北京老学生・日本から台湾へ

2013年春、4年半ぶりに日本に帰国。2017年春、今度は台湾・台中へ。

全体表示

[ リスト ]

この記事の続きだ。


今回は、『「昭和」を生きた台湾青年』という本の中の『第5章 台北高等学校』を中心に紹介していきたい。

その前に、(『第4章 台南一中』に書かれていることだが)王育徳さんは、初めての『日本国内旅行』を経験している。

姉の錦碧さん(育徳さんと生母は同じ)が、神戸に住む台湾人(父の親友の息子)と結婚することになり、『結婚後に花嫁の弟が訪ねていって、様子を見る』という台湾の儀式にしたがって、(やはり、生母が同じである)兄の育霖さんと一緒に、姉夫婦を訪ねたのである。

さらに、東京の蒲田に住む錦香姉さん(やはり、生母は一緒)の家(結婚相手は、台湾人のサラリーマン)にも4泊したので、神戸、京都、奈良、伊勢、江の島、鎌倉、東京、大阪と一カ月ほどかけて、日本を回った。
(これは、金持ちの商人の息子であった、王育徳さん兄弟だったからこそ、できたことかもしれない。)


この時の感想で面白いことが書かれている。
最初、台湾北部の基隆(キイルン)から船で門司に向かったのだが、門司に到着したら、びっくりしたという。


<船が門司に入港すると、荷役人夫がドヤドヤと乗り込んで来て作業を始めた。
手ぬぐいを姐さんかぶりにして、つぎあてだらけのモンペを履いたおばさんもたくさん混じっていた。

いきなり男便所に入ってきて、パッパッとモンペを下ろしたと思うと、前を向いてシャーッとやる人もいた。
これには面食らった。それまで知っていた内地人は、誰もかれも立派な服装をし、ことに奥さんたちは上品そのものであったからだ。>

ここには、植民地における人々の関係というものが、象徴的に表れているように感じる。
例えば、インドからイギリスにやってきたインド人なども、このように感じていたのだろうか?


育徳、育霖の兄弟は、『できるだけ日本の固有文化に接したい』と考えて(特に育霖兄の意向だったようだ)、法隆寺や吉野にも足を伸ばした。

ただ、育徳さんのほうは、『宝塚』の少女歌劇がいたく気に入ったようで、『三、四回』通い、おまけに、その後、『宝塚の踊り子と結婚したい』という夢が実現不可能と悟ると、『将来、自分の娘を宝塚の踊り子にしてみたいものだ』と(長いこと)考えたというから、ある意味で、『重症?』である。

ただし、こちらも、実際に娘たちも生まれ、日本にも亡命したのだが、『とてもじゃないが駄目だ』と知って、そのとき、ようやく、『宝塚への30年の片思いが消えた』と書いている



台南一中に在籍当時にこのような『日本旅行』で見聞も広めたが、育徳さんは、その後、『昭和15年(1940)に台南一中4年生修了から台北高校文化甲類に合格した』、そしてそれは『私の生涯最大の転機』だったと育徳さんは書いている。

<台北に出て下宿生活をしたことは、私を暗いじめじめした大家族制度から解放して、自由の天地に呼吸させた。

4年生修了から合格したこと(当時の中学校は5年まであるが、4年修了時点でも高校を受験することができた……引用者注)は、私に自信を回復させ、これまで兄に対して持っていたコンプレックスを一挙に吹き飛ばした。(略)

これまでにも、そして私の後にも、数百人の台湾人が、多くの日本人にまじって、3年間の白線二条、弊衣破帽の旧制高校生活を送っては卒業していったが、私ほどそこから多くのものを学びとり、そして、その後の人生に役立たせた人間は少ないのではなかろうか。>

<ここには文甲、文乙、理甲、理乙の4クラスがあり、1クラスの定員は40人、全部で160人にすぎない。
このうち40人は尋常科からあがってくるので、実際は120人しか取らないのである。>

