院における武蔵川家の墓石における碑文は次の通りであった。 
【正面】
(丸に三つ柏) 先祖代々之墓   武蔵川家
【右側面】
羪屋院力蔵晴雲信士  嘉永元年六月廿二日
羪壽院榮鏡明雲信女 
   須昌院榮譽好徳居士  明治三十五年十月十五日
   竹林院好徳榮譽居士  明治四十三年十一月廿一日
   慈光院春岳道良居士  昭和十三年三月廿日
【左側面】
昭和十三年七月
       十六代武蔵川谷右衛門
                吉原熊三郎建之
      
この墓碑の「羪屋院力蔵晴雲信士」は7代目武蔵川大治郎で、「羪寿院榮鏡明雲信女」(没年不明)が同夫人である。
「武蔵川家」とは、「須昌院榮譽好徳居士」、いわゆる10代目武蔵川大治郎が明治4年公布、翌5年施行された初の全国的戸籍である壬申戸籍の施行に伴い、苗字を「武蔵川」として届けたことによる。
 なお、墓碑に記されている「竹林院好徳榮譽居士」は11代目武蔵川谷右衛門、「慈光院春岳道良居士」は12代目武蔵川谷右衛門である。
 7代目の実子でありながら、なぜか、8代目武蔵川大治郎はここに記されていない。
8代目武蔵川大治郎は、大橋初五郎として土俵に上がっていたが、わずか6年で引退、8代目武蔵川大治郎として年寄専務となった者で、住居も7代目と同じ深川常盤町であった。 
安政6年(1859)の大阪巡業中、大名の子が土俵上で放尿するのを見て、弟子の幕内力士武蔵野弥助が不謹慎と殴りつけたことから、監督不行届けと、8代目武蔵川は年寄を罷免されるとともに、弟子とともども追手風部屋預かりとなった。
安政6年正月場所の番付では東前頭五枚目に掲載されていた武蔵野弥助も、次の11月場所の番付からは消去され、欄外に死去と表示されている。恐らく手打ちになったものと思われる。
また、8代目も、その後の消息が不明となっているところを見ると、追放させられたものと思われる。
7代目大治郎夫人「羪寿院榮鏡明雲信女」の没年が不詳になっているところから考えると、7代目夫人、いわゆる8代目の母の没年不詳との関連があるのではなかろうか。
その後、2人の死を知り、没年のわからぬまま、この武蔵川家の墓に葬られたのではなかろうか。母は死亡日不詳のまま記されたが、子は世間をはばかって無記名として‥。
 次の「須昌院榮譽好徳居士」、10代目武蔵川大治郎については、『埼玉人物事典』(埼玉県編集発行)及び皆野町文化財記録によると、文政6年(1823)に秩父郡三沢村(皆野町三沢)で生まれ、田舎相撲の大関とし活躍していたところを請われ、妻子を残して江戸相撲を志した。安政6年(1859)に十両、文久3年(1863)には先代の引退に伴い武蔵川を襲名、前頭四枚目まで上った。引退後は年専務として活躍していたが、明治25年に廃業している。その10年後に80歳で死去している。
また、明治5年の壬申戸籍の折、この10代目武蔵川は、武蔵川大治郎家の苗字を「武蔵川姓」としている。
 明治27年、弟子たちにより、郷里の生家・関口家の前の県道沿いに、「東京 十六代武蔵川大治郎」の碑が建てられた。
  
10 隣接して建つ11代目墓碑
 武蔵川家の墓碑に隣接して小松家の墓碑がある。その墓碑を見ると、武蔵川家に記されている「竹林院好徳榮譽居士」と「慈光院春岳道良居士」と同一の名がみえる。
 その記載内容は次の通りである。
【正面】
(丸に三つ柏)  先祖代々之墓     小松家
【右側面】
   竹林院好徳榮譽居士  明治四十三年十一月廿一日
   竹脩院晴鏡妙譽大姉  大正九年九月廿四日
   芳香善童女      大正五年七月十四日
   智空孩子       昭和五年九月廿三日
   松覚院好徳一阿居士  昭和十二年十一月十三日
   慈光院春岳道良居士  昭和十三年三月廿日
【左側面】
昭和十三年七月
        吉原熊三郎建之
昭和三十七年五月 小松金太郎
    
武蔵川家と小松家の墓碑を見ると、ともに建立年及び建立者が同一となっていることから、2基とも吉原熊三郎(12代武蔵川谷右衛門)により昭和13年に同時に建立され、その後、昭和37年に墓地整理(?)の折、小松金太郎の手により、再建されたものと考える。その頃は吉原家も小松家と変わっていたものと思える。それに、家紋も「丸に三つ柏」と同一となっている。11代武蔵川谷右衛門は、郷里徳島の養家吉原家を継いだものの、吉原家の墓は尊敬する大治郎の墓の隣に建て、そこに家族とともに入るとともに、武蔵川家の墓にも分骨した。11代の養子となっていた12代武蔵川谷右衛門も本姓は吉原であったが、11代同様両墓に葬られた。
しかしながら、現在は、その墓も「吉原家」ではなく、前記のように「小松家」となっている。

この記事に

閉じる コメント(0)

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

開く トラックバック(0)


.


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事