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5:まとめ:私見・この交響曲と書簡をどう読むのか
さあ。この解説を皆様はどんな風にお読みになったでしょうか。
ぼくは、作曲家が自分自身の完成した作品について長文を書き残すと言う非常に貴重な資料であることを踏まえた上で、この文章の解説を全面的に信じて盲目的に依存することをどこか不安にさせる要素を感じます。
まず、書き始めの決意(「この交響曲が表現しようとしている事は言葉で表現可能です」)と、文章の終わりの尻切れトンボ的な投げやり感(「そもそも器楽には子細な分析はそぐわない」)のアンバランスが気になります。もしかしたら書いている途中で嫌になってきたのではないでしょうか?笑。
最初は丁寧に楽譜まで書いているもののそれは第1楽章だけであることや、第3と第4楽章の説明があまりにも漠然として同じようになってしまっていることがそれを裏付けているようにも思います。
なによりも気になる事は、第1楽章での「ワルツ」という概念や、重要である筈の民謡の引用についても言及がないことです。
そもそも、チャイコフスキーは生涯で唯一、この機会だけに自作の説明を(メック夫人に請われて)書いたわけですが、どうしてそのようなことをする必要があったのか?と考えてみました。
上記で見てきたように、メック夫人は熱烈なチャイコフスキーのファンであって、会わない約束をして文通していたというのも、ロマンティックな「秘め事」的雰囲気をメック夫人が求めていたからだと考える事は容易です。
二人の関係は少なくともメック夫人にとっては疑似恋愛的なものに近く、それをチャイコフスキーは敏感に理解していたと思います。
一方チャイコフスキーにとってメック夫人がもたらす富、経済的支援は非常に重要なもので、なにがあっても彼女を失望させたり、怒らせたりする事は避けなくてはならない関係がそこには存在していたはずですね。
この書簡に先立ってチャイコフスキーはあの不幸な結婚についてもメック夫人に報告しなくてはなりませんでしたが、その事実もまたチャイコフスキーとメック夫人の関係にとって大変「危険」な材料であったことは勿論でしょう。
この書簡での説明には、そうした背景から、また、もしかしたら本当の意味、解説が書けないというもどかしさからも、どこか不自然になってしまった義務的な、こわばった調子が感じられるように思います。
実は、「ダモクレスの剣」のような、もっとはるかに大きなな危機を、チャイコフスキーは常に感じながら生きていました。それはチャイコフスキーの同性愛的な性質です。そのことが露見すれば、メック夫人どころではなく(当時の)社会全体から抹殺されてしまうかもしれない不名誉な習癖と彼自身が理解していたに違いない問題でした。
あの不幸な結婚の前年(1876)に、弟モデストにあてて結婚を決意したという手紙を書いているのですが、特定の相手がいるとかそういう事ではなく、結婚によって自分の危機を回避でき、家族も含めた名誉が守れるから、という調子が読み取れます。多くの学者が、この時期、チャイコフスキーが自分の同性愛的傾向が露見することを防止するため、女性との結婚を企てていたと理解しているようです。
そして、偶然に降って湧いた77年のアントーニナとの押しかけ結婚は、まさにそうした決意への「渡りに船」だったのではないでしょうか。そして、そうしたことの一切は、貴重なパトロンであったメック夫人には知られてはならなかったことが理解できるではありませんか。皆様はどうお感じになるでしょうか。
最後に、あの、交響曲第4番の第4楽章を圧倒し、秘密裏には全曲を統一さえしている民謡「野に立つ白樺」の歌詞について触れたいと思います。この民謡には一般的な歌詞として、年老いた男に嫁いだ若い娘(嫁)が甲斐甲斐しく世話をするというストーリーがあるそうで、この歌は結婚式の民謡としても知られているようです。
