屯倉風信−《本》…《旅》…《回帰》

人生の持ち時間は少ないが、願わくはいつの日か、慈悲と智慧のあわいに寂かに着地せん……

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[居士の仏道・最初の解脱体験]──前回は、西洋的思考の特徴と古代インドの仏教的な思考方法との差異性に関する、やや唐突ともいえる断片的な感想の羅列になったが、今回は大脳の生理学的な力能による爆発的な多幸感や一如感、すなわち〈大脳の過熱〉が、主体的で実存的な〈智慧〉の導きによってもたらされる〈解脱〉とどのように関連づけられるかについて──これも断片的な見取り図になるだろうが──述べてみたい。
 
 ドストエフスキーが記録に留めた「エクスタシーてんかん」の発作時における「歓喜と希望のあふれる神聖な平穏境に忽然と溶け込んでしまうかのよう」な自己と外界(宇宙)との一体感と、玉城居士の最初の解脱体験の内実である「悶えも苦しみも虚空にけし飛んで、自己も世界も万物も一つになってしまった、ことばでは云い表せない一如感。瞬間であると同時に生々しいほどの永遠」といった白熱的な状態とが、共に大脳の生理学的なある種の境位(レベル)からもたらされたものにちがいない、という推測はこれまでも度々述べてきたが、何度でも強調しておきたいのは、そうした「大脳の過熱」状態は、それをただ現象そのものとしてみるならば、ドストエフスキーにとってそうであったような文学的なインスピレーションの源泉になることもなく、また玉城居士の事例が示すような解脱や悟りへと通じるような体験として自覚されることもあり得ない、ということである。
 
 そのことに関していえば、ドストエフスキーが器質的なてんかん症患者であったことはほぼ間違いないようであるが、それがモーガン博士の患者のような側頭葉の腫瘍によるものであったかどうかについては──それを証明することは今となってはできない相談だが──、筆者はおそらくそうではなかったろうと推測する。何故なら、長年にわたるてんかん発作の頻発にもかかわらず(モーガン博士によると発作は35年間で平均すると1か月に1回程度、4か月に1回から一日のうちに2回までの変動があるという)、すでに見てきたように、そうした発作時の「エクスタシー」に対して、ドストエフスキーが作家的な洞察を働かせながら主体的に対応しているからである。
 
 少し誇張していえば、ドストエフスキーの「エクスタシーてんかん」発作は、彼の文学的な欲求によって惹きおこされる「大脳の過熱」であって、たとえその遠い要因が器質的な疾患に求められるものであったとしても、ドストエフスキー自身は決してそれを認めようとはしないであろう。彼にとっては、その瞬間の白熱と平穏の微妙な均衡の上に成り立っている至福の一如感は、何者にも替えがたい生の実感に満たされた時間と空間を形作っていたであろうからである。それを仮に「光輝に包まれた実存」と呼んでみたいし、また、実存的な要求に裏打ちされた主体性は器質的な疾患を超越する、とも言ってみたい気がする。
 もう一つ、ドストエフスキーが60歳まで生き延びたことも、彼の疾患が、モーガン博士の患者のような側頭葉の腫瘍によるものではなかったことを証明しているのではないだろうか。
 
 玉城居士の解脱体験についていえば、「大脳の過熱」状態を用意したのは、幼い頃からの信仰の素地と、その信仰を合理的かつ主体的に確固なものとするために継続していた修行実践との二つであろう。具体的にいえば、奥野源太郎師によって導かれた坐禅の行と、足利浄円師の、存在そのものから醸し出されるような〈無我〉の佇まいに親しく接したこと、この二つの要素である。
 玉城居士の主体的で実存的な「求道の旅」は、最初の解脱体験以後の居士の修行の推移を見て行くことで端的に理解されるが(このあとその足跡を具さに追っていくことになる)、ここでは一見超越的とも思える強烈な多幸感が、その直接的な要因を「大脳の過熱」状態に求めることができるにせよ、その体験を用意し、その体験を解脱へと導くものは、主体的で実存的な意志──それがブッダのいわゆる〈智慧〉をもたらすのであるが──によるものであることを、何度でも確認しておきたい。
 
 ここで、筆者が頻用する〈実存〉という用語について説明しておくのも悪くないだろう。筆者のいう「実存」とは、単純に、ヒトが生きることの意味とその根拠を自らの主体性において求めることをいう。ところが一方では、ブッダが発見した縁起の相依性としての「空観」は、生命というものの無自性性(無根拠性)、すなわち〈自我〉の無根拠性を指し示すものであるので──それが「諸法無我」ということであるが──ブッダの〈智慧〉を導きの光とする限りにおいて、ヒトはその〈実存〉を、常に〈空なる法界〉との関連において考察し実感しようと志向することになる。禅定は、そのための最良の方法なのである。
 仏教における〈解脱〉は、そのような考察と実感によって導かれ、用意されるのだが、その〈解脱〉の具体的で感覚的な発現こそが、これまで延々と述べてきた「大脳の過熱」によってもたらされるわけである。
 
 ところで、ドストエフスキーと玉城居士との「大脳の過熱」体験に共通しているのは、そうした強烈な体験の時間が非常に短いものであるということである。いいかえれば、「大脳の過熱」状態は永続性を保ち得ないということになる。
 ドストエフスキーの場合、「それはほんの一瞬の間で、たちまち稲妻のごとく過ぎてしまうのだ。」と述べているし、また、その時間は──これはレトリック上の誇張が多分にあるだろうが──ほんの一秒の間のことだと記している。ただし彼の場合、そのような発作が度々繰り返されたのである。
 それに対して玉城居士の解脱感はほぼ一週間ほど続き、やがて普段の常態に復したという。
 
 《(前略)その当座はただ歓喜の興奮に浸るのみであった。その状態は一週間ほど続いたであろうか。それからだんだん醒めてきて、十日も経つとまったく元の木阿弥になってしまった。以前となんら変わることはない、煩悩も我執もそのままである。そもそもあの体験は何であったのか。単なる幻覚か、いやいやけっしてそうではない。爆発の事実を否定することはできない。しかし、そのことをいかに詮索しても、現に煩悩、我執のままであることはどうしようもない。》(『仏道探求』16頁)
 
 このように、強烈な解脱体験がやがて徐々に醒めてきて常の状態に戻るというのは、筆者に言わせれば至極当然のことであって、それは大脳の生理学的な興奮状態、すなわち筆者のいう「大脳の過熱」状態が継続することは、生命体としてのヒトに内蔵されている「ホメオスタシス(恒常性を維持しようとする機能)」に反することだからである。つまり「大脳の過熱」は、ヒトの生命維持にとっては異常事態であり、除去すべき生理現象としてあるということになる。このことは既にモーガン博士のレポートで見たきたように、「エクスタシーてんかん」における発作の頻発が、やがて患者を死に至らしめることからも証明されるであろう。
 さらには、麻薬類のような薬物の摂取による強制的な多幸感の現出が、やがてヒトの精神(大脳の生理的現象)に荒廃をもたらすことも、薬物摂取による副作用の要素と同時に、急激な「大脳の過熱」がホメオスタシスを阻害することから説明できよう。
 
 これらのことは、禅定による仏教の〈解脱〉を考えるにあたり、重要な示唆を与えてくれるように思われる。以下、回を改めて、その重要な示唆に導かれて筆者が連想したことをランダムに列挙してみよう。少し大げさにいえば、少なくとも筆者にとっては、〈解脱〉に至るプロセスをほぼ手中にしたという実感があるのだが、実際にはもちろん、その道程はまだまだ遙かに遠いものであるだろう。
 
 (つづく)

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