|
3:ベートーヴェン:7重奏曲変ホ長調、作品20
編成は、クラリネット、ファゴット、ホルンという温かい管楽器3種に、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスがそれぞれ一人という、「名手前提」の7人衆です。このときが公開初演ですが、ヴァイオリンにはベートーヴェンにとって生涯の理想的室内楽リーダー(弦楽4重奏曲など)でありつづけたシュパンツィヒ、クラリネットには当時の記録のあちこちに名前を残す名手のベーア(ベール)など、ポスターに全氏名が掲載されている名人たちでした。
この曲は非常にヒットした作品で、おそるべき量の編曲楽譜が出版されました。作風はディヴェルティメント(軽いパーティ音楽)風の6楽章の中に各自の名人芸を聴かせる変奏曲なども含み、モーツアルトの大作「グラン・パルティータ(13管楽器のセレナーデ)」を思わせる大規模室内楽への野心も聴かれます。響きの美しさと楽しさは特筆すべきですが、興味深いのは、この演奏会ではいずれの作品でも指揮者、ピアニストという主役として振る舞っていたはずのベートーヴェンは、わざわざピアノの入らない(自分が参加しない)室内楽をここに投入することで、何を狙っていたのか、ということです。
始まろうとしていた出版文化へのコマーシャルだったのかもしれないし、もしかしたら、ただ休憩したかったのか?
多分、今ごろぼくも休憩しています。(笑)
4:ベートーヴェン:交響曲第1番ハ長調作品21
さて、こうして、偉大な先輩作曲家の作品を堂々と引き合いに出し、自作のピアノ協奏曲や即興演奏でピアニストとしての腕と作曲を披露し、7重奏曲では貴族に好まれるサロン音楽への能力も示したベートーヴェンは、いよいよ、文字通り満を持して、「交響曲第1番」の初演へと歩を進めたわけでした。
*交響曲のそれまで
ベートーヴェンが尊敬していた師、ハイドンは、「交響曲の父」とも呼ばれています。
速い>遅い>3拍子の舞曲>軽快なフィナーレ
という4つの楽章を定型にする「交響曲」の基本的な形は、オーケストラが単独で演奏する音楽としてのシンフォニーがまだまだ宮廷音楽会の「添え物」でしかなかった時代から、長い年月と沢山の実験を経て、ハイドンが完成してきたものでした。(珠玉の名作ばかり、合計107曲を残しています。)ハイドンがデビューしたころ(18世紀半ば)には音楽会の主役は、アリアを歌う歌手であり、協奏曲のなかで名人芸を披露するヴァイオリンなどのヴィルトゥオーゾ(名手)で、シンフォニーは幕間の休憩や音楽会の開始、終了を告げる役割でしかなかったのです。しかし、ハイドンの交響曲は次第に深刻な精神性や、大規模な楽器編成、音量をもつようになり、遠くパリ、ロンドンからも依頼が来るほどの人気作品となっていきました。
*ハイドンさんとベートーヴェンの違い
ハイドンが、生涯をハンガリーのエステルハージ宮廷で勤務して、常に領主の要求に応じて趣味、規模、内容のあったものを「注文生産」していたのに対して(当時はこれが普通でした。)、ベートーヴェンは生涯をどこの宮廷にも所属せず、自由な芸術家として送りました。このことは二人の創作に決定的な違いを及ぼしています。