しかし、36番までもあるという長大な歌詞の全部を読んで見ると、実はこの花嫁は(おそらく貧しさ故にやむなく行った)老人との結婚に不満を持ち、早く老人を追い出して若い男と遊びに行きたいという意味を歌っているのだそうです。
この民謡の引用がいつ、どのタイミングで決意されたことか、あるいはチャイコフスキーがそこにどの程度の意味をおいていたのかは、今となっては謎のままです。しかし、「したくない結婚」を社会的な事情からさせられた花嫁の心理と、それを嫌がってノイローゼとなり、即座に家を出てしまったチャイコフスキーの行動は、この民謡の描き出している情景と一致していることは確かなのです。
チャイコフスキーは、同じく同性愛者であったサン・サーンスと、パリで一緒にバレエを踊った事があるそうです。幼い頃から繊細で内気なチャイコフスキーは、そうした秘密の、楽しい時間のさなかにも、自分の頭上に運命の衝撃が墜ちてくることにおびえていたのではないでしょうか。それが、この交響曲第4番の冒頭、そして第5番にも書かれた「平和な夢に襲いかかる運命」なのかもしれません。
付記:チャイコフスキーの交響曲と、その隣接ジャンルについて
現在のチャイコフスキー・ファンにとって、交響曲と、協奏曲や序曲などの管弦楽曲は最も頻繁に耳にする中心的な存在です。
ベートーヴェンや、ドイツの交響曲作曲家(シューマン、ブラームスなど)においては、「交響曲、協奏曲、管弦楽曲」と、「ピアノ・ソナタ(などのピアノ曲)」、「弦楽4重奏曲などの室内楽」は創作の3本柱と言っても良いもので、交響曲はこれらの集大成であると同時に、大衆にも解りやすい音楽としての位置づけを持っていました。しかし、チャイコフスキーにおいては、ピアノ曲、室内楽曲には傑作は少なく、なによりも熱心に生涯を通じて取り組んでいたのは歌劇(オペラ)の作曲でした。完成しているものだけでも10曲もあり、ことに「エフゲニ・オネーギン」と「スペードの女王」は、言葉の困難さを越えても世界の歌劇場で上演され続けている名作となっています。
もちろん、チャイコフスキーを語る上で「白鳥の湖」「眠りの森の美女」「くるみ割り人形」の、3つのバレエ音楽の大傑作を忘れる事はできません。チャイコフスキーの創作全体の中でのバレエ音楽の位置づけと言うよりも、バレエ音楽というジャンルの中でこの3曲は決定的な大傑作なのであり、この分野における最大の作曲家はチャイコフスキーということになります。
交響曲や協奏曲のなかに、舞曲が用いられている頻度もほかの作曲家よりずっと高く、ことに、「ワルツ」への偏愛はこの4番、5番、6番のいずれにも用いられている事からも明らかと言えるでしょう。
したがって、チャイコフスキーにとっての3本柱は、「歌劇、バレエ、交響曲」ということになるかも知れませんね。では、その中での交響曲を見ていきます。
まず、チャイコフスキーの交響曲を年表として並べてみるとつぎのようになります。(二つ目以降の年号は改訂)
*交響曲
交響曲第1番ト短調作品13「冬の日の幻想」(1866,1874)
交響曲第2番ハ短調作品17「小ロシア」(1872,1879)
交響曲第3番ニ長調作品29「ポーランド」(1875)
交響曲第4番ヘ短調作品36(1877-78)
マンフレ-ト交響曲作品58 (1885)
交響曲 第5番ホ短調作品64(1888)
交響曲 第6番ロ短調作品74「悲愴(Pathétique)」 (1893)
*管弦楽のための組曲
組曲第1番 ニ短調・作品43(1878-79)
組曲第2番 ハ長調 作品53 (1883)
組曲第3番 ト長調 作品55 (1884)
組曲(第4番)ト長調「モーツァティアーナ」作品61 (1887)
*協奏曲
ピアノ協奏曲第1番(1875)
同:第2番(1880)
同:第3番(1893)
ヴァイオリン協奏曲(1878)
