過去の投稿日別表示

[ リスト | 詳細 ]

全1ページ

[1]

利根川変遷による国境の変動
 
1.暴れ川坂東太郎
 『萬葉集』巻十四の三四一三に次のような歌が載っている。
 「刀祢河泊乃 可波世毛思良受 多太和多里 奈美尓安布能須 安敞流伎美可母」(利根川の 川瀬も知らず たた渡り 波に逢ふのす 逢へる君かも)
  “利根川の浅瀬の場所も良く考えずに真っ直ぐ渡ってしまって、いきなり波しぶきに当たるように、お逢いしたいあなたです”という恋歌で、記録に残る利根川の文字が最初に出てきた文献である。この歌がどのあたりで詠まれたのかは不明であるが、川瀬を渡るとあるところから、川幅もさほど広いところでなさそうである。のどかな景色を浮かべる歌である。
 「ここに坂東の名を得たる大河一つあり、此の河の水上は上野国利根の庄藤原と云う所より落ちて水上遠し、末に下りて在五中将の隅田河と名付けたる。」
これは、源義経の生涯を記した『義経記』の巻三の七「頼朝謀反の事」の中の、諸国の武士達が鎌倉の頼朝のもとを目指して進む途中、利根川にさしかかった折の記述である。ここに「坂東の名を得たる大河」とあるように、利根川は大きな暴れ川であった。それも、九州の筑後川(筑紫次郎)、四国の吉野川(四国三郎)をしのぎ、坂東太郎の異名を持つほどの暴れ川であった。
 
2.言問の地はどこか
 「なお行きて、武蔵の国と下総の国との中に、いと大きな河あり。それを隅田河という。」
これは、在五中将、いわゆる在原業平をモデルとした『伊勢物語』第九段の中の業平が東下りの途中、大河である隅田河(利根川)にさしかかった折の文である。
この頃の利根川は、現在の古利根川、中川、隅田川を経て東京湾に注いでいた。
大化改新で行政区画としての国や郡が設けられたが、この国や郡の境界は生活圏を分けることとなる線、いわゆる山地や丘陵地では山や丘の尾根つたい、平地では大きな河川によって区画された。
今の利根川も埼玉県と群馬県、千葉県と茨城県と県境を流れているが、昔の利根川も武蔵国と上野国及び下総国との国境を流れていた。というより大河を境として国境が定められていたのであった。
 『伊勢物語』でみるように、隅田川(旧利根川)も下総国と武蔵国との国境に流れる川であった。今でもある両国橋がその存在を物語っている。
 業平は、この場所で飛び交う鳥を見て、遠い京の都を思い出しながら、「名にしおはば いざこと問はむ 都鳥 わが思う人は ありやなしやと」と詠んだという。
 この場所は一般的には東京の墨田区に架かる「言問橋」近辺の隅田川だといわれている。しかし、わが地こそ、本当の言問(こととい)の地だと主張しているところがある。わが埼玉県春日部市の豊春地区である。『伊勢物語』にある隅田河とは、現在の古隅田川であり、業平橋も存在しているという。どちらが正しいのか分からないが、ロマンである。
 
