屯倉風信−《本》…《旅》…《回帰》

人生の持ち時間は少ないが、願わくはいつの日か、慈悲と智慧のあわいに寂かに着地せん……

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[居士の仏道・最初の解脱体験]──(ハワード・モーガン博士の論文の続き)
 
 《Riceが示唆したように、ムイシュキンのエクスタシー前兆は宗教的な連想を呼ぶ。ムイシュキンは祈りについて、またマホメットやイスラム教の予言者について語っていた。一方で、私の患者は、エクスタシー発作の間、イエス・キリストの訪れを感じた。そのとき、あたかも教会にいるかのように音楽が聞こえた。彼は成人してからはめったに教会に行かなかったが、子どものころは規則正しく通っていたのだ。エクスタシー発作の最中、ムイシュキンと私の患者は共に、宇宙との満ち足りた一体感を感じた。Daltonによれば、この感覚は、フロイドのいう、自我の境界が溶かされる「大洋感覚」また、幼児退行の感覚である。
 現代の神経内科医の多くは、てんかんの診断、評価および治療を器質的な問題として扱い、もっぱら彼らが得意とする神経学的疾患の枠の中で考えようとする。しかしながら、私たちの多くはてんかん者が提示する非器質的側面、情動や心理やモラルやそこから生じる形而上学的な謎を目前にし、それらの問題に対して充分なトレーニングを積んでいないことを感じているかも知れない。
 ドストエフスキーは、てんかんの器質的な側面は無視している。しかしながら、ムイシュキンや他の作品の登場人物を通して、てんかん患者の心や感情へと私たちを導いてくれる。Miksanekが述べるように、ドストエフスキーの『白痴』は、芸術がいかに科学的観察を補強し、推考を助けることができるかを示す好例である。『白痴』や他のドストエフスキー作品のいくつかを読むことによって、不治のてんかん病者との類似を学ぶことができるのだ。このような洞察は、最良の神経病学または脳神経外科学の教科書の中でさえ、提示されたことがない。》(「ドストエーフスキイ全作品を読む会『読書会通信』2003.12」に掲載された【ドストエフスキーのてんかん:ある症例との比較】より引用。)
 
 ──モーガン博士のレポートはここで終わっている。博士が語っているように、「科学的観察」への芸術すなわち人文的側面からの「補強」と「推考」は、てんかん患者の内面への洞察を助けてくれるものではあるだろう。一方、問題をてんかんの器質的な側面への対症療法に限っていえば、てんかん症が不治の病とされ、現実に患者の命が失われていくことに関して、人文的考察は何ほどの力も持たないのかもしれない。
 筆者にとっては、ドストエフスキーがその決定的瞬間を書き残してくれたような「エクスタシー前兆」の内実が、玉城居士の最初の解脱体験で経験した圧倒的な多幸感や一如感と同様のものであること、したがってブッダ以来仏教的瞑想において継承されてきた「成道」というものの内実を、大脳の生理学的現象として理解することができるのではないか、という筆者説の補強として、上記のレポートを引用させていただいたわけである。
 
 ところでモーガン博士が発作時の患者の感覚について述べた「宇宙との満ち足りた一体感」ということば、およびフロイドの学説を援用して揚げた「自我の境界が溶かされる『大洋感覚』また、幼児退行の感覚」という概念は、いみじくも仏教のいわゆる〈涅槃寂静〉〈諸法無我〉〈自他無分別〉という重要な「智慧」に我々の関心を導いてくれるものである。ただし「幼時退行の感覚」を筆者は「胎児回帰の感覚」と言い替えておきたい。ヒトが母親の胎内で「原初の生命」を生きているとき、自我と外界は幸福な溶融の状態にあり、自他無分別にして不二一如の「智慧」の中にいるといえないだろうか。
 〈解脱〉とはそうした「空としての智慧」の方へ、退行ではなく、回帰していくことなのである。また「大洋」ということでいえば、仏教において「海」は、大いなる智慧を示すイメージと共にある。たとえば「海印」とは澄みわたった大海が万物を映し出すさまを、仏の知恵の広大さの譬喩とした言葉であるし、「性海(しょうかい)」とは、すべての衆生のもつ解脱への可能性を深く広い海にたとえた語である。そういう意味で言えば「空海」という名前はナチュラリズムとしての美しさだけでなく、その意味するところからも奥深いイメージの響きをもつ名であるといえようか。
 
 ここから少し話題は逸れるが、フロイトの精神分析学は結局のところ、人間の自我への信頼、とまではいえないにしても、自我の存在を前提とする立場に立つものであることは明らかである。フロイトのみならず西洋の人文科学的思考は、自我の存立という命題から離れることはできないのだ。ユングはフロイトに対抗して「集合的無意識」なる概念を創造したが、それでさえ自我を支え健常な状態へと導くための下位概念として考えられている。
 したがって仏教の「唯識」を、西洋の近代心理学にも匹敵する深層心理に関する考察などといって持ち上げるのは見当違いな評価とならざるを得ないだろう。少なくとも世親(ヴァスバンドゥ)の「唯識」において〈自我〉は、徹頭徹尾誤った思考や感覚や知識を基に成り立つ領域であって、第八阿頼耶識とは、決して深層を形作る無意識のことではなく、我々から諸法の実相を観る〈智慧〉を遠ざけている〈無明〉の発生源として考えられているのだ。だから。仏の智慧という〈解脱〉に達するためには、阿頼耶識を転識させることが必要とされることになる。
 