チェロと管弦楽のための「ロココの主題による変奏曲」(1876)
ロシアの民謡の収集も熱心に行っていたチャイコフスキーですが、交響曲第1番から3番までは、それぞれロシア民謡を主要な主題の一部として扱って、民俗的な雰囲気の舞曲集、という趣のシンフォニーとなっていました。いずれも水準の高い、まとまった作品であることは確かですが、気軽に楽しむ事の出来る軽快、センチメンタル、ダイナミックなシンフォニーでした。
この状況が「第4番」に至って一変してしまったのは明らかです。また、これ以降の第5番ホ短調,6番ロ短調(「悲愴」)も、第4番で提言された世界を踏襲しています。すなわち、深刻、かつ精神的な苦悩をメランコリック(憂鬱)に、また、必ずしも最後まで聞いても解放されない形で(もっと言うならば一見フィナーレを迎えて解放されたように見えていてもその実は空虚な喜びに過ぎなかった、というような複雑な取り扱われ方で)表現している音楽となっているのです。
また、「交響曲第4番」(1878)の作曲後、「交響曲第5番」(1885)の完成までの7年にも及ぶ期間には、第3番までの交響曲に性格的には接近した、「管弦楽組曲」が4曲も集中的に作られていますが、長さ、密度、充実度からもまるでシンフォニーのようであり、異なっているのはたたえている精神世界が平和で純音楽的であるか(組曲)、深刻で私小説的であるか(交響曲4,5,6)という違いです。このことから見ても、チャイコフスキーが「交響曲第4番」の創作を契機として「交響曲」というジャンルに極めて具体的なイメージと制約を持つようになった、(それ以外の創作霊感は、「組曲」などの別ジャンルで表現することにした)と考えられます。
また、見逃す事が出来ない作品として、バイロンの原作に基づく標題交響曲「マンフレート交響曲」(1885)が上げられます。先輩バラキレフがベルリオーズに倣って作曲を薦めた素材に、シューマンの同じ題材による序曲からの影響を語りながらも苦心して作曲した大曲で、「交響曲」と「交響詩」の両方の性格を持つ深い作品になっています。もっとも、チャイコフスキーの予言通りこの曲は10年に一度くらいしか演奏されず、その真価は今後次第に普及して行くものと思われるのですが・・・
その、文学的素材による管弦楽曲(単一楽章)も、リスト風の「交響詩」という題名ではなく「序曲」と名付けてはいるものの、チャイコフスキーは熱心に作曲していました。有名な「ロミオとジュリエット」のほか「テンペスト」「ハムレット」とシェークスピア3部作といえる作品群も、大成功していないとはいえ、残しています。(茂木大輔:2013年1月:禁・無断転載)
参考文献
森田稔:「新チャイコフスキー考」:NHK出版
エヴェレット・ヘルム著・許光俊訳「チャイコフスキー」音楽之友社
宮澤淳一:「チャイコフスキー・宿命と憧れのはざまで」東洋書店
大崎滋生:「文化としてのシンフォニー・第2巻」 平凡社
伊藤恵子:作曲家・人と作品シリーズ〜「チャイコフスキー」:音楽之友社
作曲家別名曲解説ライブラリー〜「チャイコフスキー」音楽之友社
増田良介:「チャイコフスキー:交響曲第4番:ワルツに秘められたドラマ」〜N響機関誌「フィルハーモニー」連載より
インターネットWebsite「原語で歌う海外曲」ロシア語篇
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2013年01月16日
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3:チャイコフスキー:交響曲第4番ヘ短調:作品36の実体
第1楽章
序奏部:アンダンテ・ソステヌート、3/4
「エフゲニ・オネーギン」のポロネーズと同じリズムのファンファーレで開始される。短い序奏の間に頻繁に転調する、というよりも調性が安定しない不安な構成と、ほとんど同じ音(Ab=G#)を反復しているファンファーレの対照が鮮烈。
