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羽生市須影八幡宮

                  羽生市須影八幡宮             
 
1 はじめに
   須影八幡宮は、須影村の鎮守として存続してきた神社で、村民に愛されるとともに、須影地区で最も慕われている神社でもある。
   建立時期は不明であるが、境内に「頼朝旗掛けの松」と伝承されていた樹があり、それを信じれば、その頃には存在していたこととなる。
   『新編武蔵風土記稿』に「村の鎮守なり、慶安二年八月二十四日、社領十九石五斗餘を賜ふ」とある。寛永年間(1624-44)に別当寺として蓮華寺が建立され、それ以後、神仏混淆のなかで蓮華寺とともに一体的に存続してきた八幡宮も、明治における神仏分離令の影響により、明治3年に蓮華寺が廃寺となったことに伴い、蓮華寺最後の住職をもって、須影八幡宮における常駐の神主は終わり、現在に至っている。
  
2 須影八幡宮のなりたち
 (1)八幡宮の普及
   「八幡」とは、船に多くの大漁旗が立てられる様を表す言葉で、海の神様「八
幡神」として、九州大分の宇佐氏により祀られた産土(うぶすな)社である宇佐神
宮から始まる。
 朝廷は、九州支配に際し、宇佐氏の力を借りるとともに、東大寺建立
においても力を借りたことから、聖武天皇の命により天平勝宝元年(74
9)、東大寺の鎮守として、宇佐八幡宮を勧請し、平城京に手向山八幡宮
を創設した。
    その後、八幡大神は、東大寺の守護神ということから、仏教と習合さ
  れ、八幡大菩薩と変化していった。  
   平安京へ遷都後においても、平城京を守護していた手向山八幡宮に代わる平安京を守護する八幡宮として、貞観2年(860)に清和天皇の命により、石清水八幡宮が創建された。歴代朝廷の崇敬熱く、特に清和天皇の建立であることから清和源氏の氏神ともされた。また、源氏の頭領である源義家が、この石清水八幡宮で元服し「八幡太郎」と名乗ったことから、武勇の神としても崇拝されるようになった。
康平6年(1063)、源頼義・義家親子は、前九年の役で戦勝を祈願した石清水八幡宮を、鎌倉の由比郷鶴岡(材木座)に鶴岡若宮として勧請し八幡大菩薩を祀った。その後、冶承4年(1180)に源頼朝により現在地に移され、鶴岡八幡宮となった。
源頼朝は、文治元年(1185)に、源義経追討のための日本国惣追捕使に  命されるとともに、全国の荘園・国衙領の土地の支配とそれらを知行  する官人を支配する日本国惣地頭に任ぜられたのを機に、全国の荘園・  国衙領に追捕使(後の守護)及び地頭を配置した。配置された追捕使・  地頭たちは、こぞって武神としての八幡大菩薩を鶴岡八幡宮から分祀し  ていった。
(2)須影八幡宮の発展経緯
かつて境内に「頼朝旗掛けの松」と伝承されていた樹があった。源頼  が奥州征伐(文治5年)の途中、軍を休ませ、この社に戦勝を誓った  折に、旗を掛けたと言われている。この伝承を信じれば文治5年(118  9)には、神社が存在していたとともに源頼朝をこの神社に誘導した有力  者がこの近在にいたものと思える。
   かつて、羽生市の西部地域及び加須市の一部は葛浜郷と呼ばれてお
 り、その葛浜に、平安時代末期、大河戸下総権守行方の4男である四郎  行平が居し、「葛浜」を姓としたとあり、また、治承5年(1181)には源
 頼朝に仕えたとある。
  羽生市須影に鎌倉時代の遺跡としての葛瀬氏館跡がある。この葛瀬氏
 と葛浜氏が同一氏だとすれば、四郎行平が居したのは葛浜郷の今の須影
 の地となる。
     奥州征伐(1189)の折、源頼朝を須影の古社へ誘導したのは、頼朝に仕え、御家人として活躍し、その上、須影に館を構えていた葛浜四郎行平と思われる。
     かつては、神社に所属してその経済を支えた民を「神戸(かんべ)」といい、その神社に祖・庸・調を納めることにより、神社の経済が運営されていた。中世後期、特に戦国時代となるとその社領も次第に浸食され、ついには太閤検地により没収され、代わりにいくばくかの社領が与えられた。あとを受けた江戸幕府は、それを追認しつつ、新しく配分するという形で将軍の名において「社領安堵の証明書」、いわゆる朱印状を交付した。
     須影八幡宮も、慶安2年(1649)に、徳川家光から19石5斗余の朱印地を賜った。
明治3年、江戸幕府の神仏混淆政策により、社職より上位に立った僧職に管理されていた須影八幡宮も、神社管理者となっていた別当、社僧(神社を司る僧)は廃するとの神仏分離令の発布により、別当寺であった蓮華寺(寛永年間創立)も廃寺となってしまった。
それ以後、須影八幡宮においても、神主により神事が行われるようになり、祭神も八幡大菩薩から誉田別命(八幡大神)に代わっていった。
   明治39年8月、明治政府から、「神社寺院仏堂跡地譲与に関する勅令」が発せられことにより、須影八幡宮も村内にある愛宕社と白山社を合祀したが、愛宕社においては、合祀されたものの、地域住民の愛着が強く、旧耕地に分祀された。
また、白山神社も分祀されていないものの、ご神体の一部が、旧耕地に石碑として祀られている。
現在、本殿外施設として、幟(台は明治16年建立)、標柱(昭和57年建柱)、一の鳥居(明治31年建立)、二の鳥居(平成20年建立)、小灯篭(昭和45年設置)、大灯篭(台座は明治16年設置)、狛犬(昭和33年設置)などがあるとともに、境内社としては、庚申塔、産泰神社、天神社、稲荷社、月山神社がある。
 