 西洋的思考において人間の〈自我〉への信頼が揺るがないのは、これは逆説的なようだが、〈自我〉を〈自然〉に対立させる思考様式に依るところが多いと思われる。そこでは〈自然〉を征服すべきものと見るにしても、逆に、自然を美化して至上のものにまつりあげるにしても、そうした自然に対している人間の存在が常に前提とされている。二十世紀の後半に起こったポストモダニズムの嵐は、西洋の人文科学が打ち樹てた近代的自我を無化する知的運動であるかのように見えたが、嵐が過ぎ去って半世紀近く経つ現在の地点から振り返ると、どうやらその運動に参加した知識人達の浮薄な〈自我〉をさらけ出すだけの空騒ぎであったとしか思えないようである。あるいは西洋的思考の行き詰まりを示す徒花(あだばな)であったといおうか。
 ポストモダニズムの潮流と時代を同じくして華々しく登場しながら、自らをポストモダニスト達とは峻別していたミシェル・フーコーは、その主著の一つである『言葉と物』の結末部にこのように記している。
 
 《人間は、われわれの思考の考古学によってその日付けの新しさが容易に示されるような発明にすぎぬ。そしてその終焉は間近いのだ。
 もしもこうした配置が、あらわれた以上消えつつあるものだとすれば、われわれがせめてその可能性くらいは予感できるにしても、さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事によって、それが十八世紀の曲り角で古典主義的思考の地盤がそうなったようにくつがえされるとすれば──そのときこそ賭けてもいい、人間は波打ちぎわの砂の表情のように消滅するであろうと。》(ミシェル・フーコー『言葉と物──人文科学の考古学──』409頁[渡辺一民・佐々木明訳/新潮社])
 
 「波打ちぎわの砂の表情のように消滅する人間」という美しいレトリックは、しかし、エコロジスト達が口々に叫ぶような人類の破滅を示唆しているのではない。近代的自我への信頼のうえに成り立った「人間」という概念が、これまでにも歴史上の結節点でしばしば見られたような大きな転換を経験するだろう、ということなのである。フーコーの遺言のような言葉から45年目の今(『言葉と物』は1966年発行)、「人間」は情報の洪水の中に〈自我〉を埋没させているように見える。あるいは情報化の波に乗り遅れることのないように、均一化された〈自我〉にしがみついているとでもいおうか。しかも一方で、現代を覆う情報通信革命という潮流は、ポストモダニズムの一方の騎手であったボードリヤールの提示した「記号の消費」という運動の──少なくとも大衆レベルでの経済現象からいえば──枠内にとどまっているようにもみえる。そういう意味では、ポストモダニズムのすべてが仇花ばかりであったわけではない、ということになるのかもしれない。
 ただし、情報通信革命という現象は、フーコーのいう「われわれがせめてその可能性くらいは予感できるにしても、さしあたってなおその形態も約束も認識していない何らかの出来事」の一つに成り得る可能性はあると思える。その可能性の延長で、〈自我〉は均質化された記号のようになって生き残るのだろうか。はたまた知の権力から脱することによって〈無我〉の境域に達することができるのであろうか。
 
 〈自我〉の前提のうえに立つ西洋の思考に対し、仏教に見られる古代インドの思考法では、はじめから〈自然〉なる範疇は除外されている。重要なのは〈人間〉であり、〈人間〉がどのように生きれば、苦悩に満ちた「生死」を超越して、安らかで歓びに満ちた「永世」を実現できるか、ということが宗教に要求される最大の問題だからである。そのためには、〈自然〉という範疇を一挙に跳び越えて、存在するもの一切に通底する真理を孕む〈宇宙法界〉という概念が設立される。そしてこの〈宇宙法界〉という概念は、現代の宇宙物理学と生命科学が指し示す、物質と生命のイメージに矛盾しないただ一つの宗教的概念だといっても過言ではない。
 
 そのような壮大にしてシンプルともいえる思考法を産み出したのは、ブッダ以前のはるかな太古からインドで行われていた「禅定=ヨーガ」という方法である。そして、その神秘と謎のベールに覆われているかのように見える禅定において、実は、大脳の生理学的な〈過熱〉という現象──圧倒的な一如感や多幸感、宇宙法界との一体感(モーガン博士が、彼の患者のエクスタシー発作時の内面をいみじくも評した「宇宙との満ち足りた一体感」)をもたらす現象を、筆者は〈大脳の過熱〉と呼ぶことにする──が起こっているのではないか、というのが筆者の考える〈解脱〉への見取り図なのである。   (つづく)
 
 【追伸】 ※筆者は正月休みを利用して松本清張の『砂漠の塩』(松本清張全集・19所収)を読み返しはじめた。以前にこの作品を読んだのは二年くらい前だったように覚えているが、大晦日の日に久しぶりに清張の文章を読みたくなり、書棚に並んだ全集の背文字を眺めていてこの小説の表題に目が止まったのである。それから乏しい余暇を拾うように読み進め、先日読了した。本作品は筆者がこれまでに読んだ(それほど多くはないが)恋愛小説のうち、島尾敏雄の『ロング・ロング・アゴウ』、漱石の『それから』と並ぶ三大傑作であるとは、前に読んだときの感慨であったが、今回読みかえしてみていよいよその感を深くした。
 ここは詳しく作品論を繰り広げる場ではないので簡単な読後感を述べると、この作品が興味深いのは、物語の本筋である恋愛の部分だけでなく、カイロからベイルート・ダマスカス、そしてシリア砂漠へと至る中東地域の紀行文としても読めるところである。最後の学術報告書的な文章も非常な効果をあげている。このブログの読者で『砂漠の塩』を未読の方がおられたら、ぜひ一読をお奨めする。文学による至福の一時を過ごせることでしょう。

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