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前のページ 「機械論と生気論をつなぐ機会原因論(科学万能という一神教的イデオロギー) その2」 からの続き
「はじめに言葉があった・・・」(聖書・ヨハネ福音書の冒頭)、これが意味するのは、偶然的な人間における、言葉の発生(物自体としての世界に、まったく異なる秩序が介入すること)、と、神、との、同一性、である。
すなわち、神‐言葉、であるが、この、神‐言葉、こそが、すべての存在の「はじめ」、である、ということである。
つまり、存在と言葉は、一体、である、ということ、であり、世界は、言葉と独立に存在する、のでなく(言葉以前から、ずっとあった、というのではなく)、世界の事物は、これこれである、ことは、言葉によって、そうなる、のであり、すべてのもののありよう、は、言葉の運動によって、できている‐制作されている、ということである。
言葉の形式である、論理、こそが、論理法則、なのであり、すなわち、論理法則は、言葉の意味規則に由来するもの‐によってできているもの、であって、世界‐自然の法則、ではない。
われわれの世界‐秩序とは、言葉で言表される限りでの、世界、であり、言葉は、対象を、その部分や構成要素に分割して、描写する、のであるが、すなわち、統一されたもの、の分割が起こる、のであり、それこそが、判断‐理解、であるが、つまり、世界‐自然、とは、そのような言葉による分割描写(われわれの世界‐秩序)を、許す(受け容れる)、ような、世界‐自然、である、ということである(科学的な描写の基本部分は、原子論など、このような分割描写である)。
「はじめに言葉があった・・・」とは、したがって、「はじめに主体化(自由‐出来事)があった・・・」と、同じこと、である。
すなわち、主体化、こそが、異なる秩序(真理)の介入、としての、言葉(神の言葉)‐キリスト(神の子)、の出現、であり、つまり、すべての力‐未発の力、としての神(全体を包括する神の恩寵)、が、この世界‐われわれの現実、に、芽、となって、発芽したもの、が、主体化、であり、すなわち、言葉‐キリスト、の出現、なのである。
が、しかし、このような順序(ストーリー‐解釈)は、間違っている。
「はじめにあった」のは、言葉‐キリスト(主体化)、の出現、なのである(それ以前には、何もない)。
先行する出来事‐起源、としての、言葉‐キリストからこそ、神、は、反省されている‐表象されている、のであり、まさに、その言葉‐ボディによってこそ、つくられている、二次的な派生物、なのである。
つまり、神は、主体化の代理表現である、主人のシニフィアンという幻想、に他ならない、のである。
というのも、われわれは、言葉‐キリストの出現(まったく異なる秩序の介入)、に対して、失語‐絶句する、から、なのであり(われわれは、自由‐出来事、を説明できない)、その空白(起源の空白)を、想像物(空想的な詰め物)、すなわち、神という幻想、によって、穴埋めする、のである。
すなわち、「はじめにある」のは、出来事‐戸惑い、であり、その後に、すべてが可能になる、のであり、そのような出来事‐戸惑い、のもとで、こそ、すなわち、言葉‐キリストの効果‐成果‐帰結、として、こそ、論理的な目標(神‐真理)、を考えうる‐を考えるに至る、のである。
こうして、三位一体、などの、出来事の、事後的な解釈(ストーリー‐物語)が、出来事‐欠落の穴埋め、として、生まれる、のである。
三位一体(父‐子‐聖霊、の分割‐総合)、とは、すべて‐無(無限‐無底)、である、神、という、力(父)、の、分割としての、この物質世界への発芽が、言葉‐キリスト(子)、の出現、であり、この分割(亀裂‐分断)のために、ついで、この分割を、再び、元の統一へと、再構成する(反省する‐復帰させる)、作業が、聖霊のはたらき、である、というもの(シナリオ)、である。
この聖霊とは、もちろん、人間(信者‐教会)のこと(人間の、知性‐愛‐信仰)、である(キリストの復活、とは、人間が、聖霊へと目覚めること‐聖霊であることを自覚すること、である)。
すべて‐無、である、神、の自己実現、として、この世(物質世界)への発芽があり、それが、言葉‐キリストであるが、この、神の原初的な統一状態(永遠)を破る、分割力の発生は、聖なるものの、この世への堕落、という、悪の起源、でもある。しかるに、この分割‐不完全、への堕落、は、三位一体によって、再び、より高められた統一(再統一)へと、回復されなければならない、というわけ、である。
ここで、聖霊(人間‐信仰)の役割は重大‐要であり、ことの成否のすべては、そのはたらきにかかっている。この、神が、われわれに預けた全面的な委任、としての、託された責任を全うしなければならない、全うするべく努力‐精進しなければならない、というのが、キリスト教の教え‐道徳、なのである。
この教え‐道徳の背後にあるのは、根源的な危うさ、である。三位一体とは、神の降臨、には、不可避的な、極めて危険な、堕落(悪)への傾斜、がある、からこそ、それがわかっているからこそ、周到に考えられた、その対策‐防御策‐防衛策、なのである。
神、の場合、と同様に、抽象的な、普遍、も、本質、も、それだけでは、存在できない。偶然的な、不純な物質世界を、通してこそ、普遍‐本質の必然性は、それとして、示される‐あらわれる、ことになる(機会原因論)。
しかるに、三位一体、的な形式において、分割された、それらの契機の、ダイナミックな総合が、行なわれなければならない、のである。
要するに、三位一体とは、父(普遍)‐子(特殊)‐聖霊(個)、という、三つのモメントの総合(相互嵌入)、である。
普遍は、規定態それ自身との自由な相当性、としての、無、である。特殊は、普遍の具体化‐現実化、すなわち、神人‐キリスト、である。個は、われわれにおける、特殊を通じた、普遍の反省的統一、である。
ここで、問題となるのは、この分割、という、堕落、の再統一が、果たしてなされうるのか、という、疑問である。
というのも、この、分割こそが、悪の起源‐悪の可能性の出現、だからである。すなわち、悪があるのは、善がなされる限りでしかない、のである。
まさに、三位一体の実現に向けてこそ、悪が生じ‐蔓延り、三位一体が、実現不可能であるなら、この世は、そのような悪のまま、なのである。
そして、三位一体は、われわれの能力の限界‐神に届かない有限性、のために、人間こそが神に到達しなければならない‐人間ごときが神に到達してはならない、という、ジレンマの中で(到達すれば、神の詐称という悪であり、到達しなければ、神の不在という悪である、というジレンマの中で)、目標‐救済に向けての、永遠の未完成‐永遠の探究過程、である他はない、のである。
正確に言えば、この、悪の起源とは、神の分割、ではなく、主人のシニフィアン‐神、の想定、そのもの、にある、のであるが。
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