ナツメの10ちゃんのつれづれブログ

娘と徒然(連れ連れ)に史跡めぐり、食べ歩き日記

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多久図書頭主従の終焉地
 
以前、鍋島家の請役家老として天草・島原の乱に出兵した後多久家二代当主の多久茂辰についてご報告しました。
 
天草・島原の乱戦死者供養碑(後多久氏)<龍造寺一門>(1
 
 で、その多久茂辰について調べていたとき、「なぜ?」て思ったことがありました。
 それは、茂辰が祖父から家督を譲られていること。
(後多久家家督)祖父(初代)→孫(2代)
 父はどうしたの?って思っていたのです。
 
「多久市史」に添付された家系略図では、
茂辰の父は「茂富」と記され、「安順養子 蟄居…、安順勘気」となってます。
イメージ 1多久家系略図
                                               「多久市史より」
 
 
「養子」「蟄居」「安順勘気」ということは、
 茂富は多久家初代当主の安順の実子ではなく養子で、養父の勘気にふれて蟄居したということ…。どんな人だったの?
 
その「茂富」について、嬉野市歴史民俗資料館が刊行した『観瀾』(その14)に記載されていたので、その内容をもとに、いつものようにナツメの10ちゃんのフィルターを通しつつ茂富についてご紹介します。
 
イメージ 2  『観瀾』14 嬉野市歴史民俗資料館
 
多久家二代当主茂辰の父は、多久図書頭茂富といい、天正13年(1585年)に柄崎(武雄)城主であった後藤家忠の子として生まれました。彼の祖父貴明は龍造寺や有馬、大村等とならび肥前の有力武将だったようですが、その子家忠の代に龍造寺隆信と和して(事実上の降伏か)、隆信の三男家信を養子に迎えることとなりました。この結果、後藤家の実子家忠は玉突き状に隆信の養子となり佐賀で領地(久保田)を給され、隆信末弟の龍造寺長信(後多久家の祖)娘を娶ったようです。茂富はその子にあたります。
つまり、茂富は後多久家初代当主安順の甥で、後藤家末裔にもあたるという立場
 
         龍造寺隆信 − 家信(隆信三男)
      養子)龍造寺氏と後藤氏和議(天正5年)<1577年>     
      後藤貴明 − 後藤家忠(晴明) − 茂富天正13年<1585年>生)
                              (隆信へ養子) (室 龍造寺長信女)
                                                      
                                                        (養子)            
          龍造寺長信−多久安(後多久家初代) −  茂富   茂辰(後多久家2代)
(隆信末弟)<長門守>       <図書頭>         <美作守>
                        (母は龍造寺長信女=多久安順の妹)
 
 その後、茂富は叔父にあたる多久安順(後多久家初代当主)の養子となり、
 慶長2年(1596年)元服。
 慶長13年(1608年) 図書頭と称する
 慶長19年(1614年)〜元和元年(1615年)
               2930歳のとき大組頭として大阪の陣へ出陣(冬or夏は?)。
 寛永5年(1628年)43歳の時、養父安順の勘気を蒙り川副増田村(現 佐賀市北川副町増             田か)へ蟄居
 
安順の勘気の理由は不明です。
もしかすると、単なる性格の不一致であったのかもしれませんが、
想像を逞しくすると、当時、多久安順は龍造寺一門でありながら鍋島家の請役家老として藩の政治を切り盛りしており、龍造寺宗家高房の自殺未遂事件のような頭の痛い問題を抱えつつ、佐賀城普請や幕府から次々に申し渡される天下普請(駿府城、名古屋城、大阪城)費用等による財政破綻から自分たちの領地の三割を本藩へ返納する処置(三部上地)をとらざるをえない難しい立場にいました。
そのようなとき、後多久家中の窮乏は本藩より更に激しかったでしょうから、次期当主で後多久家中のことを優先する図書守茂富と意見が対立したかもって…思ったりもします。
 
 しかし、養父から勘気された茂富ですが、
 その後
 寛永14年(1637年)天草・島原の乱で手勢百余人を率いて出陣
               ↓
この功績を佐賀藩主の鍋島勝茂から賞賛され、勘気が解かれています。
家系略図には、「蟄居後賜鍋島并切米三百石」と記されていることから、
この時、『鍋島』姓が勝茂から茂富へ下賜されたのかも(ここナツメの10ちゃんの想像)
 
