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ヤフーブログは重過ぎるため、GOOのブログに引っ越すことにしました。 |
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今回のNordic Open(以下NO)を簡単に紹介したいと思います。 1, 開催地が首都Copenhagenから、Helsingorに変わりました。 HelsingorはCopenhagenの北にある、小さくて非常に美しい街です。日本人が一般的にもつ 北欧のイメージにある、「おとぎ話のようにかわいい街」という感じでしょうか。 Copenhagenより夜遊びは出来ないかもしれませんが、観光、バカンスという意味では 嬉しい変更です。 2, TrueMoneyGamesより賞金が10,000Euro加算されます。 TMGとDBgFはスポンサー契約を結んだようです。今回のADDもその契約の一部との事です。 プレイヤーにとってはもちろん嬉しいニュースですね。 http://www.truemoneygames.com 3, TMG上でNOの予選があります。 2に伴い、TMG上で予選会を行うようです。参加費は$20で、優勝すればNOの参加費、ホテル代、 おこずかいなど$2000相当がもらえるそうです。 ただ、開始時間が2/6 AM 4:15(日本時間)ということで、普通の人は結構厳しい時間ですね。 僕は頑張ってみますよ。 4, レクチャー/解説会をNeil Kazarossが担当します。 Neil KazarossはアメリカのABTで生涯通算トップという、偉大なプレイヤーです(アメリカNo.1プレイヤーという評価)。彼のマッチを読んで勉強していましたから、会うのが今から楽しみです。 また、彼は今でも勉強を続けており、gammonlineなどにも積極的に書き込みをしています。 現在進行形で強くなっているプレイヤーの言葉はいつでもためになります。 5, WEB上でアナウンスが出来る。 NOに参加する場合は、前もってどのクラスに参加するかをWEBに書き込めるようになっています。 書き込んだ人は"Player List"に名前が載りますので、世界の友人にアピールすることが出来ます。 主催者にとっては、参加者数の予測に役立ちますので積極的にアナウンスしてあげましょう。 私もアナウンスをしました。 ・・・琢光に負けてしまいました。Denmark Challenge経由で無料で行くのは
夢と消えてしまいました。残念。安い航空券探さねば。 |
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昨年12/24,25のチャリティートーナメントの収益をユニセフ振り込んだら、 |
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スキーで事故にあってしまった。 ゲレンデで転んで立ち上がろうとしているところに、ぶつけられたのだ。 スキーの板がまっすぐ体に刺さった、と勘違いするぐらいの スピードだった。交通事故なみに体がふっとび、激痛にのたうった。ぶつかる瞬間は死を覚悟した。 のた打ち回りながらも、生死がどうこうという ひどい怪我ではないことがわかったので、体を確認した。 変な言葉だが、体を確認しないと全部あるかどうか不安だったのだ。とりあえず体は全部あった。 次におそるおそる足先を動かしてみる。これで足の感覚がないと、腰を打っての下半身不随という可能性がある。足には雪が入り込んで非常に冷たかったが、足先もしっかりと動いた。 少し安堵して、とにかく体を楽な状態にして救助を待つ。上半身を起こすと激痛がする。 すでに人だかりが出来ていて、いろいろと連絡をしてくれていたようだ。 ぶつかったおじさんはしきりに恐縮して、怪我の補償は全てしますとか繰り返していたが、 そんなことには全く興味が無くて、とにかく無事ならいいとそれだけ思っていた。 左の腹部は激痛がしていて、ちょっとただ事ではない。 あばらが2,3本いった感じだ。 でも、あばら程度ならちょっとの入院ですむ話なので、少し安心した。 ほどなくレスキュー隊が到着して、そのまま私を袋詰めにして スキーで下まで運んでいき、その後救急車にて市立病院に運ばれた。 友人は僕が袋詰めにされているときに、リフトから気付いて、非常に動転したそうだ。 レントゲンの結果、腰の骨が2本折れていたらしいが、 大した骨ではないので入院もせず帰れた。 ぶつけられたのは不運だったが、頭もうたず、腰もうたず、 骨もたいしたものは折れず、即退院できたのは本当に 運が良かったと思う。車椅子でギャモンをすることになっても 全くおかしくなかった。バカヅキ。 4〜5日たつがまだ痛む。1週間ぐらいは大事にすごすしかない。
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死について、昔読んだ本を読み返してみたところ、養老孟子の文章を見つけた。 「生と死の様式」--多田富雄、河合隼雄編、誠信書房 少し引用してみる。 死は社会的規定である 自分の死が体験的には「ない」とすれば、存在するのは、自分以外の人間の死だけである。 ここから、死に関する議論の、奇妙な「無責任さ」が始まるらしい。 (中略) 死が他人のものであるということは、社会的なものであるということである。 社会というのは、要するに自分以外の人間を認めるところに始まるからである。自分の死はないが、 他人の死はたしかに「ある」。と言うより、他人の死なら、ともかく傍で経験できる。 その意味で、他人の死は存在する。死んだ人を放っておくわけにもいかないので、引導を渡すなり、 埋葬するなり、なんとかするのだが、そのために置かれた基準が、常識的に言う「死」であろう。 要するに、死というのは実際には社会的規定であり、それ以外のものではない。 (中略) それでも、社会的な規定ではない「自然現象としての死」があるだろう。そう言われるかもしれない。 正直に言って、私はそれを論理的に規定する自信はない。だれかにそれができるとも思わない。 脳は自分の都合に従って「死に」、心臓は心臓の都合で「死ぬ」。その時刻は一致せず、従って 多くの自然現象と同じく、死は人間がそれを生から「分節する」のである。言語はいたるところで自然を 分節するが、それは人間の恣意である。そうかと言って、個人の死の時点は、残された者が、「決める」 ほかはあるまい。人間は言語によって、あらゆるものを分節する以上、生死の境界についてだけ、 分節行為を逃げるというわけにいかないからである。 (引用終了) 死だ終わりだといって騒いでいましたが、なるほど死というのはたんなる社会的規定にすぎないということですね。この状態を死としますよ、という決め事なわけです。この決め事がゆらいだのは 少し前から続いている脳死議論の時です。 養老孟子はこの後、死体についても述べます。彼によれば、 一人称の死体は存在せず、二人称の死体は、じつは死体ではなく、まだ生きており、三人称の死体のみが、「客観的な」死体なのである。 だそうです。 二人称の死体は、感情が死体を死体として認めることを拒否するからだそうです。
(死体として認めたとき、それは三人称の死体になります) だからといって、死体を「生きている」として扱うわけにもいきませんから、 あきらめるための儀式を行い、燃やしたり埋めたりして見えなくしてしまうわけです。 この文章から私の前回のブログを思い起こしてみると、私はいままで、三人称の死体に しか出会っていなかったことがよくわかりました。 |



