茂木大輔:もぎ議録

クラシック音楽は理解して聴けば感動100倍!が活動のモットー。まずは自分が理解しよう・・・(笑)

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新潟りゅーとぴあでのコンサートです。
チャイコフスキーの人生の大きな転機の年に産まれた劇的すぎる交響曲。お楽しみに!
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チャイコフスキー:交響曲第4番徹底解説
 
 
ごあいさつ
 
皆様、新年あけましておめでとうございます。
「徹底解説」シリーズに長く、熱心な御支持を頂きまして深く感謝しております。こうしたシリーズを継続することには深い意義があると確信しておりますが、全国的にもなかなか成功例のないなかで、着実に、丹念に続けてくる事が出来たのは、なにより聴衆の皆様と、りゅーとぴあのスタッフの熱心なサポートのおかげです。これからも、オーケストラ音楽の奥深さ、知れば知るほど本当に面白いその内容について、少しずつではありますが御一緒に楽しんでいければと思います。今後ともよろしくお願いいたします。
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さて、今までベートーヴェンの交響曲やウィーン古典派(ハイドン、モーツアルトなど)の音楽を中心にお話ししてきたこのシリーズですが、今回は少し時代を下って、19世紀後半にロシアで活躍したチャイコフスキー(1840-1893)の、「交響曲第4番ヘ短調:作品36」についてお話しして見ようと思います。
チャイコフスキーの音楽は日本でも非常に愛されているもので、「好きな作曲家」のアンケートをしたら上位に入るのは間違いないでしょう。「白鳥の湖」や「くるみ割り人形」などのバレエ音楽、ピアノやヴァイオリンのための協奏曲、そして第6番「悲愴」やこの4番、5番に代表される交響曲などは、年間を通じて膨大な演奏回数を誇っています。ベートーヴェン、ブラームス、ドボルジャークと並んで、チャイコフスキーの音楽は我々プロのオーケストラのみならず、アマチュア・オーケストラにとっても、初心者、子供たちや女性も含めたすべての聴衆にとっても、最も重要なレパートリーの一つとなっているのは御承知の通りです。
 
しかし、チャイコフスキーの音楽について調べてみようとすると、不思議な、目に見えない壁のようなものにぶつかります。日本でも幾つか読む事の出来るどの伝記も、人生についてはそれなりの記録を同じように紹介し、行動の記録も、年表も、作品表も整っています。かつてはロシア語という言語やロシアーソビエトという国家の秘密主義的体制の壁に阻まれてきたとは言え、今では作家のイメージにマイナスになるような物も含めて、膨大な書簡や資料も次第に公開されてきてもいるようです。
しかし、作品から受けるあの甘く、劇的で、時には憂鬱な特徴と、一度聞いたら忘れられない旋律の魅力が、一体どのような人間性や人生の出来事に裏付けられていたのかをはっきりと描き出してくれる資料・評伝は皆無と言ってもよく、伝記作者、研究者たちは一様にこの点に苦労しているように見えます。そもそもチャイコフスキー自身が非常に内向的で、精神的にも病的な状態にあり、自作についてなにか語った記録や、書き残しているものがほとんど無いのです。
 
こうした、作品への情報の少ないなかで今回、この企画を作るきっかけになったのは、この「交響曲第4番」については作曲家自身がパトロンであったフォン・メック夫人(あとで詳しく書きます。)に宛てて詳しく解説した書簡が残されている、ということでした。
しかし、企画を進めるうちに、実はチャイコフスキーの人生や環境には、伝承することが難しかったいくつかの事情が存在し、この書簡そのものの意味もまた随分変わって読めること、いや、文字通りに受け取ってしまうことが危険であることがわかってきたのです。
今日は、いくつかの視点からこの交響曲とチャイコフスキーの人生を改めて見直して見ると共に、初めてお聴きになる方にも解りやすく楽しんでいただけるような解説を試みて、後半には全曲の実演をお聴き頂きたいと思っています。
最後までごゆっくりとお楽しみ下さい。
 
 
茂木大輔
 
 
 
1:「五人組」とチャイコフスキー
 
 
チャイコフスキーの創作環境を理解するために欠かせない事は、そもそも、19世紀の前半まで、ロシアには交響曲を作曲出来るような作曲家は誰もいなかった、ということです。
歴史上最初にロシアで演奏会に取り上げられるような交響曲などを作曲したのはドイツ系ユダヤ人であったアントン・ルビンシテイン(1829-94)で、第1番は1850年の作曲。ショパン、リスト、メンデルスゾーンなどと交流を持ち、のちにはペテルブルクにロシア音楽院を創設するなどしてロシアにおける芸術音楽の創始者となりました。言い換えれば、音楽を専門に学んだプロの作曲家、音楽家が登場してくるのは、これより後の時代に限られていたということになるのです。
しかも、この後に続いた作曲家たち、ことに「ロシア5人組」と呼ばれた、ボロジン、キュイ、バラキレフ、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフなどは、ロシア・ナショナリズム音楽の推進を目指して、反西欧(ドイツ)、反アカデミズムなどを標榜して活動し、事実彼らの多くは別に科学者、軍人などの職業を持つアマチュア(独学)でした。
そのため、創作の主流はロシアの国民的題材によるオペラなどにおかれ、また、ドイツ的な作曲論に精通するよりは、アマチュア的な粗野で素朴な作風がよしとされる風土を持っていたのです。
 
