北京老学生・日本から台湾へ

2013年春、4年半ぶりに日本に帰国。2017年春、今度は台湾・台中へ。

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この記事の続きだ。


台南市にある烏山頭ダムで日本人技師、八田與一(はったよいち)の銅像の頭部が切断されていたこの事件、犯人が出頭して急展開したが、なんと犯人は元台北市議で、しかもフェイスブックで自らの犯行を宣伝していた。

『産経新聞』は、本日(18日)の朝刊の紙面には記事として掲載していないが、昨夜からネットでは、既にニュース配信している。
(紙面だと、後世まで証拠が残るので、どのようにこの問題を記事としてまとめられるか、内部で検討している段階なのかもしれない。
『産経新聞』は安倍首相応援新聞であり、当然、その内部にいわば『過激派』も含んでいるのでさまざまな見解の記者を抱え込んでいるはずである)。

ともかく、ネットでの『産経』が発信したものを紹介すると、次のようなものである。


<台湾南部・台南市で日本統治時代の技師、八田與一像の頭部が切り取られた事件で、台湾と中国の統一を主張する元台北市議の男が17日、交流サイト上で犯行を自供、警察に出頭した。

男はフェイスブックで「自分がやった」と公表した上で、台北市内の警察署に出頭。当局は共犯とみられる女とともに身柄を台南に移して事情を聴いた。

男は1958年生まれで、現在は台湾の急進統一派の団体「中華統一促進党」に所属。94年に統一派の政党「新党」から台北市議に当選し、1期務めた。任期中、市幹部を殴り起訴された。また、2016年には急進的な台湾独立派の団体の敷地に放火し逮捕、起訴されている。

男は自身を日本統治時代の義賊になぞらえる発言も投稿。像の頭部を指すとみられる「八田さん」を、中華統一促進党の「党本部に届ける」などとする記載もあった。>


昨日(17日)の私の記事にも書いたが、台湾ではこれまで蒋介石の銅像に対して同様の行為を繰り返す事件が頻発している。
今回の『行為』はこれらに対する『報復』ともとらえられるのだが、さて、『産経』はどのようにまとめるのか?


この事件は、台湾のテレビでも、いろいろ伝えている。
そういうのの写真を撮ったのもあるが、メディアでの扱い方は、あとで新聞を少し買ってきて、それを眼を通してから、紹介したい。

今回は、八田與一(よいち)という人は、どういう人なのかということを(私が、最近、知ったことなどを中心に)紹介したい。

八田與一については、台湾では誰でも知っている『日本人の恩人』のように書いてあるものもあるが、実は、(1886〜1942年まで生きた)この人が広く知られるようになったのは、意外と最近の話(つまり、ここ20年くらいの話)のようである。


なぜなら、司馬遼太郎が1994年に発行した『街道をゆく 台湾紀行』には、次のように書かれている。

<「山中に、八田與一の銅像が残っているそうですね」
と、老台北にきいてみた。

「どんな人です」
この博覧強記の人にして、知らないことがあったのである。>


ここで、『老台北』(ラオタイペイ)というあだ名で書かれているのは、台湾人の蔡こんさん(「火へんに昆」と「燦」という字)さんのことである。

この人は、1927年生まれで、『台湾人と日本精神』という本を書くほどの『日本びいき』である。というよりも、自分は、『台湾』と『日本』という『二つの祖国』を持っていると考えているようだ。
このような人ですら、20年ちょっと前までは八田與一のことを知らなかった。

といっても、司馬遼太郎も(例によって)、『謝新発』と『古川勝三』という二人の人がそれぞれ書いた、本を読んで八田與一のことを知ったようだ。


かなり『読みかじり?』のことをそのまま、平気で書いてしまうような人だから、少々、『消化不良』のことも、かなりまじっているのではないかと思う。
(ただし、司馬遼太郎の生きた時代は、ネットなどなかったから、『炎上』事件とか『偽ニュース』などに巻き込まれることもなかったわけだが…。)


このように1993年(司馬遼太郎が『老台北』に尋ねたはずの年。まあ、前年かもしれないけど)には、台湾有数の『親日家』でも知らなかった八田與一が、今日、(台湾でも日本でも)知られるようになった。
それは、なぜなのか?

