もぐら

昭和レトロに思いをよせ・・ 古き良き時代を振り返り・・

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投手分業制が確立している現在の野球界。
過去、調子が良い投手が、先発・中継ぎ・抑えにフル回転登板させられ、それが原因で短命で消えていった過去を知らない子供たちも多いでしょうね。
まだセーブがつかなかった時代、抑えとは二流投手がまわされるポジションとして扱われていましたが、大魔神・佐々木あたりから憧れのポジションとして生まれかわりました。
時代の違いもあるのでしょうが、一昔前の投手は、本当に御苦労だったと思います。
 
山口哲治は奈良県の名門・智弁学園のエースとして1977年 春・夏と甲子園に出場。
シュートを武器に、春はベスト4に進出。 夏は豪速球投手として注目された小松辰雄の星稜に勝利する等大活躍し、同年のドラフト会議において、近鉄より2位指名で入団。
二年目の1979年に才能が開花し、近鉄球団、リーグ初優勝に貢献しました。
 
1979年は防御率2.49で最優秀防御率のタイトルを手にしますが、その内容は、36試合に登板し、7勝7敗4セーブ 10先発4完投 148.1イニングを投げ57奪三振、被安打139本 被本塁打17本 というもの。 
全ての数字において傑出したものはありませんが、10先発で最優秀防御率であり、148.1イニングという内容が、この年、いかに山口がフル回転したかを物語ります。 
(仮に10試合全て完投しても、9イニング×10試合=90イニングとなり、残りの58.1イニングは中継ぎ・抑えでの登板となる。 36試合しか登板機会がなかったという事は、同じリリーフでも1イニング限定ではなく、複数イニング登板である為、疲労が激しく酷使利用と言える。)
 
結局、この年の酷使が原因なのか、1980年以降は故障に泣かされ活躍できず、1985年までの勝ち星は、わずかに9勝・・・。(1979年の7勝をたしても16勝)
1986年には南海に放出。 1988年までの3年間における勝ち星0。 この年、29歳という若さで引退。
 
けっして名投手と言える活躍期間はありませんでしたが、投手分業制が確立されていたら、もっと息の長い野球人生を送られた事と思います。
 
 通算成績  16勝  13敗  12セーブ
 最優秀防御率1回  パ・リーグ プレーオフMVP1回

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