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ヤフーブログは重過ぎるため、GOOのブログに引っ越すことにしました。 |
日記
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昨年12/24,25のチャリティートーナメントの収益をユニセフ振り込んだら、 |
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スキーで事故にあってしまった。 ゲレンデで転んで立ち上がろうとしているところに、ぶつけられたのだ。 スキーの板がまっすぐ体に刺さった、と勘違いするぐらいの スピードだった。交通事故なみに体がふっとび、激痛にのたうった。ぶつかる瞬間は死を覚悟した。 のた打ち回りながらも、生死がどうこうという ひどい怪我ではないことがわかったので、体を確認した。 変な言葉だが、体を確認しないと全部あるかどうか不安だったのだ。とりあえず体は全部あった。 次におそるおそる足先を動かしてみる。これで足の感覚がないと、腰を打っての下半身不随という可能性がある。足には雪が入り込んで非常に冷たかったが、足先もしっかりと動いた。 少し安堵して、とにかく体を楽な状態にして救助を待つ。上半身を起こすと激痛がする。 すでに人だかりが出来ていて、いろいろと連絡をしてくれていたようだ。 ぶつかったおじさんはしきりに恐縮して、怪我の補償は全てしますとか繰り返していたが、 そんなことには全く興味が無くて、とにかく無事ならいいとそれだけ思っていた。 左の腹部は激痛がしていて、ちょっとただ事ではない。 あばらが2,3本いった感じだ。 でも、あばら程度ならちょっとの入院ですむ話なので、少し安心した。 ほどなくレスキュー隊が到着して、そのまま私を袋詰めにして スキーで下まで運んでいき、その後救急車にて市立病院に運ばれた。 友人は僕が袋詰めにされているときに、リフトから気付いて、非常に動転したそうだ。 レントゲンの結果、腰の骨が2本折れていたらしいが、 大した骨ではないので入院もせず帰れた。 ぶつけられたのは不運だったが、頭もうたず、腰もうたず、 骨もたいしたものは折れず、即退院できたのは本当に 運が良かったと思う。車椅子でギャモンをすることになっても 全くおかしくなかった。バカヅキ。 4〜5日たつがまだ痛む。1週間ぐらいは大事にすごすしかない。
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死について、昔読んだ本を読み返してみたところ、養老孟子の文章を見つけた。 「生と死の様式」--多田富雄、河合隼雄編、誠信書房 少し引用してみる。 死は社会的規定である 自分の死が体験的には「ない」とすれば、存在するのは、自分以外の人間の死だけである。 ここから、死に関する議論の、奇妙な「無責任さ」が始まるらしい。 (中略) 死が他人のものであるということは、社会的なものであるということである。 社会というのは、要するに自分以外の人間を認めるところに始まるからである。自分の死はないが、 他人の死はたしかに「ある」。と言うより、他人の死なら、ともかく傍で経験できる。 その意味で、他人の死は存在する。死んだ人を放っておくわけにもいかないので、引導を渡すなり、 埋葬するなり、なんとかするのだが、そのために置かれた基準が、常識的に言う「死」であろう。 要するに、死というのは実際には社会的規定であり、それ以外のものではない。 (中略) それでも、社会的な規定ではない「自然現象としての死」があるだろう。そう言われるかもしれない。 正直に言って、私はそれを論理的に規定する自信はない。だれかにそれができるとも思わない。 脳は自分の都合に従って「死に」、心臓は心臓の都合で「死ぬ」。その時刻は一致せず、従って 多くの自然現象と同じく、死は人間がそれを生から「分節する」のである。言語はいたるところで自然を 分節するが、それは人間の恣意である。そうかと言って、個人の死の時点は、残された者が、「決める」 ほかはあるまい。人間は言語によって、あらゆるものを分節する以上、生死の境界についてだけ、 分節行為を逃げるというわけにいかないからである。 (引用終了) 死だ終わりだといって騒いでいましたが、なるほど死というのはたんなる社会的規定にすぎないということですね。この状態を死としますよ、という決め事なわけです。この決め事がゆらいだのは 少し前から続いている脳死議論の時です。 養老孟子はこの後、死体についても述べます。彼によれば、 一人称の死体は存在せず、二人称の死体は、じつは死体ではなく、まだ生きており、三人称の死体のみが、「客観的な」死体なのである。 だそうです。 二人称の死体は、感情が死体を死体として認めることを拒否するからだそうです。
(死体として認めたとき、それは三人称の死体になります) だからといって、死体を「生きている」として扱うわけにもいきませんから、 あきらめるための儀式を行い、燃やしたり埋めたりして見えなくしてしまうわけです。 この文章から私の前回のブログを思い起こしてみると、私はいままで、三人称の死体に しか出会っていなかったことがよくわかりました。 |
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僕にとって死は怖くありません。 というか、死、というものが僕には分かりません。 想像もつかないのです。 痛みは想像がつきます。交通事故で車にはねられる、とか 病にうなされる、というのは今までの経験から類推して想像できるのです。 が、死はわかりません。僕が知っている死は第三者の死 だけです。それは、親しかった知人と2度と会えないという ことだったり、彼(彼女)の肉体が動かないことだったり するだけです。自分なりに死を想像すると、どうしても そのような残された人が悲しむ姿を想像してしまいます。 知人の死は悲しいものですから、おそらく知人も私の死を 悲しむでしょう。ですが、これは僕の死ではありません。 僕の知人が感じた望月正行の死です。結局僕自身には僕の死を想像することは出来ません。 では、何が怖いのか?ここで、あと3ヶ月の命だと医者に宣告されたとします。 僕は激しく恐怖するでしょう。何も手につかなくなり、数日は助けをもとめて 友人や恋人にしがみつくかもしれません。いったい何が怖いのでしょうか。 人間はいつか死ぬ、そのことは分かっていたのに近い未来に区切られると激しく恐怖するのは 何故でしょうか。死が潜在的な可能性や自分の成し遂げたかった夢を途中で打ち切るからです。 そのことが恐怖なのです。 死の恐怖、という曖昧な定義は僕にとっては以上のように明確です。であれば、今こうして生きている最中も僕は確実に死に近づいている、ということに気付かなければいけません。 自分の夢や可能性はどんどん小さくなっているのです。このことは死よりも恐ろしい。 僕は死につつあるのです。僕にとって第3者の死はそんな当たり前のことを自分に 再喚起する機会です。葬式で、死んだ人を全くかわいそうだと思いません。そう思うよりも、 よりよく毎日を生きなければならない、と考えるからであり、それが最大の 供養だと思うからです。 以上は、経験に基づいた個人的な死生観です。大切な人を失った経験が無いのでえらそうなことは
いえませんが、暇つぶしにでもなりますでしょうか。 ここまで書いてみて途中何度も議論の浅さや自分の嘘に気付きましたが、 あえてこの程度に抑えておきます。黒い闇にのみこまれそうだったからです。 それを覗くのが怖くなったのは年をとって器用になったからでしょうか。 |



