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昭和50年のセ・リーグ・ペナントレースは、万年Bクラスが定番であった広島カープ、悲願の初制覇となり、中国地方を中心にお祭り騒ぎ。 当時の画像が残っていますが、一般市民がスーツ姿で列を組み、リズムに合わせて街中を踊り歩く姿はいかにも昭和そのもの(笑)
ルーツ監督が開幕早々にフロントとぶつかり退団となるも、引き継いだ古葉監督のもと一致団結。
=野手=
1、大下剛史 2、山本一義 3、山本浩二 4、ポプキンス 5、衣笠祥雄 6、シェーン 7、三村敏之
8、道原博幸 控え ・・・ 水谷実雄 水沼四郎 苑田聡彦 深沢修一 久保俊巳 ・・・
=投手=
外木場義郎(20勝 13敗) 池谷公二郎(18勝 11敗) 佐伯和司(15勝 10敗) 宮本幸信(10勝 2敗)
渡辺弘基(3勝 3敗) 若生智男(3勝 3敗) 永本裕章(2勝 2敗) 金城基泰(1勝 0敗)
日本シリーズでは、今なお「過去最強」とも言われる阪急と対戦。 1戦、4戦で引き分けるも4敗とストレート負けを喫し敗退しますが、このセ・優勝があってこそ、今の広島カープがある歴史的な優勝でもありました。
当時の優勝メンバーの中で、地味な存在ながら 「陰のMVP」 と言われたのが渡辺弘基。
対戦相手となった阪急から、宮本幸信と共にトレード移籍をしてきたスリークォーター左腕。 武器は落差あるカーブ。 身長176cm。 福岡県小倉生まれ。 日立一高 → 亜細亜大 → 1971年、阪急に入団。
1975年(昭和50年)は55試合 77・2イニング 3勝 3敗 防御率1.85 ながら、先発3本柱を支える中継ぎ投手として活躍。 後半戦に強く、28試合 50.1イニング 防御率0.55 と好投。
抑えのエースであった宮本幸信(10勝 2敗 10S)が、44試合 89.2イニング で二桁勝利・二桁セーブを挙げた裏には、後半の接戦を勝利する渡辺の中継ぎがあったから・・ が 「陰のMVP」 と言われる所以。
主力3投手ともに、200イニング以上を投げているように、当時はローテーションなどあってないようなもの。
(外木場・・41登板 40先発 17完投 287.0イニング、池谷・・45試合 36先発 10完投 244.0イニング、佐伯・・40登板 36先発 12完投 250.2イニング)
中継ぎは二流投手の役割と言われた時代において、ここまで高評価された中継ぎ投手は稀と言えます。
後年、某番組の取材に対し、「いつまでもチャレンジする心。 どんな時でも明るく前向きに。 それが人生を楽しくする秘訣です。 山高ければ谷深し。 ジェットコースターのような人生でしたよ・・・」 とコメント。
1976年(昭和51年)には、シーズン73試合(当時のセ・最多登板記録)を達成する等、中継ぎ中心に活躍するも、1979年(昭和54年)をもって引退。 (この年も広島はセ優勝。日本シリーズで近鉄と対戦し日本一。江夏の21球が話題となりました)
引退後はオーナー直々のコーチ残留要請を断り、広島市内にイベント企画会社を設立。
自身も講演や野球教室等に参加。 広島ホームTVでレギュラー出演をする他、広島OB会やプロ野球OB会の役員を歴任されています。
=通算成績=
8勝 9敗 0ホールド 7セーブ 160奪三振 防御率3.51
シーズン最多登板1回
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