ベートーヴェンの交響曲が、かつての宮廷型と全く違う世界に踏み込むには、第3番「英雄」を待たなくてはなりませんが、すでにこの「第1番」には、宮廷的メヌエットを廃止するなど、独自の芸術的実験が多数、盛り込まれていたのです。オーケストラの規模も、ハイドンの最大編成を上回る人数を始めから要求しており、当然、宮廷のサロンよりも公開の大ホール演奏会を想定したものとなっていました。
*「交響曲第1番」の内容
・ 第1楽章:アダージオ・モルト(非常に自由に)〜アレグロ・コン・ブリオ(力強く、楽しく)
いきなり質問?のような、不思議な響きで始まります。これは当時の常識にはない和音でした。ここにすでにベートーヴェンの挑戦がはっきりと宣告されていると言って良いでしょう。ゆっくりな序奏(イントロ)を経て、「ジュピター」によく似た非常にがっちりしたテーマが、まず弱音で現れて、やがて疾走を始めます。管楽器の使い方が意欲的です。
・ 第2楽章: アンダンテ・カンタービレ・コン・モート(歌うように進みながら、活動的に)
第2ヴァイオリンがピアニシモ(最弱音)で弾き始めるテーマが次第にオーケストラ全体に広がって行く、モーツアルトがイタリア語の女性のアリアとすればこちらはドイツ語。男性的な喜びに満ちた音楽です。ティンパニが単独でリズムを刻みますが、これも当時としては実験的でした。(ティンパニは常にトランペットと同じ仕事をしている楽器でした。)
・ 第3楽章:メヌエット:アレグロ・モルト・エ・ヴィヴァーチェ(非常に速く、そして活発に)
この交響曲のなかで最も野心的な楽章です。題名には「メヌエット」の言葉が残っていますが、実質的には宮廷舞曲を離れた急速な「スケルツオ(冗談)」の性格です。ハイドン、モーツアルトの交響曲までは、3つめの楽章を必ずメヌエットにしていましたが、ベートーヴェンは宮廷音楽的な性格よりも、こうした刺激的で快活な音楽を選んだのでしょう。それはその後の彼の交響曲で基本的な路線になりました。トリオ(中間部)は管楽器と弦楽器の「ぼけとツッコミ」みたいな、とんちんかんな対話になっています。
・ 第4楽章:フィナーレ:アダージオ(自由に)〜アレグロ・モルト・エ・ヴィヴァーチェ(非常に速くそして活発に)
短い序奏を経て、全力疾走に入ります。この喜劇的楽章は最もハイドンの交響曲に類似していて、ハイドンがほとんど用いなかったクラリネットが活躍することを除けば、ハイドン作と言っても通ってしまう感じです。やや残念と言えますね。笑
その後の交響曲でベートーヴェンは、最後の楽章であるフィナーレの、新しく独自な性格造りに最も力を入れていきます(第3番、第5番、第6番)が、その頂点が、フィナーレで突然声楽が歌い出す「第九」交響曲なのは言うまでもありませんね。
ベートーヴェンの最初の交響曲は、こうして、強い野心と高い技術を示しつつ、ハイドンの影響下にもある若いベートーヴェンの精神をそのままに伝える音楽として、今日でも頻繁に演奏されているのです。この後、彼はどんな風に変貌して行くのか、久慈の皆様とともにゆっくり追いかけていけたらと思っております。本日はありがとうございました。
茂木大輔
|
もぎぎの日常雑感
[ リスト | 詳細 ]
|
今日の演奏曲目について;
1: モーツアルト:交響曲第41番ハ長調 「ジュピター」K551
*「大交響曲」とは?