3 本殿と祭神
 (1)本殿の再建と壁画
   まず、八幡宮の本体である本殿建築から見ることとする。
本殿は、八幡宮の棟札によると、蓮華寺18世再住20世潮元の大願主のもと、須影村の大工棟梁清水仙松尚通、本川俣村の棟司三村若狭正利・棟司三村吉左衛門正弘により、安政5年(1858)11月に再建されたとある。
また、本殿の壁面には、昭和44年3月20日に羽生市文化財(彫刻)に指定された彫刻が彫られている。
西側壁面に「七福神」、北側壁面に「神功皇后縁起三韓征伐」、東側壁面に「大蛇退治」、「地形つき」の彫刻がそれぞれ描かれている。この見事な彫刻についても棟札に、上州花輪(みどり市)の彫物工石原恒蔵主利及び下岩瀬の彫物工入江文冶郎茂弘が彫刻したと記されている。
   平成23年3月11日の東北地方太平洋沖地震の折、壁面彫刻の1枚が
  落下し、一部損傷したが、同年12月14日に修復された。
  その手法は、破損した彫刻を清掃後、破損部について麦漆を用いて接
 合、矧ぎ線については錆漆を用いて補修、欠失部及び補修部については最
 低限の補彩を行い、ネジ頭が色合わせされたステンレス木工ネジで元の壁
 面に取り付けるとともに、落下しなかった他の5箇所の彫刻についても、
 同様のステンレス木工ネジで壁面に止めるというものであった。  
(2)八幡宮のご神体
須影八幡宮の祭神は、誉田別命(ほんだわけ)、菊理姫命(くくりひめ)、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、伊弉再命(いざなみのみこと)となっている。 
誉田別命は八幡大菩薩が神仏分離により変わった八幡宮の祭神で応神天皇のこと、菊理姫命は合祀された白山神社の祭神である。
また、白山神社とともに合祀された愛宕神社は、現在は分祀され祭神
   具土命(旧愛宕大権現)とともに旧地にもどっている。

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