北京老学生・日本から台湾へ

2013年春、4年半ぶりに日本に帰国。2017年春、今度は台湾・台中へ。

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この記事の続きだ。今回は『後篇の2』ということになるが、これが最終回。
(4日間連続して、同じテーマの記事を書いていると、さすがに『重たい感じ』になってくる。)


前回、保阪正康著『60年安保闘争』の話まで挟み込んでしまったもので、話がややこしくなってきた。
前々回のところまで話を少し戻そう。

社会党の『万年書記長』と言われた浅沼稲次郎氏が、昭和34年(1959年)の二度目の訪中の際に、『アメリカ(帝国主義)は日中人民共同の敵』という発言を行ったことを書いた。


そもそもこの『(日本)社会党』という政党は、戦後できた(以下の記述は、大半が沢木氏の著書からの『受け売り』である)。
戦前の非共産党系の合法社会主義勢力が大同団結する形で結成された。

『右の社民(社会民衆党)、中間の日労(日本労農党)、左の労農(労働農民党)の三派』だという。浅沼氏の所属していたのは、『中間の日労(日本労農党)』系である。
『日労系』の浅沼が書記長となったのは、『左右』のバランスの上に立つ社会党を維持していくうえで都合が良いということのようだった。

しかも、中間派の『日労系』というのは、大政翼賛会や産業報国会などに所属していたものが大半だったために、戦後のGHQによる『公職追放』のなかで、そうした経歴を持つ古参の政治家たちは、表立って活動をすることができなくなった。


その結果、(前々回に書いたように、自分の当初の考えと異なり、周囲の『圧力』のなかで、時流に迎合せざるを得ないという八方ふさがりのなかで)精神に異常をきたし、戦時中の活動に空白を生じていた浅沼稲次郎が、書記長の座を射止めた。

つまり、(皮肉な話であるが)精神に異常をきたしたことが、ある意味で『ラッキー』とも言えるようなことになってしまった。


さらに、社会党は、2度(1950年と51年)にわたって、『左右』に分裂する。1950年の分裂時は、75日後の党大会で統一するるが、1951年の(サンフランシスコ講和条約の評価を巡る)再分裂時は、1951年10月24日から1955年10月13日までの期間という長期にわたり、『左派社会党』と『右派社会党』の二つの組織に完全に分かれて活動する。
(『テロルの決算』では、この時の話をさほど詳しく書いていないが、浅沼は『右派社会党』に所属していた。)

1955年10月13日に社会党は再統一を果たす(同年11月には、『自由党』と『日本民主党』の保守合同により『自由民主党』が結成される。この『社会党』と『自民党』の二つの動きは、表裏一体であったともいえるようだ)。
そして、この局面で浅沼は、再び、統一された社会党の書記長に選出される。


だが、書記長とは言っても、『左右』両派のなかで挟撃される、自分たち『中間派』を支える支援者たちがさほどいる訳でもない。
結果、『書記長』とはいっても、ほとんど自分の意見を主張せず、『左右』両派が対立するときは、『マアマア』ととりなすだけのことが多かったようである。
(この辺の事情について、『テロルの決算』はそれほど詳しく、記述しているわけでもない。)

ただし、一つだけ浅沼の得意な分野があったという。

それは、もともと彼が、『君は戦前の無産政党ずっと組織部長をやっていたから、全国の同志を知っているだろう、新党発起人の選考をやってくれ』と頼まれたように、全国の活動家の名簿を持っていて、地方のことを知っていたことだという。

それで浅沼は、中央の会議で書記長として議事をしきるよりも、地方に行って、集会やデモで演説をする、そうしたことが得意であり、実際、社会党の『書記局』(これは左派出身の書記で多くを固められていたようだ)は、そのような仕事を書記長に割り当てることが多かったらしい。

だから、『60年安保闘争』のときも、浅沼は集会やデモで演説をするのは、好きだったらしい。ある意味で、彼の日程は、こうして全国を飛び回って集会やデモで演説をすることで、埋め尽くされていたようで、こうしたことが彼に『人間機関車』というニックネームを付けることにつながったらしい。


