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2013年3月22日に開幕した、第85回 記念・選抜甲子園大会において、四国枠から選抜された済美高校のエースは、2年生の安樂智大。 最速150kmを投げる大会屈指の大型投手として注目を集める中、初戦の広陵(広島)戦では、延長13回 232球を投げ、4−3で勝利。 2回戦=濟々黌(熊本)4−1、準々決勝=県岐阜商(岐阜)6−3、準決勝=高知(高知)3−2 と破り決勝に進出。
この大会において、安樂は最速152kmを記録。 今後メジャーのスカウト迄が参戦してのスカウト合戦が予想される大フィーバー。 TVニュースや新聞でも安樂色で染まった程。
反面、連投による疲労が懸念され、決勝で投げさせるべきかの議論が、専門家を中心に巻き起こります。 当然、その矛先は監督の上甲正典に向けられる中、注目された決勝戦において、先発したのはやはり安樂・・・。
(決勝前夜のインタビューにおいて、上甲=” 相手に離されず最少失点で守りたい。最後に1点多く取って終われたらと思う。(安樂には)精神力で投げてほしい” とコメント)
決勝の相手は強打の浦和学院。 先取点は済美。 安樂は4回まで無失点で抑え、あと5イニング抑えれば、紫紺の優勝旗・・・のはずでしたが、5回以降は球速が落ち、後半は浦和打線に滅多打ちに遭う始末。 終わってみれば、18安打を浴び、17−1という記録的な大敗。 (17失点全てが、5回以降という異例な結末でした)
この大会において、投げた球数は5試合で772球にのぼり、逸材として目をつけていたメジャー関係者は一斉に、「甲子園は悪魔の大会。 せっかくの好投手を潰す為の大会だ!」 と酷評。 この記事が世界中に広まり、高校野球の休養日や球数制限議論が勃発する等、大事件へと発展していきました。
(5試合の成績は、46回を投げ、自責点12 防御率2.35 奪三振37 であった事からも、決勝での大敗は、過酷な投げ過ぎが原因と報道されました。)
この世論の声に板挟みとなった上甲監督は、連日、TVや新聞・雑誌に追い立てられ悪人扱い。
「高校野球の指導者として、選手の将来(プロ野球)は考えないのですか?」 の質問に、「辛さや苦しさを乗り越えるところに高校野球の素晴らしさがあり、悔しさを体験する事で人間は成長します。 安樂に連投させたのは、彼の成長を促す教育の一環からです」 とコメント。 また別のインタビューでは、「球数の問題はプロでもよくいいますね。でもそれは日本の伝統ある高校野球にはそぐわない。肉体の限界を精神力で乗り越える。武士道精神のような厳しさもまた高校野球だと思います・・」とコメント。
高校野球はあくまで教育の一環と主張する上甲監督に対し、専門家やマスコミは 「指導者の思い上がりだ」「選手の将来を潰す行為は、教育の一環とは言えない」 と猛バッシングの嵐。 せっかくの準優勝が台無しとなってしまいました。
結局、上甲監督は体調を崩し(大会前あたりから体調は思わしくなかったとの事)、問題となった選抜大会の翌年(2014年)、胆道癌のため永眠。 (享年67歳)
宇和島市の山間にある三間町生まれ。 宇和島東高校に進学し、三塁手となるも甲子園出場無し。
龍谷大学に進学。 卒業後は京都でセールス職につくもすぐに辞め、故郷の宇和島に帰り、薬品会社に再就職。 その後、独立して上甲薬局を開業すると共に、1975年(昭和50年)には宇和島東高校・野球部コーチとなり、2年後には監督に就任します。 当時の宇和島東は、強くも弱くもない程度の高校でしたが、地元は少年野球が盛んで、有望な選手がゴロゴロしており、1987年(昭和62年)夏に甲子園初出場。 翌年、第60回 選抜甲子園大会では、下馬評を覆し、決勝では好投手・山田のいる東邦(愛知)を6−0で破り、初出場初優勝。
2001年、妻を癌で亡くしますが、「あなたから野球をとったら何が残る?」 の言葉を受け、薬局をやめて松山市に引っ越し、女子校から男女共学となり創部された、済美高校・野球部監督に就任。
わずか2年で甲子園出場を決めると、福井優也、鵜久森淳志、高橋勇丞といった後のプロ選手を有して、第76回 選抜甲子園大会優勝。 夏も甲子園決勝に進出するも、田中将大のいる駒大苫小牧に逆転負けし準優勝。
済美高校の校歌であり校訓である 「やればできるは、魔法の合言葉」は上甲監督の口癖からとったもの。
箕島高校=尾藤監督を真似て、常に笑顔で選手を出迎える姿は、「上甲スマイル」と呼ばれました。
=甲子園通算成績=
★宇和島東 ・・・ 春4回(7勝 3敗 優勝1回) 夏7回(3勝 7敗)
★済美 ・・・ 春2回(9勝 1敗 優勝1回 準優勝1回) 夏4回(6勝 4敗 準優勝1回)
計 甲子園出場17回 春=優勝2回 準優勝1回 夏=準優勝1回
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