実は、ベートーヴェンのデビューコンサートの冒頭に演奏された曲は、「モーツアルト:大交響曲」としか、わかっていません。
この演奏会の選曲は、残っている広告と新聞記事からしか解らず、そこに載っていない情報はもはや復元のしようがないのです。
ケッヘル何番だ?と聞きたい所ですが、この当時はまだモーツアルトの交響曲には、今日のような1〜41の通し番号や、もちろんケッヘル番号(初版は1862年)は打たれていませんでした。
(今日でさえもドイツなどの演奏会の予告はこの程度の情報しか掲載していないことがあります。)
とはいえ、モーツアルトの交響曲はほとんど規模が小さいので、「大交響曲」として候補に上がってくるのは、そう多くはないのです。そこで、今回は第41番ハ長調の「ジュピター」を選びました。
理由は、「モーツアルト最後の交響曲>ベートーヴェン最初の交響曲」という比較がとても意味深く思えるからですね。同じ「ハ長調」というのも、比較しやすいと思います。
*モーツアルトさんについて:
モーツアルト(1756−1791)についてはここで詳しく書いていると大変なので、極く簡単に。
オーストリアのザルツブルクに産まれて、宮廷音楽家の父親に幼少のころから英才教育を受けて「神童」となり、全ヨーロッパを演奏旅行して大変なセンセーションを起こしました。ことにピアノ、作曲、即興演奏にたけていて、オペラの本場イタリアからもオペラの依頼が来るほどでした。しかし就職には失敗して、故郷ザルツブルクを捨ててウィーンに移住、主にオペラとピアノ協奏曲の分野で大成功を収めました。それも長くは続かず、貧困のうちに若くして亡くなりました。
その、少年期から続く膨大な作品の中で、交響曲の最後を飾っているのが「後期三大交響曲」と呼ばれる3つのシンフォニーで、第39,40,41番がそれに当たります。今日演奏する第41番(「ジュピター」)は文字通り、最後の交響曲ということになるのです。
ちなみに「ジュピター」(木星)という愛称は、ロンドンで活躍したヴァイオリニストのザロモンが付けたと言われています。ザロモンはなんとベートーヴェンと同じ家に住んでいたというドイツ人で、ハイドンを二度にわたってロンドンに招聘したほか、モーツアルトやベートーヴェンにもロンドンへの旅行をオファーしていましたが、結果的には実現しませんでした。
*「ジュピター」交響曲の内容
・ 第1楽章;アレグロ・ヴィヴァーチェ(活発に、楽しく)
軍隊調のファンファーレ、行進曲と、アリアや笑い声などがどんどん現れては組み合わさり、時には突然の静寂や衝撃など、目まぐるしく雰囲気が変わりながら、大きな興奮に導いていきます。それらの全てが非常に高い気品と香気のなかに完結しているのが天才的です。
・ 第2楽章:アンダンテ・カンタービレ(歌うように、進みながら)
弱音器をつけたヴァイオリンが、イタリア・オペラのアリアのような静かな雰囲気で歌い始めます。翳りや悩み、心の揺れ動きなどを管楽器が綾なすように歌っていきます。
・ 第3楽章:メヌエット:アレグレット(少し元気に)
溜め息をつくヴァイオリンと、受け答えるようなホルン。二つの材料がいろいろな楽器、音量に拡がって行きます。トリオ(中間部)では、音楽の始まり方や終り方を忘れてしまったようなユーモラスな音が続きます。
*宮廷舞曲であるメヌエットでは、中間部を挟んでダ・カーポ(もう一度冒頭に戻る)のが決まりごとです。
・ 第4楽章:フィナーレ:モルト・アレグロ(とても楽しく)
この交響曲のフィナーレであるだけでなく、3つの(39−41番)交響曲セット全体のフィナーレとしても計画されていて、非常に充実したものです。結果としてモーツアルトの交響曲全てのフィナーレともなったのは悲しいことでもあります。最初にヴァイオリンでそっと示される4つの音(ドーレーファーミー)はモーツアルトの最初の交響曲(第1番)でも使われていたもので、やがて音楽全体を圧倒して宇宙を思わせる壮大なクライマックスを作ります。
2:ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第1番ハ長調作品15
*ベートーヴェンとピアノ協奏曲
