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アントニオ猪木を師匠とし、「猪木イズム最後の闘魂継承者」 こと藤田和之。
藤田の場合、総合格闘技TV放送のインパクトが強く、総合格闘家なのかレスラーなのか、よくわからない部分もありますが、見るからに頑丈な肉体と風貌は、他者を圧倒する切迫感があります。
身長182cm 体重110〜120kg。 八千代松陰高校(千葉)→日本大学に進学。 高校当時はサッカーもしていたようですが、日本大学で本格的にレスリングに取り組むと才能が開花。 1989年(平成元年)より全日本学生選手権で4連覇という偉業を達成。 全日本選手権でも2度の優勝を飾る等、鳴りもの入りで新日本プロレスに入門します。 (大学卒業後、アトランタ・オリンピック出場を目指し、新日本プロレス職員となっていたので、オリンピック代表予選敗退後、新日本にレスラーとして所属したのは、当然の成り行きでした)
プロレスの基礎であるレスリング技術が卓越していた事もあり、デビュー4年後には大会場をわかす存在にまでなりますが、プロレスの場合、ただ強さだけを追求するのではなく、時に相手の動きや技に応じて、自己演出する技量が求められるあたりが、藤田の価値観と違っていたのかもしれません。 2001年1月4日 東京ドーム大会において、キモ相手に放った膝蹴りが、金的蹴りとされ反則負けになったのを機に新日本プロレスを退団。 猪木事務所に所属して、総合格闘技への道を歩みます。
但し、格闘技の天才・佐山聡して、「化け物」 と言い切る才能もあり、プロレス界と縁を切ったわけではなく、2001年4月9日、超大型の怪物レスラーであるスコット・ノートンを破り、第29代 IWGPヘビー級王者に君臨。 防衛戦では、実力者の永田裕志やドン・フライを退ける活躍ぶり。 その後、タイトルを返上しますが、同年6月6日、永田裕志を破り、二度目のIWGP王者に君臨。 この試合は同年におけるベストバウト(年間最高試合賞)に輝いた程の熱戦でもありました。
2004年6月5日、” 100年に一人の逸材 ” こと棚橋弘至を破り、第38代 IWGP王者にカムバック。 防衛戦では柴田勝頼を退けるも、佐々木健介に敗れて王座転落しますが、新日本プロレスの団体象徴であるベルトを三度獲得する活躍には、アンチ藤田のプロレスファンも納得の強さでもありました。
(反面、総合格闘技とプロレスを同時並行して活動する為、王者でありながら地方巡業をしないスタイルは批判轟々。大きな会場でのビッグ・マッチの時しか防衛戦を行わない為、ついには蝶野正洋までが苦言を呈した程)
総合格闘技における戦績は、26試合を行い、15勝 11敗・・・。 2006年5月5日の、ジェームス・トンプソン戦までは高い勝率を誇りますが、2006年6月7日のシウバ戦以降は黒星が多くなっていきます。
藤田の場合、卓越したレスリング技術と頑丈な肉体で、組み合えばグランドテクで圧倒できるのですが、キック・ボクサーのように一定距離を置き、打撃戦に持ち込む相手を苦手とした感があります。
(キックボクサーのミルコ・クロコップ相手に、Drストップ(1回目)判定0−3(2回目)と圧倒され二連敗・・・)
また柔術家が得意の締め技も苦手としており、スリーパー系の技で連敗しています。
2016年9月25日 バルト戦以降は、総合格闘技出場なし。 (バルト戦は、5分2R 0−3の判定負け)
H30年10月16日で48歳となりますが、もう一花咲かせてほしいものです。
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伝説のプロレスラーサイン集(日本
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