北京老学生・日本から台湾へ

2013年春、4年半ぶりに日本に帰国。2017年春、今度は台湾・台中へ。

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(当初、3回くらいでまとめようかと思ったが、どうも5回くらいはかかりそうなので、当初『前篇』『中篇』とするつもりだったのを、『その1』『その2』にさかのぼって変更する。まあ、しょっちゅう、やっていることだが…。)

イメージ 1



この本の面白いところの第一点。
それは、昔、子供のころ、たしか小説『大地』(パール・バック著)を読んだときのように、『異国』の『昔の人』の気持ちに(ある程度)同化?できる点である。

この写真は、この『「昭和」を生きた台湾青年』に掲載されているもの。
右下が、王育徳さんの父親の王汝禎氏。『紀元2600年の記念式典に招かれ、皇居へ参内したとき』のものだという。

左下は、育徳さんの祖母。『纏足(てんそく)をしている』。
上の写真は、『阿江(生母)と4人の子供』。前列左が、育徳さんだ。
ここまでだと、祖母が『纏足をしている』点を除くと、日本でもありそうな写真である。


イメージ 2


ところが、次のページを見るとこんな『大家族』が写っている。
実はこれは、『王汝禎一家』のもの。前列の左端が、育徳さん。
1935年に撮影されたものなので、育徳さんの生母は写っていない(理由は、後述)。


育徳さんの父、王汝禎は、第一夫人のほか、第二夫人、第三夫人までいて、しかも全員が同じ屋敷(ただし、かなり広く、部屋も多数あった)の中に住んでいたという。


まあ、日本でも戦前は、妾を持つ人が結構、いたようだから(今でも、古い政治家などは、『妾』みたいな存在がいる人もあるようだ。若い人は、若い人で別の意味で『混乱』もしているようだが…)、あまり大きなことは言えないが、『わが家は封建的大家族制度の典型』だ(しかも、育徳さんはそれが嫌で嫌で仕方がなかったようだ)と、書いている。


王汝禎氏には、三人の妻と11人の子供(男7人、女4人)がいた。このなかには、『養子』をとった3人(男2人、女1人)も含まれている。

ちなみに、育徳さんは、第二夫人の子供で(全体としていうと)五男にあたる(なぜか、この本では、その後、『父により勘当』された『長男』を除外してカウントして、『四男』と書かれている。


なぜ、このように多数の妻を迎え、大家族となったのか?
それは、王汝禎氏が金持ちだったことと、漢族であり、なおかつ、第一夫人が『子供ができなかったため』のようだ。

しかし、金持ちの漢族が必ずしも、複数の妻を迎えたわけではない、と育徳さんは本のなかに書いている。

<私は大正13年(1924)1月30日に、台湾南部の古都、台南市に生まれた。
父は王汝禎(おうじょてい)といい、金義興(きんぎこう)商行という屋号の海陸物産缶詰類の卸問屋を営んでいた。

母の名は毛新春(もうしんしゅん)というが、私たち子供は「アエ」と呼び、字では「阿江」とあてた。アエは一種の愛称だが、その由来は知らない。

母は父の三人ある妻の二人目、つまり妾の一人で、私たちが「阿母(アブウ)」と呼ぶ正妻と、もう一人の妾「阿楊(アヤン)」の連合戦線によっていじめられどおしで、昭和9年(1934)、私が十歳のときに43歳の薄幸な生涯を終えた。

わが家は封建的大家族制度の典型で、そのために私の兄弟関係は複雑なものになっている。>



上記は、本の記述を転記したものだが、『ひらがなのルビは日本語読み、カタカナのルビは台湾語読みを表している』と書かれている。なお、元の記述ではルビになっていたものを、かっこに入れて表示した。


父、王汝禎氏は清の暦で光緒6年(明治13、1880)の生まれで、昭和28年(1953)に73歳で亡くなったという。
その時点で、育徳さんは既に日本に『亡命』しており、父が亡くなっても帰国することができなかった(また、1950年に、父の第一夫人の「阿母」も亡くなっていた)。


王汝禎氏は、<亡くなる3年前に、洋罫紙5枚におよぶ長文の「汝禎遺書」を書き、ほかに「汝禎略叙一生経過」という簡単な自叙伝を書いている>ということなので、育徳さんによる記述も、この自叙伝なども参考にしながら、まとめたのではないかと思う。


<父が15歳のとき、1985年(明治28)に台湾は清朝から日本に割譲された。そのとき、父は「和源」という、いとこの劉泰山(りゅうたいざん)が経営しているタバコや油や紙類を売る日用雑貨商の丁稚奉公をやっていた。>



<そこへ降ってわいたような台湾割譲の騒ぎである。
日本は野蛮人で、アヘンを禁じ、纏足(てんそく)を解き、辮髪(べんぱつ)を切るそうだ、これではこの世の中に生きる価値がないなどと、いろいろな流言飛語がとびかって、役人や資産家は大陸へ逃げ出し、血の気の多い人は「義勇軍」に応募して抗戦した。
乱れた社会秩序に乗じ、各地に土匪(どひ)が跳梁(ちょうりょう)した。>

<やがてその中で生きることを余儀なくされた日本時代は、父にとって良かったのか悪かったのか。父は一度も政治運動に加わったことはないし、政論めいたことも言わなかった。



日本語はからっきし駄目で、せいぜい「もしようし」(モシモシ。電話をかけるときに使う)とか、「たたりま」(タダイマ。私たちが挨拶するのにオウムがえしに答える)とか「らめらめ」(ダメダメ。商談のときに使う)とかの片言を言うだけだった。
したがって、使いたくても政治的なコネはなかった。

にもかかわらず、「起早座暗(キイツアツエアム)」(早起きして遅くまで働く)「大富ハ天ニ由リ、小富ハ勤倹ニ由ル」の単純すぎるほど単純な経済観念だけで大きな富を積むことができ、社会事業家として州知事や市長から何度も表彰を受けた。(略)

皮肉なことに、父は日本人がもたらした近代精神はさっぱり受けつけず、頭の中は人生の最初の15年を過ごしただけの清朝時代の思想で凝り固まっていた。>

このように、父親について、育徳さんは記している。
もっとも、父親について彼は批判的なことばかり書いているわけではない。

また、『日本は野蛮人で、アヘンを禁じ、纏足(てんそく)を解き、辮髪(べんぱつ)を切るそうだ、これではこの世の中に生きる価値がない』などと書いてあるのを読むと、『わけがわからない』と思う人もいるだろうが、まあ、人間の『文化』などというものは、その文脈で考えないと、『わけがわからない』ところがある。
(つづく)




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