ヴァイオリン協奏曲には古い歴史が有りますが、ピアニストが、ピアノ1台で交響楽団と張り合う(笑)という、非常に面白い音楽は、実はあまり歴史は古くなく、ピアノと言う楽器が今日のような音量を持った19世紀、まさにベートーヴェンの頃から急速に発達したジャンルです。
モーツアルトはこのジャンルの天才で、20曲以上もの名曲を残し、可憐で絢爛、深みのある歌う第2楽章や、真珠のように転がって行く音階を自分自身が各地で演奏して大評判を取っていました。同じくピアノの名手であったベートーヴェンも当然このジャンルに興味を持っていましたが、モーツアルトの作品を超えた世界を目指したのか、オーケストラの規模も大きく、また曲全体も重厚なものが多くなっています。
ベートーヴェンは生涯に5曲のピアノ協奏曲と、ヴァイオリン協奏曲をピアノ用に編曲したものを創作しています。
*今日聴いて頂く「第1番」は実際には第2番のあとに書かれました。
・ 第1楽章:ひそやかに始まるシンプルなリズムの、美しい音色を持つ主題。のちに大爆発するこの主題を、ソリストは一回も弾かないという破天荒な構造になっています。大建築のようなオーケストラ主題と、その柱の中を超絶技巧で駆け巡るようなピアノとの音色・役割的なコントラストがこの楽章の主要ポイントかもしれません。
・ 第2楽章:青春の陽光のようなどこまでも憧れに満ちた音楽です。クラリネットはあまりにも美しく音楽を彩ります。ちょっと難しい話になりますが、この楽章が始まる主題の伴奏部分は、第1楽章のテーマの拡大。ピアノが紡ぎ始める旋律は第1楽章でソリストが立ち上がったときの旋律そのものです。楽章を超えた統一が図られていて、緻密な作曲がされていると言えるでしょう。
・ 第3楽章:リズムの遊びに満ちています。ぼんやり聴いていると、小節の頭はどこかわからなくなります。楽章の後半ではもっとわからなくなります。オペラのようなファンファーレに導かれて、ピアノ独奏が一人で2重唱をするようなシーンや、「トルコ行進曲」のような場面も出てきます。
休憩
|
|
岩手県久慈市市民会館アンバーホール
(新幹線八戸から送迎バス:11:00発)
黒川設計による美しいホールが海辺に建っており、展望塔もあります。
素晴しい音響をほこるこのホールで、仙台フィル、N響メンバーによる室内楽、最後は合同演奏!
モーツアルトの「ジュピター」をはじめ、ベートーヴェンがウィーンでデビューした時の室内楽、協奏曲、交響曲のプログラムをそのままにお届けします。
仙台フィルの本格的なモーツアルト、ベートーヴェン、日本音楽コンクール1位で留学中の期待のピアニスト;佐藤彦大によるベートーヴェンの協奏曲第1番、さらにN響トップメンバー(永峰、佐々木、藤森、吉田、松本、日高、森田)による豪華な「7重奏曲」!
まずめったに聞けない演奏会です。
演奏の背後には曲や作曲家、その時代の風景・絵画など豊富な情報を、スクリーン投影して同時にお楽しみいただけます。作品への愛情や理解も一気に高まると言うものですね!
海の幸を堪能されて、二戸か八戸に一泊、コンサートを聞いて東京に戻ると言うのもいかがでしょうか。
パンフレット先読みを掲載します。
久慈アンバーホール:パンフレット文章 (3/3:2013) *ごあいさつ・この演奏会について ようこそいらっしゃいました! こちらの芸術監督(永峰さん)には、いつも本当にお世話になっています。 その御縁で、今回このコンサートの企画と指揮、投影台本などを担当させていただく事になりました。 とても楽しみにしていますので、どうぞよろしくお願いいたします。 さて、皆さんは、ベートーヴェンさんのことはよく御存知と思います。 「運命」「第九」「エリーゼのために」や、最近では「のだめカンタービレ」のテーマとして一気に有名になった交響曲第7番(「ベト7」)など、世界遺産級の名曲を沢山残している「楽聖」ですね。 永峰さんとアンバーホールは、このベートーヴェンの作品をこれから少しづつ、丁寧に御紹介してゆくプランを立てているようです。今回は、その第1回ということになります。 そこで、今日は皆さんに、若きベートーヴェンがウィーンの聴衆を前に、満を持してデビューを飾った歴史的演奏会のプログラムを再現してお聴き頂こうと思います。 