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岩手県久慈市市民会館アンバーホール
(新幹線八戸から送迎バス:11:00発)
黒川設計による美しいホールが海辺に建っており、展望塔もあります。
素晴しい音響をほこるこのホールで、仙台フィル、N響メンバーによる室内楽、最後は合同演奏!
モーツアルトの「ジュピター」をはじめ、ベートーヴェンがウィーンでデビューした時の室内楽、協奏曲、交響曲のプログラムをそのままにお届けします。
仙台フィルの本格的なモーツアルト、ベートーヴェン、日本音楽コンクール1位で留学中の期待のピアニスト;佐藤彦大によるベートーヴェンの協奏曲第1番、さらにN響トップメンバー(永峰、佐々木、藤森、吉田、松本、日高、森田)による豪華な「7重奏曲」!
まずめったに聞けない演奏会です。
演奏の背後には曲や作曲家、その時代の風景・絵画など豊富な情報を、スクリーン投影して同時にお楽しみいただけます。作品への愛情や理解も一気に高まると言うものですね!
海の幸を堪能されて、二戸か八戸に一泊、コンサートを聞いて東京に戻ると言うのもいかがでしょうか。
パンフレット先読みを掲載します。
久慈アンバーホール:パンフレット文章 (3/3:2013) *ごあいさつ・この演奏会について ようこそいらっしゃいました! こちらの芸術監督(永峰さん)には、いつも本当にお世話になっています。 その御縁で、今回このコンサートの企画と指揮、投影台本などを担当させていただく事になりました。 とても楽しみにしていますので、どうぞよろしくお願いいたします。 さて、皆さんは、ベートーヴェンさんのことはよく御存知と思います。 「運命」「第九」「エリーゼのために」や、最近では「のだめカンタービレ」のテーマとして一気に有名になった交響曲第7番(「ベト7」)など、世界遺産級の名曲を沢山残している「楽聖」ですね。 永峰さんとアンバーホールは、このベートーヴェンの作品をこれから少しづつ、丁寧に御紹介してゆくプランを立てているようです。今回は、その第1回ということになります。 そこで、今日は皆さんに、若きベートーヴェンがウィーンの聴衆を前に、満を持してデビューを飾った歴史的演奏会のプログラムを再現してお聴き頂こうと思います。 「え!そんな昔の演奏会のコトがわかっているのか?」と驚かれる方もいらっしゃるかもしれませんね。 なんと今から213年前の事ですが、解っています。 ポスターも残っています。演奏者も、室内楽の所は全員名前も解っています。 その演奏会のお話をする前に、簡単にベートーヴェンのそれまでの人生をおさらいしておきましょう。 *それまでのベートーヴェン ルートウィーッヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、ドイツ西方のボン出身で(1770年生まれ)宮廷音楽家の家庭に産まれました。お父さん(宮廷歌手)は大変なスパルタ教育をして、ベートーヴェンをヨーロッパ中でもてはやされた「神童」モーツアルトのように幼少から活躍させようとして必死でしたが、それは実りませんでした。 とはいえ若くから才能を発揮したベートーヴェンは、ボンの宮廷劇場でヴィオラ奏者を務めたり、オルガン奏者やピアニストとして活躍したりしたほか、若くして数多くの作品をすでに発表していた有能な青年音楽家でした。 ヴァイオリンとオーケストラのための「2つのロマンス」などはこの時期を代表する名曲です。 *ウィーン留学に出発 そのベートーヴェンに転機が訪れたのは、当時のドイツ・オーストリアで最高の名声を誇っていた作曲家ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)が、招聘されていたロンドンへの途次と帰途に、ボンに立ち寄ったこと(1790年-1792年7月)がきっかけでした。もとよりハイドンの、パリからロンドンまで知れ渡っていた交響曲などの素晴しさに憧れていたベートーヴェンは、ハイドンに入門を許されて、ボンの貴族たちの後援(奨学金)も得て、当時大陸最大の文化都市であったウィーンに留学することとなったのでした。(結局、生涯ボンに戻ってくる事はありませんでした。)1792年の末、ベートーヴェンはウィーンに到着し、ハイドン門下での勉強を開始しました。しかしハイドンは非常に多忙で、すぐまたロンドンに長期の旅行に出るなど不在がちでもあったため、ベートーヴェンはサリエリなど高名な音楽家にも師事して、独自に勉強を続けたようです。 *慎重だったベートーヴェン このころの作品発表には、ハイドンの指導もあってかベートーヴェンは極めて慎重であったようで、当時音楽のメインのジャンルとして目されていた、そしてハイドンが得意としていた「交響曲」や「弦楽4重奏曲」にはベートーヴェンは手を付けていませんでした。そのかわり、弦楽3重奏曲やピアノ・トリオなどの室内楽、ピアノ・ソナタ、ヴァイオリンやチェロのためのソナタ、大きな作品では「ピアノ協奏曲」などを作曲して、徐々に実力を蓄えていったものと思われます。ピアニストとしても貴族のサロンで次第に人気を博すようになり、活動への経済的支援の目処がつくようになりました。そして・・・・ *ベートーヴェンのデビューコンサート 1800年の4月2日に、ウィーンの宮廷劇場であるブルク劇場で、ベートーヴェンは私費(おそらくは多くの貴族の支援を得て)を投じ、また収益も自分のものとすることを前提に、宮廷歌劇場管弦楽団を丸ごと雇うという思い切った企画で、初めての自主公演を催しました。 残されているポスターや批評から、上演プログラムと曲順は、つぎのように判明しています。 1:モーツアルト:大交響曲 2:ハイドン:「天地創造」よりソプラノのアリア 3:ベートーヴェン:ピアノフォルテ(ピアノ)のための大協奏曲 4:ベートーヴェン:管楽器、弦楽器のための7重奏曲(公開初演) 5:ハイドン:「天地創造」よりソプラノとバスの2重唱 6:ベートーヴェンによるピアノ即興演奏 7:ベートーヴェン:大オーケストラのための交響曲第1番(初演) プログラムの最後を、ベートーヴェン自身の「交響曲第1番」が飾っている事にお気付きでしょうか。 そうです。師匠ハイドンが104曲もの名作を残して、世界中で出版されていた「交響曲」と言うジャンルに、慎重に実力を蓄えてチャンスを狙っていたベートーヴェンはついに足を踏み入れたのです。そして、明らかに、その自信ある最初の交響曲を大々的に世に問うことをメインとして、彼はこの自主演奏会を企画したのでした。 そして、この一歩は、その後の人生の中で「英雄」(第3番)「運命」(第5番)「田園」(第6番)から、あの「第九交響曲」へと続く、音楽史上空前の創作史へと続いて行く、偉大な第1歩となったのでした。 アンバーホールでも、これからのシリーズの中でこうした作品が演奏されてゆくものと思いますが、この「第1番」を聴いておいて頂く事は、そうした後期の名曲への理解と感動をさらに深めてくれるものと信じています。 演奏会は大盛況のもとに開催され、ハイドンやサリエリも臨席して、おそらくは指揮(自作、協奏曲)もしたものと考えられています。 師ハイドンの人気作品(「天地創造」)を採り入れながら達筆な交響曲を避けていること、故人モーツアルトの曲は冒頭に、自作は最後として直接比較されないようにしていること、ピアニストとしての自分も充分アピール出来る選曲など、ベートーヴェンにはプログラムの配列にも慎重で興味深いところが見られます。 今日は、この演奏会の中で、重要な4つの作品すべてを再現して聴いていただく事になります。それでは、それぞれの作品について御話ししましょう。 |
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