この司馬遼太郎の『台湾紀行』という本自体がだいぶ、宣伝役を果たしたことは事実だろう。
それから、李登輝総統になって以降、台湾では、自らの歴史とアイデンティティを見直そうという動きが進行した。


その中では、日本の植民地時代(1895〜1945年)を『否定的』に見るのではなく、肯定的な側面も評価することで、中国大陸の国家とは異なる、自らのアイデンティティを探そうとした。
(そして、台湾の歴史についての中学校教科書なども独自に編纂することにした。)


このような動きの中で、10年をかけて、水利事業を台湾で遂行した八田與一は、『評価できる日本人』の筆頭として挙げられたのであろう。

彼は、金沢の出身で東京帝大の土木科を1909年に卒業して以降、台湾総督府土木局に勤務した。
したがって、彼が台湾で水利事業を推進したのは、『職務』ともいえる面があった。
しかし、八田與一はそれ以上の『熱量』をかけて自らのやるべきことをやったようである。

<八田は1920(大正9)年から10年かけて同ダムを完成させ、嘉南平原を台湾最大の穀倉地帯に変えた。>
と昨日の『産経新聞』に書かれてもいた。
しかも、この工事の期間、八田は国家公務員の立場を進んで捨て、水利事業を推進した組合付きの技師という立場を選択した。

現場の人々と『同じ目線』で行動したというように書かれているらしい。
これらを読むと、この人の活動の仕方は、むしろ『普通の日本人』の枠を超えている、あえて言うならば、映画『人間の條件』(五味川純平の小説を原作としている)に出てくる主人公・梶にも通じる生き方である。
(とてもではないが、『日本人のすばらしさの代表』などといった枠を超えているという気がする。)


そして、八田はこの事業の完成後に、再び総督府に復帰した。1942年に亡くなったのは、陸軍に徴用されてフィリピンでの灌漑調査に出かける途中の船が、アメリカの潜水艦に撃沈されたためであった(56歳)。

その後、夫人の外代樹(とよき)も、3年後の1945年9月1日、日本の敗戦が決まった時に、夫が完成させた烏山頭ダムの放水口に身を投げて、自殺をしている。

彼女は、金沢第一高女を卒業すると、すぐ與一と結婚し、台湾にわたり、二男六女を設けている。
八田與一とともにダムを完成させた作業員たちが、二人の思い出を語っているようである。


ある人は、夫人について、次のように語っている。
<奥さんはね、頭の低い、誰にでも親切な、偉そうなところのない、いい人でした。奥さんが亡くなった時にはね。みんなで悲しんだものでね。私も火葬の時は手伝いましたよ。>


ここには、『日本人だから』どうこうといったレベルを超えての、『心の交流』がうかがえる。

だからこそ、水利事業に参加した人たちが、(1931年に作られたという)八田與一の銅像(しかも、本人は建設を固辞し、作られたものも決して威圧的ではない、作業服でしゃがんだ姿というユニークなものである)、兵器製造のために金属を供出せよという、日本統治時代末期の圧力や、あるいは、日本人の銅像などありえないという蒋介石時代の『暗黒』をくぐり抜けて、この銅像を守ってきたのだと考えられる。

こうした『歴史』を捨象して、『日本が憎い』といって銅像を壊すものも、あるいは『日本人って素晴らしい』と思って礼賛するものも、どちらも『おかしい』と感じる。

(注)このあと、この事件についての台湾のテレビ、新聞の報道ぶりについて紹介したいが、それだけで
2〜3回分の記事になりそうなので、この記事、当初は『中篇』としていたが、『後篇』に変更して、改めて別の
記事の形で書きたい。






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補足:この記事は、当初、『中篇』としていました。
しかし、今後、この事件についての台湾のテレビ、新聞の報道ぶりについて紹介するつもりですが、2〜3回分の記事になりそうなのです。
そのためこの記事、当初は『中篇』としていましたが、『後篇』に変更します。そして、改めて別の記事の形で(台湾でのその後の報道ぶりを)書きます。

2017/4/19(水) 午後 1:27 [ 北京老学生 ] 返信する

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