「え!そんな昔の演奏会のコトがわかっているのか?」と驚かれる方もいらっしゃるかもしれませんね。 なんと今から213年前の事ですが、解っています。 ポスターも残っています。演奏者も、室内楽の所は全員名前も解っています。 その演奏会のお話をする前に、簡単にベートーヴェンのそれまでの人生をおさらいしておきましょう。 *それまでのベートーヴェン ルートウィーッヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、ドイツ西方のボン出身で(1770年生まれ)宮廷音楽家の家庭に産まれました。お父さん(宮廷歌手)は大変なスパルタ教育をして、ベートーヴェンをヨーロッパ中でもてはやされた「神童」モーツアルトのように幼少から活躍させようとして必死でしたが、それは実りませんでした。 とはいえ若くから才能を発揮したベートーヴェンは、ボンの宮廷劇場でヴィオラ奏者を務めたり、オルガン奏者やピアニストとして活躍したりしたほか、若くして数多くの作品をすでに発表していた有能な青年音楽家でした。 ヴァイオリンとオーケストラのための「2つのロマンス」などはこの時期を代表する名曲です。 *ウィーン留学に出発 そのベートーヴェンに転機が訪れたのは、当時のドイツ・オーストリアで最高の名声を誇っていた作曲家ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)が、招聘されていたロンドンへの途次と帰途に、ボンに立ち寄ったこと(1790年-1792年7月)がきっかけでした。もとよりハイドンの、パリからロンドンまで知れ渡っていた交響曲などの素晴しさに憧れていたベートーヴェンは、ハイドンに入門を許されて、ボンの貴族たちの後援(奨学金)も得て、当時大陸最大の文化都市であったウィーンに留学することとなったのでした。(結局、生涯ボンに戻ってくる事はありませんでした。)1792年の末、ベートーヴェンはウィーンに到着し、ハイドン門下での勉強を開始しました。しかしハイドンは非常に多忙で、すぐまたロンドンに長期の旅行に出るなど不在がちでもあったため、ベートーヴェンはサリエリなど高名な音楽家にも師事して、独自に勉強を続けたようです。 *慎重だったベートーヴェン このころの作品発表には、ハイドンの指導もあってかベートーヴェンは極めて慎重であったようで、当時音楽のメインのジャンルとして目されていた、そしてハイドンが得意としていた「交響曲」や「弦楽4重奏曲」にはベートーヴェンは手を付けていませんでした。そのかわり、弦楽3重奏曲やピアノ・トリオなどの室内楽、ピアノ・ソナタ、ヴァイオリンやチェロのためのソナタ、大きな作品では「ピアノ協奏曲」などを作曲して、徐々に実力を蓄えていったものと思われます。ピアニストとしても貴族のサロンで次第に人気を博すようになり、活動への経済的支援の目処がつくようになりました。そして・・・・ *ベートーヴェンのデビューコンサート 1800年の4月2日に、ウィーンの宮廷劇場であるブルク劇場で、ベートーヴェンは私費(おそらくは多くの貴族の支援を得て)を投じ、また収益も自分のものとすることを前提に、宮廷歌劇場管弦楽団を丸ごと雇うという思い切った企画で、初めての自主公演を催しました。 残されているポスターや批評から、上演プログラムと曲順は、つぎのように判明しています。 1:モーツアルト:大交響曲 2:ハイドン:「天地創造」よりソプラノのアリア 3:ベートーヴェン:ピアノフォルテ(ピアノ)のための大協奏曲 4:ベートーヴェン:管楽器、弦楽器のための7重奏曲(公開初演) 5:ハイドン:「天地創造」よりソプラノとバスの2重唱 6:ベートーヴェンによるピアノ即興演奏 7:ベートーヴェン:大オーケストラのための交響曲第1番(初演) プログラムの最後を、ベートーヴェン自身の「交響曲第1番」が飾っている事にお気付きでしょうか。 そうです。師匠ハイドンが104曲もの名作を残して、世界中で出版されていた「交響曲」と言うジャンルに、慎重に実力を蓄えてチャンスを狙っていたベートーヴェンはついに足を踏み入れたのです。