屯倉風信−《本》…《旅》…《回帰》

人生の持ち時間は少ないが、願わくはいつの日か、慈悲と智慧のあわいに寂かに着地せん……

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[居士の仏道・最初の解脱体験]──(ハワード・モーガン博士の論文の続き)
 
 《フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは1821年にモスクワの病院で生まれた。それは貧民層のための病院で、彼の父親はそこの医者であった。貴族の家系ではあったが、経済的には中流階級だった。ドストエフスキーはモスクワの寄宿学校における初期教育の後にペテルブルクの軍事工学学校に入学し、1843年にそこを卒業した。軍隊での短期訓練の後、1844年から1849年にかけて創作に没頭し、2つの小説およびいくつかの短編小説を発表した。
 1849年に禁止されていた政治活動を行った罪で逮捕され、死刑の宣告を受けた。彼は射撃斑の前に引き出された。しかし、最後の瞬間に、ロシア皇帝の命令によって減刑され、シベリアへと送られた。刑務所で4年、その後6年を軍隊で兵士として送った。退役後、文学活動を再開し、残りの生涯で10作を超える長編と多くの短編、様々な雑誌記事を書いた。生涯の多く時間を、健康、金銭、家族の問題で苦しんだ。1881年、肺炎に頻発する肺出血のために死亡した。》(「ドストエーフスキイ全作品を読む会『読書会通信』2003.12」に掲載された【ドストエフスキーのてんかん:ある症例との比較】より引用。)
 
 ──上記にある銃殺直前の特赦は、ロシア皇帝の官権によって仕組まれたもので、人間の死を弄ぶ非道な行為であったが、このことが後のドストエフスキーの心身と思想にもたらした影響が甚大なものであったことはよく知られている。極論すれば、流刑以後のドストエフスキーの支離滅裂な生活は、すべてその一件から発しているともいえるほどである。(ドストエフスキーは生涯にわたり賭博に明け暮れ、出版社からの前借りで無理な執筆を強いられた。あげくの果てには少女を凌辱したこともあるといわれる。それらの行為はすべて彼の作品の中に形象化されている。賭博と借金はともかく、少女の件については、もしそれが事実であれば、ドストエフスキーが如何に偉大な作家であろうとも許し難い行為であろう。とはいえ、ヒトはどのような悪業をも冒す動物であるともいえるのだが…。)
 
 《成人してから後のドストエフスキーはてんかんによって悩まされ続けた。発作は頻繁に起こる大発作で、夜行性であった。エクスタシー前兆は目覚めている時に、大発作に先行して起こった。このことから、神経学者はドストエフスキーのてんかんは二次的に全般てんかんあるいは大発作が引き起こされるタイプの側頭葉てんかんであるとした。
 ドストエフスキーは発作の直前に起こる数秒間の体験を語っている。それは経験した人でなければとても想像できないような満ち足りた瞬間である。その時、彼は全宇宙とのハーモニーを感じた。意識は鮮明で、しかもその激しい歓喜はこの至福の数秒とその後の10年を取り替えても惜しくはない思うほどであった。
 ドストエフスキーの大発作は非常に激しく、発作の後の数日間は発作後に特有の混乱や昏睡、不活発などに苦しめられた。発作は35年間で平均すると1か月に1回程度で起こったが、4か月に1回から一日のうちに2回までの変動がある。》(同上)
 
 ──ドストエフスキーのてんかん症は器質的なもの、すなわち生来のものであったことはほぼ間違いないといえようが、その稀な症状である発作直前の絶大な多幸感や一如感の喚起という状態には、上述したような刑場での「死から生への突然の帰還」という事件が遠く谺しているのかもしれない。すなわち(これは筆者の素人考えであるが)強力な体験とその記憶の保持が、大脳の生理学的な境位にある種の状態を強いる、という事情があるのではないかということである。このあとモーガン博士は、ドストエフスキーの作品における、てんかん症の形象化の具体的な事例を述べている。
 