(譜例:ホルン1,2冒頭4小節間)
主部:ヘ短調:モデラート・コン・アニマ(動きを持って、中庸に)、9/8
第1主題から静かに始まるが、「ワルツの動きで」と注記されている。
(譜例:第1ヴァイオリン27〜31小節/3個目の音まで)
この主題は本来、3/8が3つ集まった拍子である筈の9/8を、3/4のワルツにもうひとつ小さなワルツ(3/8)がくっついた非常に複雑、憂鬱なリズムを持つ。
ちなみにチャイコフスキーはビゼーの「カルメン」を珍しく激賞しているほど評価していたが、この主題にはカルメン第3幕への前奏曲(アラゴネーズ)へのオマージュも感じられる。
(可能なら譜例:カルメンよりアラゴネーズ、オーボエ・ソロの4〜5小節)
第2主題:変イ短調:モデラート・アッサイ・クワジ・アンダンテ(充分にゆっくり)
譜例(クラリネット1;115-117)
ファゴットによって夢見るように導かれ、これまたワルツの動きをもって迷いながら歌われる。最後の溜め息は多くの楽器にエコーして拡がって行く。
要所要所のクライマックスに、序奏のファンファーレが回帰して形式を明瞭に示している。
第1楽章は全曲の中で最も長く、また主題自体が無限旋律的でとりとめなくどこまでも続いて行くような印象があるため、演奏も観賞もやや苦痛です。(笑)
第2楽章:アンダンティーノ・イン・モド・ディ・カンツオーナ(やや遅く、民謡の様式で)、2/4
第1楽章が唐突な軍隊行進曲と崩壊するワルツの中でバレエの幕切れのように終わると、オーボエ独奏で第2楽章が始まる。
第1主題:変ロ短調
譜例(オーボエT1〜5/1)
オーボエには、「素朴に、しかし上品に」と、上記のテンポ表記と強弱を含めると5つもの要求が書かれている。
中間部 :ヘ長調:ピウ・モッソ(少し速く)
譜例:(クラリネット126-129)
再現部では第1楽章の第2主題にあった、「溜め息」の音型が回想される。
第3楽章:「ピチカート・オスティナート」(ずっとピチカート)
ヘ長調:アレグロ(快活に)2/4
譜例:(第1ヴァイオリン;T1〜8)
主部は弦楽器のピチカートのみで演奏される独創的なもの。連想されるヨハン・シュトラウス兄弟の「ピチカート・ポルカ」は1869年、ロシアのサンクト・ペテルブルクで書かれたと言われている。なお、チャイコフスキーの管弦楽作品を一番最初に公開演奏したのは、ロシアを訪れていたヨハン・シュトラウスの楽団であった。(性格的舞曲。1865年8月30日、パバロフスク。)
中間部:イ長調、メノ・モッソ(少し遅く)*管楽器のみ
突如としてオーボエが永遠に続くピチカートを破って飛び出してきて、たちまちバレエの男性舞踊手のような賑やかな場面となる。金管楽器は軍隊行進曲で参入し、テンポ・プリモ(最初のテンポで。)となる。
主部が再現されて、全楽器が入り乱れ唐突に転調するユーモラスなコーダがフィナーレを準備する。
第4楽章:ヘ長調 アレグロ・コン・フオッコ(燃えるように快活に)、4/4
全合奏に打楽器が加わり華々しく第1主題が演奏される。
譜例:(第1ヴァイオリン:1〜4)
すぐに静まってまだその位置ではないが第2主題が演奏されてしまうのは、この旋律の役割を「経過句と同時にのちには主題である」という、複雑なものにしている。なお、このテーマはロシアの有名な民謡「野に立つ白樺」の引用である。
譜例:フルート1(10〜13)
(第1主題の大興奮が終わったあとには、オーボエで改めて演奏される。)
このふたつの主題は展開部をもたないまま比較的単純に反復されて、クライマックスには冒頭のファンファーレが大々的に回帰して、狂乱のコーダを導く。
*全体を貫く「野に立つ白樺」(民謡)
