屯倉風信−《本》…《旅》…《回帰》

人生の持ち時間は少ないが、願わくはいつの日か、慈悲と智慧のあわいに寂かに着地せん……

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[居士の仏道・最初の解脱体験]──(ハワード・モーガン博士の論文の続き)
 
 《1985年の秋、38歳で右利きの白人患者が夜行性の大発作で、テキサス州ラボックのメソジスト病院に収容された。それまでの彼はまったく健康であった。
 抗痙攣性の薬物が投与されることにより、彼のてんかんは一時的にコントロールされたが、4か月後、発作を起こし再び入院した。その時、患者の症状はエクスタシー前兆を伴っていた。エクスタシー前兆は、2ヶ月にわたり一日に数回生じた。
 典型的な発作は、突然の興奮の直後に超越感覚が起こるというものだった。発作の最中、患者は明るい、しかしまばゆくない、一つの光を見た。彼は、その光が知識と理解の源であることを感じた。また時おり、やわらかな音楽が聞こえた。これらのエピソードのおよそ半分で、若いひげのある人が現われた。その人は身元を明かさなかったが、患者は、漠然とした姿にもかかわらず、その人をイエス・キリストであると感じた。このエピソードは1〜2秒しか続かなかったが、患者にはそれは実際よりもはるかに長く感じられた。彼の家族は、発作中、彼は別世界の中にいるように見え、通常の応答はできなかったと語った。
 最初のころ、患者はこうした発作に驚愕したが、次第に喜ばしく楽しいものとして感じるようになった。発作の間、彼自身と宇宙のハーモニーが実現した。彼はえもいわれぬ満足感および達成感を覚えた。いくつかの場合、このエクスタシー前兆の後に大発作が起こった。》(「ドストエーフスキイ全作品を読む会『読書会通信』2003.12」に掲載された【ドストエフスキーのてんかん:ある症例との比較】より引用。)
 
 ──引用文中、「38歳で右利きの白人患者」と明記してあるのは、この種のレポートに接する機会の少ない筆者には目新しく感ぜられる。脳外科の患者の場合、右利きか左利きかの違いは(大脳の構造的な問題上で)大きな意味を持つのだろう。また雑多な人種の入り混じるアメリカ社会においては、患者の人種に関する記述も欠かせないものなのかもしれない。大脳の生理学的な組織構造は人種の差異によって類型化され得る、といった事情があることが想像されるからである。
 さて、この患者の症例は確かにドストエフスキーの「エクスタシー前兆」に類似しているようである。だがこの場合、患者が覚えた「えもいわれぬ満足感および達成感」、「知識と理解の源である」と感じた「明るい、しかしまばゆくない、一つの光」、イエス・キリストのイメージ、等々のものが、患者の主体的な表現として語られたものなのか、あるいはモーガン博士の問診によって導き出されたものなのかは重要な点である。すなわち、ドストエフスキーが自らの疾患を作家としての創造的イメージの源泉としていたのに対して、件の患者がそれほどの主体的な関心をもって「エクスタシー前兆」に対処していたかどうかの問題である。
 
 もちろん、ここでは人間としての優劣を問うているのではない。ただ側頭葉の生理学的なある種の活動によると思われる、圧倒的な多幸感を伴う心身一如的な体験を、自己の実存に関わる体験として受けとめたかどうかを問題としているだけである。それがこの拙文のテーマである玉城居士の解脱感体験にも通ずる重要な要素になってくるからである。
 宗教にしろ芸術にしろ、あるいは職人技や科学的研究にしてもそうだが、ヒトが自らの生と死にまつわる意義において何ほどかの「仕事」を選び取るとき、そこには主体的な意志の如何、すなわち生と死への実存的な働きかけと受けとめ方という要素の有無、といった問題が介在するはずである。逆に言えば、ヒトの生から死への道程には、「神」によって設えられた意義や価値というレールが先天的に敷かれているわけではない。客観的にいえば、ヒトはただ単に、地球物理とDNAの交叉するあわいに生じた生物史の、ほんの一コマを飾る泡沫のような存在でしかないということになる。
 したがって、ブッダの説いた「解脱」が主体的な「禅定」によって導き出される境地であったことは、宗教の実存的な在り方として徹頭徹尾正しいものだったといえるのである。そうして、その「解脱」の境地に伴う強烈な多幸感や一如感といったものの内実には、ヒトの大脳の生理学的な現象が関わっているのではないか、というのがここでのテーマである。
 