また、訪中したときも、彼は中国共産党の幹部たちに厚くもてなされて、うれしかったようだ。
あるいは、中国で(日本の社会党内の政治状況からいったん離れて)歓迎されたことが、浅沼を早稲田大学の『雄弁会』の所属して、活動家としての人生を歩み出した時の『若い気持ち』に帰らせたのかもしれない、そのような趣旨のことを、沢木は『テロルの決算』のなかに書いている。

だから、本来は、『右派・中間派』であり、『アメリカ(帝国主義)は日中人民共同の敵』という『左派』的な発言とは、相いれないはずなのに、このような発言をしてしまった。

そして、これに対して中国共産党が、熱い反応を示したのに、さらに気をよくしていたのではないか、という。
そして、この発言こそが、浅沼を山口二矢の標的リストの中に繰り入れさせることにつながっていく。

山口らは、社会党の政治家のなかで、『左派ではない』という意識で見ていたので、必ずしも浅沼をもともと嫌っていたわけではない。『庶民的な彼のふるまい方』も決して、もともとは反感の対象になるようなものではなかっただろう。

しかし、その浅沼が、『中国に迎合して、売国的な発言をした』というので、一挙に浅沼に対する反感が高まったようである。


この本によれば、山口が最終的に浅沼を襲撃したのは、多分に『偶然によるもの』ということになっている。
前にも書いたように、日教組の小林委員長、自民党の河野一郎、石橋湛山、共産党の野坂議長、社会党の松本治一郎、はては(何らかの『反省』を求める相手として)三笠宮崇仁の名前まであがっていた『リスト』である。
このうち、日教組の小林委員長は、自宅をつきとめることができなかった。

10月10日には、共産党の野坂議長が、13日に新宿生活館という場所で、演説会を行うことを知る。
そこを襲おうかとも考えるが、12日当日の新聞朝刊に、浅沼が『三党首立会演説会』で日比谷公会堂に来ることを知り、これを襲おうと最終的に腹を固める。

他方、浅沼のほうでは、もともと『自分を襲う者などいないから』といった調子で、警察によるSPの配備を断っていたようだ。
日比谷公会堂の事件のおりには、山口の襲撃の直前に、(彼が以前、所属していた)『大日本愛国党』の党員らが、二度にわたって場内でビラ巻きによる嫌がらせをし、それに警備陣が注意を向けたことが、逆に『陽動作戦』のような効果を生み出し、遅刻して会場に到着した山口二矢に、『チャンス?』を与えてしまった。

こうしたいろんな『力』や『偶然』が作用して、山口二矢による浅沼稲次郎暗殺事件は『成功』してしまった。


この本を読んでから、既に何日かたつが、読んだ直後とは少し異なる感想を抱くようになった。
この本では、結果として、山口二矢と浅沼稲次郎という二人の人間の運命が交錯するような書かれ方になっているが、主役はある意味で山口二矢のほうである。
あるいは、『山口二矢のテロルを日本社会がどう受け止め方か』ということなのかもしれない。

浅沼稲次郎という人は、一種の『引き立て役』として登場するだけであり、沢木耕太郎がどれほどの思い入れを浅沼稲次郎の人生に持っていたのかというと、それは疑問である。

またこれは、『60年安保闘争』の直後に起きた事件であるが、沢木が『60年安保闘争』にどれほどの関心があるのかも、やや疑問である。


この本を読んで、むしろ、浅沼稲次郎という人の歩んだ(政治家・活動家としての)人生はどういうものだったのか(ある意味で、そこに日本の戦前・戦後の人々の活動の『苦難の歴史』が象徴されているような気がする)、あるいは日本の(いわゆる)『無産政党』といったものは、戦前・戦中・戦後にどのような歴史を歩んだのか、そうしたことにも興味を覚えている。

なぜなら、現在の調子でいくと、60年安保後の『社会党の悲劇』みたいな話が、今後とも、日本の政治で繰り替えされかねないという気がするからだ。







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