全体を俯瞰すると、上記の譜例を参照して頂けば明瞭なように、この交響曲の重要な旋律はすべて、3,ないし4個、あるいはそれ以上の音が順次(音階のように)「下がってくる」ことによって作られている(統一されている)のがわかる。一見、民謡的で歌謡的な旋律を散発的に並べているようにも思えるこのシンフォニーは実はブラームスなどのように強固な作曲技法によって統一感が作られていた。
この下降旋律は、唯一チャイコフスキーの創作ではない民謡の引用である「野に立つ白樺」(第4楽章の第2主題)に由来していると考えるのが自然である。
ベートーヴェンのようにスケッチなどから作曲の具体的な経緯が判明していないため、一番最初にこの民謡の引用を決めてから全体を作っていったのか、あるいはこうした統一を作りながら作曲して、フィナーレに来てからあまり深い意味無く、下降旋律を持つからと引用したのかは不明だが、結果としてこの民謡は非常に重要な位置におかれることになった。
・・・・・・・・・・・・・
まとめてみましょう。
*一見民謡風、バレエ風で気軽に書かれたように思われるテーマは、全て下降旋律を冒頭に持っていて厳格に統一感が作られています。
また、冒頭から鳴り響くファンファーレ、チャイコフスキーの言葉で「運命」は、展開部の冒頭や再現部直前、コーダへの突入前などの形式上の要所で鳴り響き、形式を解りやすくする際立った効果を持っています。
結果的に、このシンフォニーの魅力は
・大きな構成感と、静寂と爆発の間、主題同士、それぞれの楽章の間などに作られた大きなコントラスト
・逆に、長い時間を聞いても散漫にならない統一感、緊張感の維持
・バレエ音楽で培ったリズム、ことにワルツなどの扱いと、音楽だけで(歌がなくても)ストーリー性を感じさせる運び。
・ソロからユニゾン、トゥッティ、複雑な拡散にいたるまで、木管、金管(ホルン)、打楽器、弦楽器、様々な楽器の魅力を効果的に配置する管弦楽法に熟達していること。また、オーケストラの楽器もこの時代にはベートーヴェンのころよりも格段に進歩していて、そうした楽器を前提に長いソロ、迫力あるオーケストレーションなどが可能になった。これも作品に大きなドラマと緊張、魅力を与えている。
・ロシア民謡を引用し、その旋律に下降旋律の源泉を求めるなど、諦観のある、メランコリック、ノスタルジックな旋律の魅力と、ドイツ音楽と大きく異なった雰囲気、色彩感を得ている事。
言わば「非常に巧みに作られた、しかもロシア人ならではの交響曲である。」ということになります。
さて、ここまで理解した上で、メック夫人にあてた本人の解説を読んで見て下さい。
4;メック夫人への手紙に書かれた「交響曲第4番」の解説
*メック夫人にあてた手紙に残るチャイコフスキー自身の解説(引用)
訳:宮澤淳一
4:メック夫人への手紙に書かれた「交響曲第4番」の解説
*メック夫人にあてた手紙に残るチャイコフスキー自身の解説(引用)
…… 私たちの交響曲には確かに標題があります。つまり、この交響曲が表現しようとしていることは言葉で表現可能です。ほかならぬ貴方にだけは、交響曲全体と個々の楽章の意味を説明できますし、またそうしたい。
導入部は交響曲全体の核で、絶対的に重要な楽想となっています:
これは宿命です。幸福追求の情熱を妨げる、あの運命の力です。幸運と安らぎがきちんと成就しないように嫉妬深く見守っている。ダモクレスの剣のように常に頭上につり下がり、絶えず心を苦しめる。避けられないし、とどめることもできない。おとなしくして、嘆くことしかできない:
喜びも希望もない気持ちは、いっそう強まり、激しさを増します。現実から背を向けて、夢想に耽る方がよさそうです:
ああ、実に心地よい!少なくともこれは甘美でやさしい夢です。ありがたいことに、立派な人物らしき姿が現われ、どこかへ手招きします:
ああ、何て素晴らしいのでしょう!アレグロのしつこい主題ももはや彼方です。夢はほんの少しずつ心を満たしていきます。陰鬱で嬉しくないものは、すべて忘れ去られる。ええそうです。これが幸福なのです!