<しかし、ここでも、内地人と本島人の入学枠には差があった。昭和10(1935)4月末の統計によると、合格率は15%で、内地人は32%、本島人は3%となっている。>

ここで、気になるのは、なぜ、医者になれる『理乙』に合格する者が多いかである。


<本島人の合格者は理乙が最も多く、理甲がこれに次ぐ。文甲、文乙はともに少ない。>

<理乙に入るのは、台北帝大医学部に進むのが目的であった。>

<もともと本島人にとって、文科系を志望することは、海のものとも山のものともつかぬものを追求する一種の冒険と異ならなかった。これに比べれば、医学はいつの時代にも元本確実な投資と言えた。
論より証拠、私は台湾には住めなくて、日本でしがない筆耕生活を送っている。


わが友人たちは台湾医学界で確固たる地盤を築き上げ、凶暴なる国民党政府も、さすがにこれには簡単に指をふれることができないでいる。>



これは、つまり、医者というのは、世の中の政治がどうなろうと、『食いっぱぐれ』がないと、言うことなのだろう。
たしかに、今日でも台中市の街中を歩いていると、大学病院などのほかにも、やたらに『診療所』という看板を掲げている『街医者』が多い。

しかも、どこも、医者がどこの大学でどういう学位を取得したか(アメリカの大学を卒業したものが非常に多いようだ)、あるいは、どういう『有名な病院』で勤務した経歴があるのか、看板自体に大々的に書いている。

これは、台湾で『医者』というものの、『社会的地位』が高いこと(収入も多い?)、それと同時に、『競争も厳しい』ことを表しているのだろう。


ただし、王育徳さんの文章は、次のように続いている。

<それでも人間の運命はわからないものだ、と感じさせる二、三の出来事もあった。
一人だけ新潟医大に入った呉源坤は、同地でチフスで亡くなった。文乙の快男児、羅時達は、わざわざ長崎医大を選んで入って、原爆にあって死んでしまった。


かれらも予定どおり文科系へ進んだり、台北帝大医学部に入っていれば、死なずにすんだかもしれないのに、と気の毒でならない。>


なお、この本によれば、育徳さんと共に台北高校で学んだのは、(のちに作家、その後に実業家、経営コンサルタントとして、『金儲けの神様』?として有名になった)邱永漢(きゅうえいかん、1924〜2012年)氏、あるいは、後に台湾の総統となった、李登輝氏(1923年〜)など(日本人にとっても)有名人(である人)が結構、いる。


李登輝氏は、王育徳さんの一期後輩で、在学中はそれほど親しくなかったようだが、前にも書いたように、後に王育徳さんが日本に亡命して以降、台湾大学助教授だった李登輝氏がひそかに育徳さんの自宅を訪ねてきた。

その時、育徳さんは、(前にも紹介したが)
<家に帰るとR氏が来ていた。実に気持ちのいい人で、こんな素晴らしい台湾人に会ったのは日本に来て以来初めてだ。将来の独立に希望がもてる。>

(1961年6月16日)と書いている。
(つづく)





https://politics.blogmura.com/politicalissue/ranking_out.html にほんブログ村 政治・社会問題]
にほんブログ村のランキングに参加しています。
よかったら、この記事にクリックをお願いします。 

この記事に

閉じる コメント(1)

顔アイコン

ああ、ヨイはなしです。

こう言う時代、だったんですね、一寸羨ましい気さえします。 削除

2017/8/12(土) 午後 6:08 [ ] 返信する

コメント投稿

顔アイコン

顔アイコン・表示画像の選択

名前パスワードブログ
絵文字
×
  • オリジナル
  • SoftBank1
  • SoftBank2
  • SoftBank3
  • SoftBank4
  • docomo1
  • docomo2
  • au1
  • au2
  • au3
  • au4
投稿

開く トラックバック(0)


.


みんなの更新記事