El Fuelle

バンドネオンで回る日々

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ほっと胸をなで下ろす

アルゼンチンのタンゴ・フェスティバルは、中止ではなく、延期ということらしい。いつも開催されていた2月は夏で、何もなくても観光客は多い。一方、タンゴダンス世界選手権が開催される8月は冬で、客足が落ちるので、にぎわいを演出するために同じ時期に開催されることになったらしい。
 とは、表向きの理由で、実際は経費節減という事ではないのかな?

それはともかくとして、

 タンゴ・フェスティバルは、8月15〜23日
 タンゴダンス世界選手権は、8月23〜31日

 で、次回は、アニバル・トロイロ、アストル・ピアソラ、マリアーノ・モーレスなどの作品にオマージュをささげとして、色々な行事が企画されるらしい。

 とにかく、中止でなかった事に胸をなで下ろした。

クリストバル・エレーロ。懐かしい名前である。昔流行っていた結核とやらで病床にあった頃、楽しみはラジオの音楽に耳を傾ける事であった。その一つが高山正彦氏解説による文化放送の「これがタンゴだ」だった。戦後のことで曲は戦前録音の物ばかりであったが、ある日突然、高山さんが「戦後初の録音によるレコードが発売された」と叫んでいた。
 これが、クリストバル・エレーロ楽団の「辻音楽師が行く」であった。いまでは「オルガニート・デ・ラ・タルデ」と原語で言われている名曲である、昭和28年のことである。

これが、私がタンゴファンになった原点である。

しかし、その後クリストバル・エレーロの名前というか、演奏をとんと聴く事がなかった。大岩祥浩氏の「アルゼンチンタンゴーアーティストとそのレコード」によると、1909年生まれのバンドネオン奏者だが、アルゼンチンでは殆ど無名の存在であるとの紹介されているにすぎない。

謎の人物のまま、50年。ところが、このほど、石川浩司さんが、最近得た情報としてホームページに紹介された。
それによると、
クリストバル・エレーロ(Cristobal Herreros)はバンドネオン奏者で、1909年9月14日、
スペインのバルセロナで生まれ5歳でアルゼンチンの地方都市に移住した。のちブエノスアイレスに出てファン・エレル(Juan Elhert)のコンフントを経てロベルト・フィルポ楽団に入る。

当時の同僚にファン・カルロス・カビエージョ、ファン・カンバレリ、アンヘル・ヘンタ(以上バンドネオン)、オルランド・ペリ、ロベルト・ロッタ、イシドロ・ロペス(以上バイオリン)などがいたと言う。

その後自己の6重奏団を結成、コリエンテス通りの「タンゴ・バー」に出演し人気があったと言う。この時のメンバーにはマリオ・カルダラ、アルマンド・スコティエリ、ロベルト・ペレス・プレッチ、ロベルト・パンセラ、エクトル・ラカルーアと歌手のアルベルト・モランだった。

1940年に「エル・ナシオナル」に出演したが、ある日オスバルド・プグリエーセが聴きに来てモランに着目、結局モランはプグリエーセ楽団に移った。このあと歌手としてロベルト・ディアスが入ったが、この人はボクサーだった。このディアスが歌っていた時代のものが、昭和28年日本のクリスマールから発売されてた。

 エレーロ楽団は1959年にコロンビア国でメルセデス・シモーネの伴奏として「アンダンテ・コン・ラ・オトラ」「パドレ・ヌエストロ」「ネグラ・マリーア」「クアンド・シルバ・エル・ビエント(ハバネラ)」の4曲を残したとの記録があり、最初の1曲はコロンビアのソノルックス盤で聴くことが出来るそうだ。

エレーロは晩年をブエノスアイレス郊外のヘネラル・ラス・エラスで過ごしていたが2002年12月18日に亡くなった。

貴重な情報、石川さん有難うございます。

Rositaのブログ情報によると、アルゼンチンの大統領選挙で前大統領のキルチネルの夫人クリスティーナが当選し、この10日に就任。女性大統領としては、イザベラ・ペロンについで二人目だが、選挙で選ばれたのは初めてで、お祝いムード一色だそうだ。しかし、タンゴ世界では、オルケスタの縮小や廃止の通達が出て、演奏家の間に不安がつのってるとの事。
 