そして、明らかに、その自信ある最初の交響曲を大々的に世に問うことをメインとして、彼はこの自主演奏会を企画したのでした。 そして、この一歩は、その後の人生の中で「英雄」(第3番)「運命」(第5番)「田園」(第6番)から、あの「第九交響曲」へと続く、音楽史上空前の創作史へと続いて行く、偉大な第1歩となったのでした。 アンバーホールでも、これからのシリーズの中でこうした作品が演奏されてゆくものと思いますが、この「第1番」を聴いておいて頂く事は、そうした後期の名曲への理解と感動をさらに深めてくれるものと信じています。 演奏会は大盛況のもとに開催され、ハイドンやサリエリも臨席して、おそらくは指揮(自作、協奏曲)もしたものと考えられています。 師ハイドンの人気作品(「天地創造」)を採り入れながら達筆な交響曲を避けていること、故人モーツアルトの曲は冒頭に、自作は最後として直接比較されないようにしていること、ピアニストとしての自分も充分アピール出来る選曲など、ベートーヴェンにはプログラムの配列にも慎重で興味深いところが見られます。 今日は、この演奏会の中で、重要な4つの作品すべてを再現して聴いていただく事になります。それでは、それぞれの作品について御話ししましょう。 |
|
いやーこちらはまた楽しいプログラムです。
こうもり序曲から続けてシャンペンと仮面のポルカ、「仮面舞踏会」の浅田真央ワルツや「はげ山の一夜」、最後は谷に住む魔物に魔法の弾丸を造ってもらう猟師の話「魔弾の射手」序曲。節分を、鬼=妖怪、仮面となぞらえて楽しい小品をお送りします。皆様ぜひお越し下さい。
|
|
5:まとめ:私見・この交響曲と書簡をどう読むのか
さあ。この解説を皆様はどんな風にお読みになったでしょうか。
ぼくは、作曲家が自分自身の完成した作品について長文を書き残すと言う非常に貴重な資料であることを踏まえた上で、この文章の解説を全面的に信じて盲目的に依存することをどこか不安にさせる要素を感じます。
まず、書き始めの決意(「この交響曲が表現しようとしている事は言葉で表現可能です」)と、文章の終わりの尻切れトンボ的な投げやり感(「そもそも器楽には子細な分析はそぐわない」)のアンバランスが気になります。もしかしたら書いている途中で嫌になってきたのではないでしょうか?笑。
最初は丁寧に楽譜まで書いているもののそれは第1楽章だけであることや、第3と第4楽章の説明があまりにも漠然として同じようになってしまっていることがそれを裏付けているようにも思います。
なによりも気になる事は、第1楽章での「ワルツ」という概念や、重要である筈の民謡の引用についても言及がないことです。
そもそも、チャイコフスキーは生涯で唯一、この機会だけに自作の説明を(メック夫人に請われて)書いたわけですが、どうしてそのようなことをする必要があったのか?と考えてみました。
上記で見てきたように、メック夫人は熱烈なチャイコフスキーのファンであって、会わない約束をして文通していたというのも、ロマンティックな「秘め事」的雰囲気をメック夫人が求めていたからだと考える事は容易です。
二人の関係は少なくともメック夫人にとっては疑似恋愛的なものに近く、それをチャイコフスキーは敏感に理解していたと思います。
一方チャイコフスキーにとってメック夫人がもたらす富、経済的支援は非常に重要なもので、なにがあっても彼女を失望させたり、怒らせたりする事は避けなくてはならない関係がそこには存在していたはずですね。
この書簡に先立ってチャイコフスキーはあの不幸な結婚についてもメック夫人に報告しなくてはなりませんでしたが、その事実もまたチャイコフスキーとメック夫人の関係にとって大変「危険」な材料であったことは勿論でしょう。
この書簡での説明には、そうした背景から、また、もしかしたら本当の意味、解説が書けないというもどかしさからも、どこか不自然になってしまった義務的な、こわばった調子が感じられるように思います。
実は、「ダモクレスの剣」のような、もっとはるかに大きなな危機を、チャイコフスキーは常に感じながら生きていました。それはチャイコフスキーの同性愛的な性質です。そのことが露見すれば、メック夫人どころではなく(当時の)社会全体から抹殺されてしまうかもしれない不名誉な習癖と彼自身が理解していたに違いない問題でした。