だめだ、所詮は夢だ!宿命は、夢の中からさえ立ち現われる:
結局、人生とは、つらい現実と、幸福をめぐる束の間の夢とが絶えず交替しているにすぎない。安らぎの停泊地などないのです。海に呑み込まれて深みに連れ去られるまで、せいぜい航海を続けているがいい。第1楽章の標題とは、ほぼこのようなものです。
交響曲の第2楽章は、憂愁(タスカー)の別の段階を表現しています。夕方、ひとり腰掛け、仕事で疲れたまま、本を手に取るが、ふと落としてしまう。そんなときに催すメランコリックな感情です。次々と思い出が浮かぶ。いかに多くのことが過ぎ去ったのかと嘆き、青春を思い出して懐かしむ。過去を嘆くばかりで、人生をやり直す気はない。人生に疲れたのです。休んで周囲をみまわすばかりでいる方が楽しい。いろいろな思い出が甦る。若い血が燃えたぎり、充実感に満ちた悦ばしい時もあった。辛い時も、償いがたい損失もあった。みんな遠い昔の話だ。思い出に浸るのは悲しいが、甘美でもある。
第3楽章は、特定の心情を表現していません。気まぐれなアラベスクであり、酒を飲み、酩酊の第1段階を体験しているときに空想の中で駆け抜けていくような捉えにくいイメージです。愉快でもなければ悲しくもない。何を考えているわけでもない。想像をたくましくすると、なぜか奇妙な素描を導いてしまった。そんなイメージの中で、いきなりほろ酔い気分の農民たちの絵が思い出され、町の歌が聞こえてくる……。どこか遠くで軍隊の行進が通り過ぎる。寝入りばなの脳裡にうかぶ脈絡のないイメージです。現実とは無関係で、奇妙で、突飛で、何のつながりもない……。
第4楽章。自分自身の中に喜びの動機が見つからないならば、他人に目を向けよ。そして民衆の中に足を踏み入れるのだ。彼らが無限の喜びに浸って楽しむ様子を見たまえ。民衆がお祭り騒ぎをしている絵です。我を忘れ、他人の喜びの場面に浸り切りかけたとたんに、執拗な宿命がまた現われ、自己主張をする。だが人々は気に留めない。振り向きもしなければ、一瞥もかけてくれない。こちらが孤独で悲しんでいるのを知らないのだ。それにしても彼らは何て陽気なのだろう。率直で飾りがない。悪いのは自分なのだから、この世は悲しみだらけなどと言うべきでない。素朴で力強い喜びはある。他人の喜びを喜ぶがいい。とにかく生きていけるのだから。さあ私の親愛なる友よ、交響曲をめぐる私の説明は以上です。やはり不明確かつ不完全であって、そもそも器楽は仔細な分析にはそぐわない。ハイネの指摘どおり、言葉の終わるところから、音楽は始まるのです。 ……
(訳:宮澤淳一)
宮澤淳一著:「チャイコフスキー・宿命と憧れのはざまで」
ユーラシア・ブックレット92
ユーラシア研究所企画/東洋書店
より引用させて頂きました。
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新潟りゅーとぴあでのコンサートです。
チャイコフスキーの人生の大きな転機の年に産まれた劇的すぎる交響曲。お楽しみに!
チャイコフスキー:交響曲第4番徹底解説
ごあいさつ
皆様、新年あけましておめでとうございます。
「徹底解説」シリーズに長く、熱心な御支持を頂きまして深く感謝しております。こうしたシリーズを継続することには深い意義があると確信しておりますが、全国的にもなかなか成功例のないなかで、着実に、丹念に続けてくる事が出来たのは、なにより聴衆の皆様と、りゅーとぴあのスタッフの熱心なサポートのおかげです。これからも、オーケストラ音楽の奥深さ、知れば知るほど本当に面白いその内容について、少しずつではありますが御一緒に楽しんでいければと思います。今後ともよろしくお願いいたします。
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さて、今までベートーヴェンの交響曲やウィーン古典派(ハイドン、モーツアルトなど)の音楽を中心にお話ししてきたこのシリーズですが、今回は少し時代を下って、19世紀後半にロシアで活躍したチャイコフスキー(1840-1893)の、「交響曲第4番ヘ短調:作品36」についてお話しして見ようと思います。
