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昭和60年1月20日のデイリースポーツは江夏豊の引退式特集と、メジャー挑戦の為、ブリュワーズに向かう江夏の独占インタビューが掲載。
記者の質問 「大リーグ入りは、いつ決意したのか?」
江夏談 「オリオールズが来日した時、球場である人を通じて ”やってみないか?”と言われた。半信半疑だったが、ウインターミーティングで仕事で出かけた時、日本の野球が向こう(アメリカ)では低く見られ、馬鹿にされている感じがした。これじゃ情けない。獲ってくれるなら行ってやろうと思った。」
WBC連覇を始め、国際大会での活躍が認められ、今では野球先進国として認識された日本プロ野球界ですが、緻密な総合力はA級でも、個人の身体能力は4A(メジャーの下、3Aの上という意味らしい)の酷評は相変わらず続いています。 当然、昭和40年〜50年における評価は 「2A〜3Aの下」 とさえ言われる酷いモノ。 それでも昭和20年〜30年代における「2A並」よりは評価されたように、徐々にですが、日本プロ野球の存在が、アメリカ全土に広がり出したのが昭和40年代前後でした。
ジーン・バッキーは大学卒業後、ハワイの3Aチーム「アイランダーズ(現在は解散)」に所属。解雇されるところを、当時スポニチで記者をしていた有本義明に見いだされ、阪神に紹介を受け1962年(昭和37年)7月8日、帰りの飛行機代も持たない極貧状態で伊丹空港着。1962年8月、阪神二軍の練習場であった川崎重工グラウンドでテストを受けるも、捕手が横っ飛びしなければ捕れない程の超ノーコンぶり。 首脳陣はこぞって落第印を押す中、球威ある速球に魅了された藤本義定(当時の阪神監督)のみが 「なんとかなる!」と主張。
結果、”テスト生としてテストを続ける・・” といった、今で言う育成選手のような立場での入団となりました。
但し当時のプロ野球界事情・・。夫人と共に阪神が与えた住宅は、球場裏にあった一間と台所に和式便所という粗雑なもの。当時の外国人選手なら即怒って帰国するところを、バッキー夫妻は日本人に溶け込もうと努力。
テスト生の為、通訳はつけてもらえず、球場までは自転車で通っていた程の酷い扱いを受けながらも、当時の彼たちの暮らしを知る記者談によると、悪環境の中、夫婦とも常に明るく振る舞っていたと言います。
バッキー談 「日本人は皆親切でした。アパート暮らしの時、3人目の子が誕生したけど、妻が不正出血を起こして部屋中が血だらけ。言葉は通じないし、病院に行くにもどうしたらよいのかわからずパニックを起こした。チームメートのソロムコに連絡。彼の妻は日本人なので英語も話せる。救急車にも乗ってくれ通訳をしてくれた。その時、渡辺省三さんの妻やアパートの皆さんが、” こっち(部屋や子供たち)は任せなさい” と言ってくれた。病院から帰ると、血だらけだった部屋は綺麗に片付き、子供たちも無事。今でも彼女たちに御礼を言いたいです。」
球は速いが超ノーコンぶりがネックの中、制球力の良いチームメイトを見本に独学。
バッキー談 「私は欠点である制球力を克服しようと懸命だった。でも同じチームには制球力抜群の小山サンや村山サンがいたから参考にしたんだ。彼らは思ったところに投げ分ける能力に優れ、いつも驚かされる。いつでも投げたいところに投げられるんだ。そこで僕は彼らの足に注目した。すると常に決まったとこに踏み出す事がわかった。リリースポイントも一緒。それを知って以降は、リリースポイントと踏み出す位置を常に考えながら投げるようになった。すると徐々にコントロールが良くなっていったんだよ・・・。投手コーチは杉下サン。とにかく ”走れ、走れ” と走らされた。下半身が強くなると足の踏力が高まり、重心が安定してきたんだ。 短気な僕の頭に血がのぼるとマウンドにやってきて ”バッキー、スマイル・スマイル” と声掛けしてくれる。 おかげで冷静さを取り戻した事が多々あるよ。杉下サンと出会えた事、凄く感謝しています・・」
制球力が良くなると、上手・横手から繰り出すナックル・ボールが生きてくるようになり、来日2年目にして、33試合 23先発 151.2イニング を投げ、8勝 5敗 防御率2,47 の活躍を見せ、阪神主力投手に成長。
3年目の1964年(昭和39年)には、46試合 38先発 24完投 353,1イニング 29勝 9敗 防御率1.89という離れ業をやり遂げ、阪神セ・リーグ優勝に貢献。 外国人投手初となる沢村賞に選ばれた他、最多勝、最優秀防御率といった主なタイトルを独占。 1965年6月28日 甲子園 巨人からノーヒット・ノーランを達成。
「世紀のトレード」で小山が抜けた後、村山との二枚看板として阪神を支えます。
1968年(昭和43年)広島戦に勝利し、通算100勝を達成。 そんなバッキーに悲劇が・・・。
1968年9月18日の甲子園球場。首位・巨人とデッドヒートを展開中のWヘッダー第一試合は、エース村山の好投で阪神が勝利。第二試合はバッキーが先発。
バッキー談 「巨人戦となると、甲子園の雰囲気は凄いんだよ。僕も巨人戦となると燃えに燃えたよ・・・」
