北京老学生・日本から台湾へ

2013年春、4年半ぶりに日本に帰国。2017年春、今度は台湾・台中へ。

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この記事の続きである。


『旧海軍司令部壕』の次(この日、3箇所目の降車地)は、『ひめゆりの塔』に向かった。

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ここは、これまで(6月23日の『沖縄慰霊の日』のテレビ中継などで)得てきたイメージだと、『平和祈念公園』と一体の場所にあるかのような感じを受けていた。
だが、実際は別の場所だった。

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こちらは、糸満市伊原という場所にある。次に紹介する『平和祈念公園』と比べるとぐっと小規模である。

沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校は、校舎が隣り合っていたようで、校友会会誌も共通のものになり(それぞれ、『おとひめ』、『白百合』という校友会誌を出していた)それが『姫百合』という名称だった(そこの跡地は、今は地元のスーパーになっている。観光バスがそこを通る際に、ガイドさんが案内をしてくれた)。

これにちなんで、両校から動員された『女子看護隊』の名称を『姫百合隊』と呼んでいた。
(『ひめゆり』と平仮名で表記するようになったのは、戦後になってからだという。)


彼女たちは、南風原の沖縄陸軍病院での看護要員としての動員命令を受けた。
ここは、40近くの横穴の壕に粗末な二段ベッドが備え付けられただけの施設だったという。

米軍が間近にせまった1945年6月18日夜、彼女たちに『解散命令』が出され、生徒たちは米軍の包囲する戦場に放り出されたという(『ひめゆり平和祈念資料館』のリーフより)。

学園から教員を含め240人が『姫百合隊』として動員されたが、『解散命令』後の数日間で136人(在地部隊その他で91人)が死亡した。

ある者は砲弾で、ある者はガス弾で、そしてある者は自らの手榴弾で。
『集団自決しよう』という声もあったが、それには、反対の意見も出て、それぞれが自らの信ずる道を進むことになったという(生存者の証言から)。

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ガマの一つの入り口。

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もともと建てられていた多数の碑。

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驚くことに、もともとここは、私有地であったという。
それが所有者のハーリー・シンイチ・ギマ=儀間真一さん(読谷村出身のハワイ2世)が1951年この土地を寄贈することで、ここが長く残されることとなった。

(儀間さんの生まれた年を見ると、2015年に亡くなった私の父と、同じ1917年だった。私の父も、熊本県天草の移民の息子として、アメリカで生まれ、『排日運動』が高まる中で戦前、日本に帰国、その後、日本軍に徴集されるという運命をたどった。
仮に、父が儀間さんのこの碑を見たら、感慨深いものがあるだろうと感じた。)

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ここで、昼食をとった(ツアー料金に昼食代込み)。
ついビールを私だけ、『追加』で頼んでしまった。

普段なら絶対、文句をいうはずのカミサンも、他人の耳を気にしたせいか、何ともいわなかった。

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ここの『ひめゆり平和祈念資料館』の展示は興味深いものがいろいろあったが、ゆっくり見る余裕はなかった。
ただ、若くしてなくなった『学徒』たちの顔写真がずらっと陳列されていた。

生き残った人たちの手記も残されていたり、動画のなかで証言する人たちの姿もあった。
(昨年の初頭に訪れた)広島の原爆関係の『資料館』あるいは『祈念館』で感じた空気と同じようなものが、ここにも漂っていた。

また、長崎の被爆者でもあった母は2016年に亡くなったが、母が残した昔のアルバムに、この『ひめゆり部隊』の女子たちと同じような高等女学校の生徒たちの姿があったなと思い出していた。
(つづく)





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