チャイコフスキーの音楽は日本でも非常に愛されているもので、「好きな作曲家」のアンケートをしたら上位に入るのは間違いないでしょう。「白鳥の湖」や「くるみ割り人形」などのバレエ音楽、ピアノやヴァイオリンのための協奏曲、そして第6番「悲愴」やこの4番、5番に代表される交響曲などは、年間を通じて膨大な演奏回数を誇っています。ベートーヴェン、ブラームス、ドボルジャークと並んで、チャイコフスキーの音楽は我々プロのオーケストラのみならず、アマチュア・オーケストラにとっても、初心者、子供たちや女性も含めたすべての聴衆にとっても、最も重要なレパートリーの一つとなっているのは御承知の通りです。
しかし、チャイコフスキーの音楽について調べてみようとすると、不思議な、目に見えない壁のようなものにぶつかります。日本でも幾つか読む事の出来るどの伝記も、人生についてはそれなりの記録を同じように紹介し、行動の記録も、年表も、作品表も整っています。かつてはロシア語という言語やロシアーソビエトという国家の秘密主義的体制の壁に阻まれてきたとは言え、今では作家のイメージにマイナスになるような物も含めて、膨大な書簡や資料も次第に公開されてきてもいるようです。
しかし、作品から受けるあの甘く、劇的で、時には憂鬱な特徴と、一度聞いたら忘れられない旋律の魅力が、一体どのような人間性や人生の出来事に裏付けられていたのかをはっきりと描き出してくれる資料・評伝は皆無と言ってもよく、伝記作者、研究者たちは一様にこの点に苦労しているように見えます。そもそもチャイコフスキー自身が非常に内向的で、精神的にも病的な状態にあり、自作についてなにか語った記録や、書き残しているものがほとんど無いのです。
こうした、作品への情報の少ないなかで今回、この企画を作るきっかけになったのは、この「交響曲第4番」については作曲家自身がパトロンであったフォン・メック夫人(あとで詳しく書きます。)に宛てて詳しく解説した書簡が残されている、ということでした。
しかし、企画を進めるうちに、実はチャイコフスキーの人生や環境には、伝承することが難しかったいくつかの事情が存在し、この書簡そのものの意味もまた随分変わって読めること、いや、文字通りに受け取ってしまうことが危険であることがわかってきたのです。
今日は、いくつかの視点からこの交響曲とチャイコフスキーの人生を改めて見直して見ると共に、初めてお聴きになる方にも解りやすく楽しんでいただけるような解説を試みて、後半には全曲の実演をお聴き頂きたいと思っています。
最後までごゆっくりとお楽しみ下さい。
茂木大輔
1:「五人組」とチャイコフスキー
チャイコフスキーの創作環境を理解するために欠かせない事は、そもそも、19世紀の前半まで、ロシアには交響曲を作曲出来るような作曲家は誰もいなかった、ということです。
歴史上最初にロシアで演奏会に取り上げられるような交響曲などを作曲したのはドイツ系ユダヤ人であったアントン・ルビンシテイン(1829-94)で、第1番は1850年の作曲。ショパン、リスト、メンデルスゾーンなどと交流を持ち、のちにはペテルブルクにロシア音楽院を創設するなどしてロシアにおける芸術音楽の創始者となりました。言い換えれば、音楽を専門に学んだプロの作曲家、音楽家が登場してくるのは、これより後の時代に限られていたということになるのです。
しかも、この後に続いた作曲家たち、ことに「ロシア5人組」と呼ばれた、ボロジン、キュイ、バラキレフ、ムソルグスキー、リムスキー・コルサコフなどは、ロシア・ナショナリズム音楽の推進を目指して、反西欧(ドイツ)、反アカデミズムなどを標榜して活動し、事実彼らの多くは別に科学者、軍人などの職業を持つアマチュア(独学)でした。
そのため、創作の主流はロシアの国民的題材によるオペラなどにおかれ、また、ドイツ的な作曲論に精通するよりは、アマチュア的な粗野で素朴な作風がよしとされる風土を持っていたのです。
バラキレフ
キュイ
ムソルグスキー
ボロジン
リムスキー・コルサコフ
チャイコフスキーの創作は、初期においては民謡の用い方などがこうした流れに添うものとして評価されたりしましたが、やがてアカデミックな作曲技術にも長けている事が明らかになるにつれて、彼らから強い批判を受けるようにもなりました。
19世紀半ばに始まったチャイコフスキーの時代当初には、「ドイツ的な交響曲をそのまま踏襲して、シューマン以降の系譜に連なる創作を行う」という選択肢は国内文化人から強い批判を浴びるものであって、ロシアにおける芸術音楽の歴史は、同時にロシア国民的音楽の創作という特殊な限定性と不可分であったことがわかります。チャイコフスキーは法律学校出身で一度は法務省に勤務したインテリですが、ドイツ的な作曲技法の習得に極めて熱心であり、モスクワ音楽院の創立と同時に作曲家の教師に招かれたことからも、その技量が高かったことは間違いありません。