 《ドストエフスキーは小説の中で、4人のてんかん者を描いている。『悪霊』のキリーロフ、『カラマーゾフの兄弟』スメルジャコフ、『虐げられた人々』のネルリ、そして『白痴』のムイシュキンである。
 アンドレ・ジードは述べている。「ドストエフスキーがてんかんを彼の小説に関与させるにあたって示した熱心さによって、彼の倫理の形成にあたり、また思考の曲線において、彼がてんかんという病気に付与した役割がどんなものであったかについて、われわれは十分に啓発されるのである。」
 『白痴』ではてんかんが主要なモチーフとなっている。この作品においてドストエフスキーは主人公ムイシュキンのてんかんを描写している。Mochulskyは述べている。
「ドストエフスキーは、最愛の主人公ムイシュキンにドストエフスキーにおいて最も親密で神聖だったもの、エクスタシー前兆と自らのてんかんを授けた。」
 Frankが示唆するように、ムイシュキンは非喜劇的で自己犠牲的なドン・キホーテである。貧困に陥った貴族であったが、後にばく大な遺産を引き継ぐ。単純だが純粋でキリストのような人物である。ドストエフスキー自身が手記の中で、ムイシュキンを美しい無垢の人として描くつもりであったことを明白に述べている。ムイシュキンは気取らず、正直で、同情的である。彼は小さな子どもたちの友人であり、病気や落ちぶれた人たちの擁護者である。一方で、白痴あるいは聖なる馬鹿(ロシア文学に見られるテーマ)と見なされるような人物でもある。自らがてんかんであったドストエフスキー以外の誰がムイシュキンのような人物を創造できたであろう?》(同上)
 
 ──モーガン博士がアンドレ・ジードやMochulsky、Frankの口を借りて述べているように、ドストエフスキーがてんかん症を賦与した作品上の最重要の人物は『白痴』のムイシュキンであることは間違いない。ただ上記の引用文の中にある『悪霊』のキリーロフもまた、筆者にとっては印象深い名前である。もっとも筆者の記憶の中では、キリーロフがてんかん症の持ち主であったことに関しては明確なイメージはないが、彼は、自らの死を自分の意志で決定することによってのみ、人は無神論を証明しつつ自ら神となることができる、という思想の持ち主であった。ピョートルの組織する革命組織に加わりながらも、その実、革命の有効性などには全く関心を示さないニヒリストであるが、一方で子供という存在に対しては純一無雑で善良このうえない愛情を示す。この子供に対する愛情といったテーマは、ドストエフスキーの作品に繰りかえし現れるものだが、筆者が考えるに、ドストエフスキーに幼年愛の傾向があったことは間違いないようで、上述した少女の件もそうした性癖からきているように思われる。
 
 《この作品におけるドストエフスキーのもう一つの目的は、てんかん病者の一様ではない予測不能の生活を小説自体の流れの中で象徴的に示すことであった。『白痴』という作品に対して、プロットを追っていくことが困難な解体された小説、という見方をする批評家もいる。しかしながら、Daltonが示唆するように、少し距離をおいて『白痴』という小説の構造を見ると、この小説がてんかん病者の生活の記述であることが解る。その活動は、てんかん発作が集積され爆発した後に不活発や昏睡に陥るように、一様でない進み方で展開していく。
 『白痴』の第5章2節で、ドストエフスキーはムイシュキンをとおしてエクスタシー発作について次のように語らせている。》(同上)
 
 ──このあとで、すでに引用した米川正夫訳の『白痴』の引用がある。もういちど転載しておく。
 
 《さまざまなもの思いのうちに、彼はまたこういうことも思ってみた。彼のてんかんに近い精神状態には一つの段階がある。(ただし、それは意識が醒めているときに発作がおこった場合のことである)それは発作の来るほとんどすぐ前で、憂愁と精神的暗黒と圧迫を破ってふいに脳髄がぱっと炎でも上げるように活動し、ありとあらゆる生の力が一時にものすごい勢いで緊張する。
 生の直覚や自己意識はほとんど十倍の力を増してくる。が、それはほんの一転瞬の間で、たちまち稲妻のごとく過ぎてしまうのだ。その間、知恵と情緒は異常な光をもって照らし出され、あらゆる憤激、あらゆる疑惑、あらゆる不安は、諧調に満ちた歓喜と希望のあふれる神聖な平穏境に忽然と溶け込んでしまうかのように思われる。(米川正夫 訳)》(同上)
 
 ──モーガン博士は、この記述の後半にある「その間、知恵と情緒は異常な光をもって照らし出され」という箇所に注目して、後に引用する文章で、「光」という現象に宗教的な要素を見出しているが、その指摘はおそらく妥当なものと思われる。「光」が「闇」との比較によって、明晰さや暖かさ、あるいはエネルギーに満ちた力強さといった印象を伴う「救済」のイメージで捉えられるのは、原始人類以来の共通した宗教的な傾向だからである。仏教においては「無明」に対する「智慧と慈悲」を光の形象で表すことが多いのは周知の通り。特に阿弥陀如来は梵名の「アミターバ」が「無限の光をもつもの」を意味することからもわかるように、常に光明とともにイメージされる。その一名である「無礙光如来」という称号が、その事情をよく物語っている。もちろんキリスト教においても、「光」は復活と永遠の命を意味するものとして捉えられているし、ゾロアスター教(松本清張の読者なら思わずニヤリとさせられる)にいたっては、世界を「光=善」と「闇=悪」の闘いとして解釈するのである。
 
  (つづく)

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