 《コンピューター断層撮影により、この患者の右側頭葉に脳腫瘍があることが分かった。前部の側頭葉切除が行われ、併せて扁桃および前部の海馬も切除された。病理診断では悪性の神経膠星状細胞腫(gradeⅢ/IV)であった。手術後、発作は起きなくなった。その後、放射線療法を受け、9か月は無事にすごした。しかしながら、腫瘍は再発し手術の15か月後死亡した。
 レントゲン写真で、この症例におけるエクスタシーてんかんの原因になる病理学上の傷害の正確な場所が、前部の非優性の側頭葉に局限されていることがわかった。それは外科標本からも病理学的に証明され、発作が手術の後に再発しなかったことからも裏づけられた。このことから、この患者は、エクスタシーてんかんにおいて、脳の中で異常が起こった場所を正確に限局できた始めての症例となった。これまでのエクスタシーてんかんの報告でも側頭葉の障害であるとされており、ある論文では側頭葉の異常が脳波で確認されてもいたが、正確な病巣部位の限局はなされていなかった。したがって、今回の症例は、エクスタシーてんかんの原因になる脳障害の正確な部位を局限した点においてユニークであったと言える。》(同上)
 
 ──モーガン博士の患者が、手術後の腫瘍の発生によって死亡したのは不幸であったが、ここでは、患者の右側頭葉に脳腫瘍があったことが突きとめられ、それによって「エクスタシーてんかん」症例において脳内の障害が発生した正確な部位を限定できた初めてのケースとなったことが報告されている。
 しかし、気をつけなければならないのは、だからといってドストエフスキーの場合にも側頭葉に腫瘍があった、あるいは腫瘍でないにしても側頭葉に障害があった、とは確実には言えないであろうということである。ヒトの大脳の構造と機能はそれほど単純なものではないはずである。いや、いいかえればヒトの大脳の構造と機能は、これを器質的なレベルでみれば実に単純明快なものである、ともいえよう。
 つまり、モーガン博士の患者が右側頭葉の腫瘍によって発症したのと同じ症例は、脳内の他の部位におけるある種の状態によっても起こりうる可能性があるのではないか、あるいは症例の発生源が側頭葉に限定されるにしても、腫瘍のみがその原因であるとはいえないのではないか、筆者の言いたいのはそういうことである。
 
 たとえばヒトの脳内には、アドレナリンやエンドルフィンなどのいわゆる脳内快楽物質が存在することが知られているが、それらの物資によって発生する多幸感や充実感は、脳内物質と同じ化学成分をもった麻薬物質を外部から摂取することによっても発生する。それは元々脳内にある快楽物質を受容伝達するシナプスが脳細胞に存在するからである。そのことからも証明されるように、脳内のある部位に作用を促す原因そのものがそれぞれに異なっていても、その部位に生ずる生理学的作用が同一であることはあり得るだろうし、その結果として、ヒトの意識的・感覚的なレベルでは全く同じ現象をもたらすであろうことも充分に考えられる。 
 大脳生理学にはずぶの素人の筆者であるから、まるで見当違いのことを述べているおそれはあるが、とりあえずここでは、その原因が、脳内部位の単純な器質的な要素にあるにせよ、意識や感覚をある種の境位に保つ意志的な訓練にあるにせよ、ドストエフスキーと玉城居士、そしてモーガン博士の患者が感じたような強烈な充実感や一如感は、一様に発生することがあり得る、ということを表明しておきたいのである。
 ところで、ここで紹介しているレポートの著者モーガン博士は、ドストエフスキーの「エクスタシーてんかん」に注目するだけあって、科学的な発見を人文的な見地から考察する傾向を多分にもっているようで、以下、レポートの最終部分においてそうした考察の経緯を述べている。
 
 《ムイシュキンのエクスタシーてんかんは、私の患者のそれと類似点が認められる。両者共にエクスタシー前兆は、光の前触れと共に突然起こった。ムイシュキンの場合には、その光の感覚はドストエフスキーによって次のように記述された。「素晴らしい内部の光が彼の魂を照らした」。また、「彼の精神と心はまばゆい光によって満たされた」。私の患者は実際に光を見て、その光がかけがえのない理解の根源であると感じた。二人ともエクスタシー発作の最中は我を忘れ、自分がどこにいるかもわからない状態だった。
 ドストエフスキーはムイシュキンのエクスタシー前兆の一瞬について次のように記述している。「マホメットがアラーの住まいを隈なく見きわめてしまったという、ひっくり返った壷から水のこぼれる間もない、あの一瞬に違いないのだよ」。
 私の患者も、実際の発作の時間が短いのは承知していたが、実際よりもずっと長く感じていた。彼らにはあたかも時間が拡張するかのよう見えたのである。
 一方で、ムイシュキンは自己疑念に悩まされもいた。自分自身を無価値と考え、自ら白痴と呼び、社会においては不必要な人間であると感じていた。私の患者も病気の間、心理的な問題で苦しんだ。働くことができなかったし、自動車を運転することもできなかった。それで自分が夫として家族の担い手として価値がなくなったと感じていた。》(同上)
 
  (つづく)

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