 また、高場将美さんの情報によると、ブエノスアイレス市長に新たに選出されたマウリーシオ・マクリ(中道右派)が12月9日に就任し、彼の最初の仕事として、来年2月から開催されるはずだったフェスティバル・ブエノスアイレス・タンゴを中止したとのこと。

 タンゴ・フェスティバルやタンゴ・ダンスの世界選手権などタンゴ音楽が世界的に拡がってきたのには、底辺での色々な活動があったからであり、それには政府の支援が一翼をになっているのだろうとは思っていたが、指導者が変わると途端に空気が変わってしまうというのはどういうことだろう。

 かって、’40〜’50年代、盛り上がっていたタンゴ界が、ペロン大統領の失脚とともに勢いを失い、オルケスタが減少したり、歌手のリベルタ・ラマルケがエビータに嫌われてメキシコに亡命したり、人気男性歌手だったウーゴ・デル・カリオがペロンびいきだったということで、疎んじられたりと、政治の変化で翻弄された話は聞いていたが、現在でも、政治指導者の意向で文化が変わってしまうのは日本では信じられない話だ。

 昨年2月、ラティーナの主催旅行でブエノスアイレスまでタンゴ・フェスティバルを聞きに行き、また行きたいと思っていたのが、もうだめになってしまったのかしらん。残念。でも、小島よしおではないけどバンドネオン・ファンには「そんなの関係ない」。でも、やっぱり寂しいかも。

まとめて半年分

転んで左手首を痛めて、暫くバンドネオンはお休み。

ということで、ホームページの練習日記も5月にアップして以来、間が開いてしまった。これを機会に、ブログに移転しようと決意。だけど、なかなか実行が伴わなず、やっと半年後に登録。

 5月から休んで練習を再開した9月、練習日に、新曲「カナロ・エン・パリ」の楽譜を貰う。後半のバンドネオンのバリュエーションが有名な曲だ。普通、ヴァリュエーションは演奏者によるのだが、この曲はきちんと楽譜がある。こんな早い曲を、4人がソロって弾けるのかと思うのだが、合同練習の時、Hさんは、大丈夫だよと請け合う。といっても、弾くのはこちらだけども。

 12月に息子が結婚する事になった。披露宴の出し物に頭をひねっていたようだが、10月のある日、突然、
「お父さん、バンドネオンを弾いて」
「え〜、父親が出し物をやるのか?」
「向うの親戚が日本舞踊をやるそうで、そうなると当方も何か出さないといけない。でも、親戚の顔を見回しても、誰もそんな芸人がはいない。だからやってくれ」
 え〜と再度思ったが、我が親族の名誉のために仕方がないかと、観念した。そうなると、誰でも知ってる曲がいい。となると、ラ・クンパルシータかな。

 で、早速石居先生のところに伺い、指導をお願いした。「バンドネオン・メソッド」にあるバンドネオン・ソロの譜面に少しやさしくなるように手を入れてもらい、練習開始。ところが、間の悪い事に、先生が体調を崩され入院してしまわれた。

 練習で弾く事数百回、何とか格好がつきそうになった時、先生から電話があり、退院したよ。どうかね。見てあげるよ、とのありがたいお言葉。早速駆けつけると、まあまあいいね、では、もう少し聞き映えのするようにしようと、また楽譜に手が入る。もう本番まであまり日がないのに、困ったが、練習すれば出来るようになるという自信らしきものもでてきたので、とにかくまた練習。

 おかげで、無事、我が親族の顔が立ったところで、このブログをオープンした。

ブログを開設しました

このブログは、ホームページ「バンドネオン・メモランダム」に掲載していた「バンドネオン(練習)日記」の拡張継続版です。
ご用とお急ぎがなく、また老バンドネオンファンのこれまでの成長過程(?)にご興味のある物好きな方は、
http://www.yk.rim.or.jp/~msda/7-8%20%20renshuu.html をどうぞ。

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