あの不幸な結婚の前年(1876)に、弟モデストにあてて結婚を決意したという手紙を書いているのですが、特定の相手がいるとかそういう事ではなく、結婚によって自分の危機を回避でき、家族も含めた名誉が守れるから、という調子が読み取れます。多くの学者が、この時期、チャイコフスキーが自分の同性愛的傾向が露見することを防止するため、女性との結婚を企てていたと理解しているようです。
そして、偶然に降って湧いた77年のアントーニナとの押しかけ結婚は、まさにそうした決意への「渡りに船」だったのではないでしょうか。そして、そうしたことの一切は、貴重なパトロンであったメック夫人には知られてはならなかったことが理解できるではありませんか。皆様はどうお感じになるでしょうか。
最後に、あの、交響曲第4番の第4楽章を圧倒し、秘密裏には全曲を統一さえしている民謡「野に立つ白樺」の歌詞について触れたいと思います。この民謡には一般的な歌詞として、年老いた男に嫁いだ若い娘(嫁)が甲斐甲斐しく世話をするというストーリーがあるそうで、この歌は結婚式の民謡としても知られているようです。
しかし、36番までもあるという長大な歌詞の全部を読んで見ると、実はこの花嫁は(おそらく貧しさ故にやむなく行った)老人との結婚に不満を持ち、早く老人を追い出して若い男と遊びに行きたいという意味を歌っているのだそうです。
この民謡の引用がいつ、どのタイミングで決意されたことか、あるいはチャイコフスキーがそこにどの程度の意味をおいていたのかは、今となっては謎のままです。しかし、「したくない結婚」を社会的な事情からさせられた花嫁の心理と、それを嫌がってノイローゼとなり、即座に家を出てしまったチャイコフスキーの行動は、この民謡の描き出している情景と一致していることは確かなのです。
チャイコフスキーは、同じく同性愛者であったサン・サーンスと、パリで一緒にバレエを踊った事があるそうです。幼い頃から繊細で内気なチャイコフスキーは、そうした秘密の、楽しい時間のさなかにも、自分の頭上に運命の衝撃が墜ちてくることにおびえていたのではないでしょうか。それが、この交響曲第4番の冒頭、そして第5番にも書かれた「平和な夢に襲いかかる運命」なのかもしれません。
付記:チャイコフスキーの交響曲と、その隣接ジャンルについて
現在のチャイコフスキー・ファンにとって、交響曲と、協奏曲や序曲などの管弦楽曲は最も頻繁に耳にする中心的な存在です。
ベートーヴェンや、ドイツの交響曲作曲家(シューマン、ブラームスなど)においては、「交響曲、協奏曲、管弦楽曲」と、「ピアノ・ソナタ(などのピアノ曲)」、「弦楽4重奏曲などの室内楽」は創作の3本柱と言っても良いもので、交響曲はこれらの集大成であると同時に、大衆にも解りやすい音楽としての位置づけを持っていました。しかし、チャイコフスキーにおいては、ピアノ曲、室内楽曲には傑作は少なく、なによりも熱心に生涯を通じて取り組んでいたのは歌劇(オペラ)の作曲でした。完成しているものだけでも10曲もあり、ことに「エフゲニ・オネーギン」と「スペードの女王」は、言葉の困難さを越えても世界の歌劇場で上演され続けている名作となっています。
もちろん、チャイコフスキーを語る上で「白鳥の湖」「眠りの森の美女」「くるみ割り人形」の、3つのバレエ音楽の大傑作を忘れる事はできません。チャイコフスキーの創作全体の中でのバレエ音楽の位置づけと言うよりも、バレエ音楽というジャンルの中でこの3曲は決定的な大傑作なのであり、この分野における最大の作曲家はチャイコフスキーということになります。
交響曲や協奏曲のなかに、舞曲が用いられている頻度もほかの作曲家よりずっと高く、ことに、「ワルツ」への偏愛はこの4番、5番、6番のいずれにも用いられている事からも明らかと言えるでしょう。
したがって、チャイコフスキーにとっての3本柱は、「歌劇、バレエ、交響曲」ということになるかも知れませんね。では、その中での交響曲を見ていきます。
まず、チャイコフスキーの交響曲を年表として並べてみるとつぎのようになります。(二つ目以降の年号は改訂)