こうした技法習得と、ロシア民謡を用いて「独自の」音楽世界を創造してゆくという両方の命題を満たしたところから、チャイコフスキーのロシア国内、また反対に西欧での評価は高まっていくことになりました。交響曲第4番は、そうした、確立した内外での名声を前提に、いよいよ国際的な芸術家としてチャイコフスキーが踏み出した大いなる一歩であり、世界的に演奏されるようになった最初のロシア交響曲になったのです。
2;交響曲第4番の年
こうした歩みを経て、交響曲第4番が作曲された1877年の近辺は、作曲家としてのチャイコフスキーにとってどのような時期であったかというと:
ピアノ協奏曲第1番完成=初演(1875:11/1@ペテルブルク)
バレエ:「白鳥の湖」完成=初演(1877:2/20@ボリショイ劇場)
歌劇「エフゲニ・オネーギン」(1878:1/20完成)
「ヴァイオリン協奏曲ニ長調」の完成(1778)
と、チャイコフスキーが今日最も親しまれている作品群が立て続けに産み出された、いわば、ベートーヴェンの「名作の森」に相当する円熟・最盛期であったことがわかります。
ちなみに、交響曲第3番「ポーランド」は1875年に完成、また、臨席していたトルストイを弦楽4重奏曲第1番(「アンダンテ・カンタービレ」を含む)が涙させたことがチャイコフスキーの幸福な記憶となった演奏会は1876年の12月の出来事でした。
それ以外の、この時期における主要な作品は以下の如くです。
・「ロココ風の主題による変奏曲」(1876)
・「スラブ行進曲」(1876)
・弦楽セレナーデ(1880)
さて、この1877年は、大事件の少ないチャイコフスキーの生涯で最大の転機となった年でした。その転機は二人の女性からの手紙によって、全く異なる方向、方法からもたらされました。
一人はナデージダ・フィラトレーヴナ・フォン・メック夫人。前年に、鉄道技師であった大富豪の夫を亡くしたばかりの45歳の未亡人で、非常に音楽を愛している人物でした。86年の手紙(熱烈なファンレターと言える内容でした)をきっかけにメック夫人は14年間にわたってチャイコフスキーと膨大な書簡を交換して文通し、また、非常に高額な年金や、作曲の依頼によってチャイコフスキーを経済的に支援し続けました。
メック夫人
二人は「決して実際には会わない」という奇妙な約束を取り交わし、現にたった一回偶然出会ってしまったことを除いては本当に文通だけの関係を続けました。
彼女の支援によってチャイコフスキーはそれまで少なからず負担を感じていたモスクワ音楽院での教職を離れて、生活の心配をすることなく自由に作曲に没頭できる身分となったばかりか、パリやイタリアなどにたびたび旅行して贅沢に豪遊する生活を手に入れる事になりました。
手紙には内面を深く打ち明ける部分も時としては見られ、チャイコフスキーの生涯にとっておそらく最も重要な人物の一人は間違いなくこのメック夫人だったと言えるでしょう。
もう一人の女性とは、77年の4月に手紙を寄越したアントニーナ・ミリューコヴァという、自称もとモスクワ音楽院の学生でした。この女性は非常に積極的にチャイコフスキーに接近し、7月には突然のように結婚式が行われて二人は夫婦となります。しかし、チャイコフスキーはすぐさま逃亡し、自殺を図るなどノイローゼとなり関係は破綻。以後この女性と会う事はないままに、離婚もままならず仕送りだけを続けると言う束縛関係に陥りました。
チャイコフスキー夫妻(1877)
こうした、天国からの恵みと地獄の束縛が同時に訪れていた最中、「交響曲第4番」は着手、作曲され、77年の終わりには滞在していたヴェネツィアのホテルで完成しました。チャイコフスキーはこの作曲の進行状況についてメック夫人に伝えていたほか、完成後にその内容について解説さえ書き送っています。
そしてこの作品はメック夫人に「最良の友に」という言葉で献呈されました。
この手紙の全文はあとで引用することとして、まず、交響曲第4番のおおまかな説明をいたします。
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