 
 
バラキレフ
 
 
 
キュイ
 
ムソルグスキー
 
ボロジン
 
リムスキー・コルサコフ
 
チャイコフスキーの創作は、初期においては民謡の用い方などがこうした流れに添うものとして評価されたりしましたが、やがてアカデミックな作曲技術にも長けている事が明らかになるにつれて、彼らから強い批判を受けるようにもなりました。
19世紀半ばに始まったチャイコフスキーの時代当初には、「ドイツ的な交響曲をそのまま踏襲して、シューマン以降の系譜に連なる創作を行う」という選択肢は国内文化人から強い批判を浴びるものであって、ロシアにおける芸術音楽の歴史は、同時にロシア国民的音楽の創作という特殊な限定性と不可分であったことがわかります。チャイコフスキーは法律学校出身で一度は法務省に勤務したインテリですが、ドイツ的な作曲技法の習得に極めて熱心であり、モスクワ音楽院の創立と同時に作曲家の教師に招かれたことからも、その技量が高かったことは間違いありません。
こうした技法習得と、ロシア民謡を用いて「独自の」音楽世界を創造してゆくという両方の命題を満たしたところから、チャイコフスキーのロシア国内、また反対に西欧での評価は高まっていくことになりました。交響曲第4番は、そうした、確立した内外での名声を前提に、いよいよ国際的な芸術家としてチャイコフスキーが踏み出した大いなる一歩であり、世界的に演奏されるようになった最初のロシア交響曲になったのです。
 
2;交響曲第4番の年
 
 
こうした歩みを経て、交響曲第4番が作曲された1877年の近辺は、作曲家としてのチャイコフスキーにとってどのような時期であったかというと:
 
ピアノ協奏曲第1番完成=初演(1875:11/1@ペテルブルク)
バレエ:「白鳥の湖」完成=初演(1877:2/20@ボリショイ劇場)
歌劇「エフゲニ・オネーギン」(1878:1/20完成)
「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」の完成(1778)
 
と、チャイコフスキーが今日最も親しまれている作品群が立て続けに産み出された、いわば、ベートーヴェンの「名作の森」に相当する円熟・最盛期であったことがわかります。
ちなみに、交響曲第3番「ポーランド」は1875年に完成、また、臨席していたトルストイを弦楽4重奏曲第1番(「アンダンテ・カンタービレ」を含む)が涙させたことがチャイコフスキーの幸福な記憶となった演奏会は1876年の12月の出来事でした。
それ以外の、この時期における主要な作品は以下の如くです。
・「ロココ風の主題による変奏曲」(1876)
・「スラブ行進曲」(1876)
・弦楽セレナーデ(1880)
 
さて、この1877年は、大事件の少ないチャイコフスキーの生涯で最大の転機となった年でした。その転機は二人の女性からの手紙によって、全く異なる方向、方法からもたらされました。
一人はナデージダ・フィラトレーヴナ・フォン・メック夫人。前年に、鉄道技師であった大富豪の夫を亡くしたばかりの45歳の未亡人で、非常に音楽を愛している人物でした。86年の手紙(熱烈なファンレターと言える内容でした)をきっかけにメック夫人は14年間にわたってチャイコフスキーと膨大な書簡を交換して文通し、また、非常に高額な年金や、作曲の依頼によってチャイコフスキーを経済的に支援し続けました。
メック夫人
 
二人は「決して実際には会わない」という奇妙な約束を取り交わし、現にたった一回偶然出会ってしまったことを除いては本当に文通だけの関係を続けました。
彼女の支援によってチャイコフスキーはそれまで少なからず負担を感じていたモスクワ音楽院での教職を離れて、生活の心配をすることなく自由に作曲に没頭できる身分となったばかりか、パリやイタリアなどにたびたび旅行して贅沢に豪遊する生活を手に入れる事になりました。
手紙には内面を深く打ち明ける部分も時としては見られ、チャイコフスキーの生涯にとっておそらく最も重要な人物の一人は間違いなくこのメック夫人だったと言えるでしょう。
 
もう一人の女性とは、77年の4月に手紙を寄越したアントニーナ・ミリューコヴァという、自称もとモスクワ音楽院の学生でした。この女性は非常に積極的にチャイコフスキーに接近し、7月には突然のように結婚式が行われて二人は夫婦となります。しかし、チャイコフスキーはすぐさま逃亡し、自殺を図るなどノイローゼとなり関係は破綻。以後この女性と会う事はないままに、離婚もままならず仕送りだけを続けると言う束縛関係に陥りました。
 
 
チャイコフスキー夫妻(1877)
 
 
こうした、天国からの恵みと地獄の束縛が同時に訪れていた最中、「交響曲第4番」は着手、作曲され、77年の終わりには滞在していたヴェネツィアのホテルで完成しました。チャイコフスキーはこの作曲の進行状況についてメック夫人に伝えていたほか、完成後にその内容について解説さえ書き送っています。
そしてこの作品はメック夫人に「最良の友に」という言葉で献呈されました。
 
この手紙の全文はあとで引用することとして、まず、交響曲第4番のおおまかな説明をいたします。
 


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