3.羽生領及び葛飾郡新方領の武蔵国への編入
 大河として国境となっていた利根川は、自然的、人工的にその流路が変わることにより、国境も変化していった。
 羽生もその一例であった。
 かつて利根川は、往古には羽生市上川俣から現在の会の川筋に流れるのが本流であった。その会の川の流れも現在は羽生市上川俣から新郷・岩瀬境を通り砂山から左折し、羽生市・加須市境を流れ加須市の中心部を経て加須市篠崎で葛西用水路に注いでいる。しかし埼玉大学の堀口万吉氏によると、往古には会の川は、砂山から左折せず、そのまま南へ進み今の新川用水路を流れるルートであったという。別掲の「埼玉県東部地域における領の配置図」による羽生領の西部及び南部の境界を進み鷲宮で現古利根川へのルートであった。往古には、この利根川の流れが国境となっており、右岸側が武蔵国であった。当然、利根川の左岸である羽生領は館林や邑楽郡と同じ上野国で、上野国太田庄羽生領と呼ばれていた。
 羽生領とは、現在の羽生市(会の川左岸地域)、加須市(新川用水の左岸地域)、大利根町(旧浅間川右岸地域:杓子木・生出・阿佐間、間口、北大桑、松永新田)及び騎西町(新川用水の左岸地域)の区域である。
その後、利根川の流れが羽生川俣から東へ直進し、古河川辺領(北川辺町)の西境を流れる合の川から渡良瀬川への合流ルートが主流になると、国境はそこへ移ることとなり、羽生領は上野国から武蔵国に移っていった。羽生市立郷土資料館の資料によると、武蔵野国に編入されたのは、平安時代の中期の丁度、藤原道長が栄華を極めていた長和4年(1015)のことであったとある。
その折、下総国下川辺庄(古河川辺領、向川辺領)も武蔵国に編入されている。なお、向川辺領は大利根町の羽生領以外の区域である。
 また、下総国葛飾郡新方領(春日部市西部及び岩槻区の一部)も武蔵国へ編入されている。
 中古時代の利根川は、現春日部市内に入ると小淵で大きく西方に方向を変え、越谷市大野島で荒川を合流し、吉川で右折し南下していた。その後、利根川の流れが小渕で右折せず、吉川まで直進するようになり、旧利根川は古隅田川として細々と存続することとなった。水量の多い利根川が大雨に伴う、より多い流れにより、自然にショートカットされたものと思える。ショートカットされた新利根川と古隅田川との間の輪中地域は下総国新方庄と呼ばれていたが、いつの頃か分からないが、武蔵国に編入され埼玉郡新方領となった。一説には太田道灌が岩槻城支配の折に新しい利根川から西を武蔵国に編入したと言われているが、真偽のほどは定かでない。しかし、残っている記録からも南北朝時代は下総国であったが、江戸時代にはすでに武蔵国となっている。
 
4.徳川家康の関東入国
天正18年(1590)7月5日、北条氏政が小田原城を開城、豊臣秀吉に降伏しその17日に自刃した。そしてその13日、秀吉は小田原城に入り、小田原討伐の論功行賞を行い、徳川家康に北条氏の旧領である伊豆、相模、武蔵、上野、下野、上総、下総の関東7ケ国240万2千石を与えた。
家康は嘆く家臣に、「奥州でも百万石の加増なら、天下を握れる」と勇気づけ、8月1日、堂々と江戸に入府してきた。入城した江戸城も太田道灌の築城以来、扇谷上杉氏、後北条氏の城として、城下も次第に発展してきているものの、今の日比谷付近が入江となっているなど、現在からは創造のできないほどの荒れた状況であった。
家康は、早速、関東六州に家臣を配置していった。
忍城には、家康の4男の松平忠吉が10万石で入城することとなった。しかし、家康は、忠吉がわずか10歳という若さであったこと、また豊臣勢の水攻めで城が荒れていたことなどから、忠吉の家臣は入場させたものの、城主としては暫定的に十八松平の一つである深溝松平家忠を入城させ、城の修復や城下の治安に当たらせていた。
文禄元年(1592)2月、家忠は役目を終え、下総小見川(千葉県香取市)1万石に栄転していった。
名実ともに忍城主となった忠吉の付家老として入城したのが、小笠原三郎左衛門吉次であった。
 
5.羽生川俣の締め切り
三郎左衛門は、この忍城付近が古くから開発された地域であったにもかかわらず、暴れ川である利根川に接していることから、たびたび被害を被り、その対策に苦慮していることを知り、これらの水害を防ぎ、農業生産を安定させることができないかと考えた。
三郎左衛門は、領内をくまなく調査、そして利根川が今の会ノ川を分岐する川俣(羽生市)付近に大きな中州があることを知り、これを利用して締め切りに着手したのであった。
 激しい濁流により、工事は容易に進展しなかった。村人達が思案にくれていると、1人の行者がやってきて、「今年は午年だ、午年の者が人柱にならなければ、川は締め切ることは出来ない」と言うと、そのまま、流れの中に身を投じていった。すると、今までの激流は嘘のように静かになり、工事は無事完成することが出来たという。村人たちはその恩に報い、その行者を祀る神社を建立、その霊を弔った。その〆切神社は、形は変わったものの今でも堤防のそばで村人達の安全を守っている。
 