しかし、茂富は天草・島原の乱へ出陣し、その功績が認められたにも関わらず、その後も後多久家には戻っていません。晩年は、鳥坂村(佐賀県嬉野市塩田町谷所)に閑居したようです。
鳥坂村は武雄に近く、自分の祖地(後藤氏領地)に近い場所に住したのかもしれません。
 
万治2年(1659年)逝去 74歳でした。
すでに、亡くなる18年も前、自分を離別した養父安順は亡くなっており、後多久家は茂富の実子である茂辰が跡を継いでいたので、多久へ戻ってもよさそうなものですが…。
 
 彼の閑居の地は、現在、地元の人々に殿谷(トンタン)」と呼ばれ、石塔が建てられてます。
 
 ナツメの10ちゃんが山越え果樹園越えして訪れたときには、すでに陽が傾きかけた時刻
 石碑は夕日が照らす谷頭の斜面にひっそりと立っていました。
 
イメージ 5
 
イメージ 8 「妙久山○○」茂富法名か
 
茂富の碑は、自然石を割った荒々しいもので、「妙久山○○」と茂富法名?が刻まれてます。
茂富石碑の右前には「真誉妙安 寛文ニ壬寅(1662年)祀 十月初八日」と笠塔婆。
 
イメージ 6 イメージ 7
        笠塔婆          「真誉妙安 寛文ニ壬寅(1662年)祀 十月初八日」
    
左前には、八名の人名が刻まれた石碑が。
そこには、以下の名が刻まれています。
 
大坪ト巴 武富勘兵衛 中村太衛門 古沢清右衛門 江副又兵衛
古沢清兵衛 坪上源五郎 久保千左衛門が妻 都へテ八人也
 
これらの人名は、茂富に付き従い、殉死した家臣とその家族の名と言われています。
 
イメージ 9 イメージ 3
     殉死した家臣の碑                    右上から 江副又兵衛 大坪ト巴…
 
『水ヶ江臣記』という書物には、
茂富が養父安順の勘気にふれ、離縁されたとき
「天曳様(安順)より久山様(茂富)に付き従う者は、土地や居屋敷まで取り上げられ、彼らと付き合ってはならぬ」
 という厳しい達しがあったこと、
それでも茂富に供したのは「上下十一人にて、御座候由」であったことが記されています。
 
主家(多久家)より主人(茂富)を選び、禄も家柄も家屋敷も投げ打って付き従った家臣たち十一名。彼らが主家を去ったのは殉死の31年前。多久家を去った段階で20代であったとしても当時50代となっていたはずで、主人に先立った者もいたかもしれませんし、天草・島原の乱の鍋島家中の死傷率を考えると、戦死した者がいてもおかしくありません。
石碑に刻まれた殉死者は八名ですが、その中には、久保千左衛門妻のように既に夫に先立たれていたであろう者も含まれており、この八人が主人逝去の際まで存命だった家臣の全てだったのかもしれません。
 
あくまで想像ですが、彼らはこの谷間の地で、田畑を耕しながら図書頭茂富とともに寄り添って晩年を過ごしつつ、主人の死に際に自分たちも供することを早くから決めていたのではないでしょうか。
既に全てを捨てて主人に付き従った彼らに更に失うものはないのですから。
あまりに、感傷的かもしれませんが、茂富と彼に付き従った家臣たちの間には、後の時代の藩(家)と家臣の関係にはなくなった、個人対個人の強い絆が存在したと思います。
彼らは、家のため、藩のためではなく、武士道のためでもなく、主人と自分のために生きることを選択したのではないでしょうか
 
多久図書頭茂富と十一人の家臣がひっそりと身を寄せ合って暮らした谷間の風景を眺め、彼らの心中に思いをはせつつ、暗くなる前に里へと急ぎ帰路につきました。
イメージ 4 
   多久図書頭茂富と家臣が閑居した「殿谷(谷頭からの遠景)
 
参考文献(ネタ本)
『多久市史』第1巻・第2巻 多久市史編さん委員会 2000
 『観瀾』(その14嬉野市歴史民俗資料館 2011
 
 関連記事(よかったら、のぞいてみてください)
「  「すわ、鍋島より城乗るぞ」 (徴古館特別展見学記)
   「多久神社と後多久氏」(龍造寺一門)
 
  長い文章、最後まで読んでくださった方 感謝 感謝です
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