いまいち調子の上がらないバッキーは初回にノーヒットで1点を失い、更に4回もつかまり二死2・3塁。迎えたバッターは王貞治。 初球は頭部付近へのボール。 にらみ返すだけでバッターボックスに立った王でしたが、またも同じく頭部付近にボール。 普段は大人しい王が怒りの表情を露わにした事から、打撃の師匠である荒川博コーチがバッキーに飛び掛かりキック。 バッキーも反撃して右ストレートで応戦。 荒川コーチを叩き潰した(額裂傷)事により退場処分。 しかし荒川も合気道の有段者。 バッキーも右手親指の骨折が判明・・・。
利き手の親指骨折は、変化激しいバッキーの変化球を奪い、ついには選手生命も失う事になりました。
(但し本人は、”指の骨折は完治した。近鉄に移籍後、椎間板ヘルニアになって投球ができなくなった・・との事)
当時のバッキー談 「王に投げたのは内角球を要求した捕手のサイン通りにしたもので、けっしてビーン・ボールではない。王がマウンド近くにやってきたので、それを説明している時、荒川コーチが飛び出してきて、私の左太ももをスパイクで蹴ったので、自分を守る為に殴り返した。私を退場させるなら、騒ぎをけしかけた王も退場させるべきだ。退場はプロ生活で初めて。これを最後としたい・・・」
当時の王貞治談 「バッキーが不本意な点の取り方をされたので、きわどい投球をしてくるのではないかと思っていた矢先に、続けてビーン・ボールまがいの球を投げてきたので、”もっとフェアな気持ちで” と注意しに行こうとしたんだ。 ところがバッキーは、”俺だって一生懸命に投げているんだから” と血相を変えた。 これがこんな大事を引き起こすとは毛頭思ってもいなかった・・・」
当時の荒川コーチ談 「先に飛び出した千田を止めようとしたら、やられてしまった。何だかさっぱりわからない。額を切ったがたいした事はない・・・」
1969年(昭和44年)、近鉄で一年間プレーした後は引退し、出身地の中学校教員をしながら、阪神時代に蓄えた資金をもとに牧場を経営。 バッキーを支えたドリス夫人は、2011年に他界。
現在は牧場を長男に譲り、故郷ラファイエットで隠居生活を送っているとの事。(2019・1月現在)
=通算成績=
沢村賞1回 最多勝1回 最優秀防御率1回 オールスター出場5回 ノーヒット・ノーラン1回(巨人)
ベストナイン1回 シーズン最多完投2回 シーズン最多イニング1回 シーズン最多与四球1回
シーズン最多与死球2回 シーズン最多無四球1回 シーズン最多対戦打者1回
シーズン最多被安打1回
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伝説のプロ野球選手サイン集(外人
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当時の日本に溶け込んで頑張ったんですね。一流では無かった分必死だったのでしょう。当時荒川が自慢していた合気道なんて大きな外人には通じないな〜と思ったものです。
2019/1/23(水) 午後 4:31
今と違って昭和30年代後半の地方・・それも長屋暮らしですから、さぞたいへんな生活だったと思いますが、当時のバッキーを知る人たちは、誰も悪口を言いません。言葉も文化も食事も違う異国の地で、真剣に向き合う姿が想像できます。バッキーは今でも「小山サン、村山サン、杉下サンのおかげで技術が身に付き、活躍する事ができた」と謙虚なコメントをされますが、この方たちはきっかけを与えただけであり、日本で成功したのは、バッキー自身が死に物狂いで真剣に取り組んだ結果だと思います。
2019/1/23(水) 午後 11:31
またバッキー夫人(ドリス夫人)も素晴らしいです。ハワイの3Aチームでくすぶり、厳しい待遇の3Aすら解雇寸前という状況下で、バッキーを支えた「縁の下の力持ち」・・まさに内助の功ですね。戦後の名残から、外人選手を敵だの化け物だのという者だっている中、長屋という悪環境下、一生懸命に溶け込もうと努力したエピソードは、バッキー自身が語っています。どんな時も笑顔を絶やさず、嫌なそぶりを見せなかったそうです。こんな素晴らしい妻に支えられたからこそ、三流投手だったバッキーが安心して日本野球に取り組めたのだと思っています。
2019/1/23(水) 午後 11:39
画像でもわかると思いますが、バッキーから殴りかかったのではなく、荒川が興奮して蹴りを加え、暴力沙汰に発展しました。にもかかわらずバッキーは退場となり、新聞やTVではバッキーが原因を作ったと悪者扱い・・。当時の日本では外国人は敵とも言える存在ですから仕方がなかったのかもしれませんが、荒川が蹴りをしなければ、もっと長くバッキーが活躍していたことは確か。バッキー自身が当時のスポーツ紙にコメントした「プロ生活初の退場。二度と起こさないようにしたい。」が示すように、頭に血が上りやすくても暴力を好む人物ではなかった事がわかります。努力して日本に親しんできた時に、このような事件と怪我で野球を去る・・にもかかわらずバッキーは日本の悪口など一度も発していません。本当に素晴らしい人物だと思います。
2019/1/23(水) 午後 11:51