*交響曲
交響曲第1番ト短調作品13「冬の日の幻想」(1866,1874)
交響曲第2番ハ短調作品17「小ロシア」(1872,1879)
交響曲第3番ニ長調作品29「ポーランド」(1875)
交響曲第4番ヘ短調作品36(1877-78)
マンフレ-ト交響曲作品58 (1885)
交響曲 第5番ホ短調作品64(1888)
交響曲 第6番ロ短調作品74「悲愴(Pathétique)」 (1893)
*管弦楽のための組曲
組曲第1番 ニ短調・作品43(1878-79)
組曲第2番 ハ長調 作品53 (1883)
組曲第3番 ト長調 作品55 (1884)
組曲(第4番)ト長調「モーツァティアーナ」作品61 (1887)
*協奏曲
ピアノ協奏曲第1番(1875)
同:第2番(1880)
同:第3番(1893)
ヴァイオリン協奏曲(1878)
チェロと管弦楽のための「ロココの主題による変奏曲」(1876)
ロシアの民謡の収集も熱心に行っていたチャイコフスキーですが、交響曲第1番から3番までは、それぞれロシア民謡を主要な主題の一部として扱って、民俗的な雰囲気の舞曲集、という趣のシンフォニーとなっていました。いずれも水準の高い、まとまった作品であることは確かですが、気軽に楽しむ事の出来る軽快、センチメンタル、ダイナミックなシンフォニーでした。
この状況が「第4番」に至って一変してしまったのは明らかです。また、これ以降の第5番ホ短調,6番ロ短調(「悲愴」)も、第4番で提言された世界を踏襲しています。すなわち、深刻、かつ精神的な苦悩をメランコリック(憂鬱)に、また、必ずしも最後まで聞いても解放されない形で(もっと言うならば一見フィナーレを迎えて解放されたように見えていてもその実は空虚な喜びに過ぎなかった、というような複雑な取り扱われ方で)表現している音楽となっているのです。
また、「交響曲第4番」(1878)の作曲後、「交響曲第5番」(1885)の完成までの7年にも及ぶ期間には、第3番までの交響曲に性格的には接近した、「管弦楽組曲」が4曲も集中的に作られていますが、長さ、密度、充実度からもまるでシンフォニーのようであり、異なっているのはたたえている精神世界が平和で純音楽的であるか(組曲)、深刻で私小説的であるか(交響曲4,5,6)という違いです。このことから見ても、チャイコフスキーが「交響曲第4番」の創作を契機として「交響曲」というジャンルに極めて具体的なイメージと制約を持つようになった、(それ以外の創作霊感は、「組曲」などの別ジャンルで表現することにした)と考えられます。
また、見逃す事が出来ない作品として、バイロンの原作に基づく標題交響曲「マンフレート交響曲」(1885)が上げられます。先輩バラキレフがベルリオーズに倣って作曲を薦めた素材に、シューマンの同じ題材による序曲からの影響を語りながらも苦心して作曲した大曲で、「交響曲」と「交響詩」の両方の性格を持つ深い作品になっています。もっとも、チャイコフスキーの予言通りこの曲は10年に一度くらいしか演奏されず、その真価は今後次第に普及して行くものと思われるのですが・・・
その、文学的素材による管弦楽曲(単一楽章)も、リスト風の「交響詩」という題名ではなく「序曲」と名付けてはいるものの、チャイコフスキーは熱心に作曲していました。有名な「ロミオとジュリエット」のほか「テンペスト」「ハムレット」とシェークスピア3部作といえる作品群も、大成功していないとはいえ、残しています。(茂木大輔:2013年1月:禁・無断転載)
参考文献
森田稔:「新チャイコフスキー考」:NHK出版
エヴェレット・ヘルム著・許光俊訳「チャイコフスキー」音楽之友社
宮澤淳一:「チャイコフスキー・宿命と憧れのはざまで」東洋書店
大崎滋生:「文化としてのシンフォニー・第2巻」 平凡社
伊藤恵子:作曲家・人と作品シリーズ〜「チャイコフスキー」:音楽之友社
作曲家別名曲解説ライブラリー〜「チャイコフスキー」音楽之友社
増田良介:「チャイコフスキー:交響曲第4番:ワルツに秘められたドラマ」〜N響機関誌「フィルハーモニー」連載より
インターネットWebsite「原語で歌う海外曲」ロシア語篇
|