6.葛飾郡の編入
 江戸時代に入っても、利根川は何回となく流れを変えていった。
 旗本の三島政行が文政4年(1821)に著した『葛西志』に、「江戸の繁昌に従い、葛西の地、上田となり村里増倍して一郡をなすに足れり、依之郡代伊奈半左衛門公の命を伝えて、貞享年中(中略)、川より西を武蔵葛飾郡と定めたり」と記されている。
 寛永年間(162443)の島川の拡幅により、利根川の流れは庄内川、太日川、いわゆる現在の権現堂川、中川と流れ、松伏町の金杉から江戸川となる流路となっていた。
 往古には下総国であった葛飾郡の西部分が、利根川が流路の変更により、江戸時代の貞享年間(168468)に武蔵の国になったとある。いわゆる庄内古川から西側の葛飾郡の区域で、明治以後に埼玉県東葛飾郡(鷲宮町、杉戸町、春日部市中部、越谷市東部、吉川市、三郷市)及び東京府南葛飾郡(葛飾区、江戸川区)となった地域である。
 文禄3年(1594)の羽生川俣での会の川締切後、利根川は渡良瀬川を合わせて、その水量のほとんどが権現堂川を経て太日川に流下していたことから、庄内領地域は常に水害に悩まされていた。
 伊奈半十郎忠治は、それらの解決のため、新たに新利根川造成を計画し、その開削を家臣の小島庄右衛門に命じた。庄右衛門は、権現堂川につながる流路の関宿村の地点から金杉村で太日川に接続する水路を開削するとともに、権現堂川を拡幅及び庄内川の締切を行い、権現堂川の水を導いた。完成したのは寛永12年(1635)の年であった。江戸への新川であるところから、巷では江戸川と呼ばれた。
 この新利根川(江戸川)の開削により、新利根川と庄内川に挟まれた区域は、そのまま新利根川の右岸のまま下総国とされ、明治の廃藩置県においても千葉県中葛飾郡として残ることとなった。これは、新利根川が既存の水路を利用したのでなく、全くの新設であったため、従来の一つの共同体としての村を東西に胴切りにしたことにより、そのコミニティの分断を恐れての処置と思われる。しかし、分断された金野井村、宝殊花村、親野井村なども、次第に各々のコムニティが形成され、東西に分村化していった。
 「埼玉県
千葉県管下下総国葛飾郡ノ内金杉村外四十二ケ村、別紙之通其県ヘ管轄被仰付候条、同県ヨリ受取ヘク、此旨相違候事
  明治八年八月三十日            太政大臣  三条実美」 この千葉県中葛飾郡も、明治8年8月30日、千葉県と埼玉県との協議により太政大臣の認可のもと、埼玉県に編入され埼玉県中葛飾郡となり、その後、北葛飾郡に合併されていった。現在の杉戸町・春日部市・松伏町のほぼ中川左岸地域及び幸手市の一部(中島、花島、槇野地、細野)の区域である。
 

 

全1ページ

[1]


.
mmy**mmm
mmy**mmm
非公開 / 非公開
人気度
Yahoo!ブログヘルプ - ブログ人気度について

スマートフォンで見る

モバイル版Yahoo!ブログにアクセス!

スマートフォン版Yahoo!ブログにアクセス!

1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31

標準グループ

登録されていません

Yahoo!からのお知らせ

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
実質2000円で特産品がお手元に
11/30までキャンペーン実施中!
話題の新商品が今だけもらえる!
ジュレームアミノ シュープリーム
プレゼントキャンペーン

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事